00:00昔々、岐阜県柿野の西側の三つ堀山には、
00:14主が住むと言われておった。
00:17ところでその麓の村に、お奈美という大層美しい娘がおった。
00:23山百合でも、筒字でも、どんな綺麗な花でも、
00:30お奈美の美しさとは比べ物にならないというくらいの、
00:35器量良しで、その上働き者で高校娘と来ておったから、
00:41それは大変な評判じゃった。
00:44そのお奈美には、すいた若者がおった。
00:47玄座という若者で、二人はいずれは一緒になる約束を交わしておった。
00:56二人の仲は、それはもう誰もが羨むほどじゃった。
01:02村人たちは、みな玄座とお奈美は、
01:04幸せな夫婦になるじゃろうと噂がしあった。
01:09ある、秋の初め、山で玄座が、
01:17村の生と木を切り出しておると、
01:20お奈美がやってきた。
01:23一息に山を駆け上ってきたと見えて、
01:26はあはあ息を弾ませておった。
01:32お奈美!
01:34ちょっと手がついたから。
01:37そうか。
01:39それは、よう来たな。
01:43ぽっと赤みのさした顔の上の、
01:46姉さんかぶりの真っ白い手ぬるいは、
01:49赤いたすきによく似合って、
01:52見慣れている玄座でさえ、
01:54はっとするほど美しかった。
01:59二人は、目の前の三つ堀山を眺めながら、
02:03これからのことを、
02:04あれこれと話し合った。
02:09お前と一緒になったら、
02:12西側に牛小屋を作って、牛を飼おうか。
02:16そして、なあ。
02:17おい、玄座よ。
02:19お前、あんまりお奈美と仲良しとると、
02:23三つ堀山の主に焼き餅焼かれるぞ。
02:26ははははははは。
02:28バカこけ。
02:30主なんぞおるわけないに。
02:32お奈美は、薄い西尾を浴びながら、
02:37玄座の顔を見上げて、
02:40ただ、にこにこ笑っておった。
02:51それから、
02:52山に泊まり込んでの仕事が続き、
02:55玄座はお奈美に会うこともできなかった。
02:58うっ。
03:00半月ほども過ぎて、
03:02山仕事は終わった。
03:06秋の山には、
03:08サザンカがきれいに咲いておった。
03:11けれど、
03:12お奈美の顔色は、
03:14バカに青ざめておった。
03:17お奈美、
03:18どうした、体でも悪いのか?
03:22玄座は、
03:23肩に手をかけようとすると、
03:25その手に、
03:27お奈美の涙がこぼれ落ちた。
03:30お前様、
03:31お願いですから、
03:32しばらくおらにあわんでおいてくださいね。
03:35決してお前様を切ろうって言うんじゃない。
03:39必ず、
03:40なんとか始末をつけますから。
03:44そう言うと、
03:46お奈美は、
03:47背を向けてかけていってしまった。
03:50玄座は、
03:51何は何やらわからず、
03:53ただ、
03:53呆然と正すんでおった。
03:59それから、
04:01幾日かの間、
04:02玄座は、
04:03言われた通り、
04:04お奈美に会わなかった。
04:07とは言っても、
04:08どうも気になってならない。
04:11もしや、
04:12お奈美の身に何か起きたのではないかと、
04:14思いながらも、
04:17無理に押しかけて、
04:18余計難儀をさせてはと、
04:20玄座は、
04:21じっと堪えておった。
04:23ところが、
04:24そんな頃、
04:25お奈美の家では、
04:29お父や、
04:31今夜も玄座がござるな。
04:33俺は、
04:34邪魔してはいかんと思って、
04:36顔は合わせんけど、
04:38よう毎晩話し合うことがあるもんや。
04:41なあに、
04:43結納はもうすぐやし、
04:45何かと取り決め事があるんやろ。
04:47玄座のような、
04:50いい向こうに思われて、
04:51ほんに、
04:52お奈美は幸せもんや。
04:56でもな、
04:57俺はちょっと妙やと思うんやが。
05:01何や?
05:01いっくら取り決め事をすると言っても、
05:05そこは若いもんや。
05:07たまには、
05:08笑い声ぐらい聞こえてもいいじゃろ。
05:11うーん、
05:12そう、
05:13いや、
05:14そうやな。
05:15それに、
05:16近頃、
05:17お奈美の顔色がどうも、
05:19普通やないようやし。
05:21うん。
05:21そいつは、
05:23俺も気になっとったな。
05:31その夜更け、
05:34玄座はとうとう、
05:35こらえきれんようになって、
05:37畑伝いに、
05:38お奈美の部屋の、
05:40明かり目指して、
05:41近寄っていった。
05:44お奈美。
05:46その時じゃった。
05:48お奈美の部屋の、
05:49障子いっぱいに、
05:51黒い風が、
05:52さーっと、
05:53映った。
06:01ああ、
06:02お、
06:02お奈美!
06:03お奈美!
06:07うわっ!
06:15玄座の魂が、
06:17吹っ飛んだ。
06:18どこを、
06:19どう走ったやら、
06:21気が付くと、
06:22玄座は、
06:22自分の部屋で、
06:24布団をかぶって、
06:25ガタガタ、
06:26踏み入りを出た。
06:29お奈美が、
06:30いなくなったのが、
06:31分かったのは、
06:33翌朝のことじゃった。
06:37誰もいない、
06:38お奈美の部屋には、
06:40もがーっと、
06:41鼻をつく、
06:42青臭い匂いが、
06:44立ち込めているばかりじゃった。
06:47手分けして、
06:49村の中を、
06:49探しておると。
06:50そういや、
06:53夜明け頃やったか、
06:55玄座の家の前に、
06:57小柄なもんが、
06:58立っとってな。
06:59それから、
07:01山の方へ、
07:02登っていったわ。
07:03今から思えば、
07:05それが、
07:05お奈美さやったろ。
07:08影の薄い足取りでな。
07:11皆まで聞かずに、
07:13玄座は、
07:13走り出した。
07:15村の塩も、
07:17後を追った。
07:17しばらく行くと、
07:21目の前に見慣れた、
07:22お奈美の手縫いが、
07:24落ちておった。
07:30また少し、
07:32登ると、
07:33吹きの葉の上に、
07:35櫛が落ちておった。
07:37これは、
07:38おらが祭りの時、
07:40買ったやつや。
07:41おい、
07:42ここは?
07:43あ、
07:44三つ堀山じゃ。
07:46三つ堀山?
07:47言われて、
07:48みんなの顔が、
07:51さーっと、
07:52青がなった。
07:54突然、
07:54玄座が、
07:55三重獅子のように、
07:57まっすぐ、
07:58山を駆け上り始めた。
08:00一丁ほど、
08:01登った大きな、
08:02もみの木のそばに、
08:04お奈美の、
08:05赤い、
08:06おのぞおりが、
08:07きちんと、
08:08揃えてあった。
08:11その前は、
08:12差し渡し、
08:13一軒半ほどの、
08:14大きな穴が、
08:15口を開けておった。
08:17おなびー!
08:21おなびー!
08:25玄座は、
08:26穴に落ち込むほど、
08:27乗り出して叫んだ。
08:28真っ暗な、
08:36穴の底から、
08:38水の流れるような音と、
08:40その中に、
08:41かすかに混じって、
08:43女のすすり泣くような、
08:44声が、
08:45聞こえてきた。
08:48おなびが、
08:48消えてから、
08:49三十五日目の夜、
08:51玄座は、
08:52おなびの呼ぶ声に、
08:53目を覚ました。
08:54お前様、
08:58今でも、
08:59私は、
08:59お前様を、
09:01愛しいと思っております。
09:04だけど、
09:05もう、
09:05子供が、
09:06七人も、
09:07生まれました。
09:08今さら、
09:09戻れません。
09:11お前様との、
09:13思い出を、
09:13胸に抱いて、
09:15虫の穴の底で、
09:17暮らします。
09:18もう、
09:20私のことを、
09:21諦めてください。
09:24そう言うと、
09:26おなびの姿は、
09:27かき消すように、
09:29見えなくなった。
09:33それからしばらく、
09:35三つぶり山のあたりを、
09:36ふむけのように、
09:38歩き回る。
09:39玄座の姿が見られたが、
09:42いつかそれも、
09:43見られなくなってしまった。
09:46その頃、
09:47村から三つぶり山にかけて、
09:50おなびがたどった道沿いに、
09:53名も知れぬ花が咲き始めた。
09:58小さい、
09:59白い花をつけた、
10:01見るからに、
10:02愛らしい花で、
10:03誰言うとなく、
10:05おなび草と呼ぶようになった。
10:10主の穴は、
10:11今でも、
10:12おみの木の下で、
10:14大きな口を、
10:15開けておるが、
10:17めったに近寄る者も、
10:19いない。
10:22おなび草は、
10:24秋になると、
10:26白い花を、
10:27風にそよがせて、
10:29今も、
10:30玄座を、
10:31呼んでおる。
10:32その、
10:38小さいは、
10:40お요미の中に、
10:41花を高めた、