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  • 21 hours ago
Transcript
00:00um
00:061948
00:081人の女性が来日した
00:12me 耳口の自由な女子は69歳とは見えない天気な姿で
00:19社会活動家 ヘレンケラーである
00:26She told me about the importance of health care and health care.
00:34After that, it was the first time of the law,
00:39the law of health care and health care.
00:44But...
00:47障害のある人への差別や偏見は根強く残る。
01:00放送100年。障害者の社会参加はどのような道のりだったのか。
01:21残された映像から振り返る。
01:301958年、東京タワーが完成。関東一円に放送電波が送られるようになった。
01:45高度経済成長の波に乗って生活が豊かになった日本。
01:51お茶の間にもテレビが普及し始めた。
01:581961年、障害福祉に関する初めての提示番組がスタート。
02:13教育の機会均等を求める障害児の親の声に応えて制作された。
02:28このころ幼児を受け入れるろう学校は全国でわずか21校多くは都市部に集中していた。
02:41番組では老の子供に発生法などを教えていた。
02:56この番組の誕生には1人の男の子の存在があった。
03:113歳の老児、Aちゃん。
03:16テレビ老学校が始まる3年前の1958年。
03:23Aちゃんが老学校に通う日々を追ったラジオドキュメンタリーが放送された。
03:30この番組をきっかけに障害児の教育への関心が高まっていった。
03:55テレビ老学校の放送から64年。
04:07こんにちは。
04:14Aちゃんこと松橋英二さんは70歳になっていた。
04:21昔はこの大きなテープレコーターをかついていた。
04:28当時3歳だった松橋さん。
04:33後に自分が担った役割について人づてに知らされた。
04:40そのラジオ放送がきっかけでテレビ老学校が作られるようになった。
04:51だからラジオ放送は大きな心を持たった。
04:57その一方でろう者として心晴れないものもあった。
05:16話せない人は劣っている人間。
05:23話せる人は作れた人間。
05:28というふうに分けてしまう気持ちも作ってしまいました。
05:40話せない人によってこういう人の性格が変わるもんじゃない。
05:5060年代に入るとテレビはそれまであまり知られていなかった障害やその当事者の暮らしぶりを取り上げた。
06:07これは1964年パラリンピックに出場した車いすバスケットボールの選手たちを追ったドキュメンタリー。
06:18彼らがパラリンピックで勝つことは全国の同じような境遇にある人たちに何よりの励みになるに違いなかった。
06:33その差はあまりにも大きかった。
06:38日本ティームは全試合に敗れて最下位となった。
06:43これは言語障害のある男性の日常を紹介した番組。
06:56これは何でしょうか。
07:09いざとなると声が出てこない。
07:12優秀な才能を持ち体にも異常がないのに言葉が出てこない。
07:19そして不遇な社会生活を送らなければならないのだ。
07:24国立河野大病院に先月の初め、一人の若い母親が赤ちゃんを連れて訪れた。
07:39この番組はダウン症の子どもとその家族のドキュメンタリー。
07:46我が国では戦後ようやく注目され始め病名が知れるに従って患者数が増加している。
07:59子育てをする親の苦悩が描かれている。
08:06あの子はバカなんだから影読んでしっぱらいちゃえばいいんだ。
08:09そういうことを言われたら親としては本当に辛いんです。
08:12私たちも何だけ表出せないようにしてるんだ。
08:16でもね、子どもですもん表出せたいんです。
08:19私たちも疲れはたち。
08:23この子の顔見つつつ。
08:25本当にこの子と一緒に死にたいなと思ったけど何回。
08:31障害者は不幸だ。
08:34そんな空気に満ちていた。
08:421966年。
08:47ある社会問題となる事件が起きた。
08:59まだ門松も取れない今年の1月6日。
09:04同じ静岡県の藤枝市で脳性症に麻痺の一人息子を父親が殺すという事件が起こった。
09:12同じ町内に住むサレにも寝たきりの娘がいる。
09:17この5年の間、物を噛むこともできない幼い生命は、
09:242時間おきに与えられる流動食によって過労死で保たれてきた。
09:30だが世間では、お気の毒にこういう子どもは、いっそ早く亡くなった方が、本人にとってもかえって幸せだろうにと噂する人もいる。
09:42障害のある人への介助など、福祉サービスが整備されていない時代。
09:54家族への負担は今以上だった。
10:01番組が放送された66年親による障害児の殺人や心中が12件あったという記録もあるその頃を生きた男性に話を聞くことができた。
10:25よろしくお願いします。
10:551950年、福島県福島市で生まれた橋本さん。
11:02忘れられない記憶がある。
11:07今日は天気がいいから、そこに行くかみたいなことで、
11:12きしゃみに行こうなって言って、その時に地面に押されて、天の方にこう、天の方に横にされた。
11:24私があんまりこのレールの上にこう、横になったら冷たくてキャッキャッとこう、騒いでたから。
11:33ニコニコしてたから、やめたなんていうようなことは言って、後でなって聞いたような気にしたい。
11:40もしあのまま、横になってたら、引かれてしまってね。
11:49この時、6歳。思い当たることがあった。
11:56地域の小学校の校長が、あの、来ちゃダメだって言われた。
12:03何でですかって言ったら、世話がかかるのかって。
12:08他の子供の迷惑になったら、ダメだって言われた。
12:13バー、地こちにあの、学校に行ったり、福島県の県庁に行ったり、市役所に行ったり、ダメだって言われたんですよ。
12:25苦労かけもいた。親父にも、お袋にも。
12:36その後、橋本さんは、福島市から100キロ離れた、いわき市にある養護学校に入所。
12:4718歳まで、家族と離れて生活することになった。
12:58こんにちは。
13:00こんにちは。
13:011970年代。
13:04世界第2位の経済大国に上り詰めた日本。
13:09一方でさまざまなひずみが表面化し世の中を変えようと多くの人たちが立ち上がった。
13:24障害当事者たちも声を上げた。
13:391971年に放送された番組。
13:46脳性麻痺の当事者団体、青いしわの会。
13:51障害者への差別や偏見をなくし、人として当たり前の生活を送りたいと、その権利を訴え続けていた。
14:01エスカレーターも彼女にとっては危険な乗り物である。
14:08合理化されていく社会は、自ら障害者を排除していく。
14:14CP社たちは初めて自分たちを弾き出そうとする社会に向かって発言を始めている。
14:241976年のことだった。
14:34青いしわの会の本部がある川崎市のバスが、車いす利用者の乗車を拒否した。
14:41当時バス会社は、運転手の負担の増加や安全確保のため、
14:51車いす利用者の乗車に厳しい制限を設け始めた。
14:56自由にバスに乗りたい。
15:02運輸省やバス会社に訴えるも、たらい回しにされるだけだった。
15:15翌年の4月。
15:19青いしわの会は実力行使に出た。
15:25およそ40人の会員と支援者が川崎駅のバスターミナルに集結。
15:35停車中のバス28台に一斉に乗り込んだ。
15:40車いす利用者のバスターミナルに到着しました。
15:52およそ40人のバスターミナルに乗り込んだ。
15:55車いす利用者のバスターミナルに乗り込んだ。
15:59車いす利用者のバスターミナルに乗り込んだ。
16:04全国青岩の会、総合英語会のものです。
16:11どうか、我々の運動にご協力お願いいたします。
16:17我々の事実と解放の運動にご協力お願いいたします。
16:29学生記で訴えていたのは、白石清晴さん、当時27歳。
17:06白石さんの誘いで青い芝の会の一員となった橋本さんもこの闘争に参加していた。
17:15やっぱり一般の意図が知らせに固めたと。
17:24最後まで参加しようということが覚悟は決めてました。
17:30人生と思う事実は、情報が取り巻きました。
17:32最後まで参加して、一切に生きる結成の基にしていました。
17:37社会へ大きなインパクトを与えたこの騒動、
17:44I was able to live in the future.
17:56The impact of this event was a huge impact.
18:01But the bus company's response was immediately changed.
18:07車いすの人が交通機関を利用しやすくするための法律が施行されるのは23年後のことだった障害者による社会運動は日本だけではなかった同じ頃アメリカ
18:37これは公共機関などでの差別禁止を定めた法律が一向に実行されないことに抗議した当事者たちの運動
18:52その先頭に立っていたのがジュディヒューマンさんポリオで身体に障害があった
19:02彼女の言葉が世界を大きく動かすことになる
19:09彼女の声明としてもらえない
19:14彼女の声明としてもらえない
19:18彼女の声明は抗議されません
19:22彼女の声明が続く
19:24その先頭に立ち上げる
19:26彼女の声明は大きなこともあります
19:28それを見つけたら
19:30彼女の声明としてもらえない
19:33We will no longer allow the government to oppress disabled individuals.
19:39We want the law in force.
19:41We want no more segregation.
19:44We will accept no more discussion of segregation.
19:49And I would appreciate it if you would stop shaking your head in agreement
19:53when I don't think you understand what we are talking about.
20:03And the movement of the people of the world was a big
20:17日本が宣言した完全参加と平等の実現に向けて世界が動き始めた。
20:27国際障害者年である。
20:33障害者を締め出している社会の仕組みを変えていこうと世界に呼びかけた。
20:44日本も動いた。
20:47国際障害者年推進本部の設置を閣議決定。
20:52初めて本格的な障害者施策の長期計画が策定された。
21:02さらにそれまで活動をことにしていた101の障害者団体などが障害種別や分野を超えて一つにまとまった。
21:19当時の団結を知る藤井勝則さん。
21:25この国際障害者に関してはね、まさに障害分野の黒船と比喩してもね、いいぐらい。とっても、日本にとっては大きな大きなターニングポイントになったと。
21:44こうした機運の高まりにNHKが制作したのが地球の仲間。
21:53街には人が流れているやさしさ気づいて空を見上げれば空を見上げれば。
22:08障害のある人たちの生き生きとした姿を毎日1分間のミニ番組で紹介した。
22:15番組に登場したのは800人余り。およそ1年で650回以上放送された。
22:22その中で話題になったのが。
22:37洋菓子店リリー。
22:52接客が難しいとされていたろう者や難聴者が店頭でケーキを販売する様子が放送された。
23:14ここでは注文は紙に書いてもらいケーキは全て100円にして細かなやり取りをなくすなど障害のある人が働きやすい環境を整えていた店頭で接客をしていた女性たちに会うことができた。
23:39その中でできないできないと思ったけれども環境を整えることでそこを超えてできなくなりました。
24:08結局仕事はできて私たちは人ととって笑顔で販売頑張ってました。だからそのうちみんな分かってくれたと思います。
24:272000年代に入って日本は障害者の社会参加に関する法律を整えた。
24:322006年にバリアフリー法が成立。
25:11障害者差別解消法が施行。障害者を不当に差別することを禁止した。
25:20さらに2024年に改正され社会的な障壁をなくすためにでき得る合理的配慮を行うよう全ての事業者に義務付けられた。
25:3550年余り当事者運動をリードしてきた藤井勝則さん。
25:44これからの障害福祉について聞いた。
25:51当事者の主張というのはですね、とても大事だなということでね。
25:59そしてよく頑張ってくれたなというふうな。
26:04まずそれが第一印象。
26:06と同時にですね、物事を主張できにくい人。
26:12あるいはその主張できない人。
26:15それはもう言い換えれば重い障害者です。
26:18あるいは障害者別で言うと、知的障害とか精神障害者です。
26:23当事者の声をどう入れるかっていうあたり。
26:27生きやすさとかね、寛容性とかっていうことを考えていくときに
26:32障害者問題の中に、障害者の声の中にヒントがいっぱいあるということで
26:37一人障害者が救われるだけじゃなくて
26:40社会のもう一つ設計図を書き直すようなね。
26:44そういう意味が障害分野にあるんだっていう。
26:47そんなことから放送の分野でもね、そういうことを私は強調したい。
26:57社会参加の象徴と言われた洋菓子店リリー。
27:04今は別の店が営業している。
27:10ケーキ1つ100円で提供してきた経営は限界を迎え2003年に閉店した事業の立ち上げに携わった札幌聴覚障害者協会の佐藤秀治さん。
27:31リリーが果たした役割について聞いた。
27:38前と比べると変わってることは間違いないし。
27:44間違いないのは何度この軍縁的な城が抜けるかと言われるとちょっと厳しい。
27:55これは他の方法でも決してやってほしいなとは思っている。
27:59店頭に立っていた女性たちはこう語った。
28:06誰だった?
28:11誰くず、誰くずの同じ話を語った。
28:21とにかく楽しかったです。
28:22私のお互い思いです。
28:26Yes.
28:31Hey, how are you doing?
28:34Yes.
28:37Please, please, help me.
28:56病気で全身麻痺になった夫。
29:08夫婦は目で会話します。
29:12出来てラッキー。
29:16自分を独り占めできてラッキーだろうって。
29:21前向きに生きる夫婦の日々を見つめます。
29:26いただきます。
29:34問い問い、今度はドラマで問います。
29:39ごめんなさい。
29:43あなたはあなたを暮らしてますか?
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