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00:00よろしくお願いします
00:07今回のゲストはこの人
00:11歌手岩崎弘美さんです
00:1916歳の時、実力派のアイドルとしてデビュー
00:26数々のヒット曲を世に送り出してきました歌手岩崎弘美さんのルーツに迫ります
00:44今日のゲストは岩崎弘美さんです どうぞ
00:51よろしくお願いします
00:54どうぞどうぞおしゃれください
00:57岩崎さん、紅白出場おめでとうございます
01:02我々は今さっき速報で流れてきました
01:0737年ぶりだそうで
01:09どうですか、ご心境のほうはどうなんですか
01:12いや、よく分かんない
01:15もうなんか全てに緊張してるから
01:17さあ、そして今回なんですけどもこのファミリーヒストリー
01:22想像がつかないのにもう今頭真っ白でそうか知らない知らないことだらけ
01:29東京都江東区で生まれた岩崎弘美さん
01:46母の末さんは鹿児島県奄美大島の出身でしたが、詳しいことは何も聞かされていないといいます
01:59母方、畑家のルーツをたどるため、奄美大島に向かいます
02:05すごい、行ったことない。
02:07えっ、行ったことないですか。
02:08戸籍を明治時代のものまでさかのぼると鹿児島県大島郡笠原村とあります慶応3年ここで生まれたのが広見の祖祖父畠牛太郎ですこんにちは
02:32牛太郎のひ孫に会うことができました広見の鳩子鬼塚千鶴子さんです
02:44はいこの郵便局の前に道があるんですけどここからずーっと本家があったんですよ350坪ぐらい宅地が明治時代街道沿いには武銀社という実力者の家が並んでいました畑家もその一つだったといいます
03:09こちらへんがもう畑家代々の受け継いだ土地なんですけどサトウキビです牛太郎はサトウキビで黒糖や焼酎を作り暮らしました
03:30そんな牛太郎には自慢の妻がいました
03:35こちらが畑家伝松さんです
03:39広見の祖祖母伝松です
03:42集落のおさんばさんがいない代わりにおさんばさんの代わりをしてあげたり昔って食べ物がないときに食べ物を持って行ってあげたりとか周囲の人がすごく信頼感が熱かったみたいで
04:01伝松には集落である重要な役割があったといいます伝松の孫の雨水よし子さんです
04:17歌者だっていうことはみんなから言われていましたねみんなが集まったりうれしいことがあれば歌うんですね
04:29奄美の伝統的な文化しまうたです
04:41歌者とは特に優れた歌い手で集落に伝わる歌を熟知して継承する語り部のような存在でした
04:59歌者は結婚などの祝い事や死者を見送るときに歌い
05:17歌者は結婚などの祝い事や死者を見送るときに歌い
05:23喜びや悲しみを分かち合う重要な役割を果たしました
05:38歌者伝松を調べていくとさらに興味深いことが分かってきました
05:47こんにちは島歌を研究している福山隆さんですある島歌の一節に気になる箇所があるといいます
06:03ここに徳之島節という歌があります
06:07その中で出てくるのが伝松アゴコア
06:11伝松っていうのは使徒の名前ですね
06:14伝松姉さんっていう意味です
06:17有名な歌詞だとよく島綿の歌詞に名前が出てくるんです
06:23この島歌は海の向こうの徳之島にいる人へ蝶々に伝言を頼みたいと歌っています
06:41そしてその蝶々に思いを託そうとしているのが伝松という人物です
06:50私のも推論でしかないんですけど
07:06徳之島に向かう愛しい人の身を案じてそれを心配している恐らく伝松アゴコア姉さんの気持ちを歌った歌だと思われます
07:22この歌にある伝松が広見の祖祖母なのかそれとも同じ名前の別の歌者なのか
07:32その答えはわからないまま歌だけが今に伝わっています
07:43そして歌者伝松の息子が広見の祖父茂蔵です
07:49茂蔵は代々続いてきたサトウキビ作りとは全く異なる道を進みます
08:01孫の坂爪昇さんに話を聞きました
08:08船の食事を作るコックさんですか
08:14料理人が乗るくらいだから多分かなり大きい船だったと思います
08:20多分外国頃だと思いますよええ
08:26茂蔵には5人の女の子がいましたその4女が後に広見の母となる末です
08:34初めて見た写真です
08:38末は奄美の自然に囲まれのびのびとした少女時代を過ごします
08:46国民学校で末と同じクラスだったという人を見つけることができました
08:58染め幸さん94歳です
09:02急調地って一番の急調地やったからね頭はいいしその頃ね劇なんかもあったんだけどそれもみんな言い訳してたよあれだあれの声は特別だったから声特別だったんですか
09:20だからあれよみんなでしょにも立てるんだけどもう住み切って何ちゅうか声も出るしあれの歌を聴けば何でも聴きたい気がある。
09:35伝末の歌声は孫の末に受け継がれていたのですしかし末は島唄を継承することはできませんでした太平洋戦争が始まると父は軍族となり残された末は母と鹿児島に疎開することになりました
10:01その頃みんなほとんど疎開してねこれ以降末が島唄に触れる機会はほとんどなくなってしまいました
10:24疎開先での生活は苦労の連続でした
10:33鹿児島の近現代史に詳しい中島新平さんです
10:42奄美の人たちっていうのはこっちに本土側に来るとマイノリティなので知り合いとか身内がこっちにいる人はある程度そこの捨てを頼ってまあなんとかこう行けたっていうところありますけれどもそういう人たちがそういう捨てがない人たちもたくさんいるのでまあそういう人たちも含めて基本的にやっぱりこうこっちに来た奄美の人たちっていうのは大変な生活だったと思いますそれある意味本土の人たち以上に苦しかった部分もあると思いますね
11:09奄美から来た人は仕事も家もまともに確保できない人が多かったといいます
11:16終戦から4年がたった昭和24年一家をさらなる不幸が襲います戦争を生き延び福音した父繁蔵が病気で急死したのです繁蔵はまだ47歳でした
11:43残された母と娘たち生活は困窮しますそれでもふるさとの奄美は米軍の占領下にあり簡単には帰ることはできません
12:01末は決意します
12:09東京で小料理店を始めていた姉を頼り上京することを決めました
12:17列車を乗り継ぎはるばる東京へ
12:25末は姉夫婦が経営する店で懸命に働きます
12:35するとある日一人の男性客が店を訪れました
12:41男性の名は岩崎健三後にヒロミの両親となる2人の出会いでした。
12:56いやパパの写真もちょっと驚きでしてお父さんの写真も知らない知らなかったですファミリーヒストリーはどうやって手に入れているんですかねそう祖母の歌にもできた伝松さんいかが聞いたこととかは歌歌ってないんですかはい歌を歌われてたっていうのはどう感じますか頼もしいですねなんか受け継いでるんだなと思いますうん
13:25お母様の末さんは疎開先の鹿児島でお父さんが亡くなってでふるさとにも帰れなくなってってすごく苦労されてそうなんですねいや母からあんまり苦労した話って聞かされたことがなくてただお父さんが亡くなった途端におうちも全て取られてしまったって話は聞きました取られたんだはいでも奄美代島行きたくなりました行ったことがないんです仕事でもないんですよ
13:52続いては父方岩崎家のルーツを探ります調査を始めるにあたりご自宅に残っていた資料を預かりました
14:11私が持ってたものねその中にあった一本の巻物広げてみると260年にわたり先祖代々の名前が記された家計婦でしたえぇー
14:30岩崎家の当主は代々人材門と名乗り相川町に暮らしたとあります
14:40そこは現在の新潟県佐渡市
14:49世界文化遺産に登録された金山の麓に広がる町です
14:58江戸時代初期ここで金が発見されると全国から人が集まり最盛期の人口は5万人だったと言われています
15:13岩崎家が住んでいた相川町4丁目とはどんな町だったのか
15:25京都市の編産を担当した浜野ひろしさんに伺いました
15:32ここからが4丁目になってきます
15:37金銀山の開発が進みにつれて1丁目2丁目3丁目っていう町立てがなされてきます
15:44ここも4丁目も多くの商人たちがここにお店を構えるようになってきます
15:53豆腐屋とか作り酒屋とかいろんな店が広がっていくわけですね
15:59岩崎家が代々どんな商売をしていたのかその記録が見つかりました
16:07当時の町役人が記録した里国略という列書です
16:15こちらに4丁目人材門という名前が記載されています
16:22でニューリアとあります
16:26焼き魚などを提供して空きなってたというような記載がされています
16:33しかし江戸時代が後半に差し掛かると金山は衰退
16:42前世紀の姿は見る影もないほどに人が減っていきます
16:52江戸末期の記録を見ると商売が立ち行かなくなった岩崎家は店を売却していたことが分かりました
17:06衰退の一途をたどる町で明治35年岩崎家に男の子が生まれます
17:13安久、後の広見の祖父です
17:21安久は寺から借りたい家で暮らしていたといいます
17:26ここのですね、あちらのお宅が
17:33広見さんのおじいさんが住んでいたというふうに聞いてはいます
17:38たまたまその岩崎家とは江戸の初めの頃からのそういう
17:43乱家関係というふうなことがあって
17:46そういうふうな縁があって、じゃあこちらっていうふうなことになったのかもしれませんね
17:51安久の両親は未婚だったため、父方の祖母に引き取られ暮らしたといいます
18:03そして学校を卒業した安久は立身出世を願い、茶道を出る決意をします
18:1018歳で東京に行き、働き始めます
18:23これは安久が働いた会社の記録です
18:27名前は柴浦製材所
18:31帯の子や丸の子といった木材を加工する機械を所有しています
18:36製材技術の歴史に詳しい長岡造形大学の平山育夫さんに
18:46資料から分かることを読み解いてもらいました
18:49帯の子1台あって、丸の子4台、縦の子切りってこうやってどうやり着るらしいんですけれども
19:02これだけあるっていうことは非常に大きいと思います
19:06帯の子もその時代では東京都内では十数台しかない
19:11帯状になってるんで、割れてしまったり切れてしまったりすることがありますので
19:16それの管理ですよね
19:19それを制御できるっていうことも技術的には高いものであった
19:25安久は当時最先端の機械を使って木材加工の仕事をしていたのです
19:33そして5年後、安久は津田と結婚
19:41孔子ともに充実した日々を送ります
19:45ところが、太平洋戦争が勃発
19:50東京大空襲で家と勤めていた会社が焼かれました
19:57しかし、安久は立ち上がります
20:06昭和20年自ら製材加工機の販売会社を設立し東京復興に力を注ぎます
20:17この時の様子を伝え聞いていた製材組合の皆さんがいろんな工夫をされて
20:33日本各地から材木を集めて、それを製材をして
20:38建築現場にお届けするということについては
20:41大変な努力をされておったと思いますので
20:45やはり携わる者として
20:47良いものを安く早く届けたいという気持ちは
20:50男気としてですね、やっぱりあったんだろうなと
20:56その後、会社はどんどん大きくなり
20:59安久は立心出世を果たしたのです
21:03いや、すごい
21:07戦後、安久が熱心に取り組んだことがあります
21:11剣道?
21:15剣道です
21:21剣道はGHQによって戦闘訓練とみなされ、禁止されていました
21:27しかし安久は地元の剣士を集め、剣道ができるよう活動していました
21:40失礼します
21:41当時のことを伝え聞いている、江東区剣道連盟の宇治田達夫さんです
21:48はい、どうぞお返りください
21:50連合国軍に負けた日本が、しょぼんとしている状況の中に
21:58当然その元気づけというのが必要であり
22:02また、そのためにも剣道を復活させるということで
22:09尽力なさったというようにお伺いしております
22:14そんな安久の長男として生まれたのが剣造
22:18後のヒロミの父です
22:24剣造は動物が大好きな、心優しい少年でした
22:29特に好きだったのがハトです
22:36電書場との飼育に夢中になっていました
22:39剣造の当時の様子を聞いていた、ヒロミの姉、はつみさんが
22:52手紙で取材に答えてくれました
22:55父は、子供の頃から動物が好きで、飼っていたハトと一緒に寝たいと言って
23:04祖母はハトの寝袋を作ったと言っていました
23:09優しい、ツタさん
23:11また、私たちが子供の頃には
23:16シェパード、猫、文鳥、キジ、チャボ、鯉などがいました
23:22好きだなぁ
23:24本当好きでしたよ
23:26剣造には心に決めた夢がありました
23:30獣医になることです
23:32高校を出ると獣医の資格を取るために学び始めます
23:42しかし
23:45父安久が激しく言い放ちます
23:49商人の子が獣医とは何だ
23:53今すぐやめろ
23:55安久は自分が築き上げた会社を息子に継がせると決めていたのです
24:06剣造は従うほかありませんでした
24:11深く絶望した剣造は行き場のない思いを抱え毎日を過ごします
24:20そんな時ふと立ち寄った一軒の料理屋で一人の女性と出会います
24:30それは父を亡くし上京したばかりの末でした
24:40互いにつらい境遇を経てきた2人はひかれ合い結婚します
24:48肩に手を置いてる信じられないそして4年後長女に続きヒロミが誕生したのです
24:59すごいもうすごい見たことないですか若い時の父と母が寄り添ってるとこ見たことないんですよえあんまり仲良くなかったしあんな肩に手乗せてるなりいやいや仲良いからですよそうですよねねえありえないどこにあんな写真あったんだいやほんとどこから見つけてきたんだろういやびっくりやっぱ真面目な方でしたかお父さんはえっと頑固でしたあやっぱ頑固ないやでもまあ
25:29やっぱりその獣医になりたいってねちっちゃいだから動物が好きで大好きでしたねお前は俺のここを告げっていういや私にとって祖父はすごく優しい印象しかないんですよでも自分の息子にはそんなに厳しかったんだと思ってただやっぱり苦労して大きくした会社をそうですよね継がせたかったんですねでもそのお父さんの夢諦めるっていうようなねハトと寝るわけで
25:59ねえかわいそうにやらせてあげればいいのにねいやほんとにねその葛藤みたいなのはどうされたその辺の話は吉崎さん聞いたことないですかはい今きっとでもパパとかおじいちゃんも今これ見ながらへえっと思い出してるんじゃないですかそんなこともあったなみたいな
26:29唯一見つかった岩崎家の家族写真です唯一
26:34ないんだもんにこやかに笑う両親とヒロミたち3人の娘その裏にはこう書かれています奇跡の一枚
26:52私たち家族が一緒に撮った写真があるのは うちのリビングで撮った1枚とかそういうのしかない
27:05父はすごく厳しかったしほとんどうちにいなかったので 私たち3人姉妹はいつも眠るときに母にね
27:16パパにお休みって言っといてっていつも3人で寝ていたんですよ 子供の頃のことを思い出すとあんまり笑ってる顔って思い浮かばないんですよね
27:25家もすごい幸せそうな子供たちに笑顔を見せず家を留守にして建造が取り組んでいたもの
27:35それは剣道でした 10位になる夢をたたれたあと建造の思いの行き場は剣道になっていました
27:48広見が3歳になった年建造は剣道の高段位6段を取得しています
28:02当時の稽古の様子を本人が書き残していました
28:08朝稽古が終わりその足で福島県郡山の道場へ行き 夕刻に稽古を終わり
28:21一路東京に向かい午後7時半には江東区の稽古場での稽古を行い 一日を終了する
28:30建造は何かに取り憑かれたように市内を振り続けていました
28:42もう先生の剣道の熱心さは全然 私らとレベルが違います
28:49全てが剣道で回っているというふうに 私たちのものには感じられます
28:57父がいない中広見のそばにいてくれたのは母末でした
29:06休日には広見たちを連れて遠出することもあったといいます
29:15広見と一緒に遊びに連れて行ってもらったという いとこの田中陽子さんです
29:24ちょっとお話をお伺いしてください
29:27よろしくお願いいたします
29:28夏休みっていうと泊まりに行くときに 広見ちゃんのおばちゃんが
29:36車に乗せて 私たちを乗せて 横浜まで行くんですけど
29:41その間ずっと車の中で歌を歌ってました
29:45コマーシャルとか流れますね
29:47その時に広見ちゃんがもうパッと一回聴いたコマーシャルのそのリズムが耳から聴いたらすぐパーッとはまれる音程がすごいなと思って
29:59歌の才能を見せ始めた広見末はあるところへ見学に連れて行きます
30:10それは合唱クラブでした
30:15ヒロミの歌を聴いて先生は驚きます
30:21お母さんこの子は普通の子とは違います
30:26ぜひ歌を習わせてください
30:29これはヒロミが7歳の時の歌声です
30:37すごい
30:39心より二人のメロディー
30:49歌は花および空わたる
30:58ヒロミはいつしか芸能の道を夢見るようになります
31:06一方このころ建造はますます家庭を顧みず剣道に没頭していきます
31:17そしてとうとう剣道八段を目指すようになります
31:23それは合格率が1%を切る日本最難関の試験といわれる狭き門でした己を鍛える厳しさは日常生活にも及びました
31:40建造先生から預かった大きいお札を崩して戻す際に若干折れ曲がっていったら回った
31:51で構わず私先生にお渡したら先生がちゃんと折れ曲がったやつを直して向きも直してお家だこういうふうにして人に渡すときはこういうふうにするんだぞと
31:55そんな厳しい父のもと
32:10そんな厳しい父のもとヒロミはどんな少女に成長していったのか
32:17中学校の同級生はある朝の出来事を鮮明に覚えています
32:25同級生
32:28小田急線の中かな何かの女性が痴漢にあってまあすごく迷惑そうにしててそれにヒロミは気がついて近づいてすごい勢い大きな声で私のお姉さんに何するのって電車の中で聞こえるすごい大きな声でいった一斉にだその男性みんなが注目してもう次の駅ですごいすごいと降りていったと
32:54そして中学2年生の時天気が訪れます
33:01オーディション番組スター誕生への出場です
33:09もしも私が家を建てたなら小さな家を建てたでしょう
33:341番岩崎ひろみ一生懸命歌いましたこれからも頑張りたいと思いますどうぞよろしくさあそれではいきましょうお願いしますどうぞひろみの歌は芸能事務所に認められ芸能界への道が開けたのです
33:51よかったねはいおめでとう喜ぶひろみしかし父と家で多分会った時にあっパパあのなんか私来年デビューできるらしいのよねって言ったんですよそしたらいくつだって言われてえ?来年はいくつなんだって言うから16ですって言ったら16で芸能界だなのかダメだって言われてえ?
33:53えっ?
33:57喜ぶひろみしかし父と家で多分会った時にあっパパなんか私来年デビューできるらしいのよねって言ったんですよそしたらまあいくつだって言われてえ?来年はいくつなんだっていうから16ですって言ったら16で芸能界だなのかダメだって言われてえっ?
34:11They say, well, it's great.
34:13It's like, well, I'm going to say, she's 16, like I said, and I'm like, I'm going to say this, there's nothing wrong.
34:23It's just like a right-hand, but I'm starting to say this is like this, I'm going to say that this is about that.
34:40So約束を取り付け歌手になる夢を叶います
34:51昭和50年16歳でデビューするとすぐに90万枚を売る大ヒットその年の新人賞を総なめにしますテレビやイベントの出演依頼が殺到し家に帰るのは連日深夜になるほどでしたそれでも建造は変わりません
35:21あの当時編み上げのブーツが流行っていてこうやって編み上げのブーツを紐解いてる途中で寝ちゃったんですよそしたら夜中に父がお手洗いに行くときに玄関で横になってる私を見てもう蹴飛ばされてそんなだらしのない生活んだろうなすがしてやめろって言われてもう飛び起きてね
35:48その後もヒロミの活躍は止まりません次々とヒット曲を飛ばし売り上げチャートの上位には常にヒロミの名前がありました
36:04しかし二十歳という約束の時は近づいていましたそして間もなく19歳になるという時ある曲がヒロミに舞い込んできますその曲の名はししゅうき
36:3418歳から19歳になる女性の揺れる心を歌った歌でしたこの曲のレコーディング中ヒロミは歌がある部分に差し掛かると何度も泣き出してしまいます
36:50歌詞にある卒業式という言葉にもうすぐ歌手をやめなくてはいけない自分の境遇を重ねずにはいられませんでした
37:06涙を乗り越えヒロミは歌います
37:15足音もなく行き過ぎた季節を一人見送ってハラハラ涙あふれる
37:45そしてあふれる思いを歌に乗せます
37:49涙もろい私
37:53青春は壊れ者
37:59愛しても傷つき
38:03青春は忘れ者
38:09過ぎてから気がつく
38:14青春は壊れ者過ぎてから気がつく歯周期を発表して以降健三が広見にやめろということはありませんでした
38:34編曲をした萩田光雄さんはこの曲には特別な力があったと振り返ります
38:45確かにもう本当に今思い出してもなんかうるうるするぐらいなんか本当にだろうねあの感じは本当にあんまりなかったですねあの作品聞いてうんうんって感じたぶんうんって思ったんだろうな親父さんはなきっと
39:07さあいかがですかいやろうあのほんとちょっとでもうちでだらしない生活態度を取ってるとすぐやめろっていう人だったのでただこの四周期を歌い始めてからは言わなくなったんですよなんでなんですかね
39:25多分この歌がまあこいつは言ってもやめないだろうとこのままやっていくんだろうっていう父の気持ちを説得してくれたんだと思っていますなるほどねでもお父さんも絶対テレビ見ててやっぱ歌詞が伝わってお父さんに重なるものっていうのがもしかしたらすごくあったのかなっていうそうですね
39:53お父さんがこんなこと思ってたんだなっていうような会話っていうのは今まであったんですか全然なかったんすか20歳を超えても歌手を続けたヒロミさんは23歳の時にマドンナたちのララバイを発表
40:21この年の日本歌謡大賞を受賞しましたヒロミさんに歌手になるきっかけを与えた母の末さん晩年はふるさとの奄美を思い同居者の集いに参加していました
40:45同じ会に参加していた山下陽子さんは末さんの忘れられない姿があるといいます
40:56会の中で余興でカラオケですねこうなんかヒロミさんの歌を歌った方がいらしてそれを聴いて末さんが喜んでなんかその方にお祝儀っていうかお花をなんかあげたっていうのはなんか聞きましたけど
41:13一方父健三さんは長年の修行の末57歳で剣道の現在の最高段位8段を取得しました
41:31その後は地域の子どもたちの指導に熱心だったといいます
41:39そんな健三さんが今に残したものがあります
41:47岩崎木です
41:52この旗を作り子どもたちが目標とする大会を作ったのです
41:58晩年健三さんはヒロミさんにあるお願い事をしました
42:07それは自分が理事を務める団体の会合で歌を披露してほしいというものでした
42:18その団体は趣味で続けていた伝書旗の愛好家たちの集まりでした
42:29鳩仲間だったという藤井和一さんはこの時見せた健三さんの表情が忘れられないといいます
42:44そりゃ喜んで笑顔ですよ
42:46それは普通の顔と違いますよ
42:50もう娘が歌って皆さんに聴いてもらって拍手してもらって満足でしょ
42:56その遺願は今でも私も忘れませんよ
43:02歌手に反対していた健三さんを変えたあの曲
43:09健三さんは刺繍機を聴いて一体何を思ったのか
43:16今回の取材でその胸の内を本人から直接聞いたという人がいました
43:27共に剣道の修行に励んだ内田達夫さんです
43:35ひろみさんは刺繍機を歌った時点において
43:41岩崎健三先生がこういう歌を歌えるようになったんだなと
43:48一皮も二皮も向けた歌手になったんだなという
43:52岩崎弘美さんのファミリーヒストリー。
44:04歌に導かれ、時に不器用にぶつかり合いながらも懸命に生きる家族の姿がありました。
44:34初めて目にする祖父の顔うそつけ英座と呼ばれた先祖そして母の愛を教えてくれた人16日火曜夜10時。
44:56孫子の顔うそつけ英座と余計ながら。
45:06妊娠の顔うとおり、実際は代表されているものです。
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