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00:00私たちに不思議な印象を与えるこちらの太陽の塔は、お腹、背中、そして頂上の3カ所に異なる顔を持ち、さらに大空に向かって両手を広げ、高さ70メートルにも及ぶ巨大な塔です。
00:18アジアで初の万博だった大阪万博は、人類の進歩と調和がテーマでしたが、この塔を作った岡本太郎は、なんと人類の進歩と調和なんて大嫌いだ。俺はベラボーなものを作ると言っていたのです。
00:36芸術は爆発だ、なんだこれは、などの名言を残した芸術家岡本太郎。その個性的なキャラクターから、面白い変なおじさんとばかり思ってはいないだろうか。
00:57そのイメージは、今日180度変わることでしょう。
01:02あの太陽の塔に込められた真のメッセージ、そして偉大な建築家に噛みついた芸術家魂、それは大阪万博に巨大な風穴を開けることに。
01:15人間岡本太郎の真実に迫った。
01:181911年、明治44年、太郎は漫画家の父岡本一平と、小説家の母岡本かの子の長男として、現在の川崎市に生まれた。
01:33太郎は子供の頃から個性的だったという。
01:36大正7年、7歳の時に、当時はここ、慶応義塾大学三田キャンパス内にあった慶応義塾幼稚者に1年生として入学します。
01:47実はその1年前、6歳の時に東京の青山にある西南小学校に入学した太郎ですが、1学期で退学。
01:57その後も転校を繰り返していたのです。
02:00つまり、小学校1年生を2年もやっていたということになるのですが、なんとその理由が妥協できないからというものだったのです。
02:10まだ小学生だったのにですよ。
02:12学校のシステムは大嫌いで、先生といつも戦った、戦うとあって、今みたいな暴力を使う戦いじゃなくて、
02:22嫌な先生が出てくると、耳を塞いでた。
02:251時間中、この清らかな頭の中に癒やしい音波が入ってきて、こっちに抜けて出ると怪我されると思って、耳をガーッと塞いでた。
02:391時間終わった後で、見たら指先が痺れってた。
02:44その後、先生も大体分かったらしいけどね、もう諦めてたらしいな、僕にはね、変わった子だから。
02:51いわゆる問題児だった太郎少年。
02:53しかし、はっきりとした自我を持ち、自らの理想を追求する志は持ち合わせていたようだ。
03:00そしてそれは芸術へと向けられた。
03:02中学校を卒業する前後にね、一体これからどの道を選ぶかっていうことがあったわけね。
03:10文学っていうのはね、大学行かないとね、文学者になれないってのは常識みたいな時代だったね。
03:17今でもそういう面があるだろうけども。
03:20それから音楽ってなるとね、これはね、練習、指の練習とか、こんな練習とかね、声が良くなきゃ音楽家になれないとか、
03:28もうそういうくたらない条件ばっかりしにあるわけが、これも癒やしいと。
03:33絵は何を描いたって構わない。
03:36じゃあ絵の道を選ぶ。
03:39そして18歳の時、慶応義塾普通部を卒業し、東京美術学校、現在の東京芸術大学に進学した太郎ですが、
03:49芸術なんて教えるものではないと言い、わずか数ヶ月で退学してしまいます。
03:54こちらはその当時、太郎が家族と一緒に過ごしていた場所なのですが、
04:00美術学校を辞めた太郎は、この場所を後にして海の向こうへと向かいます。
04:07その行き先は花の都、そして芸術の都でした。
04:12芸術家たち憧れの都パリで、かつてないほどの衝撃を受けた太郎は、
04:38あの奇代の天才画家、パブロ・ピカソの作品と運命の出会いを果たした。
04:47しかし、パリで創作活動に没頭する太郎だったが、戦争がそれを許さなかった。
04:531940年、ヒトラー率いるドイツ軍がフランスに進行。
04:57太郎は後ろ髪を惹かれる思いで帰国の都に着いた。
05:01しかし、帰国した太郎を待っていたのは、さらなる戦争への誘いだった。
05:071942年1月、30歳の太郎は兵役につき、中国戦線へ出生。
05:14そんな状況下に置かれても、芸術への熱い情熱は失われなかった。
05:19その貴重な写真が残っている。
05:22太郎は戦地でも、上巻の肖像画を描いていたのだ。
05:26やがて終戦を迎え、再び日本に戻ることができた太郎。
05:33しかし、この青山の自宅に残っていた作品、すべて消失してしまったのです。
05:40そして、母の実家や鎌倉にあった川端康成宅などを転々とした後に、やがて活動を再開。
05:49現在、こちらにはご覧のように、当時実際に使っていたというアトリエが残されています。
05:54その後、日本橋三越で岡本太郎展を開いたり、パリの展覧会に作品を出品するなど、意欲的に活動していきます。
06:06戦後のやけの原から人々が立ち上がっていくのと比例して、太郎は実にエネルギッシュになっていきます。
06:13ピアノもかなりの腕前。そしてこちらの映像は40代後半のもので、海水浴を楽しんだり、庭でゴルフに興じる太郎がそこにいた。
06:32なかなか見ることのできない活動的なシーンだが、一番熱中していたのは意外にもスキーだという。
06:42何をやるにしても個性的な考えを持っていた太郎。
06:45そしてついに、あの伝説の作品を誕生させる時が来る。
06:491970年に開催された大阪万博。
06:55戦後日本の復興の象徴として、また高度経済成長期の豊かさの証明として、実に6400万人もの人が訪れた。
07:05この万博のシンボルとなったのが太陽の塔。
07:09芸術家岡本太郎の才能を日本中に知らしめる作品となったこの太陽の塔には、太郎ならではのメッセージが込められていた。
07:19万博のテーマ感一体を覆う大屋根。
07:29人類の進歩と調和、象徴するずつ、建造部として偉大な建築家、関根建造士が設計したものだった。
07:38太郎はこの大屋根の模型を見てこうつぶやいた。
07:42あいつをボカンと打ち破りたい。
07:47太郎があいつと呼んだもの。
07:48それこそがあの大屋根だった。
07:52太郎は大阪万博のテーマ、人類の進歩と調和に異を唱え、自分なりのメッセージを伝えようとしたのだ。
08:00調和なんて言うが慣れ合っている。
08:03調和なんて言いやし、相手とぶつかり合って戦わなければ、本当の調和は生まれない。
08:09進歩というと未来の方向ばかりに目を向ける。
08:16科学力を誇る。
08:18それが果たして人間的精神的な前進を意味しているのか。
08:22そこで太郎は、丹下氏が設計した大屋根の中央をあえてぶち抜き、そこから天に向かって突き抜ける太陽の塔を作ったのだ。
08:33それはまさに太郎が時代に明けた風穴、メッセージの塔でもあった。
08:39妥協を許さないその情熱に、建築界の巨匠も折れるしかなかった。
08:46太陽の塔が築かれた1970年、当時は人々が敗戦のショックから立ち直り、必死に働いて経済的な豊かさを追求した高度経済成長期の真っ只中でした。
08:59ただひたすらに豊かさを求めていた時代に、異を唱えた太郎と太陽の塔。
09:07多くの人々がそのメッセージに共感して、この太陽の塔の保存を願い出たのです。
09:14そして太陽の塔が作られたまさにその時代。
09:18太郎は地球の裏側でもう一つのメッセージを書き記していたのです。
09:24その場所とはメキシコ。
09:251967年、大阪万博の3年前に、メキシコ人実用家からホテルに飾る巨大壁画を依頼された。
09:35太郎は太陽の塔の製作と同時進行で、合間を縫ってはメキシコに飛び、壁画を描いていた。
09:41そして縦5.5メートル、横30メートルの巨大壁画は2年で完成。
09:49明日の神話とタイトルが名付けられた。
09:52しかしホテルの契約化に伴い、管理もずさんになり、いつからか作品の行方もわからなくなってしまったのだ。
09:58現実は爆発!
10:23湧き上がる色とオート。マクセルエピタキシャルビデオカセット。
10:30なんだこれは。
10:49なんだこれはの名言は、この番組から誕生し、流行語にもなった。
10:54この月太郎75歳。晩年になってますます注目されるようになった。
10:59また、金鉄バフォローズの猛牛マークをデザインするなど、マルチな活躍も話題になる。
11:06こうして、岡本太郎の名は広く知られることとなる。
11:09その強烈な個性を、私たちの記憶に残し、1996年、84歳でこの世を去った。
11:19太郎マネーというコインを作り、その売上を寄付するなど、先頭に立って太郎復活に力を注いでいる、
11:27コピーライターの糸井茂里さんは、岡本太郎についてこう語る。
11:34よどんだ時代をかき混ぜるために、今もう一回会われたっていう気がしますね。
11:43自分がね、司会をしている教育テレビの番組にゲストで来ていただいたんですけど、
11:50芸術ってなんだ?みたいな番組だったんですよ。
11:53ガムのね、ペタペタ貼り付けたものがあって、そこに爪で顔が描いてある、
11:58いわゆる落書きというか、落書きガムみたいなものだったんですけど、
12:03岡本先生、これは何ですか?芸術ですか?って言ったら、芸術だって言ったんですよ。
12:09そこから、この人は何かとてつもなく大きいぞと思って、
12:14そこからテレビに出てきて目を向くね、面白いおじさんだけじゃない、
12:19何かっていうのが改めて伝わるようになってきて。
12:23岡本太郎、幻の巨大壁画、明日の神話。
12:28実は3年前にメキシコで見つかり、日本で復活することになったのだ。
12:33やがて壁画は愛媛県東音市で修復され、そして今、
12:38製作から30年以上の数奇な運命を経て、
12:42ここ、東京汐留の日本テレビに設置されました。
12:47縦5.5メートル、横幅は実に30メートルという巨大壁画なのです。
12:55明日の除幕式を前にして、今回は特別に見せていただきます。
13:00失礼します。大きい。どうですか?ものすごい迫力です。
13:09戦前、戦中戦後の3つの時代を生き抜いた岡本太郎が、
13:14反戦をテーマに掲げ、原爆の炸裂する瞬間を描いたというこの巨大壁画。
13:20作者、岡本太郎の、「人間、どんなに辛い悲惨なことがあっても、
13:26強さを持って乗り越えることができるんだ。
13:28人間自ら明日の神話を作ることができるのだ。」
13:32という強いメッセージが込められています。
13:35見た通りなんですけど、でけぇって思うと思うんですよ。
13:39どうやって描いたんだっていうくらいでかいんですよ。
13:42それね、日本からメキシコに通って描いたわけですから。
13:45そういうことをなんでこの人はしたんだろうって思うでかさ。
13:49それをまず感じてくれたら、なんでだろうねって思ったらそれでいいと思うんですね。
13:55でかさです。見切れないですから、30メートル。
13:59そうですね。いっぺんに。
14:01一目で見られませんもんね。
14:03大仏にしても何にしても大勢で作ったんですけど、
14:05基本的にはあれ、どうも一人で描いてますね。
14:08手伝わせてますね。
14:10それはやっぱり面白いですよね。
14:14私は過去も、そして未来も無視しているんです。
14:19現在この瞬間瞬間に爆発して生きるんだから、
14:23いずれとか、またなんていうのは、
14:26未来の方に責任を負わせて、ごまかしているにすぎないんだ。
14:32この人生は、すなわち夢だと思う。
14:35だから、自分の夢を生かすために、あらゆることをやるべきだと思う。
14:41自分がこうだからダメだとか、ああだからダメだとか、
14:45自分はこれが得意だなんてことは抜きにして、
14:49それを超えてやらなければならない。
14:51岡本太郎。
14:55幻の巨大壁画、明日の神話は、いよいよあさって、
14:59こちら、日本テレビ。
15:01日本テレビの特設会場で一般公開されます。
15:04そして、あす夜9時からは、生放送の特別番組も放送されますので、
15:10ぜひご覧ください。
15:12そして、先ほどの北朝鮮ミサイル問題のVTRの中で、
15:16韓国のパンギムン外交通商商の会見に、
15:19一部違う方の名前のスーパーが出てしまいました。
15:22大変失礼いたしました。
15:26ご視聴ありがとうございました。