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テレビトランスクリプション
00:00:00今夜はこの人
00:00:13大河ドラマ キリンが来るで
00:00:20明智光秀を演じる俳優の長谷川博さんです
00:00:24フライマックスを迎えている大河ドラマ
00:00:32残すところあと1ヶ月
00:00:34長谷川さんのルーツに迫ります
00:00:37今回のゲストは長谷川博さんです
00:00:44どうぞ
00:00:45お願いします
00:00:46ようこそおいでくださいました
00:00:53どうぞこちらの方へ
00:00:54もう佳境でしょ今も
00:00:56ちょっと座っていただきましょうかまずは
00:00:58いやこれ今大変な時期によく出ていただいたというか
00:01:02長谷川さん自身の大河
00:01:05ファミリーヒストリーですけど
00:01:07すごく楽しみですよね
00:01:09出会いながらちょっとドキドキしますね
00:01:11やっぱりドキドキしますか
00:01:13島根県松江市多摩作り
00:01:27長谷川家は代々この地で暮らしてきました地名の由来は古代よりマガタマ作りが盛んだったため玉作りと呼ばれるようになりました
00:01:43温泉地としても知られ長谷川家の一族はこの地で長年温泉宿を営んできました
00:01:55一昨年亡くなった父高志さんもこの旅館で生まれ育ちました
00:02:06現在経営は別の会社に移っています
00:02:11まあ変わんないな
00:02:14うん
00:02:14多摩作り温泉には長谷川家の流れを汲む旅館がまだ他にもあります
00:02:20今も多摩作りで暮らす親戚の長谷川家
00:02:28長谷川さんの父八郎は長谷川家にはある伝説が残されています
00:02:46ご先祖の年方さんは奈良時代の方らしくてですね
00:02:57もともと漁師を何割としてたと
00:03:02白い鹿を見つけて追っていってそれを射止めたところですね
00:03:10その鹿がお地蔵さんに変わったと
00:03:13伝説
00:03:13というふうにも聞いておりまして
00:03:16それ以来まあ摂生はもうやめてですね
00:03:21自ら出家をしてお坊さんになられたと
00:03:26その先祖長谷川俊忠だと伝わる像が残されていました
00:03:33相当昔からここに祀られていると
00:03:38父からも聞いておりますけども
00:03:41奈良時代漁師だった長谷川俊方
00:03:46射止めた鹿が地蔵に変わったことで仏門に入ったというのです
00:03:52これと同じ伝説が残されている場所があります
00:04:02鳥取県西部に位置する霊峰大仙です
00:04:07古来より山岳信仰の霊峰として人々にあがめられてきました
00:04:47この金蓮商人こそ玉造りで漁師をしていた長谷川俊方だと伝わっています
00:04:57大仙寺の由来について書かれた文書が残されていました
00:05:05こちらが大仙寺での昔のいろんな出来事が書かれた
00:05:12大仙寺演技という書物になります
00:05:14ここの大仙寺の改ざんの場面のところにですね
00:05:19出雲の国玉造りというところに漁師ありけり
00:05:25金色の狼を見つけ山の中の祠に入ったところが
00:05:32狼が地蔵菩薩に姿を変え
00:05:36摂政の罪を悔い
00:05:39発信を起こしお坊さんになり
00:05:42金蓮商人となって山で修行したというところが書かれています
00:05:49先ほど出てきた漁師
00:05:52そしてお地蔵様が現れた
00:05:55そういう場面がこの絵には表してあります
00:05:58大仙寺の伝説では
00:06:03射止められて地蔵になったのはオオカミ
00:06:06一方玉造りの長谷川家では
00:06:10鹿が地蔵になりました
00:06:12わずかな違いはあるものの
00:06:161300年前の伝説が同じように語り継がれています
00:06:21以来大仙寺と長谷川家は
00:06:27長年密接な関係を築いてきました
00:06:30まずここの本堂が昭和26年に新しく作られているんですけれども
00:06:44その時に長谷川家にたくさんの寄進をしていただいた
00:06:49開催された金蓮商人の末裔が長谷川家だということが
00:06:53お互いに承知の上でお付き合いをさせていただいたということですね
00:06:57近蓮商人を輩出した長谷川家の一族はその後も玉造りで暮らしてきました
00:07:07長谷川家には玉造り温泉に関する伝説も伝わっています
00:07:15玉造りの歴史に詳しい松江観光協会の須藤稔さんです
00:07:25この付き合いです
00:07:28ここにお湯川へ出て古代からにぎわってまして
00:07:37しかし鎌倉時代温泉の湯元が川の中に埋没し場所が分からなくなります
00:07:48そのため川床を懸命に掘って湯元を探しました
00:07:53その時に一緒に木彫りのお地蔵さんが出てくるこれ私そのものだということで長谷川家が持って帰ってそれからあそこへ予約士堂へ待ちたという歴史があります
00:08:11今でも予約士堂は長谷川家が一族で管理しています
00:08:201年に1度旅館の経営者が集まり温泉街の発展を祈っています
00:08:30これが700年前に発見され長谷川家が中心となって守ってきたという薬師如来です
00:08:46松倉川家の発展に非常にリーダー的な役割をされたのが江戸時代に入ると長谷川家は松江藩から特別な役割を命じられます
00:09:05これは長谷川家に伝わる文書玉作り音頭の由来
00:09:18慶安三年は江戸時代初期1650年
00:09:30湯之助という賞をいただきまして松江藩のお湯を管理しているというようなことは大体聞いておりますので
00:09:41湯之助とはどのような役割だったのか
00:09:48玉作り資料館の館長に読み解いてもらいました
00:09:52お湯が出なくなったりとか温泉の建物が壊れた時の修理とかそういったことを一切引き受けてましたね
00:10:03あとは相談事例えばもめ事とかそういったことを解決するのにも湯之助は関わっていたとされてます
00:10:13松江藩から湯之助を与えられた長谷川家はその後玉作り温泉を取りしきる立場となります
00:10:23長谷川家が代々世襲制でやっておりますのでやはり長谷川家の方にかなりの信頼を寄せられていたんじゃないかと思います
00:10:37長谷川家に湯之助を命じたのは2代目の松江藩主堀尾忠治実はその祖父堀尾義治は明智光秀と因縁のある人物でしたへえそうなんだ
00:10:56吉原はもともと秀吉の側近
00:11:00本能寺の変の後秀吉軍が明智光秀を追い詰めた山崎の戦い
00:11:11勝敗を決めた天下分け目の天皇山を制したのが堀尾義治と言われています
00:11:20そうなんだそれすげえな長谷川家が湯之助を命じられた多摩造温泉は藩主堀尾家の西洋地として発展していきます
00:11:34ここが松江藩の直営の休憩所あるいは宿泊所になっておりまして藩主がこちらで登場なさったここを一の湯と言っておりますでえっとあと二の湯三の湯下の湯ってございますけど
00:11:54元湯からお湯が引かれ二の湯は主に松江藩の家臣や僧侶の湯三の湯は下級武士や町人農民そして下の湯は往来の当事客身分ごとに入る湯が決められていましたなるほど湯之助を任された長谷川家は温泉宿も始めます
00:12:22そして明治に入り湯之助の役職を離れた長谷川家は本格的に旅館経営に乗り出していくのです
00:12:37キリンが絡んできましたから
00:12:43ちょっとじわじわ来てますね
00:12:44どこから行きましょう
00:12:47なんで俺が明治光秀に配役されたのかどういう因縁があるのかなって気がします
00:12:53逆やったらすごい因縁でしたけどね
00:12:55すごい1300年前でしょ
00:12:57すごいルーツですね
00:13:00そこまで確実に遡れてるわけですから
00:13:02あまりにもちょっとそうですね壮大な話していて改ざんしてますからねそれがすごいすごいですよだから別のもう一本大河ができるそんな感じかもしれないですね話ですよ多分
00:13:19明治に入り長谷川家の一族は次々と分家しそれぞれ旅館経営に乗り出していきます
00:13:31写真に写る建物は長谷川家が営む旅館でした
00:13:40ところが明治の中頃玉造りで新たな温泉の掘削が許されると長谷川家以外にも温泉旅館が改良します
00:13:56そうかこんなやったんやなこれは三遠道商工便難といいましてこの三遠地方のいろいろなお店を紹介しているコマーシャル本みたいなもんですね
00:14:10旅館同士の競争が始まりました。
00:14:14こちらの方ですね長谷川百三郎百三郎は広木さんの4代前の高祖父に当たりますへえ
00:14:30明治30年この頃百三郎はそれまでの旅館では手狭だと考え大きな賭けに出ます
00:14:41こちらが
00:14:46山陰の老舗という本になります
00:14:50長谷川さんの高祖父にあたられる8代目の百三郎さんのことが載っております
00:15:03明治30年に新築された旅館があんな大きなものを建てて大丈夫かいやと噂されるような大きいものを建てられたそうです
00:15:15湯元から200メートルほど離れた場所にあった田んぼを潰して保生館と名付けた旅館を建てました
00:15:31当時の玉作りで一番大きな建物でした百三郎のひ孫で広木さんのおじにあたる長谷川武さんです
00:15:50旅館ですから泊まりに来た人が非常に満足してカンフタブルな温泉宿として休めるということが一番ですからそれでそういう点からねやっぱり建物を立派にしなくちゃいかんということでこの百三郎が一生懸命やったんじゃないでしょうか
00:16:19百三郎は地元でも有名な存在でしたかつて湯之助をしていた長谷川家のプライドを持ち続けその上曲がったことが大嫌いでしたか
00:17:08出雲大社を訪れた参拝客の多くが玉作り温泉にも足を伸ばすようになりました旅館の経営も軌道に乗っていきます
00:17:37そして対象になると宿の主は百三郎から長男国太郎に代替わりします
00:17:48広木さんの祖祖父です
00:17:50福井太郎はねこれはまた百三郎とは対照的にね人のいいおじいさんでね優しいおじいさんでそれで百三郎がかなり厳しいことを言ったりしたりするもんですから評判の良くないこともあったんですねそれを裏へ回っては福井太郎が勘弁しちゃってくれと百三郎を助けたというのが私どもが聞いているところでございます
00:18:17だから百三郎と言ったら対照的なあたってはですねうまく両方かみ合って評判が良くて補正があそこまで大きくなったと。
00:18:35しかし国太郎には後取りにする男の子ができませんでした多摩造温泉を守り続けてきた長谷川家歴史ある宿を守るためにも長女嶋子に立派な婿容師を迎えなくてはなりません
00:19:00国太郎はあちこちの知り合いに旅館の経営を任せられる有能な男はいないか訪ねて回りますある日松江市内にあった藤名焼の窯元を訪ねます藤名焼は松江藩の名産品として知られ明治になるとその鮮やかな柄から
00:19:30海外にも輸出されました国太郎が訪ねた丸山陶器商会当時率いていたのが佐和弘親さんの祖父でした
00:19:45国太郎は佐和藤右衛門に尋ねます
00:20:01向子さん佐賀市長は誰かいい人おらんかというような話があったということは承知を言われて東右衛門が一人の男を勧めましたうちで働いている中島忠男はどうだへえ当時絵付けを担当していた中島忠男
00:20:27大社中学を出て弟子入りした男で教養も才能もあると評判でした今も続く藤名焼の窯元で当時のことを伝え聞いている土屋さんの母親が忠男と知り合いでした
00:20:50その美術工芸の方に何か興味のある人で働き者だということで評判が良かったらしい
00:21:07さらに忠男は料理も得意で窯元の宴会などでは自ら進んで腕を振るっていました
00:21:19料理が上手だとまず板挟みができるということで旦那になる人が料理が上手でないと
00:21:31長谷川邦太郎は忠男に言いますうちに無雇用紙に入って宿を継いでくれないか忠男は歴史ある旅館の主からの申し出に驚きます
00:21:53私のようなものでいいのでしょうかそして大正七年中島忠男は長谷川家に向こう入りしますこの忠男こそこの後補正感を大きく発展させる男でしたそうか知らなかったそれもそう長谷川さんいかがですか?
00:22:19いや僕はもうあのこの世に生まれた時はもうおじいさんもいなかったのでなんかねえなんかすごくちょっと感動しましたああいうそういうことがあったんだっていうのは後取りがいないと探し回ったんですねでもですね雇用紙経営化っていうのもすごいですねその誘いもでもなんかあれですねそういう意味では今まで商売やってた家計が
00:22:47何かそのタダおじいちゃんが入ってくれたおかげで少し美術的な感覚が何か家に入ってきたんじゃないかなっていう気がちょっとしましたよねでも雇用紙が見つからなかったら長谷川さんおられないということですからねですねえいや不思議です不思議ですね本当に運命は
00:23:17長谷川家の無子養子になった広木さんの祖父忠夫忠夫が生まれ育ったのは島根県氷川郡現在の出雲市です
00:23:31こうまた出雲で終わりたいんだ
00:23:35忠夫の実家中島家を訪ねました忠夫の姉のひ孫中島薫さんです蔵に残されていたのはすごい資料ですね
00:23:57これはですね家の歴史がつづられているもので最初のところにですねちょっと読みにくかったんですがこのような形で先祖のことが書かれておりました
00:24:17江戸時代中期を生きた初代中島奥江門松江藩の家老大橋萌門家使え若頭となり武術を好みまた俳句のごとき風流を好み
00:24:47最初はその
00:24:51おそらくあの松江の方に住んでいたと思うんですが何かここに記載があるんですけれどどうも こっちの方に帰ってきてここに家を建てたと
00:25:06理由は定かではありませんが江戸時代後期 広木さんの先祖は松江の本家から分家し出雲で農業を始めます
00:25:18そして明治25年に生まれた三男が広木さんの祖父多田男です
00:25:32生活は苦しく兄弟たちはみな小学校を出ると各地の寺へ奉公に出されます それにはある理由がありました
00:25:45高校先の寺で下働きすれば中学校に通わせてもらえたからです
00:25:53兄と弟は京都にある仏教系の中学にそれぞれ進学しますそして忠夫は地元の大社中学へ忠夫の兄健三郎の長男原光隆さんです
00:26:16田んぼは狭いしやそれでしょうがないから男の子はお寺行きお寺行きお寺行きお寺行きお寺行きだな
00:26:23満塾食いなきゃいけないで生活するほどのね金がなかなか大変だったじゃないかと思うよね
00:26:32忠夫は大社中学に通ううち書や絵画に興味を持つようになります中学卒業後しばらく奉公先の寺に世話になりますが陶芸をしたいと丸さん陶器商会で働き始めます
00:26:54忠夫はここで絵付け師として修行を始めます
00:27:18すごいおもちゃったんやん忠夫の絵心がうかがえる手紙が残されています
00:27:27ですからこれもその総のが描いた絵だ
00:27:37茶窯の水墨画です盛んなるかな沸騰墨が多くて傾いたね大正7年長谷川家に向こう入りした忠夫真っ先に取り組んだのが名物となる料理のコンディングです。
00:28:07器のせんていから盛りつけなど料理人にきめ細かく指示します近くのシンジコでとれる新鮮な白魚を使ったメニューを旅館の売りにしました
00:28:46白魚さんの受け付けられた料理じゃなかったかなと思いますけど
00:28:53まあ特にあの冬のシンジコの白魚のね
00:29:00スミソー和えっていうのはこのそのスミソー和えっていうのはもう天下一品ですねうん本当に補正館の名物料理じゃなかったでしょうかもう生きてるあの踊りって言いますか
00:29:15忠夫の孫で松江でそば屋を営む木山秀俊さんです
00:29:24やっぱりお料理も器も器とかの旅館の中の絵画とかなんかも調度品がすごくあってそうなんですよねお料理とお料理とお湯ともうもてなしのバランスがいいっていうことでは有名なんですようんですよずっと昔からね
00:29:49旅館の経営に力を注いだ忠夫次第に趣向を凝らした立派な別館を増築したいと考えるようになりますそれにはある大きな夢がありました
00:30:08特に忠夫さんがですね島根県に皇室が来られた時の多分宿泊所として玉津久里温泉でそういう皇室がお泊まれる場所というのは必要になってくるだろうと
00:30:27忠夫は幼い頃よく参拝した出雲大社のような気品ある建物を建てたいと願います材料となる名木を探すため自ら各地を回りました
00:30:45材木を選ぶわけですよ自分が建築に使う材木を訪ねてあちこち行ってますね
00:30:57沖の島っていう島が日本海じゃないますか沖の島へ行ったりそれから中国産名国で木を探して歩いたというぐらいですから非常に建築が好きだったんでしょうね
00:31:12こうして5年もの歳月をかけ昭和6年に完成したのが当時のままの建物が残されています平成30年国の有形文化財に登録されました神社仏閣などに用いられる
00:31:41入りもや作りで全国から取り寄せた上質な木材がふんだんに使われています
00:31:48こちらの天井板なんですが2枚の板でですからこの半分までが1本の木ということで
00:31:58薬杉でございます何百年もの樹齢の木を使ったものということになります
00:32:06多くの宿泊客がやってくるようになりました
00:32:13昭和16年、太平洋戦争が勃発。戦況が悪化すると多摩造温泉の旅館は軍の宿舎になりますが補正館だけは例外でした。
00:32:42戦争可烈な時は各旅館とも軍の要請で宿舎に宛てられるなど営業は中止されたが道館のみは顧客の旅館として営業が続けられたそうである戦争中日本軍の勝利を願い出雲大社に参拝する人たちの宿として営業を続けました。
00:33:10そして昭和22年忠男の夢がついにかないます。全国重行中の昭和天皇が宿泊することになったのです。こちらなんですが昭和22年に昭和天皇がお泊まりいただいた時の写真です。
00:33:37その時の新聞記事が残されています。
00:34:14と忠男氏にお言葉があり長谷川家に無雇用紙として入り期待に応えようと頑張ってきた忠男にとってそれはまさに晴れがましい瞬間でした。
00:34:32いや陛下がお泊まりになった忠男さん本当に大抜てきというかめちゃくちゃ頑張りましたねいろんなことでおもてなしをするのがすごい好きだったんでしょうねきっと。
00:35:02ありますねそこにはつながりますね一昨年81歳で亡くなった広木さんの父隆さん武蔵野美術大学の名誉教授で建築の歴史を教えていました
00:35:32老舗旅館を営む長谷川家の後男として生まれます。
00:35:39幼い頃から旅館のまかないを食べて育ったたかしには大好きな料理がありましたたかしはね白尾が大好きだったのを思い出しましたよ飯を食わないとね親が心配しますけども白尾の煮付けがあれば飯を食ったというのは覚えてますね。
00:36:05そして風格ある見事な建物や広々とした庭に囲まれたかしは成長していきます。
00:36:18建築が好きだったんですね父親がねたらおがねでその影響を受けてたかしは小さい頃から自分の膝の上に乗っけて自分がたらおっていうのはお酒好きでしたからちびりちびりやでながらその膝の上で大きくなったというのが広木の父親のたかしですから。
00:36:40晩年幼い頃の思い出を雑誌に語っています。
00:36:49父親と大工の棟梁が板の上に墨で間取りを描いて検討しているのをそばで見ていて不審とは面白いものだなと思ったものです。
00:37:08昭和25年たかしは松江市にある島根大学教育学部付属中学に進みます。
00:37:17たかしの同級生で松江で老舗和菓子屋を営む内藤守さんです。
00:37:27保生館というのはねもう別格だというふうに私と子供の時からお天皇陛下もお泊まりになるような格別の旅館だというふうな印象を持っておりましたね。ですから長谷川は本当にお坊ちゃんという感じで我々は思っておりました。
00:37:49その後たかしは内藤さんと共に新学校松江高校に進みます下宿生活を始めましたこれですねハンサム質性が高いしね自由資格だったんじゃないかなヒロヒロキさんのよく似てますよねこの写真初めて初めて見た?
00:38:19当時たかしが夢中になっていたものがありましたたかしさんが下宿先でまあいろいろお金しろく言っていただいて生活してたんですけどもなんか利用料は全然払われてませんよっていうような話になってこれももちろん卒業できませんっていうような話でそれが何に金を使ったかっていうことを後で突き止めたら映画をずる監督の作り方を作りました。
00:38:48監督の映画原節子さんのシェアそうなんだあの映画にも没頭してとにかく映画にもう毎週毎週その小遣いを使い込んでそれが結局需要がなかったっていうようなことだったんですけど。
00:39:06昭和31年たかしは早稲田大学第一文学部に合格し上京します。
00:39:13そして美術史を専攻したたかしが卒業論文として記したのが近代建築の空間性。
00:39:23建築の歴史を美術の観点から検証したものでした。
00:39:30美学を専攻した筆者が建築史をテーマとしたのは美術史と建築史との並行関係を把握したいためであった。
00:39:48するとその卒業論文が高い評価を受け建築の専門誌に掲載されます。
00:39:55異例なことでした大学の同期で建築家の相田武文さんです。
00:40:08たかしの卒業論文を読んで驚いたといいます。
00:40:15普通の建築の建築史家とか建築の学者が書いてある文章と違う文章で、それで彼が私の同級生だと言うんですね。
00:40:29それをびっくりしまして、というのは彼は文学部ですから私は建築で、それで文学部の卒業でしかも年が同じでこんなに文章が書けるとこはいるというので非常に驚嘆しまして、とにかく文章を読んで歓迎したということとそれにかく会いたいと。
00:40:52もうその要するに2つをですねもう内容覚えてないんだけどとにかくね5枚ぐらい書いたような記憶があるんですよ。
00:40:59これをきっかけに2人は親しくなります。
00:41:06旅館っていうのは当たり前だけどもその建築もあるし、例えば花をいけるのもちゃんといけなきゃならないし、それから当時で多くの女中さんとかね、それから芸者さんも旅館の中に来ますよね。
00:41:24そういういろんな日常と非日常みたいなものがですね、こう見ながら暮らしているとね、たぶんね、人間のね、膨らみが出るんじゃないかなって思いますね。
00:41:40卒論で注目を集めた高志は大学卒業後定職に就かず専門学校の講師や雑誌の編集の手伝いをしながら執筆活動を始めます。
00:41:55しかし思うように仕事は来ませんでしたほとんど週日ほとんど毎日国会図書館やその他の図書館の中で過ごし明治大正期の雑誌や本からの抜き書きに熱中したずっと下積みですね
00:42:25雑誌の編集の手伝いをしたり、まあ原稿を書いていたりしていましたけども、原稿流だけではなかなか食っていけないですよね。
00:42:39高志は生活費を稼ぐため様々な分野の評論を手掛けます。その中の一つが歌舞伎でした。
00:42:50当時ある若手歌舞伎俳優と対談をきっかけに交流が始まりました。
00:42:58いろいろ教えていただいたっていうのが実際の僕の感覚です。
00:43:26大学を卒業して8年31歳になった高志にようやく著名な建築雑誌から執筆依頼が舞い込みます。
00:43:39すると高志はあの代々木体育館を設計した巨匠丹下建造の建築を批判したのです。
00:43:54廃墟としての焼け跡の上にそびえる神殿。
00:43:58それは論理において駆逐するにはあまりにも美しく魅力あふれる幻想である。
00:44:06そのためこの幻想はやがて丹下氏を継ぐ世代の多くの建築家たちに無条件に引き継がれていったように見える。
00:44:21その一方で高志が評価したのは大正時代に建てられた監獄の建築実用性と機能美を兼ね備えた建物を絶賛しましたすると無名の若手評論家の大胆な主張に賛否両論が巻き起こります
00:44:51ある程度年入って認められた人がね例えば丹下建造のなんとかということで批評する要するに批評するならねまあまだしもまだ出たての人がねあの丹下さん的な神殿造りは良くないとまあまあ端的に言うとそう書いてあるわけよ。
00:45:18曲の言うと原稿の依頼がなくなっちゃうんじゃないかなと思うぐらいにね思い切ったこと言ってるなと思いましたね。
00:45:26ところがこの評論をきっかけに高志は注目されるようになります。
00:45:35評論を発表した翌年高志は武蔵野美術大学の非常勤講師に招かれます。
00:45:44当時の高志の教え子で建築家のさなよしおさんです。
00:45:54笑顔で授業を進めて。で常に学生に問いかけるような授業をやってましたんで。やっぱり引き込まれて。
00:46:04建築の専門の人たちの中でまあずっとこうこうねくりましてたものを自分たちの側にその引き寄せてそれで我々がそのどう感じるかどういうふうにものを見るかあるいは我々のためにどう作られているかそういったことを我々の言葉で表現するんだっていう。
00:46:30そんな高志の教え子の中に山形出身のある女子学生がいましたその教え子こそ後に妻となる女性でした
00:46:45女優さん?
00:46:47女優さんじゃないですかもう。
00:46:49なんかねすごい綺麗でしたね。
00:46:51むちゃくちゃ綺麗ですよ。それはもう関係ないですよ教え子とか。
00:46:54息子さんが一番驚いてらっしゃるし。
00:46:56今全然違いますよ。
00:46:58でもすごいですね建築の道なんですね。絶対にやっぱり旅館にいたっていうのはまあ同級生もおっしゃってましたけど間違いなくその刺激というんですか。
00:47:09影響あるでしょうね。
00:47:11いろんなあそこでいろんな芸術、芸術的なものにまあおじいさんもそうでしょうけどおじいさんもいろいろこう影響を与えたんでしょうけどそこに来る人とかいろんなの。
00:47:24すごいその学費を使ってまで映画見に行ってたってまるでもう俺と一緒ですよ思わずご自身で声出てましたけどそんなこと一言も聞いてなかったんで映画が本当にだから父もすごい好きだったのでよく映画に連れていかれて父の影響がなければ役者はやってなかったでしょうねやっぱり。
00:47:47ファミリー・ヒストリーひろきさんの母恵子さんの実家コンタ家山形県北部に位置する新庄市はあ山形やっぱコンタ家を守る恵子さんのいとこ絵美子さんですコンタさんそうなんです
00:48:13元々は大きな農家だったコンタ家。
00:48:20ここにあるこの場所で商売下駄作りしてたらしいです。
00:48:29ひろきさんの4代前の高祖父三吉は次男だったため家を出て下駄屋を始めます。しかし三吉は大酒飲みでした。
00:48:43ちょっとこう収入があると売ってはお酒を買ってきて飲むみたいなことででかなり。
00:48:55その後三吉の長女イ氏は無雇用紙をもらい父の下駄屋を引き継ぎます。
00:49:04うちの商売はすごく商売に一心で下駄屋を並べたところになんかちょっとこう駄菓子屋みたいなことをしてで結構流行ったよねうちの近所の子どもとかあとそのうち豆腐納豆アンパンとか売り出してうん。
00:49:30そんな金太家に大正12年に生まれたのが庄二郎。
00:49:37ひろきさんの祖父です。
00:49:39へぇ初めて見た。
00:49:40初めて見た。
00:49:41かっこいいんですよおじのおじは。
00:49:43スタイルもいいし、あの、まあいい男だし。
00:49:49昭和16年18歳になった庄二郎は国鉄に入社し地元の新城駅で働き始めます。
00:50:02二十歳になると陸軍に招集され衛生兵となりますが、外地に出ることなく終戦を迎えました。
00:50:17戦後、国鉄に復職し、そして結婚します。
00:50:24昭和24年に生まれたのが、ひろきさんの母、けいこです。
00:50:30さらに翌年、妹が生まれます。
00:50:37ところが、昭和二郎は突然国鉄をやめてしまいます。
00:50:45家族を置いて上京してしまったのです。
00:50:49昭和二郎の娘で、ひろきさんのおばにあたるゆうこさんとふさこさんです。
00:51:00昭和二郎は以前から映画スターになることを夢見ていました。
00:51:15周りの人もね、やっぱりいい男だ、いい美男したって結構言われたみたいで、本人もそれがもうすごく自信あって、自信過剰なとこあって、俳優になれるんじゃないかと。だから、なんか自分でその、いいですね。
00:52:09ここが稽古場になってまして、2階にももっと広い稽古場があります。たぶん、コントさんがいらしたころは、ここの稽古場かなとは思いますけれども。はい。どうぞ。入ってください。
00:52:24昭和二郎が在籍していた昭和27年当時の写真が残されていました。これがですね、劇団文化で50周年誌っていう。この方は似てらっしゃるような感じがしますけれど。
00:52:50髪型とかも。はい、そうですね。
00:52:54すげえな。
00:52:55顔のちょっとおもながな感じとか、よく似てらっしゃる感じですね。
00:53:00髪型も一緒や。
00:53:02丹波さんですね。
00:53:05翔二郎が所属していた時期、丹波哲郎さんも在籍していました。
00:53:12娘の優子さんと房子さんに写真を見てもらいます。
00:53:24しかし翔二郎はすぐに母医師によって実家に連れ戻されます。
00:53:39俳優になることは許してもらえませんでした医師は頭を下げて翔二郎を国鉄に復帰させます。
00:53:56自分がなりたくてなりたくてしょうがなかったんだろうけど私の祖母が駄目だってことで連れ戻してきたってことでそれで丹波哲郎がテレビに出てくるとこれは俺の2期先輩で俺がそこにいたらもっと売れてたかもしれないみたいなテレビでよく言ってたから。
00:54:18再び国鉄で働き始めた翔二郎その後列車の車掌も務めましたもともと俳優志望だった翔二郎社内アナウンスは見事で評判になります
00:54:42父親ながら私上手だなと思いましたねその頃聞いててお父さんの一生懸命頑張っただけあって父親はこうやってすぐ分かるじゃないですかみんなに冷やかされてね俺はお父さんだよ。
00:55:03そんな中翔二郎の長女慶子は絵を描くのが得意な少女でした。
00:55:18そして高校を卒業したら美術大学に進学したいと思うようになります。
00:55:37で油絵が好きでそのむさびに入りたいってすごくそれがねもうずっと自分で思ってたみたいで武蔵野美術大学ってあの頃すごいもう何十倍の倍率だったんですよね。すごく努力が頭も良かったし。
00:55:58昭和43年見事武蔵野美術大学に合格します。
00:56:09線香は油絵でした。そして3年生の時講師としてやってきたのが長谷川隆でした。ほらきれいよ。知らなかった。
00:56:25慶子は知的な高志に惹かれていきます。
00:56:32好きなセンスがいるのって、姉がすごい好きだったみたいな、言う気もよく、入ったとき講師でねって、やっぱり結婚する人は尊敬する人じゃないと駄目なんだって。
00:56:46そして慶子が大学を卒業した2年後の昭和49年2人は結婚高志37歳慶子25歳でしたこれが逃したのかな。
00:57:06いかがですか? 知らないことがたくさん出てきて。何から話したらいいか、ちょっと分からなくなってきました。
00:57:13まさかの。家族を置いて1回、役者の夢を追いかけてましたよ。しかも劇団入ってました。
00:57:21丹波哲郎さん言うたら昭和の盟友ですよ。
00:57:24僕は母から役者なんかやらないで、なんかもっと医者とかそういうものを目指してほしかったみたいなことは言われたと思います。でもその流れの中では自分の父親の、自分の父親のことがあったかもわかりませんね。
00:57:39高志と慶子が結婚して3年後、長男ひろきが誕生します。小学生になったひろきはあることに熱中します。
00:57:57映画鑑賞が好きでしたね。おじさんが集めているものであったりとか自分が興味があったものだったりっていうのをビデオに撮ったものを一緒に見ようといってよく2人で彼の自宅でビデオ、映画ですかね。映画の鑑賞をして彼はそれをまねたりとか。
00:58:25そのシーンを切り取って何か演じたりというのはありましたね。
00:58:32叫ぶであるとか同活するであるとか何かこう強い感情のあるようなシーンとかを何かのきっかけふとしたきっかけにまあもちろん笑いながらやったりもするわけですけど。
00:58:47そして中学に入学するとバスケットボール部に所属します。
00:58:58彼がここで長谷川君ですね真ん中から非常に頑張り屋さんだってですね彼が中学3年生の時に東京都で優勝して関東大会に出場しています。
00:59:15中学3年生の春所属するバスケットボール部が新入生歓迎会で劇を上映することになります。
00:59:27懐かしい。覚えてるわ。
00:59:32広木は顧問に頼まれて女装し主人公の彼女役を演じました。
00:59:41彼がヒーローの彼女役で頑張ってとかいう形でウェディングドレスを着てそこへ出てくるとどっとこう400人か500人ぐらいの男子生徒がやんやの喝采で盛り上がったのを今でも覚えています。
00:59:57その時にもうね普通だと女の子の格好するとこうもじもじしたりとか恥ずかしがったりとかするんですけどさっと来てこうパッと止まってそれがあのもう何ですかねどうにいってるというか物落ちしていないですから長谷川が出た時にサインをもらってくれないかって言った1年生がいましたね。
01:00:20平成7年大学に進学すると広木は雑誌編集のアルバイトを始めますその頃よく原稿を取りに行ったのが当時雑誌ポパイに連載を持っていたリリー・フランキーさんですお願いします。
01:00:47学生アルバートの人は何人かいたんでしょうけど長谷川君だけすごく覚えてるんです。
01:00:57それは何でかというと僕の仕事場にまあ本当にまあその大学生とかその当時の大学生に全く興味がないであろうなっていう昔の東映とか新東宝とか大倉とかのまあいろんな映画のポスターを4面貼っててまあちょっとまあ不気味な仕事場にはなってたと思うんですけど
01:01:19長谷川君だけそのポスターについて興味を持つというかこのこういうポスターはどこで売ってるんですか
01:01:29聞いたのでこういうところで売ってるんだよって言ったら次にイラストを取る時にそこに行ってきてて行ってきましたとか
01:01:37まさかそのアルバイトの人が後々ねこんなにあの立派な俳優になるなんてことは思いもしませんでしたけど
01:01:47そして大学卒業後役者を目指して文学座に入ります
01:01:58そうだそれが癖もんだ国家だけが一人化け物になるわけでもない国民も一緒になって化け物になっていくんだそんな息子の将来を父隆は心配していました隆の友人で建築雑誌の編集長だった加藤雅宏さんです
01:02:25みんなちゃんと役者としてタレントとしてやっていけるわけじゃないのよね
01:02:33心配になっていろいろ考えてたみたいですよとてもまだまだダメだっていうふうに思ってたみたいですけど
01:02:43何ですかそれ 曖昧な感情
01:02:49平成22年33歳の時に出演したドラマセカンドバージンで一躍注目を集めます
01:02:59日本の未来を 君たちに託します
01:03:05更にその6年後の平成28年には映画シン・ゴジラの主役に抜てきされます
01:03:13事態の収束にはまだ程遠いからな
01:03:19広木の父隆と親交があった坂東玉三郎さんは映画を見て驚きました広木さんの存在は知ってたんですけどもまあシン・ゴジラは大変面白くてプログラムを見てるうちに父が長谷川隆って書いてあって僕ちょっとびっくりしましてで隆さんに久しぶりにお電話して
01:03:49僕知らなかったんですけどご子息が俳優さんだったんですねって聞いてそうなんですよってそして大河ドラマキリンが来るでは初めての共演が実現しました
01:04:05お父様もそれとなく同性俳優の道であればいずれどっかで一緒になるだろうと思ってらしたかもしれないと思うんですね
01:04:27そんなご縁もあり嬉しい気持ちもしましたね
01:04:34そしてリリー・フランキーさん
01:04:39映画に興味があって映画に出てる人で映画に出たくて映画に出てる人じゃないと思うか
01:04:47なのでやっぱその彼の演技の奥行きというのはやっぱその礎があるんだと思うんですよね
01:04:56僕はなんかこう初めて出た映画で主演をさせていただいてるんですけどそのオーディションを受けて落ちたのが長谷川君なんですよね
01:05:06だから落ちて正解でしたよねあんなカルト映画に出てたら出てたら多分大河ドラマに届いてないと思いますね
01:05:15相当遠回りをしたはずなんだと思います
01:05:19いやーなんかすごい運命
01:05:24石井照夫さんっていう監督のすごいちょっとエロ黒でカルト映画っていうおっしゃってましたけどそんな感じの僕の中ではものすごい映画があるんですよね
01:05:37これは何オーディション一般公募って書いてあったんですよ
01:05:42それを見てそれでプロあま問わずみたいな書いてあったんでこれは行くしかないと思って
01:05:48もうあまりに緊張しすぎて体が動かなかったんですよ
01:05:53でやっぱり役者をやるっていうのは思っていてもそれとともにこう体が動かないとダメなんだっていうのをすごい感じて
01:06:05それでこれは何か訓練しなきゃいけないと思って劇団に入ったっていうことですがいやもう本当に知らないことが知らないことがたくさんあっていやでも何か自分がなぜ俳優やってるかっていうことがやっぱり分かりましたねよく分かりましたね
01:06:29何かすごくやりたい気持ちはあってでも飛び出せないところがあったんですけれどでもやっぱりどうしようもない衝動があったんですよね
01:06:44このルーツを見て父と母のおじいちゃんおばあちゃんみんなの行動力とかそういうのが全て僕のこの血に受け継いでるんじゃないかなっていう気はすごくしましたね
01:07:05だからもうもっともっとこれはやっていかなきゃいけないなっていう気持ちに何か改めてなったんですごくよかったです。
01:07:15本当にありがとうございます奈良時代弘貴さんの先祖長谷川俊方こと金蓮商人が修行し仏の道に入った鳥取県大仙
01:07:313年前の平成30年は金蓮商人が大仙寺を開いて1300年にあたりました
01:07:471年を通して行われる1300年祭それに先駆け京都市下の根平さんは大仙寺の歴史を改めて調べることにしました
01:08:07するとそれまでわからなかった金蓮商人の供養塔が見つかります
01:08:15こちらが非常に苔けむして古そうですがこの五輪塔が金蓮商人の供養塔ではあるんですが私は大若じゃないかと
01:08:29そして始まった1300年祭それからほどなくしてこの発表がなされます
01:08:41どうか元気で行けるときに
01:08:47キリンが来るです明智光秀を演じるのはこの方です長谷川博さんです
01:08:57ちょうどその1300年祭のときに長谷川さんがNHKの大河ドラマのキリンが来るに出演することが主役で出演することが決まったので
01:09:13それはやはりなんか金蓮商人1300年祭ともやはりなんかご縁があるのかなって思ったところなんです
01:09:27そんな息子の活躍に父高志さんは目を細めていました
01:09:35しかし高志さんはひろきさんの大河出演が決まる半年前から糖病生活を送っていました
01:09:45小学校からの同級生内藤守さんは高志さんの見舞いにあるものを贈りました
01:09:55白子を送ってやりましたらですね大変喜んで本に出かけてきまして
01:10:05補正館の賄いを思い出して涙が出たと言っておりました
01:10:10本に直に出かけてきましたがうまかったとかって
01:10:15平成31年4月高志さんは81年の生涯を閉じます
01:10:29キリンが来るは見ることはできませんでした
01:10:36大河ドラマキリンが来るも残すところあと1ヶ月
01:10:51長谷川博さん演じる明智光秀は激動の戦国時代をどのように歩んだのか
01:11:01そして本能寺へ
01:11:06長谷川博さんのファミリーヒストリー
01:11:11歴史と伝統を背負いたくましく生き抜いた家族の歳月がありました
01:11:19やられたな最後はちょっと
01:11:33おんま倒
01:11:39でもここにたく幻白のクル係は
01:11:43彼らをご覧いただきありがとうございます
01:11:47ああすごい