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00:00In the 18th March of 20th,
00:03the war was ended.
00:14However,
00:18there was a new war in Japan.
00:23旧満州をはじめとする中国大陸や朝鮮半島、台湾や東南アジアに暮らしていた300万人及ぶ民間人の内地への引き上げである。
00:41とりわけ複雑な状況にあったのが、アメリカとソビエトにより南北に分割占領された朝鮮半島だった。
00:53アメリカ統治下の南部では、終戦2ヶ月後には引き上げが始まり、人々が続々と内地に帰還していた。
01:06だが北部では、ソビエトが北緯38度線の境界を封鎖。
01:1425万を超える日本人は移動を禁じられ、粗末な建物に収容された。
01:23まもなく最初の冬を迎えた。
01:280か10度を超える寒さと栄養失調。
01:33感染症が蔓延し、数万人が命を落としていった。
01:38彼らはまさに、見捨てられた民、貴民だった。
01:48そんな中、昭和21年春、密かな計画が動き出した。
01:5338度線を超え、集団で朝鮮南部に脱出しようというのだ。
02:00計画を立案した男の名は、松村義塩という。
02:12松村は、ソビエト軍や朝鮮当局と交渉して、数万に上る日本人を脱出させ、
02:19その名は、引き上げの神様として知れ渡った。
02:29ところが、計画が動き始めて3ヶ月。
02:33ソビエト軍は、日本人の移動禁止を再度通告する。
02:37このまま次の冬を迎えれば、また多くの死者が出る。
02:46事態打開のため、松村が取った騎士改正の選択とは。
02:53松村という人は、一匹狼とかアウトサイダーなんですけれども、
02:58すごい計画性もあるし、それから交渉能力もすごいなと。
03:04義を見てせざるは言うなきなりと言いますね。
03:06義ってのは、人間としてなすべき道があるのに、
03:10それをひるんでやらないのは、勇ましくないんだ。
03:14歴史に埋もれていった引き上げの神様、その実像に迫る。
03:36皆さん、こんばんは。
03:57こんばんは。
03:57今回は昭和の選択と題しまして、これまであまり語られてこなかった、朝鮮半島北部からの引き上げを取り上げます。
04:06主人公は松村岸雄という人物です。
04:10日空さん、今、このテーマを扱うのはなぜでしょうか。
04:14今年は戦後80年、夏にさまざまな番組が、あの戦争を取り上げました。
04:20しかし忘れてならない視点がありますね。
04:23昭和20年8月15日で終わったわけではない、むしろそこが始まりで生き残りのために多くの人々が苦難の奮闘が始まるわけですね。
04:37日本の国外で特に終戦を迎えた人たちですね。満州の話は有名ですけれども、同じようにというか、引き上げが困難だったのが朝鮮北部ですね。
04:4980年前の今頃、上や寒さで連日多くの方が命を落としてしまいました。
04:56それまで権力の座にあった人々が無力になってなすすべがない中、松村岸雄さんがほとんど知られてない人物ですけれども、こうなったことを今回ぜひ取り上げたいと思っております。
05:12それでは松村岸雄について早速見ていくことにいたしましょう。
05:17朝鮮半島北東部のハムギョンド。
05:24戦前、日本企業の進出で重化学工業が発展。
05:2914万を超える日本人が住んでいた。
05:36日本都市フンナムには、日本窒素の巨大コンビナートが建設され、硫酸とアンモニアガスから化学肥料を合成する工場など、4万人の従業員が働いていた。
05:5113歳の時、父の仕事で朝鮮に渡った松村岸雄は、昭和7年、20歳で日本窒素フンナム工場で働き始めた。
06:08労働環境は過酷を極めた。
06:15ここでは硫酸でボロボロになった服を着て、七重八重に折りたたんだタオルで口や鼻を覆った日本人、朝鮮人労働者が、昭和3交代で働いていた。
06:34劣悪な環境の中、労働運動が燃え盛り、働き始めたばかりの松村も参加した。
06:46ところが、運動に身を投じてひと月。
06:52治安維持法違反の容疑で、400人以上が一斉検挙された。
07:03活動歴の浅井松村は、起訴猶予処分となり帰国。
07:09だがその後も、労働運動には関わり続けた。
07:18検挙から5年後、昭和12年の特別高等警察の記録には、
07:24松村が北九州八幡で複数の労働団体をまとめ上げることに腕を振るったことが記録されている。
07:32松村のノンフィクション、奪還を執筆したジャーナリストの城内康信さん。
07:42活動家としての松村の独特な考えに注目している。
07:49共産党への入党を勧められるんですけれども、彼はその行動、活動をなすにおいては、入党するのを要なさずといって、要するに、入党する必要、運動するにあたって必要はないと言っているんですね。
08:05その辺りから組織に左右されたりそれから強情主義に陥ったりするようなことがなくてただ目的達成のためにだけ行動するというプラグマティズム彼のプラグマティックな性格っていうのがうかがえますね。
08:27昭和16年12月、太平洋戦争が開戦。
08:37やがて松村も戦争に巻き込まれていく。
08:44この時期松村は再び朝鮮にわたり、ハムギョンドの中心都市、ハムンで妻娘と暮らしていた。
08:56敗色濃厚になった昭和20年、軍に招集され、満州との国境に近いラナムの部隊に配属された。
09:06そして迎えた8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソビエト軍は満州だけでなく朝鮮半島にも侵攻を開始した。
09:21松村の部隊はソビエト軍によって武装解除され、やがてシベリアの収容所に送られたが、移送される前、松村は決死の覚悟で脱出。
09:37家族が暮らすハムンに舞い戻った。
09:45ハムンは大混乱に陥っていた。
09:51戦場となったウンギ、チョンジンなど、国境近くの町から避難民が殺到したのである。
10:0217歳で終戦を迎えた神崎貞代さん。
10:07家族と共にチョンジンでソビエト海軍の艦砲射撃を受けた。
10:12ものすごいドカーンっていう音がして、何だろう、雷でもないしって言うてたわ。
10:23そしたら土が事務所から飛んできて、大変だ、もう逃げないかって言って。
10:29で、別に警報も何もなかったんですけれども。
10:33日頃からリュックとかそういう用意してますから、それを担いで。
10:38裏手がすぐ山ですから、山へ逃げて。
10:45一家はそのまま避難民となった。
10:50チョンジン近くで乗った汽車も途中で止まり、200キロ以上、昼夜を問わず道なき道を歩いた。
11:04過酷で不衛生な逃避行で、多くの人が命を落とした。
11:09道で、もう水なんて、そこで飲んだんです。
11:17私、せっきりになったんですよね。
11:19で、私は苦しくてね。
11:21もう、ほんとに苦しくあったけど、お薬はないし。
11:24もう、置いていってって、泣きながら言ったけど、何を言うてるかって。
11:31それで、少し元気になってたんで。
11:33父に世話ってもらって。
11:35本当はお腹にね、父も痩せてるかは、その骨がお腹に当たったら痛いんですよね。
11:44で、こんなに首に、あの、なんか、しがみつきながら歩いたりして。
11:51避難開始から2ヶ月。
11:58神崎さん一家はようやく波紋にたどり着き、収容所に入れられた。
12:06多重計があって、乗ってみたら、なんか、もう忘れてたけど、20何キロぐらいだったので。
12:13ええ、自分がこんなになってると思って、お母さんって言ったら、いや、お前、やっとここまで元気になったんだよって言って、言われて、ああ、これでやっと生きてきたんだっていうのを、記憶があるんですけど。
12:32一方、幸福を境に日本政府は自国民を保護する力を失っていた。
12:478月24日に内務省が出した通達がある。
12:53朝鮮を含む海外の居留民に、国として内地に引き上げさせる術がないと伝えている。
13:05できる限り現地において共存するよう、認可努力してほしい。
13:12人々の運命は、進駐してきた軍に委ねられた。
13:22朝鮮北部を軍政下に置いたソビエト軍は、北緯38度線を封鎖。
13:28アメリカ軍が進駐した南部への日本人の越境を禁じた。
13:33ハムンでは、北部から流れ込んだ避難民が狭い収容所に押し込められていった。
13:48やがて訪れた冬。
13:530か10度を超える厳しい寒さ。
13:58わずかな食料しか配給されず、多くが栄養失調となり、
14:03発信チフスなどの感染症が蔓延し、
14:07毎日、何十、何百という人々が死んでいった。
14:12当時10歳だった福島隆さん。
14:25父、姉とハムンで避難生活を送っていた。
14:34私はもう家の土間に腰掛けとったんですよ。
14:40何気なくですね。
14:42そしたら父が来てですね。
14:44高橋、お前が腰掛けてるのは人間の額だぞっていうもんですから。
14:49えっ、これしたいねって言って、もう飛び降りたんですね。
14:54よく見たら、もう、むしろの端から、あの、ズボンの端っこ、靴が見えてたんですね。
15:01ああ、人間が住まれてるんだなあって、もうそれがもう四つ五つ積み重ねてたんでしょ。
15:09もう最初はですね、気も悪かったですよ。
15:13わあ、死体がこんな所に置いてあるんだって。
15:16でも毎日、毎朝見ていますと、もう慣れっこになりましてですね。
15:23もう当たり前の景色になってるんですねですからもう友達と今日いくつあったねお前んとこいくつあったねって数えるようになったんですよ。
15:34こうした避難民の救済に動き出したのが松村だった。
15:43当時波紋にいた日本人が松村の言葉を聞いていた。
15:49せめて、同胞として少しでも皆さんのためになるように、影ながら骨を折っています。
16:04やがて松村は朝鮮語の能力を変われ、波紋に駐留するソビエト軍の下、朝鮮側と日本人避難民の調整役を務めていた。
16:19松村はその立場を利用し、ソビエト軍の将校に日本人の救助を訴えた。
16:30その結果、戦前の陸軍病院が日本人専用の感染症病院として解放され、400人の患者を収容、治療する体制が整えられた。
16:45さらに松村は、食料配給を管轄する朝鮮当局と交渉。
16:57一人当たり1日2合の米の配給を実現した。
17:0212月に入ると、松村は波紋日本人委員会を結成、避難民の待遇改善に積極的に取り組んでいく。
17:17だが、肝心の日本への帰国については、ソビエト側は何ら動きを見せない。
17:27松村が集団引き揚げに乗り出すまであと3か月松村の前半戦と終戦後の朝鮮北部の状況についてご覧いただきました。
17:46今回取材に応じてくださった神崎さん、福島さん、お二人ともつらい記憶を語ってくださいました。
17:53いや本当に言語に尽くしがたい状態だったと思いますね。
18:00あるいは国家が消滅するとき、個々の東西、よくあるんですけど、例えば軍、警察、行政機関というようなものが、個人を守れなくなる、あるいは守らなくなる。
18:12避難する人たちは金銭を奪われたり食料を取られちゃったりとかそういうような対象になっていくわけですそうするとじゃあ誰がこの人たちを助けるのか誰が捨てられてしまった日本人の保護を行うのかっていう恐ろしい問題が生じたわけです。
18:35加藤さんは引き揚げ師がご専門ですが終戦直後の朝鮮北部の状況をどういうふうにご覧になりますかえっと要するにこれこの問題はですね問題解決をする主体が存在しないということが問題でまず日本がですね戦争に負けて現地は朝鮮総督府という行政機関があったんですがこれが事実上機能を停止して問題を対処できるというまあその
19:05でもう一つはそれとここを侵攻してきたソ連なんですがまあソ連軍がですねなぜ朝鮮北部に侵入したかというとまあ要するに準軍事的な目的なんですねこれは要するに満州にある関東軍の退路を断つためまあですから軍事占領っていうした後に何をするかっていう具体的なプランというのは全く持ってなかったと。
19:29ですからまあそういった部分ではソ連軍もこういった状況に対してどういう対処をすればいいのかっていうのはそもそも準備ができていなかったということですね。
19:39その朝鮮半島にいた日本人そこでちゃんともう現地でいろというようなねそういう考え方何で起きたのかっていうことですけど背景考えますとね1910年に日韓併合をするとだから朝鮮半島には在外交換なんてないんですよね大使館とか総領事館はもちろんないだから総督府っていうのがまあ日本の内地と一緒の扱いでいろいろと政治をやっていたと。
20:05ですからいわゆる外務省的なことで在留法人の保護とかいう今の常識から考えますと全然違う背景があることはあったと思いますですね。
20:16それにしてもですよまあ現地でそこでおれよということでですね東京の政府の中で議論するなんてのはとんでもないことですけどねそれだけやはり1945年の8月15日で完全に日本政府自身が機能不全というか何をしていいのかも分かんないとそういう状況にあったんだなと思いますですね。
20:39加藤さんこの地域に軍政を敷いていたソビエトはこの避難民の保護に対策というのは取ってくれなかったのでしょうか。
20:46要するにですねソ連があの別に非人道的だったとかあの冷酷だったというだけの問題ではなくてこれソ連自体が第二次世界大戦で最も被害を受けたっていうのは実はソ連なんですね。まあそれでソ連自体が国土が荒廃していると。で労働力も不足しているし工業生産力も落ちているし食料も足りないと。まあそういったようなことからまず自分たちの国の復興が第一なんですね優先順位として。
21:14従いましてこの占領地で何をするかということまで余裕が回らないですねでむしろ占領地にある工業資産やらいろんなものをですねむしろソ連国内に運び出して自分たちで活用することがまあ優先順位なんですね人の命よりもものっていうか。
21:33こういったソビエトが動かない状況でですね山中さん日本政府ができることというのはないんですかねそうですねまさに機能不全の日本政府なんですけれどもねまあそうは言ってもそこに日本人がとどまっているからなんとかソ連党ということでまず利益代表国というのでスウェーデンというのがあるんですねこういう状況の時に
22:03ソ連の方はなら知ったことはないと向こうは無条件降伏なんだからということで全然相手にされなかったとそうなるともうそれ以上にやる手が何かあるかアメリカに頼むとアメリカからソ連に言ってくれって言ったって基本的には米ソでお互いに干渉しないでやりましょうねという状況があったもんですからね打つ手がないというのが政府としてのことだったんだと思いますですね。
22:29そのような出口の見えない状況の中で立ち上がったのが松村技師用でした加藤さんこの松村という人物はどういう印象でしょうか体制が崩壊するというようになるとですね全ての価値観も変わるし社会秩序がみんな根底から覆されるわけですねそうしますと人間の個々の力というのがかなり重要になってきますのでそういった点では松村がかかっていわゆる労働運動をやっていたというところがこう彼のスキルとして非常に重要になってきますので
22:59要は人々組織化するとか後に出てくるような救護体制を作り上げていくという能力ですね彼はもともとそういったところに長けていてこれがこういった動乱の中で生かされるという形になっていったんだと思います
23:29労働運動をやってますから違法なんですよ命令と法律に反対する行動を取ってきた人なんですそこに燃えるんですよやっぱり中にいますよね弱気を助けみたいなところで燃えるそれが労働運動でだってそもそも共産党のヌヌトを拒否してますから上に従うの嫌いなんですこの人多分はい私生き残りの労働運動の人たちって小さい頃少しだけ会ってますけどよく自慢げに話したのは俺は上には強いんじゃ下に強いんじゃ
23:59だからその辺に行動原則の違いがあるだからそこはよく歴史の中で僕は人を見たいと思ってるとこですね
24:11昭和21年1月朝鮮半島に駐留する米蘇両国間で行われた会合で朝鮮北部の日本人の総監が議題に上った
24:25だが両国は引き上げの方法をめぐって対立
24:32ソビエト側が港までの鉄道輸送の費用や避難民の食料の負担をアメリカ側に求めたことで交渉は決裂した
24:45その間にも日本人避難民は次々と死んでいった
24:55当時10歳だった福島さんの父親も発信チフスに侵された
25:05姉がお父さんの具合が悪いから100メートルぐらい離れたところの建物に日本人のお医者さんが売りって聞いたから呼んできてって言うもんですからね
25:249時頃私はもう外に出て行ったんですよ
25:26もう雪がもうこんなに積もってですね
25:29やっとやっと足を上げて雪をかき分けて100メートルぐらいだったですかね
25:36家に行きましたけどそんな人はいないってまた言われましたからですね
25:41またとぼとぼ帰ってきたんですよ
25:44雪の深いところ
25:46帰ってきたところがもう玄関上がったら姉が父の顔を拭いてるんですよ
25:53どうしたのって聞いたら父が亡くなったって言う
25:56松村が朝鮮で書き留めていた手記の写しが外交資料館に保管されている
26:19昭和21年2月松村は焦りを募らせていた
26:27日本人は生活基盤が迫弱で伝染病の猛威にさらされて悲惨の度を加えている
26:38いたずらにソ連軍や朝鮮側の方針に従っていることは許されない
26:45確固たる自主的計画の必要を痛感するに至った
27:00その直後松村はソビエト軍に同行し朝鮮南部に向かう機会を得た
27:06京城現在のソウルに到着した松村はここで京城日本人世話会の幹部
27:18古市進を訪ね避難民救済について話し合った
27:29結論は越境脱出策
27:32自力で38度線を南に越えアメリカ軍に収容してもらおうという方法だ
27:39ハムンに戻った松村は脱出計画をまとめ上げた
27:49その内容が手記に記されている
27:53遠古移住から始め出稼ぎや住宅対策を理由とする
28:05集団移住へ拡張する
28:08最小の危険とロークで乗り切るため
28:15鉄道でなるべく南まで輸送する
28:19まずハムンなど一部の都市に集中している
28:28日本人避難民を分散させるという名目で
28:32列車を使って南下
28:34そして列車を降りた後は
28:39徒歩で38度線を越えようという計画だった
28:43松村たちはまずソビエト軍と交渉
28:54日本人の移住を認めさせた
28:58さらに鉄道を管轄する朝鮮当局と交渉し
29:06金を払って貨物車に乗せてもらう段取りを整えた
29:10そして迎えた昭和21年3月15日
29:19松村たちの計画がついに動き出した
29:22ハムン日本人委員会がまとめた報告書によれば
29:361日30人で始まった鉄道輸送は
29:393月末までに1000人を数えるまでに拡大した
29:43これに触発され周りの都市でも脱出が始まる
29:5538度線付近はリュックサックを背負った日本人で
30:01洪水のようになった
30:02報告書には驚くべき事実も記されていた
30:10病院列車の運行である
30:15松村たちは重病人や当床で足を切断し歩けない患者など
30:25180名以上を乗せた特別列車を仕立て
30:29医師や付き添いとともに出発させた
30:32列車を降りた後はタンカや荷車、トラックなどで
30:4038度線を越えていった
30:42松村という一人のアウトサイダーが
30:50周到な計画と卓越した交渉力によって
30:54風穴を開けたのである
30:56いよいよ松村の集団脱出計画が動き出しました
31:07加藤さんこの3月という時期どうご覧になりますか
31:10実は朝鮮とかこういった地域というのは
31:13ちょうど春というのが一番怖い時期なんですね
31:16飢え死にしやすい時というのはなぜかといいますと
31:20秋までに収穫した作物をだいたい冬の間に食べるんですね
31:24そして春に種をまいて収穫すると
31:27その収穫が来るまでの数ヶ月という
31:31いわゆる春が一番食べ物が実はない時期なんですね
31:34ますます日本人にとっては状況が悪くなると
31:38そういった部分では彼松村がですね
31:42ここからはもう要はうむを言わせない形で
31:46動かしていかないと
31:48彼の突破力みたいなものがですね
31:50どうしても必要になってきたんだと思いますね
31:52見てて僕思うのがソ連側朝鮮側がのめる論理と言葉を使って巧みに交渉してますよね
32:02黙認の利用っていうやつですね例えば南側に日本人を脱出させてくれって言ったら駄目なんですよ国内移動させてくれって言うんですよ北の中の38度移動しますよねそういったらソ連官僚制すごいから自分の管轄の管区から出ちゃえばもう国内移動を許可したで済むわけですよねなるほどそれで入ったとこ行くと今度は日本人が勝手に鉄道を降りた後歩いて駆途に移動させてくれって言うと言うと
32:3238度線を超えちゃったとそうすると食料の配給の負担がソ連軍側朝鮮側は要するに減るわけですよそれで疫病密集しててうつされる危険も減るわけですよ松村っていう人はですね一匹狼とかねアウトサイダーなんですけれどもものすごくよく考えますよねすごい計画性もあるしそれから交渉能力もすごいなとそもそも
33:02経常に今のソウルにある日本人界のトップ古市さんに会いに行くんですよね古市さんという人は実は総督府のかなり上の人だったんですね知事クラスですかねだからそういう人が残っているとちゃんとそれに会いに行ってさあどうしようかとアメリカとの関係ではうまくいくよねという確認を取ったりあるいは期待に残っている人たちを返すためのお金をどう含めにしたらいいかと相談もしてるんですね
33:30なかなか手を打つことはきちんと打っているとだからあんな状況の中でですよ病院列車をとかね病人の人をですね担いで38度線を山の中を越えるわけですよねだから本当にいろんな意味ですごい人だなというふうに思いますですね
33:47要するにこれ全てがですね脱出から受け入れてそれを本国に送還していくというシステムが南の方では構築されていたというところがやはり大きいですね。
34:00これは日本人世話会と安倍軍というものがかなり緊密に協力していてキャンプに収容してからそこからDDTを振りかけたりしていろんな貿易をしてですねそれから今度は食料を与えてで釜山から船に乗せてというようなルートがこうなことに整っていたというのが松村の計画がこれほどまでにうまく進んだという背景にあったんじゃないかなと思います。
34:02日本人世話会と安倍軍というものがかなり緊密に協力していてキャンプに収容してからそこからDDTを振りかけたりしていろんな貿易をしてですねそれから今度は食料を与えてで釜山から船に乗せてというようなルートがこうなことに整っていたというのが松村の計画がこれほどまでにうまく進んだという背景にあったんじゃないかなと思いますね。
34:30ここまで残って集団脱出させようってその駆り立てたものってもう生まれつきの僕は儀教心じゃないかと思いますね孫徳環状で行動するのすごいバカにするタイプの人って一定数いるんですよわざと危険なことをやって弱いもん助けたで燃え上がる人いるんですよ義を見てせざるは言うなきなりって言いますね義ってのは人間としてなすべき道があるのにそれをひるんでやらないのは勇ましくないんだよ
35:00本当言うと本人は危なくていつ病気にかかって死ぬか分からないという状況なんだけれども彼にはもう自己実現のバーが提供されたんだと思いますね。
35:10脱出開始から3か月計画は大きな岐路に立たされますそして松村に洗濯の時が訪れます軌道に乗り始めた集団脱出それでも道中には多くの困難が伴った
35:40目に合いながらねそしたらそのうちに日本のね 日本人の売信婦だったと思うんですねその人が乗り込んだんですね誰がつけたのかあだ名がモスコーっていうあだ名になって帰る道でね
35:5838度線の国境までの来る道で何遍かお金も取られ物も取られいろいろしたからそしてしまいにはそのモスコーと言われた人が自分が支えたお金を自分の体で支えたお金を出してくれてみんなのために
36:2238度線の川を渡った向こう側に着いた時の夜ね団長が泣きましたよ我々はねあの人に助けてもらってここまで来たんだと一生彼の彼女のことをね忘れてはいけないっていう
36:42脱出開始から3ヶ月 ハムンをはじめとしたハムギョンド南部からの脱出者は33,800人を数えた
36:57ところが
37:026月に入り予期せぬ横槍が入った
37:07ソビエト軍が
37:12日本人の移動を全面禁止すると通達を出したのである
37:18背景には朝鮮南部を軍政下に置くアメリカ軍からの要請があった
37:28当時朝鮮南部では感染症のコレラが大流行していた
37:37北からの難民流入による感染悪化を恐れ38度線の封鎖をソビエト側に要求したのだ
37:46突然の移動禁止令
37:54脱出を主導する松村に選択が迫られた
37:59その心の内に分け入ってみよう
38:03すでに多くが脱出したとはいえ
38:11朝鮮北部にはまだ数万の日本人が残っている
38:17何としても次の冬が来る前に脱出させなければ
38:26そうだ
38:28朝鮮の中央機関に交渉するのはどうだろうか
38:322月にはソビエトの信頼厚いキム・イルソンが
38:37北朝鮮臨時人民委員会の委員長になったばかり
38:43彼と交渉することで道が開けるかもしれない
38:54日本人が残留することによる食料事情の悪化や
38:58感染症の蔓延といったマイナス面を訴えれば
39:01朝鮮側も日本人脱出に理解を示してくれるはずだ
39:12ソビエトの後押しを受けたキム・イルソンと結べば
39:16平壌を経由したより安全な脱出ルートも
39:20開拓できるかもしれない
39:27しかしちょっと待て
39:31平壌との交渉はどれくらい時間がかかるか分からない
39:37ここは一刻も早い脱出再開が第一だ
39:42ならば回路から脱出を図るのはどうだろうか
39:51地元の漁船を雇って海上に出てしまえば
39:55監視の目を飼いくぐり
39:5738度線を超えることは十分可能なはずだ
40:02だがこのルートにも問題はあった
40:09当時朝鮮で使われていた漁船は
40:13エンジンを装備していない旧式の反戦で
40:16風任せに進むしかなかった
40:24今までも海上脱出を試みたものの
40:28途中で漁師たちが避難民を襲い
40:32略奪に及んだという話も聞いている
40:35それに漁師たちが心変わりして
40:4438度線を超える前に
40:46降ろされてしまうかもしれない
40:49計画を強行して
40:55人々を危険にさらすことがあってはならない
40:59やはり
41:02中央政府の補償を得てから動いた方が
41:06よいのではないか
41:08果たして松村の選択は?
41:16権力を握りつつあるキム・イルソンと直談判して安全な脱出ルートを確保するのかそれともリスクのある回路から脱出を続けるのか皆さんが松村の立場だったらどちらを選びますかまずは矢部中さんいかがでしょうか難しいですねあのまあ僕も役人を長くやってたり
41:46一応外交官だったんですけどね外交交渉的にとかいろいろ考えますとねキム・イルソンといるよなとああれと交渉してやるのは一つの方法かなとただねよくよく考えてみると時間の問題あるよねともうこの冬は過ごせないと日々亡くなっていく方がいっぱいいるとしかももう一段よく考えてみるとキム・イルソンの立場がどこまで強いのかよく分からないとまだまだですねだからそういう中でいうと時間もかかるし
42:15もうこの際はやっぱり時間の勝負だと船で行こうと個人的にはもうこの際船で突破するしかないという感じに松村はなったと思うんですよね僕僕もそれに近い選択をしたいなと思いますですね
42:352番加藤さんはもし自分が松村の立場にいたらどちらを選択されますかうんまあこれなかなか難しいところなんですがね実はもう1番でも2番でもなくてこうもう第3の道を選びたいというところですかねはい第3の道要するにあのこのまま陸路を突破するというやり方ですね要するにまず1番なんですがやっぱりソ連軍が占領してるっていうのが
43:05最終決定権でやはりソ連軍なんですねですからどうしてもキム・イルソンに許可を得たからといってそれが実現できる可能性っていうのはちょっとはなはだ怪しいとでもう一つはあとカイロの場合はやはりかなりリスクがありますあの実際にですね本当に38朝鮮を超えて南までですね船で運んでくれるかっていう部分もあるしそもそも船がどこまでチャーターできるかと
43:35やはりこの段階でかなり減っているんですねだからあと残りの日本人はどうするかっていうふうに考えるならば割と計画的に陸路で国境を越すことが可能なんではないかとやっぱりそういった部分ではですねもう少し陸路を選択していく方がいいんではないかなと僕は思いました
43:57いろんな約束僕外交の約束からないから思うんですけど結んだ約束が鉄の鎖で結ばれてるかそれかそのティッシュを結んだ約束かはよく見るんですよティッシュで結んだ約束は一回結んだように見えてもちぎれるとあとがやっぱり被害が怖いのでかといってじゃあ粗末なオンボロ木造船のリスクっていうのがあるわけですよ
44:26だから約束の硬さを信じるか木造船の船底を信じるかってことになるんですけどとはいいながらやっぱり僕は木造船の方に駆けるというふうですね陸路もちろん先生のおっしゃる通りなんだけどやっぱ子供もいる中歩くとそれで死ぬ人も出るんで
44:47福音は乗って越えられたらとっても体力使わなくて済むっていうのがあるから弱り切ってるので長期に滞在してもうかけるリスクを取るというふうにしたいと思います。
44:59松村の手記東北線の脱出工作昭和21年8月13日彼の選択が記されていた。
45:18ハムン市当局に再工作。駐在ソビエト軍将校にも働きかけ救助を訴える。
45:27その方法として回路脱出の準備を進む。
45:34松村が選んだのは海からの脱出に活路を見出すことだった。
45:429月、松村はハムンの朝鮮当局やソビエト軍と幾度も折衝を繰り返した。
45:49このまま冬を迎えれば、発疹チフスなどの伝染病が再び蔓延する。
45:56その時、日本人の命を保証できるのか。
46:01このまま冬を迎えれば、発疹チフスなどの伝染病が再び蔓延する。
46:07その時、日本人の命を保証できるのか。
46:12松村の首相の前に、ソビエト側もついに折れた。
46:19日本人の現状はよく分かった。
46:24ソ連側としては、汽車も船も提供できないが、
46:30適当な方法があるなら、日本人委員会でやったらよかろう。
46:35それなら別に、差し止めもしなければ、咎めもしない。
46:41脱出作戦は再び動き出した。
46:50ソビエト軍の駐屯していない港から、
46:5638度線の南、チュムンジンまで一気に船で南下するという計画だった。
47:029月18日深夜。
47:11ハムンに最後まで残っていた、およそ2000人を乗せた15隻の船団が出航した。
47:21記録によれば、死刑や逆風に翻弄され、航海は困難を極めたという。
47:36船に準備された飲料水はなくなり、炊飯の薪も欠乏し、
47:432日2晩は飲まず食わずという決死的な奮闘で、
47:48やっと38度線を超え、チュムンジンにたどり着いたのは早くて1週間。
47:55遅いので14日という文字通り苦難の連続であった。
48:05こうして全15隻がチュムンジンに到着。
48:10アメリカ軍の手で保護された。
48:15ハムン日本人委員会は、戦団到着の日をもって解散した。
48:22だがその中に松村の姿はなかった。
48:29ハムギョンド各地の日本人会から、帰国を助けて欲しいとの要請を受け、北に留まったのだ。
48:44松村は、中国との国境に近いソンジン、フェリョン、ウンギなどに赴き、脱出工作の指導を続けた。
48:59白内さんには、避難民から聞かされた印象的なシーンがあるという。
49:06松村が、船による脱出計画を説明しに来た時に、目の当たりにされた方がいらっしゃって。
49:16当時、彼は小学校6年生だったらしいんですが、隣にいたおばあさんが、松村に対して手を合わせて拝んでいた。
49:29涙を流しながら拝んでいた。
49:32だから当時、彼が集団で脱出を相次ぎさせているという情報というのは、北朝鮮各地にかなり広がっていて、
49:44だからこそ、北朝鮮でその当時、引き上げの神様というふうに称賛されるようになったんですね。
49:54終戦後、朝鮮北部に取り残された日本人のうち、松村が脱出に関わったのは6万人に上る。
50:09昭和21年12月、国際社会からの避難もあり、ソビエトによる公式な引き上げが始まった。
50:19帰国した日本人はおよそ8000。
50:23すでに大半が脱出した後だった。
50:26松村も公式引き上げ戦の第一便で帰国した。
50:38しかし、その後の人生は輝かしい称賛とは無縁だった。
50:45これは、朝鮮半島から帰国した人物が、昭和22年に衆議院議長に行った誓願である。
51:00脱出を指導した人々は、必要な資金を現地に住む日本人から苦免していたが、帰国後、その返済を迫られていた。
51:15総額は7479万円。今の金額でおよそ250億円に上る。
51:26報告書は訴える。
51:29この仕事は本来政府機関の仕事であり、従ってその費用は、当然政府の負担すべきものであります。
51:43しかし、各界の責任者は、帰還後借入先から、あたかも資金を採取したかのごとく罵られ、返還を迫られ苦境に立っております。
52:02松村も日本人の債権者から返済を迫られていたうちの一人だった。
52:12帰国後、宮崎県延岡に開業した公務店も、人手に渡さざるを得なかったという。
52:25昭和42年3月31日、松村は大阪で死去した。
52:32去年55、家族を捨て、流れ着いた地での最後だった。
52:42松村の選択はカイロで脱出を続けるでした。
53:22そうするともちろん最後の最後までやらなきゃいけないと、日本人の一人一人まできちんと助けなきゃいけないというのと、同時に自分に危険が迫ってくるときにどうするんだというのがあるわけですよね。
54:37社会も含めてたんですけどやっぱりそういう思いが至らなかったやっぱりこういった何か自己犠牲で終わっちゃって誰も検証されないで国からも何も保証されないというもので終わってしまってこれが戦後80年というここまで来ちゃってるっていうのがこの戦後日本の姿だと思うんですね。
54:56やっぱりそういった部分ではこの松村という存在はまあある種我々にとっては非常に反面教師というかですね非常にこう大きな教訓があると思います。
55:06これ松村さんの行為に対して国が言いがちなのが自己責任論と受任論ですよね。勝手に外地に行って勝手に助けた。だから国は関係ないっていうもう何ら作業が生じないわけですね。
55:26だけどそれちょっと変ですよね国家がなくなった状態で国民保護の責任は依然として国に消滅してないわけだから国家代替行為ですよね国家が代替行為保証法でも作って何らかすべきだったかもしれないですよね。
55:44一方手厚かったのは軍人の恩急ですねしかもこれ上の方が高いわけでしょ軍人の恩急ってだから戦争責任が高い戦争を始めた行為に対して責任度が高い方がたくさん国家から保証がもらえて空襲で家を焼かれた人とか僕の祖父や祖父母たちもそうでしょうけど彼ら我慢しなって言われるわけですよ。
56:08そうですよね理不尽ですよねでお金を借りてっていうのは脱出のためにお金が必要だったと貸した人っていうのも現地にいた人ですよねだからたぶん助けてもらったわけでしょきっとそれが日本へ帰ってきたらですねさ取り立てするっていうわけでしょお金をああそれ極めて理不尽どんな思いでですね松村はいたのかなとただまあそうは言っても自分はもう自分でやるといけないといけないといけない。
56:37自分でやるべきことを俺がこうやろうと思ったんだと言ってやったんだからしかたがないというふうにですね割り切ったんでしょうけれども彼のおかげで本当にみんな助かったんだよねとやっぱりどうもあれ今彼困ってるみたいだからね助けなきゃっていうのはもっと運動例えばマスコミも本当は書かなきゃいけなかったとかねいろんなことでもっとなんでできなかったのかなと思いますけどただ松村って人はそういうのを自分では言わないと。
57:05そこにまあ彼の美学っていうか生き様もありますけどもね。
57:42僕もだけどあのアンパンマンを思うんですよアンパンマンって顔自分の顔を食べさせるじゃないですか自分が傷つかないと人ってやっぱり助けられないんだとあの世代を生きた柳瀬隆さんのあのもう心の底からの真実の叫びだったと思うんですよでも自分の顔なくなるんだけどでも助けんだと。
58:12自分の犠牲を払ってじゃないとあのうまくいかないっていうこの歴史ですね。
58:19今日VTRで出てよく語ってくださったと思います涙ながらに語ってくださった人たちのあの顔の中に僕は国だとか人を助けるとかいろんな運動だとかそういうことの真実があるように思うのでそれはそちらは松村がどういう人間であるかということは視聴者の方が見ながら皆さんきょうありがとうございました。
58:46スポーツヒューマンブラックフットボール近江ゆりかただ一途に世界へ一緒に一度のチャンスかもしれないそこに全部裾を着くしかない
59:09スポージから!
59:14自転車の街宇都宮宇都宮に根付く自転車文化に迫る!
59:23今日深夜0時。
59:28秘密の司法さん重要文化財空や承認流像その謎が3DCGから明らかに。
59:37NHKBS9日夜7時。
59:44もう一度日本を見つける。
59:48私を見つける。
59:52新日本ふどき。
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