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00:00鉄道伝説
00:03それは鉄路に命を懸けた男たちの伝説
00:08時代を作った列車たちの伝説
00:12今回は本州と四国をつなぐ世界一長い鉄道道路平洋橋建設の物語
00:30昭和30年5月11日の早朝
00:36本州と四国を結ぶ右航連絡船四雲丸が
00:41瀬戸内海の農務が立ち込める高松市沖合で
00:45貨車18両を運ぶ第三右航丸と衝突した
00:50第三右航丸の船首が四雲丸の右船に深く食い込み
00:59船体に大穴が開く
01:02その衝撃で四雲丸は激しく左に傾いた
01:10781人の乗客を乗せた四雲丸は
01:14貨車15両と郵便車など4両とともに
01:18衝突からわずか5分ほどで完全に沈没する
01:24海に投げ出された人々 船内には多くの乗客が取り残され
01:29修学旅行中の小中学生100人を含む
01:33合計168人の命が失われた
01:39この事故は海の危険性をこれでもかとばかりに突きつけた
01:45そして人々の命を預かる連絡船の安全性は
01:50根底から問い直されることになる
01:54誰もが連絡橋の建設を強く望んだのだ
01:59それから33年後に世界一長い鉄道道路併用橋
02:05瀬戸大橋が完成した
02:09世紀の偉業を成し遂げた長い戦いの裏には
02:13個人の利益や保身を超え困難な状況下でも
02:17未来を見据え信念を貫いた人々の
02:21知られざる物語がある
02:24来年のおせちはお決まりですか?
02:38あなたにこちら!
02:40ベルーナで13年連続売り上げナンバーワン
02:44超ロングセラーの三段重おせちユイをなんと
02:48税込1万800円
02:51えっ!信じられない!
02:54こんなスルーがあってですか?
02:56累計販売110万台突破!
02:59ベルーナのおせちでリピート率ナンバーワン
03:02それが贅沢おせちユイ
03:06この完成度に一流ホテルの元和食料理長も
03:10太鼓版!
03:12色合い、詰め方、この空間の通り方
03:15非常に素晴らしいと思いますね
03:17この鮭も柔らかくて生姜の香りがちゃんと残ってると
03:21本当に素晴らしいと思いますね
03:242、3人前三段重に黒豆、カズノコやエビの馬になど
03:29大人気定番こんだてに今年からエゾアワビも
03:33ホタテマツマエ、アキジャケ、ブリテリヤキ、強風ナマスとイクラなど
03:39豪華な食材にもこだわった全46種類
03:43いろんなものが入ってるんで楽しみですよね
03:49ぜひ今年もお願いしたいなと思っております
03:52気になるお値段は三段重で税込1万1900円のところ
03:59長期割引キャンペーン!
04:01なんと1100円引きの税込1万800円!
04:051万800円でお届けします!
04:08しかも送料はベルーナ負担!
04:11ご購入いただいたすべての方にそばセットをプレゼント!
04:17お届けは12月29日およそ12時間回答するだけ
04:23お申し込みは0120-330-337、0120-330-337まで!
04:35イクエとユミが北海道からうまいものをお取り寄せ
04:39イカの街函館で加工したイカの開き干し
04:43驚きのボリューム驚きのお値段でご紹介です
04:51このイカが大好きなんですよ
04:53みんなでおすすめ!
04:54でしょ!
04:56ほらほらほら!
05:00熱い!
05:02厚みが!
05:04What is this?
05:34Oh, it's delicious!
05:36It's delicious!
05:38It's delicious!
05:40Now, one more!
05:42Now, one more!
05:44Oh, it's really good!
05:46The price is 5,480 yen!
05:505,480 yen!
05:52It's expensive!
05:54函館の加工業者とうまいもの市が直接取引することによって、このお値段が実現したんですよ。実はもう一盛、徳盛1.5kgで5,480円です。
06:061.5kgって言いました?
06:08これで5,480円!
06:10いやいやいやいや!
06:12買い得!
06:13本当に!
06:14函館作りのイカひらきボス、500g3袋、徳盛1.5kgで5,480円。
06:22お申し込みは0120-588-499、0120-588-499番です。
06:31おいしいイカが、とくもりで届きますよ!
06:35明治22年5月23日、香川県を走る佐抜鉄道の開通祝賀会の席において、県議会議員の大久保神野城が、祝辞の中で瀬戸内海に橋を架ける構想を述べた。
07:03四枠諸島を橋の土台とし、山陽鉄道に橋を架けてつなげることができれば、
07:12いつも風や波の心配をすることなく、瞬く間に移動でき、これ以上大きな国の利益、人々の幸せはありません。
07:24列席者を驚かせたこの発言は、本州と四国を橋で結ぶことで、人や物資の流れが安定する、瀬戸大橋構想を説いたものであった。
07:37そしてこの大久保の構想は、およそ100年の時を経て実現した。
07:43明治36年3月、神戸下関関が開通して間もない、山陽鉄道3家の山陽基線商社によって、
07:55多土津港と尾道港、岡山港と高松港を結ぶ航路が開設。
08:02それぞれ小島丸、多摩も丸が就航した。
08:06明治39年3月、鉄道国有法が成立し、2つの航路は国有化。
08:15明治43年6月には、これまでと変わり、宇野・高松間を結ぶ、
08:21右航連絡船が誕生する。
08:26大正になって、庶民の旅行が盛んになり、乗客の数が増えるとともに、
08:32荷物を運ぶ貨車の需要も高まってきた。
08:36そこで、昭和5年4月、第一宇高丸による直接的な貨車構想が正式に開始された。
08:47そして、昭和22年7月、終戦後の輸送対策の検討が行われ、
08:541500トン級大型客船、四運丸が就航する。
08:58さらに、昭和25年10月、旅客輸送需要の急増に対応するため、
09:08乗客を乗せた客船を、そのまま右航連絡船に積み込んで構想する、
09:13画期的なサービスが開始される。
09:15このサービスを考案したのは、国鉄の四国鉄道管理局長であった、篠原武史である。
09:27篠原は晩年の取材において、当時の夢を語った。
09:31僕は航空機と鉄道、鉄道と船、鉄道と自動車とは結びつけるものと最初から思っている。
09:45鉄道だけでいい交通システムができると考えるのは間違いだ。
09:52篠原は交通システム全体を見据えた考えを持っていた。
09:57そして、本州と四国の交通がどうあるべきかについても、先見的な考えを示していた。
10:08本州と四国を結ぶ線が、船では四国の孤島化が避けられないと感じ、
10:15ことあるごとに本州と四国の間に橋を架けるべきことを提唱してきた。
10:20海難事故のリスクや輸送能力の限界を深く認識していた篠原のビジョンは、
10:30在任中には実現できず、本社勤務となる。
10:33そして、昭和30年5月11日、
10:41右航連絡船シウンマルが沈没事故を起こし、
10:45168人の命が奪われる大惨事が起きてしまう。
10:50海上輸送の危険性を浮き彫りにしたシウンマルの沈没事故。
11:03地元の香川県議会は、政府に対して過強の早期実現を強く求めた。
11:10やがて、この国民的な強い願いは、
11:15本州と四国を結ぶ橋梁建設を求める誘致合戦へと発展する。
11:24昭和34年8月31日、
11:28瀬戸大橋仮設推進香川県協議会の発足式が行われた。
11:32香川県からルート調査の依頼を受けていた、
11:39東京大学工学部の平井敦史教授が、
11:42この席に急遽駆けつけた。
11:48すり橋に鉄道を通すことは、
11:50これまで危険で無理とされてきました。
11:54しかし、私の研究室で、
11:56理論的・実験的に可能であることが解明できたのです。
12:02思いもよらぬ平井の言葉に、
12:05関係者一同は胸を躍らせた。
12:08これまで長らく、
12:09鉄道平洋教の実現に夢をかけてきた人々に、
12:13大きな勇気を与えたのだ。
12:18東大での平洋教の実験は、
12:20平井教授の指示で、
12:22伊藤学部助教授が中心になって行われた。
12:28伊藤らは、
12:29全長20メートルの吊り橋模型を作り、
12:32風洞実験と合わせて、
12:35列車による振動の影響を調べた。
12:40その結果、
12:41最も重い列車を想定しても、
12:44速度を時速160キロ以内に抑えれば、
12:47吊り橋に有害な振動を与えないことが分かった。
12:54昭和39年3月、
12:56国鉄再建築として、
12:59新線建設を行う部門が分かれ、
13:01日本鉄道建設工団が設立された。
13:07この工団の副総裁には、
13:10国鉄時代から、
13:11本州四国連絡橋を提唱してきた、
13:14篠原武氏が就任し、
13:16直ちに工団主催の、
13:19本州四国連絡鉄道、
13:21吊り橋技術調査委員会が設置される。
13:26瀬戸大橋の建設において、
13:29篠原と同様に重要な役割を果たしたのは、
13:32国鉄から鉄拳工団に移籍した、
13:35杉田秀夫である。
13:38杉田は、
13:38国鉄時代から、
13:40吊り橋に鉄道を走らせる調査を担当していた。
13:43昭和41年3月、
13:49杉田は、
13:50調査委員会の報告書をまとめる、
13:53詰めの作業に入る。
13:56最終段階は、
13:57伊藤助教授と杉田らが、
14:00ホテルに数日間泊り込み、
14:02共同でまとめの作業に当たった。
14:04スパン600から1500メートルの鉄道道路併用吊り橋は、
14:13鉄道を乗せることによって、
14:15設計上困難を生ずることなく、
14:18吊り橋上の鉄道車両の走行にも支障はない。
14:23これが調査委員会の最終結論となる。
14:30当時、本市河橋の構想は3つあった。
14:341つは、
14:35赤石海峡大橋などの道路橋を建設し、
14:39神戸と鳴門を結ぶ案で、
14:41建設省が推進した。
14:44もう1つは、
14:45瀬戸大橋など、
14:46右航連絡線に代わる鉄道橋を建設して、
14:50小島半島と香川県北部を結ぶ案で、
14:54運輸省と国鉄が推進した。
14:58そして3番目は、
14:59尾道と今治の間を島津隊に渡す案である。
15:04昭和42年5月、
15:09土木学会会長となった篠原は、
15:12公園で全国新幹線網建設の夢とともに、
15:16本市河橋問題について語った。
15:22本市河橋計画は、
15:24地元ごとの誘致合戦が非常に厳しかった。
15:27それは無理ないことなのだが、
15:31それに決着をつけて、
15:32早く先の全国的計画の推進に進みたい。
15:39本市河橋をめぐる各地元の争いは、
15:42非常に先鋭化しており、
15:44どこかの一本に絞るとなると、
15:46当時の与党の分裂につながる状態であったという。
15:50昭和45年1月、
15:56当時の自民党幹事長田中角栄のリードにより、
16:00本州四国連絡橋公団を作ることと、
16:04本市河橋3ルートの同時着手方針が発表された。
16:08そして篠原は3月、
16:122代目の鉄拳工団総裁に就任している。
16:19まるで国鉄時代の列車に乗っているような、
16:23そんな気分に浸れるグッズが登場。
16:27日本シールでは、
16:29様々なモケット商品を扱っていますが、
16:32一番人気は、
16:33ゼロ系新幹線をはじめ、
16:36様々な車両に採用されてきた。
16:38国鉄ブルー。
16:41その懐かしの手触りを楽しめる商品。
16:45実際の車両と同じモケットを日本で加工。
16:51座席クッション。
16:53財布、パスケース、
16:55ルームシューズなどをご用意いたしました。
17:01大量生産ができないという貴重な一品に、
17:05創業100年の誇りと、
17:07これまでに培った技術が詰め込まれています。
17:13詳しくは、BS富士ショッピングで検索。
17:17国鉄時代の鉄道の音に特化した商品のご紹介。
17:25今よみがえる国鉄、音の旅。
17:28昭和40年代、コロンビアの録音技術者が全国の駅アナウンスや車内アナウンスをライブ録音したCDボックス。
17:402作品で収録時間は合計7時間以上。
17:46当時の駅舎や列車の写真、解説を100ページにまとめた豪華解説書付き。
17:592枚セットで通常税込1万4668円のところ税込1万1900円。
18:09ご注文は、0120-102-403、またはBS富士ショッピングで検索。
18:27昭和45年7月1日、本州四国連絡橋工団が設立された。
18:33国鉄時代から鉄道平洋橋に尽力してきた杉田秀夫は、本市工団に移籍する。
18:44杉田は、最大の南工事とされた南北美山瀬戸大橋の株構造の設計・施工を託され、
18:52堺出工事事務所の初代所長という駐石を担うことになる。
18:57長大な橋梁を支えるのは、海底下に築かれた基礎である。
19:06この基礎を構築するのに用いられるのが、
19:09ケーソンといわれる巨大な箱状の構造物だ。
19:15従来のケーソン工法は、現場で掘削しながらケーソンを沈めていくが、
19:20瀬戸内海は水深が深く、潮流も早いため、作業には過酷な環境であった。
19:29この課題を解決するために、杉田が提唱したのが、設置ケーソン工法である。
19:37陸上にある造船所のドックで、巨大なケーソンを建造し、
19:42それを完成させてから現場に運ぶという、これまでにないアプローチが取られるのだ。
19:48しかし、これには大きな問題があった。
19:52巨大なケーソンを据え付けるためには、海底の堆積物を取り除き、
19:58強固な岩盤層を露出させ、ケーソンを密着させる必要があった。
20:04従来の海底掘削方法では、この厚い岩盤層には歯が立たず、
20:10杉田は水中葉っぱ工法しかないと主張した。
20:14しかし、本社からの大反対に直面する。
20:19欧米では一般的だったこの工法も、日本では漁業への影響を考え、タブー視されていたからだ。
20:28爆薬を穴の中に装填するので、水中に出る衝撃は極めて限定的だ。
20:35杉田は本社を粘り強く説得した。
20:38昭和48年11月、オイルショックが経済に深刻な打撃を与え、
20:47気候式のわずか5日前に本市河橋建設工事が凍結された。
20:54そこで杉田は、この工事遅延の間に新たな問題に取り組む。
20:59海底での作業では、水の中で起きていることを把握するのは困難である。
21:10しかし、この現場は橋の土台となる岩盤が水深50メートルという深い場所にあり、
21:18従来のスキューバ潜水では窒素酔や酸素中毒を起こす危険があり、
21:24長時間の作業ができない問題があった。
21:26杉田は、新たな方法を模索し続けた。
21:34そんなある日、海洋科学技術センターが、
21:38ヘリウム酸素混合ガス潜水の実験に成功した。
21:43杉田は早速、センターに協力を申し入れ、
21:47水深50メートル、潜水2時間という条件を満たす潜水システムの研究を依頼した。
21:56杉田と職員らは研修に参加。
22:00自ら潜水士の免許を取得し、
22:02日本の海洋土木工事では初の試みである深海への挑戦を決意する。
22:09昭和51年1月、工事凍結解除の方針が示される中、
22:18杉田は漁業関係者の不安を払拭するために、
22:22実際の現場となる地点で、水中葉っぱの試験工事を実施した。
22:26数百人の漁民が見守る中、
22:32イケスに入れた魚への影響を調査した結果、
22:36爆原から200メートル以上離れた魚には影響がなく、
22:41被害は50メートル以内に集中していることが実証された。
22:46漁民の理解を得ることに成功したのだ。
22:49そして、昭和53年10月10日、工事凍結からおよそ5年、
23:05瀬戸大橋の起工式が行われた。
23:09南北美山瀬戸大橋の株構造工事は、
23:12世界にも類を見ない大推進化の難工事である。
23:16杉田は、最も重要となる水深50メートルの橋台7A基礎の建設に先立ち、
23:26水深32メートルの橋脚5P基礎を実験的工事として専攻させた。
23:35水中葉っぱ作業は、世界に先駆けて実用化された無線起爆が採用された。
23:42葉っぱ後、海底の岩盤を掘削するのは、大型グラブバケットを持つ掘削船である。
23:52杉田の狙いは、岩盤にグラブの爪が引っかかる程度の亀裂を生じさせ、
23:58掘削と葉っぱのわずか2工程で完了させる、常識を破るダイナミックな工法であった。
24:06そして杉田と担当者らは、葉っぱ後の不発弾や亀裂の入り具合を確認するため、潜水を繰り返した。
24:17昭和55年9月、海底掘削を終えたゴーピー基礎の底面も、
24:27軽損を正確に着底させるため、凹凸の誤差を10センチ以内に収めるよう、平坦に仕上げる工程に入る。
24:35この仕上げ作業が完了すると、杉田は再び潜水を繰り返し、仕上がりの具合を肉眼で丹念に確認した。
24:52昭和55年10月、ゴーピー基礎の軽損設置が開始される。
24:57設置軽損工法は、軽損内部を二重構造にすることで、浮力を生み出し、海に浮かべて、現地まで引き船で引いて航行する。
25:12現場に到着した軽損は、ワイヤーロープを使って正確に位置を調整する。
25:19そしてクレーン船の助けを借りながら、海底へと沈める。
25:23高さ37メートル、重さ5000トンの鋼鉄製軽損を、海底の岩盤上に数センチの誤差もなく沈設する。
25:39沈設後、トラブルが発生した。
25:43モルタル漏洩防止用のシールゴムが破損したのだ。
25:47しかし、杉田の補強策で対応が可能となり、実験的工事は成功した。
25:56ゴーピー基礎の軽損工事が一段落した頃、杉田に第二建設局長から、本社転勤の話が伝えられた。
26:05本社ではボツボツ引き上げたいと言っている。
26:13現場の所長もいいが、君にはもっと総括的な仕事があるだろう。
26:18どうだ、本社に帰る気はないか。
26:22通常、所長も職員も2、3年で転勤していく。
26:26長期間同じポストに居座り続けることは、許されることではなかった。
26:35海中の基礎工事が終わるまでは、境出にいさせてください。
26:41特に、京大7A基礎の軽損を据え付けるまでは、何とかお願いしたいのです。
26:47わがままを言うようですが。
26:49大きな仕事を確実に仕上げるには、じっくりと腰を落ち着けなければならない。
26:58転勤となれば、地位も給料も上がるのだが、杉田はそれに就寝することはなかった。
27:07昭和57年3月、南北美山瀬戸大橋の最大の山場、7A基礎の京村陳設が始まった。
27:16水深50メートルの海底に、巨大な基礎が据え付けられる、まさに正規の挑戦であった。
27:27精密な陳設作業は、大型クレーン船の熟練した技と、
27:33杉田が構築した最新のシステムによって、数センチの誤差に収めるという、
27:39驚異的な精度で成し遂げられた。
27:41海底着底後、シールゴムの一部が破れるという、想定外の事故が起きるが、
27:51杉田が備えた補強策によって、事なきを得た。
27:57着任から12年、自ら300回を超える潜水を行い、
28:01ついに不可能とされた難工事を執念で乗り越えた、杉田の努力が報われた瞬間であった。
28:09昭和57年3月末、杉田は7A基礎の懐中工事完了を見届け、
28:16境での現場を去った。
28:18人生、何をすべきかは分からなかったが、
28:23いかになすべきかだけを考えていればよかった。
28:29杉田の関心は、常にいかに物を作っていくかという、
28:34技術者としての純粋な探求心にあったのである。
28:37鉄道道路平洋橋、瀬戸大橋は、
28:45昭和63年4月10日に開通する。
28:50一方、宇野港と高松港を結んでいたJR宇甲航路は、
28:55その3年後に廃止となった。
28:57明治時代から、およそ100年にもわたって、
29:06海を渡る夢を抱き続けた人々の熱い情熱は、
29:11この瀬戸大橋に深く刻まれ、
29:14今も道路とともに唯一の鉄路として、
29:17本州と四国を結び続けている。
29:20鉄道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道道
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