著者:町田由美
朝の光がアスファルトの長い影を溶かしていく。並んで歩く駅までの道、マヤはいつもより少しだけ歩幅を広げ、冷え切った両手をトレンチコートのポケットに深く突っ込んでいた。
「昔さ、父さんのガレージの匂いが好きだったんだ」
前を向いたまま、マヤが言った。
「ガソリンと、焼けたゴムの匂い。父さんはいつも油まみれで、英語しか話せなくて。母さんは片言の英語と身振り手振りで、それでもふたりはすごく笑ってた。私にとっての『家』はあのガレージの狭い空間だけだったのかも。一歩外に出れば、どこに行っても『珍しいもの』を見る目で見られたから」
幼いマヤの手を引く母親に向けられた、好奇と羨望、そして微かな偏見の混ざった視線。母はマヤを守るようにいつも背筋を伸ばし、レースクイーン時代と変わらない凛としたヒール音を街に響かせていたという。
「母さんが言ってたの。『背中を丸めたら、その瞬間から相手の決めた枠線の中に閉じ込められるわよ』って」
マヤは立ち止まり、まだ眠る港の水平線を指差した。朝日に照らされた海面が、眩しいゴールドにきらめいている。
「私、ずっと境界線の上で立ち竦んでると思ってた。でも違うね。ふたつの世界があるからこそ、どっちの痛みも、どっちの美しさも知ってる。
父さんのスピードと、母さんの強さ。両方とも私の血の中に流れてるんだもんね」
改札口の前で振り返ったマヤの瞳には、夜のバーで見せていた営業用の笑みでも、閉店後の迷いでもない、透き通った光が宿っていた。
「ありがとう。自分の名前、もう少し好きになれそう」
自動改札を抜けていくマヤの背中を、昇りきった太陽の光が包み込む。どんなラベルも貼り付けることのできない、ただひとりの彼女が、確かな足取りで新しい朝の中へと進んでいった。