著者:町田由美
ラストオーダーを過ぎ、店内の照明が一段階落とされた頃。店長から「一度だけでいいから、うちのピアニストと合わせてみてくれないか」と頭を下げられ、マヤは困ったように眉を下げながらも、小さなステージのスタンドマイクの前に立った。
エプロンを外し、軽く息を吐き出す。ピアニストが指を滑らせ、スローでレイドバックしたブルースのコードを静かに紡ぎ始めた。
マヤがマイクに唇を寄せ、低く息を吹き込むようにして最初のフレーズを放った瞬間、店内の空気が一変した。
響いたのは、バーボンの香りと夜霧を含んだような、スモーキーで深いハスキーボイス。
決して声を張り上げているわけではない。豊かなチェストボイスに裏打ちされた心地よい低音が、ウッドフロアを微かに震わせ、グラスの縁を伝って胸の奥へと染み込んでくる。
彼女の歌には、天性のクールなグルーヴ感が宿っていた。
ピアノが刻むビートのわずかに後ろを、まるで夜のハイウェイを流すアメ車のように滑らかに、そして正確に捉えて揺れる。飾らない、肩の力を抜いた自然体のフレージング。それなのに、音の芯には父から受け継いだエンジンのような力強い熱量が脈打っていた。
ざわついていたスタッフや残っていた数人の常連客が、息を呑んで手を止める。
夜の湿り気と都会の孤独をそのまま溶かし込んだようなその声は、哀愁を帯びながらも、聴く者の背中をそっと押し出すような確かなエネルギーを秘めていた。誰かに媚びるためでも、拍手を求めるためでもない。ただ自分自身を呼吸するように歌うマヤの姿は、薄暗いスポットライトの下で、息を呑むほど凛としていた。