著者:町田由美
ある日の夜、マヤが働くバーに一人の女性が訪ねてきた。
華やかなオーラを纏い、仕立ての良いスーツを着こなしたその人は、母のレースクイーン時代の同僚だった。父と母の出会いも、あの過酷なクラッシュの瞬間も知る人物だ。
女性はカウンターに腰掛けると、グラスを磨くマヤの立ち姿を値踏みするように、しかし懐かしむようにじっと見つめた。
「やっぱり、あのふたりの娘ね。お父さん譲りの長い手足と、お母さんのあの凛とした目元。完璧だわ」
そう言って名刺を差し出しながら、女性は悪気のない明るさで言った。
「マヤちゃん、うちのチームでレースクイーンをやらない? 業界のコネならいくらでもあるし、あなたならすぐにトップになれる。
こんな薄暗い夜のお店でカクテルを作るより、太陽の下でサーキットに立つほうがずっと健康的よ。お母さんの若い頃にそっくりなんだから」
悪意のない、純粋な善意と賞賛の言葉。けれどその言葉の裏には、「有名レーサーと美しいレースクイーンの娘」という、世間が飛びつきそうな分かりやすいストーリーと枠線が用意されていた。
マヤは名刺に目を落とし、それからゆっくりと視線を上げて、いつもの柔らかな、けれど決して揺るがない微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。でも、お断りします」
女性が少し驚いたように眉を寄せる。
「どうして? お母さんの跡を継ぐみたいで素敵じゃない。お父さんが愛したサーキットよ?」
「父が愛したのは、風を切り裂いて自分でハンドルを握る世界でした。そして母が誇りにしていたのは、誰かの添え物としてではなく、自分の足で凛と立つことでした」
マヤは丁寧に名刺を女性の前へ押し戻した。
「私は母の影でも、父の遺品でもありません。夜のこの場所で、色んな国の人たちと言葉を交わしながら、自分の力で立っているこの時間が、私にとって一番健康で、誇らしい居場所なんです」
女性は息を呑み、マヤの真っ直ぐな瞳を数秒間見つめ返した。やがて、降参したように小さく肩をすくめ、ふっと笑みをこぼした。
「……本当に、あのお母さんの娘ね。あの子も昔、同じような目で周りの男たちを黙らせてたわ」
女性が去ったあと、昼下がりの静かな店内に、港からの潮風が通り抜けた。マヤは胸のポケットにそっと触れ、自分だけの歌を心の中で確かめるように、再び穏やかにグラスを磨き始めた。