00:00この特集は、先の対戦を生き抜いた台湾出身の元日本兵についてです。
00:06彼らは100歳前後になった今も日本語を悠長に話します。
00:12一言でいいから、ご苦労様と言ってほしい。
00:16そう話す彼らをお待ち受けていた戦後の悲劇とは。
00:21横浜市磯谷区終戦直後の闇市の面影を残す商店街細長いアーケードを抜けると戦後80年のことしできたばかりの慰霊碑そこにはこう刻まれている
00:48台湾出身戦没者の方々、あなた方がかつて我が国の戦争によって尊いお命を失われたことを深く心に刻み、永久に語り伝えます。
01:04台湾出身元日本兵の慰霊碑。
01:12台湾人でも台湾籍でもなく、台湾出身と刻まれているのは、戦争中はみな日本人だったとの思いが込められているからだ。
01:23今年7月、慰霊碑完成の法要が営まれた。
01:33この日を誰よりも待ち望んでいる人がいた。
01:38後正男さん、98歳。
01:41台湾出身の元日本兵だ。
01:44台湾出身に建てた日本人の慰霊碑がいっぱいあるので、日本には、日本に建てた台湾出身の慰霊碑がないだろう。
01:56で、私自身も死んだらね、誰もお金をくれないなと。
02:02慰霊碑がないから。
02:03日本人の手で慰霊碑を建ててほしい。
02:10後さんの30年来の願いだ。
02:13去年暮れ、人捨てに後さんの願いを知った新生寺の水谷栄冠住職が協力を申し出た。
02:24後さんがよく口にする、祖国台湾、母国日本と刻まれた日も建てられた。
02:33悟さんは日本の中学を卒業後、16歳で陸軍に志願、航空部隊に配属された。
02:44終戦間際には特攻作戦への参加を名乗り出た。
02:50日本の軍人として死ぬ覚悟はできていた。
02:537月に沖縄特攻に行くか行かないかの意識調査ね
03:00その時にもらった紙が熱烈を熱を死を
03:08僕としては順番が来たなと思って熱烈を死ぬ覚悟だ。
03:16台湾においてもベイエイウシテシヤマンの闘魂は火と燃えて
03:20日本の植民地だった台湾の若者たちが
03:24日本兵としてアジア太平洋戦争を戦った。
03:29およそ21万人が軍人・軍族として
03:34南方のジャングルや中国大陸の激戦地に送られ
03:383万人以上が戦死した。
03:42だが日本の敗戦後も彼らの苦難は続いた。
03:50終戦時、現在の北朝鮮にいたゴサンは
03:54ソ連軍に囚われシベリアに送られた。
03:59日本人捕虜およそ60万人が連行され
04:07過酷な労働を強いられた
04:09いわゆるシベリア浴流。
04:13重労働や食糧不足で6万人が死亡した。
04:19ゴサンが送られたのはカザフスタンの南部。
04:23寒暖差の大きい砂漠地帯だ。
04:25ここで運河の建設などに従事。
04:30空腹と熱病に苦しめられた。
04:34抑留中も日本名大山雅夫を通したゴサン。
04:402年間の抑留を終えると
04:42日本行きの船に乗せられた。
04:44そのまま日本に留まったゴサン。
04:51大学卒業後、横浜の過強系金融機関の幹部となった。
04:57抑留生活の厳しさを伺わせる
05:0040年前の報道特集のインタビューが残っている。
05:07少し膨れているのは
05:09分からんようにこの蓋を膨らまして
05:13少しでも食糧をもらうときに
05:15入れる人が気がつかないような膨らまし方で
05:19わずか何し一口でも二口でも余計食糧をもらおうと思った
05:24苦心の跡が見えるわけですね。
05:26私がゴサンの取材を始めたのは5年前。
05:34ソ連に抑留された台湾出身者がいたことに
05:37驚いたからです。
05:40過酷な抑留体験を聞き出そうとするのですが
05:44ゴサンは自分は運が良かったと繰り返すばかりです。
05:48遺霊碑完成の日も記者たちから抑留中の苦労を聞かれ
05:56こう答えました。
05:58ソ連抑留が長引いたことが幸福だったという誤差。
06:21一方、戦後台湾に戻った元日本兵には
06:25さまざまな苦難が待ち受けていたのです
06:29その一端を知りたいと私は台湾に向かいました
06:34台北郊外。戦後、台湾に戻ったものの
06:41当局によって処刑寸前だった元日本兵がいる。
06:47どうも。日本から来た草壁と申します。
06:52賞金文さん、98歳。16歳の時、親族に内緒で陸軍に志願した。
07:02大日本兵は大日本兵の軍人だというつもりで支援したんですよ。
07:13軍隊の訓練は厳しかったでしょ。
07:16こう、ビンタなんかいつもですか。
07:21ビンタはもう朝飯前の私は。
07:25元日本陸軍の軍人だった賞金文さん、98歳。
07:36ビルマ戦線に送られ、悪名高いインパール作戦にも参加した。
07:43兵団を無視した無謀な作戦で総崩れとなり、3万人以上が戦死した。
07:50これは作戦の前ビルマで遺影として撮った写真だ。
07:57インパール作戦ですか、参加しましたよ、なかなかきついですね、もうあの作戦は本当に、戦争は絶対やるもんじゃない、自分は感じられたいんですからね。
08:23まさに視線をさまよった賞さん。
08:28命拾いしたと台湾に戻ったが、待っていたのは当局による厳しい弾圧だった。
08:37日本の敗戦により、台湾は中華民国に接収された。
08:43紹介席率いる国民党による統治が始まったのだ。
08:47歓迎する市民もいたが外から来た少数派が台湾を支配する構図は日本時代と変わらなかったましてや元日本兵にとって国民党軍は昨日までの敵だった
09:17理由はない?
09:51翔さんは日本の軍人だったことを今も誇りに感じているしかし元日本兵たちが迫害されていた時日本政府が何の手も差し伸べなかったことを忘れることはできない
10:08戦後台湾でご苦労されている時に日本政府は何かしてくれましたか?
10:17もう遅いかもしんないけれども日本政府には何をしてほしいですか?
10:36日本政府から過去のもう100歳以上になるものですから過去はご苦労さんでしたというその一言が欲しいですよね。
11:00台湾南東部台東市沖に浮かぶ緑島リゾート地として内外の観光客の人気を集める緑の島という平和なイメージとは裏腹にかつては政治藩の島と呼ばれていた。
11:26ここには政治藩としてこの緑島に収容されていた人たちの写真がずらっとこう貼られているんですけれども名前の下にそれぞれ景気ですね12年8年10年と非常に長い景気を過ごしたわけですよね。
11:48国民党独裁下の権力による人権弾圧を白色テロという。
11:571990年代に民主化されるまでおよそ40年間続いた。
12:04政治藩収容所は現在人権博物館として市民に公開されている。
12:12この建物は50年代の収容所を復元したものだ。
12:21当時ここには120人から150人が収容されていました。
12:28中には日本の教育を受けた人。
12:31かつて南洋や中国大陸に兵士としていった台湾籍の日本兵や軍族が含まれています。
12:41国民党は日本の植民地時代の制度や文化を異読と呼びその一層を図った日本式の教育を受けた知識人元日本兵が弾圧の対象となった政治犯として緑刀に収容された元日本兵がいる
13:04日本軍の軍族としてシンガポールの補給部隊にいた。
13:20終戦後、台湾に戻った楊さんは国民党の腐敗ぶりに絶望し日本への密交を企てたが失敗、逮捕された。
13:34政治犯としての収容所生活は7年間に及んだ。
14:02私は台湾生まれの日本人という楊さん大井充は楊さんの日本名だ楊さんは日本政府を相手取り日本国籍の確認を求める裁判を起こしたが2022年棄却された。今も戦後日本国籍を取り消されたことは機民だと考えている。
14:31戦後台湾に帰ってきたらいずれのまにか国籍がなくなっていました。そのため機民となったために当時台湾に占領に来た小海石の軍隊から。
14:58われわれはどれだけ自分ができたかとか、おそらく日本の方々もわからないでしょう。
15:10多くの元日本兵が迫害を受けた白色テロの時代。その発端となった事件がある。
15:26台北暴動死者4000人。
15:30人民の政府に対する不満1947年2月に起きた228事件中国大陸からやってきた国民党の高圧的な統治に対して台湾の人々の怒りが爆発した
16:00228事件当時まだテレビは普及していませんでしたから事件を伝えるにあたってこのラジオ局が果たした役割は相当重要だったということです。
16:16ラジオ局は今228事件記念館となっている。そこで目撃者93歳の陳万益さんに会った。きっかけは闇タバコを売っていた女性に対し政府専売局の取締官が暴力を振るったことだった。
16:40闇タバコ売りには生活に困窮した台湾出身元日本兵も多かったという。
16:52見た見た。はっきり見た。売ってる方と、あの、専売局の事務員、警察、けんか。あ、タバコ売ってるね。ほとんど日本兵隊参加して、あと、勝った。警察とあの事務員ね。あと、早く逃げた。
17:20混乱の中、警察官の発砲により死者が出た。
17:27市民がラジオ局を選挙し、決起を呼びかけると、怒りの声は瞬く間に台湾全島に広がり、各地で衝突が起きた。
17:38しかし、国民党軍の武力により短期間で鎮圧。犠牲者は1万8000から2万8000人に達するという。事件はタブー視され、語ることも禁じられた。
17:59台湾中央部の継承地、有山。
18:06228事件で処刑された元日本軍将校の息子が暮らしている。
18:17先住民ツオウ族のトウシンケンさん民主化以降228事件が公に語られるようになるまで父親の身に何が起きたのか誰も教えてくれなかったという。
18:36元日本陸軍将尉当主人事件では多くの元日本兵が武器を取った当主人さんは反乱を企てたとして銃殺された。
18:54父は青年たちを引き連れ山を下りました鍵の町に着くと彼らを配置に着けました日本軍の士官だったのでどこに何人配置すべきかを理解していました
19:12有山の麓の町鍵に向かった当主人さんは国民党軍相手にゲリラ戦を仕掛けた。だが国民党軍が造園部隊を呼んだことを知り部隊を撤収させた。有山に戻った当主人さんに対し国民党は怪獣工作を続ける。
19:39しかし当主人さんはこれを拒み続け7年後処刑された。息子のシンケンさんが7つの時だった。
19:54多くの人が泣きながら私の家に来ました私たち子どもは何も分からず外で遊んでいました父はもういないんだと少しずつ分かってきました家もなくただ骨つぼがあるだけでしたシンケンさんは後に父の処刑の時の様子を知った。
20:24銃殺される前に最後の酒を飲むことが許されます父は処刑の前仲間をこう励ましたそうですみんな胸を張ろう目隠しはいらない酒も飲む必要はないお父さんは日本の陸軍に行かなきゃ人生は全く違ったものになったでしょうね。
20:47まだ生きてたかも。
20:5412月8日日米英海戦の日。
21:03私は後正男さんとともに横浜の台湾出身元日本兵の慰霊碑を訪れました。
21:12後さんにどうしても伝えたいことがありました。
21:16数少ない台湾出身のソ連抑留者の存在そしてその彼が台湾で処刑された事実です。
21:28この方、当主人さんという。
21:35後さんと一緒に後さんと同じようにシベリアで彼は。
21:43この方が学徒動員?
21:45いやもう志願です。
21:47228事件の直前に台湾に戻った。
21:51風運だったね。
21:53抑留中詳しい身元確認もされず日本名を名乗り続けた後さん。
22:01抑留は2年に及び日本に返されました。
22:05一方、将校だった当主人さんは日本人でないことが確認されると台湾に返され銃殺されました。
22:15戦後、台湾に戻った元日本兵たちを待ち受けていた悲劇。
22:21ソ連抑留は幸福だった。
22:24誤算の言葉の真意はここにあったのです。
22:29本当に僕は幸せもいい。
22:32もう神様の配慮をつけた。
22:35一般の台湾の国民はね、そこに帰ったという期待が強かったからね。
22:41もちろんすぐ失望したから228が来たんだからね。
22:47そういう時に僕は幸いにもたまにいなかったということで非常にありがたいと思います。
22:59戦後80年がたった今でも日本語を流暢に話される姿に驚きましたし日本への強い思いも元日本兵たちの証言というのはたびたび日本のメディアでも紹介されているんですけれどもどうしても親日的な発言に焦点が当たるんですので今回、私が会った2人のおじいさんたちが非常に鋭い日本政府批判をしたのにはちょっとびっくりしましたね。
23:28彼らも今も日本軍の兵士だったことを誇りに思っている。だからこそ日本政府に無視され続けたという思いが強いんですね。
23:40そういう意味でも日本政府にご苦労様と一言言ってほしいというあの言葉は思いですね。
23:47私たち日本人が忘れてはいけないのは日本の戦争を戦ったのは日本人だけではないということですよね。
23:56台湾や朝鮮半島の人も戦ったし、あるいは戦争遂行のために労働力として動員されたわけですよね。
24:05こういった事実を踏まえないで謝罪やですね賠償を求めるのは反日的だとか、まあ元日本兵が戦後弾圧されたという歴史も知らないままにですね、台湾は親日的だと評価するのはとても表面的で一方的な考えだと私は思います。
24:24ご視聴ありがとうございました。