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00:00:00皆さんこんばんは 5回にわたってお届けしているザ・ベストテレビ2025
00:00:15NHKと民放で放送された優れたドキュメンタリー番組をたっぷりとご紹介しています
00:00:21この1年間に国内の代表的な5つのテレビ番組のコンクールで最高賞を受賞した作品を中心にご覧いただきます
00:00:32それではゲストの方々をご紹介いたしましょう
00:00:36作家で映画監督の森達也さん
00:00:39こんばんはよろしくお願いします
00:00:41ノンフィクション作家の河合香里さん
00:00:44よろしくお願いします
00:00:45大阪大学大学院の教授で国際政治とメディア学がご専門のバージル・ホーキンスさんです
00:00:53よろしくお願いします
00:00:54皆さんよろしくお願いします
00:00:55こちらがラインナップです
00:01:00最高賞を受賞した作品を全編放送します
00:01:08今回お送りする日本民間放送連盟賞は
00:01:11放送活動の一層の発展を図ることを目的に
00:01:15民放の信用と権威を高めた番組に与えられるショーです
00:01:20テレビ報道番組の優秀作品を
00:01:24ダイジェストにまとめましたのでご覧ください
00:01:26国会議員による差別的な発言や
00:01:31アイヌはもういないといった
00:01:34ネット上にあふれるヘイト
00:01:36差別みたいなものなんて問題ないんだよ
00:01:40自覚のない言動などによる差別も問題となっています
00:01:45なんかもやっとする感じですよね
00:01:47差別っていうか
00:01:49アイヌ文化が注目される今だからこそ
00:01:53アイヌとヘイトについて考えます
00:01:57良子さんパーキンソン病と診断され病状は悪化の意図をたどっていた
00:02:06寿命でっていうよりは自分で最後は選びたいっていう感じですか
00:02:10もちろんですよ
00:02:11スイスで死にたい
00:02:13スイスでは今およそ2%が安楽死で人生を終えている
00:02:20自分の死を自分で決めることに私たちは答えを出せるのか
00:02:28オンタケさん噴火
00:02:31せめてご自身
00:02:34お願いし
00:02:36噴火がなかったらね
00:02:45もうどうすることもできないからね
00:02:49ひまわりと登山靴
00:02:58浮さぶられ証拠軍だって決めつけられて
00:03:02子供は一時保護されて措置入手もさせられて
00:03:06先天性のものだった確定した時の気持ちはやっぱりすごく複雑で
00:03:12赤坂さんに言い渡されたのは
00:03:1478年かけてようやくたどり着いた
00:03:34核を持つ異星者への直談判
00:03:37しかしその夜
00:03:39広島の悲願は落胆へと変わった
00:03:42広島ビジョンに盛り込まれたのは
00:03:45各抑止を肯定するような文言
00:03:48本館を順土に沿って
00:03:50歩かれたんだろうなと思い込んでたんですが
00:03:53どうもそうじゃないみたいで
00:03:54何を見せたくなかったんだろうか
00:03:57むしろそっちの方を考えてしまいますね
00:04:00日本最西端の島
00:04:04与那国島
00:04:05西端が作ってきた島の文化データも含めて
00:04:10空気も壊されていくから言ってるわけ
00:04:12それあなたの時代で
00:04:13町民が黙って分断者黙って
00:04:16物に切られたらと思って
00:04:17それを騒いと思ってやってもらうじゃないですか
00:04:18これはゲスハングリティんだよ
00:04:21島を守るのは
00:04:24一体
00:04:25誰のためなのでしょうか
00:04:282024年
00:04:33日本民間放送連盟賞
00:04:36テレビ報道番組の
00:04:37最優秀作品をお送りします
00:04:39新越放送が制作し
00:04:432024年3月に放送しました
00:04:45SBCスペシャル
00:04:4778年目の和解
00:04:49三打官
00:04:50死の行進
00:04:52遺族の奇跡です
00:04:532015年
00:05:12私はオーストラリアに住む男性を訪ねました
00:05:16リック・ブレイスウェイトさん
00:05:23終戦から間もない
00:05:251947年に生まれました
00:05:28幼い頃から
00:05:34父親が
00:05:36戦争のトラウマに苦しむ姿を
00:05:38間近で見てきました
00:05:40父親が
00:06:10私とディックさんには
00:06:33ある共通点がありました
00:06:35実家の仏間で見つけた
00:06:41元日本兵の手記
00:06:43熱帯のジャングルで
00:06:49長野県出身の兵士が経験した
00:06:52壮絶な記録です
00:06:54エッツさんと呼ばれていた
00:06:59私の大王子は
00:07:00そこで亡くなり
00:07:02再び
00:07:03ふるさとの地を踏むことは
00:07:06ありませんでした
00:07:07赤道にほど近い
00:07:17東南アジアの島
00:07:18ボルネオ島
00:07:20ディックさんの父親
00:07:27そして日本の兵士たちは
00:07:29この場所で
00:07:31ある悲劇に
00:07:33巻き込まれました
00:07:34戦争中
00:07:38この島を占領していた
00:07:40日本軍が
00:07:411945年1月に出した
00:07:44移動命令
00:07:45拠点を東海岸から
00:07:49西海岸へと移す
00:07:50軍事作戦です
00:07:52実態は
00:07:56食料も薬もない中で
00:07:59道なきジャングルを進む
00:08:02無謀なものでした
00:08:03移動を強いられたのは
00:08:091万人から2万人
00:08:12その半数近くが
00:08:15飢えや病気により
00:08:18亡くなりました
00:08:19島の東部
00:08:24三田間に収容されていた
00:08:26イギリスとオーストラリアの捕虜も
00:08:29移動の対象となり
00:08:31さらに過酷な運命をたどりました
00:08:34三田間
00:08:38死の行進です
00:08:40ディックさんの父親は
00:08:45生き残ったたった6人のうちの
00:08:50一人でした
00:08:51ディックさんの父親は
00:09:01生き残ったたった6人のうちの
00:09:04一人でした
00:09:06現地で一体何があったのか
00:09:31この当時すでに70年が経ち
00:09:35証言ができる人が限られる中で
00:09:38私はオーストラリアやマレーシア
00:09:41そして国内の関係者の取材を始めました
00:09:45遺族たちも心に傷を負っていました
00:09:57死の行進で捕虜を率いた父親
00:10:06戦犯として処刑されました
00:10:09悲劇と教訓をどう伝えていけばいいのか
00:10:32ディックさんとのやりとりは
00:10:35何十回にも及びました
00:10:37事実だけを追うと
00:10:42遺族を傷つけてしまう難しさを感じる
00:10:45という私のメールに対し
00:10:46自分たちに都合のいいだけの歴史からは
00:10:51何も学べない
00:10:51我々は歴史を伝えるものとして
00:10:55真実を追い求めなければならない
00:10:58という答えが返ってきました
00:11:00父親の体験をきっかけに
00:11:11三打官死の行進の事実と向き合ってきたディックさん
00:11:15詳細な調査を続けます
00:11:19しかし取材した当時
00:11:23病に侵されていて
00:11:262016年に69年の生涯を閉じました
00:11:31亡くなる直前には
00:11:37それまでの成果を500ページにも及ぶ本にまとめ
00:11:41出版
00:11:42本の最後に記されていたのは
00:11:50和解への願いでした
00:11:55オーストラリア東部の町
00:12:19リズモー
00:12:20出迎えてくれたのは
00:12:26ディック・ブレイスベイトさんの妻
00:12:29ロビンさんです
00:12:31一番近くで
00:12:38夫の姿を見続けてきました
00:12:40何がディックさんを突き動かしていたのか
00:12:50事実と向き合い続けた末に
00:12:56和解を求めたのは
00:12:59なぜだったのか
00:13:00人口およそ4万人のリズモー
00:13:06人口およそ4万人のリズモー
00:13:20市街地の公園にモニュメントがあります
00:13:242000人以上の捕虜が亡くなった
00:13:31三田間
00:13:33市の行進の歴史を伝えています
00:13:361871年に建てられた町の教会
00:14:00かつてこの場所を訪れていた若者たちも
00:14:12戦場へと向かいました
00:14:14市民の歴史の歴史の歴史の歴史の歴史の歴史を
00:14:44市民の歴史の歴史の歴史の歴史の歴史の歴史を
00:15:14太平洋戦争が始まると日本軍はボルネオ島を占領します
00:15:21石油資源を求めてイギリス領だった北部とオランダ領だった南部を相次いで支配下に収めました。
00:15:492月にはマレー半島を制圧し
00:16:00現地に駐留していたオーストラリアとイギリスの兵士が捕虜となります
00:16:06その後一部は対面鉄道の建設工事に一部はボルネオ島の三田館へと送られました。ここから長い収容所生活が始まります。
00:16:21捕虜としてサンタ館にいたことがあるラッセル・ユーウィンさんは以前こう証言していました。
00:16:36以前こう証言していました。
00:16:43ハンディーションの鎧が例、遮断になった方向のポールを過ぎるために、
00:16:46どちらかにつけられたモデルから遮断を返していました。
00:16:50シカのカメラをのために、
00:16:51専門家の鎧につけられたコメラを運転させたのか、
00:16:54新たな客は第2回戦です。
00:17:00The sick men were fed less than the fit men, so the fit could do more work, and so the hospital was filled up and the deaths increased.
00:17:161944年の末になると日本軍が占領していたボルネオ島にも空爆が増えアメリカ軍が迫ります。
00:17:3545年1月日本軍は東海岸の部隊を西海岸へと集結させ更に三田間にいた捕虜も260キロ内陸のダナウへ移送することを決めます。
00:17:55満州の部隊が1日30キロ歩けたという経験をもとに、ベトナムにあった南方軍総司令部が現場を見ずに下した計画でした。
00:18:17三田間にいた部隊の西には輸送が途絶えて食料が減り薬が尽きたと記されています。
00:18:32この年の5月には日本軍がいたボルネオ島の拠点に激しい攻撃が加えられます。
00:18:43三田間の町には兵士だけでなく、役所や企業、農園などで働く日本の民間人もいました。
00:18:54物凄い空襲で三田間めちゃくちゃやられて、みんな山奥に逃げたんですけど、私も病気が治らないうちに歩かせられて、臭いなと思って見ると、ほら倒れて、みんな不乱状態でね。
00:19:15生きて帰ったものが喋るから分かるようなものでね。
00:19:20兵隊だってほとんど死んでしまった。
00:19:22衛生兵だった中島竹嗣さん。
00:19:28日本軍のおよそ8500人。
00:19:50イギリスとオーストラリアの捕虜、およそ2400人。民間人も500人ほどが次々と死亡。捕虜たちは隊列を組まされ、落語すると、ひそかに銃殺されました。
00:20:09多くの犠牲者を出したオーストラリア。しかし、長い間、事実は語られなかったといいます。
00:20:22後ろで死亡が終わった。
00:20:27told the people what had happened.
00:20:32The Australian government decided not to tell
00:20:36the people about the death march
00:20:39because they said the way that they died,
00:20:43being abandoned or shot or bayoneted,
00:20:46left to starve to death,
00:20:49would cause too much distress to the relatives at home.
00:20:57元捕虜の息子ディック・ブレイスウェイトさんは悲劇の全体像を知りたいと願っていました。
00:21:20関心はあらゆる分野に広がっていったといいます。
00:21:272005年には上田氏を訪問。
00:21:34元日本兵の男性が死期を残していました。
00:21:43リアルな描写や軍隊への怒り、捕虜との交流など、オーストラリアの本では見たことがないものでした。
00:21:50出来ないような抗軍を無理に行わせていました。
00:21:57出来ないような抗軍を無理に行わせた責任は一体誰が背負うのか。
00:22:04多数の人々は病気で、食べ物がなくて死んだのではなく、そういう環境に追いやられて殺されたのだ。
00:22:11出来ないような抗軍を無理に行わせた責任は一体誰が背負うのか。
00:22:18多数の人々は病気で、食べ物がなくて死んだのではなく、そういう環境に追いやられて殺されたのだ。
00:22:39加害者側である日本兵の記録。
00:22:48ディックさんはその価値を高く評価し、知り合いに頼んで英語版を作りました。
00:22:58A lot of Australian books about the POWs are written from an angry Australian perspective.
00:23:11He was a very fair person.
00:23:15He believed that people should all be treated fairly and equally.
00:23:24本は2012年に完成し、ボルネオで出版。
00:23:34地元で大きな注目を集めました。
00:23:38So he just went into all sorts of aspects of the story.
00:23:45You know, how it affected people, how they might recover.
00:23:52And I guess that was useful in working out about healing ceremonies and reconciliation.
00:23:59こうした調査の集大成となる本の中で、遺族同士の和解を願っていたディックさん。
00:24:12ファイティングモンスターズというタイトルには理由がありました。
00:24:18As for the title, Fighting Monsters?
00:24:23Um, we would talk about it, you know, what do you think of this?
00:24:30I showed him the quote about,
00:24:35if you go fighting monsters be careful, you don't become a monster yourself.
00:24:412015年、私はディックさんへの取材をきっかけに、毎年サンダカンで開かれている慰霊祭を、日本のメディアとして初めて取材することができました。
00:25:02しかし、出席者を刺激しないよう、日本人の私はロープの中にいることを求められました。
00:25:27別の場所にある日本の慰霊施設では、石碑が壊されたような跡も見つけました。
00:25:36ディックさんが願った和解は可能なのか。
00:25:49取材を続ける中で、私は日本側の遺族と出会いました。
00:25:55古井貞沖さん、祖父は日本軍の司令官でした。
00:26:04ボルネオ島の最後の司令官を務めた馬場正雄陸軍中将。
00:26:17市の行進が始まった1945年1月に、前任地のスマトラから、直接西海岸のアピに着任します。
00:26:30多くの日本兵が目指していたその場所も、激しい攻撃にさらされるようになり、2ヶ月後には本部を内陸の山中へ。
00:26:44着任当初にはジャングルの移動は困難だとして上層部と掛け合ったとされますが計画は覆らず実行に移されました戦後は自宅に戻りますが古井さんの母親が買い物から帰る途中アメリカ軍に連行されました
00:27:11そのジープを見たら自分の父私の祖父の後ろ姿がその中にあったとそれが私の母が祖父に会った最後の瞬間というふうに聞いてます。
00:27:29戦後行われた軍事裁判
00:27:34古井さんの祖父はパプアニューギニアのラバウルに連行され、戦犯として処刑されました。
00:27:43一方ですでに異動を決めていた上官や前任者たちの責任は問われませんでした。参謀の一人はなぜ命令が行われたのか全く不明であると述べています。
00:28:05どうして祖父がですねそういう思いをしなきゃいけなかったのか日本が外国のことについて知らなすぎたんじゃないかともっと海外の外国のことをよく勉強してでお互いにその交流ができるようなそういう人になりなさいと。
00:28:272005年にディックさんが東京を訪れてからお互いの交流も始まり、遺族同士の和解にも関心を持つようになりました。
00:28:42古井さんが考えたのは捕虜の遺族や地元住民が集まる慰霊祭での直接の謝罪。2016年にディックさんを通じて打診したものの地元から反応はなく実現しませんでした。
00:29:05まだ残念ながらですねお互いに心を許すというところになっていないそれだけ心の傷が大きい人がまだいらっしゃるということなんだと思います。
00:29:24捕虜の遺族だけでなく地元にも残る戦争の傷跡。
00:29:31古井さんはディックさんとのつながりがきっかけとなり、シンシア・オンさんと出会います。
00:29:38シンシアさんは祖父や祖祖父など家族7人が戦時中日本軍に殺害されました。
00:29:45シンシアさんは祖父や祖祖父など家族7人が戦時中日本軍に殺害されました。
00:29:52シンシアさんは祖父や祖祖父など家族7人が戦時中日本軍に殺害されました。
00:30:00くよ後弱於天巡行 SNESで初の戦時に戦時に戦時が...
00:30:07いくつものを考えられます。
00:30:10また Áain言葉の雇ンを誘致しています。
00:30:13その目標に面倒し迅そうに warriormsの牧が振ることができ困難します。
00:30:17こうこに戦時が生致いたるилосьき、間奏 timeの性能がしました。
00:30:20また昔の道益は烈での気持ちなので、
00:30:25this relationship or situation is not as simple as you, me, thinking.
00:30:36The history is very present for some people and it's present for me as well.
00:30:47You know, for many, many years I've wanted to have this conversation with a Japanese person.
00:30:54三田間の墓地ここには紳士屋さんの祖父ペレイラさんが埋葬されています
00:31:44According to daddy, they always, even if you've got nothing to do with the thing, because they are English speaking.
00:31:51He told me about this, how the father was taken, night down. That's all what he told me.
00:32:02He doesn't want to do more about the war, you know. The war makes you sad.
00:32:10壊滅状態の日本軍はこの時、英語が話せたという理由だけで、28人もの地元住民をスパイ容疑で処刑していました。
00:32:24You know, as I was growing up, as a young woman, you know, a sense of loss and a sense of abandonment and a sense of hurt, but I didn't know why.
00:32:38Then I realized as I got older and I learned more about the family history that it came from the generations.
00:32:49国や立場を超えて少しずつ関係を築いてきた遺族たちディックさんが願っていた和解の取り組みを共に進めようという機運が高まっていきました。
00:33:15東南アジアの最高峰、ボルネオ島のキナバルさん。
00:33:24この山のふもとで、日本人を含めた和解のセレモニーを2020年に開く計画を立てました。
00:33:34呼びかきの中心は司令官の孫の古井さんやシンシアさん、リックさんの弟、ジョンさん。
00:33:43しかし、新型コロナウイルスの影響で計画は延期に。
00:33:50それでも2ヶ月に1回ほどオンラインで意見を交わしました。
00:33:55私はどう思いますか?
00:34:06My grandfather was a commander, and he could not stop this much.
00:34:13I'm sure he was a criminal.
00:34:17Maybe he was also a victim of the war, a victim of the military system.
00:34:25The responsibilities for those things, we have to let things go at an individual level.
00:34:32Otherwise, we will continue to have the hatred.
00:34:39Every time we see each other, there's some kind of alchemy that happens.
00:34:51I think, and this is just my belief, the ancestors are with us who wanted it to happen.
00:35:00What Sadawaki is doing is so huge.
00:35:07Just for every generation on both sides, the past and the future.
00:35:13Yeah.
00:35:14Yeah, I think that we have to be able to be able to solve it.
00:35:23And that's how we can balance to understand that we have to be able to do something that matters.
00:35:36But I think that's what I learned now.
00:35:382022年古井さんは和解のセレモニーに立ち会うことなく病気のため亡くなりました その医師は残された私たちに託されました
00:35:572023年7月ボルネオ島の最大都市コタキナバルにサンダカン市の後進の遺族や関係者30人ほどが集まりました
00:36:16オーストラリアからはディック・ブレイスウェイトさんの妻や弟などが日本からは古井貞沖さんのいとこババヨシオさんが参加
00:36:33オーストラリアからは古井貞沖さんの意志を継いでこのメンバーと和解ができるようになりたいと思ってここへ来ました
00:37:00シンシアさんも長年願っていた旅です
00:37:095日間の和解の旅
00:37:22参加者が初めに訪れたのは西海岸にあるダブアン島です
00:37:301942年に日本軍が最初に上陸し45年に降伏した象徴的な場所
00:37:42ボルネオの司令官の孫ババさんの一家にとっては初めての訪問でした
00:37:51幸福地点に造られた平和公園には日本政府や日本人の先友会が建てた慰霊碑などがありました
00:38:05参加者たちは知っていることそして自分の家族がどう関わったのかなどを共有していきました
00:38:19スマトラ島の写真しかない
00:38:37ボルネオというかこっちのマレーシア側のものは何にもないんですね
00:38:43それで意識的になくしたのかどうかというとは分からないんだけど
00:38:491945年9月ボルネオ島の司令官だった馬場正雄陸軍中将はこの島で幸福文書に調印
00:39:03その後戦犯として処刑されました
00:39:08ともかくうちの親父テルオにとってはそのマサオが処刑されたっていうことがすごく抵抗があってよくあるその日本は神の国なんだということを言っててですねでそのまあ戦争に負けたのはその不運だっただけだと何も悪いことはしてないということがもともと持論だったんですね
00:39:30ボルネオ島の戦争の歴史は日本国内では遺族関係者の中でもあまり語られていません
00:39:44参加者たちはこの島にある連合軍兵士の墓地も訪れました
00:39:54三打間死の行進で亡くなった捕虜も大勢眠っています
00:40:05墓石を見ると二十歳前後の若者も目立ち中には身元がわからない無名の兵士も
00:40:18ディックさんの家族には偶然の発見がありました
00:40:27そこには戦争がもたらした家族の複雑な歴史がありました
00:40:53竹山前の兄が大勢に残っていると聞くない
00:40:58わにょうは団に残っていたの島を遺族を見ると
00:41:05最初の人間は2番が3番があると話す人間に
00:41:07誰かに残っていたのにあると話すんだ
00:41:09彼はどのものに残っていたことがある
00:41:11史実に残っていたのに見ると
00:41:17当時2000、何時2000年2年2頭
00:41:22She was so pleased that his body was found.
00:41:30The world of all people's life was broken into the war.
00:41:37旅の3日目
00:41:48市の行進のルートを辿るため
00:41:52遺族たちは東海岸のサンタ館へと向かいました
00:41:57降り立ったのは戦時中
00:42:01日本軍がオーストラリア人、イギリス人の捕虜などに建設工事をさせていた飛行場です
00:42:09そこから向かったのはかつて捕虜が暮らしていた収容所
00:42:21今は市の行進の歴史を伝えるための公園になっていて
00:42:29少しずつ整備が進められています
00:42:33ここでもそれぞれが家族のストーリーを共有しました
00:42:43リチャード・モクサムさんの父親は
00:42:47この収容所にいた捕虜でした
00:42:50脱走して奇跡的に生き残りますが
00:43:15心には深い傷を負っていました
00:43:19人々は身にも深い傷を負っていました
00:43:2710年生前から
00:43:3010年生前から
00:43:3210年生時に
00:43:3310年生後に
00:43:3420年生後に
00:43:3519年生前から
00:43:3720年生後に
00:43:3918年生後に
00:43:4119年生後に
00:43:4320年生後に
00:43:4520年生後に
00:43:4520年生後に
00:43:48It was difficult to reconcile this story, particularly while my mother was alive.
00:43:55I think there's a message there for everyone, really.
00:43:59You really need to respect your family's views on things.
00:44:04We need to continue to just gently understand each other and what has happened.
00:44:13So hopefully, that will just strengthen the peace in the future.
00:44:18Let's hope.
00:44:19The president of Japan's father, Baba Atzóo and Takao's brothers.
00:44:32I didn't know any of the衝撃技術, so I don't know how to fix it.
00:44:43We could also find a way to find a way to find those people who care about their eyes and their eyes.
00:45:01I had no idea that I had no idea.
00:45:05戦時中に使われていた道具もわずかに残る三田間の捕虜収容所の跡地一画には詩の行進の歴史を伝える展示施設があります
00:45:32書かれている内容の中心は捕虜がたどった状況この場所で馬場さんがじっと見つめる写真がありました
00:45:52先般として紹介されている 祖父の姿です
00:46:04最終的にはやっぱり責任があるそういう指示というかそういう対戦の中で自分の役割をやったり
00:46:18軍の中の役割としてはやらなきゃいけないという受けによりも
00:46:24もうちょっと積極的にやったんだろうと思うので
00:46:28責任があるという事に関しては間違いないでしょうねというふうに思います
00:46:38I look at the picture and I just remember Sadaoki and Yoshio and now Atsuo and Takao.
00:46:59I'm sure for them it's shocking to learn something.
00:47:05If you're good people and you didn't know very much and then you had the courage to come here to meet people you know and you know some bad things happen.
00:47:18They came. They didn't know how people are going to behave towards them.
00:47:24Xigan Shiazさんが案内したのは祖父が眠るサンダカンの墓地。
00:47:33The Japanese officer came to the house, and the Japanese officer, I was killed.
00:47:40Sof.
00:47:43Sof was a friend of mine, and he was a Japanese soldier.
00:47:50Sof was the Japanese officer.
00:47:54Sof was the Japanese officer.
00:48:01He was at gunpoint or at swordpoint. Clearly he was also suffering.
00:48:201人の兵士が行った謝罪そこに救われている部分があると紳士屋さんは伝えました参加者たちは毎晩どのようなことが和解につながるのか妨げているのか
00:48:50その日に感じたことを話し合いました
00:49:20アプロximately similar number of Japanese workers on the airstrip. Where was their camp? Where is it memorialized?
00:49:31日はあったんだけどもどういうことがあったかっていうのを説明してくれるものがあるんじゃないかと考えています
00:49:40ちょっと表面的なその言葉だけで心が伝わらないと思っています
00:49:47The driver of the bus was very curious about the group because it had Japanese and Australians and Sabahans
00:49:59and he said he's never seen such a group. He said it's always either Australians or Japanese or Sabahans
00:50:10but never together they even have to be conscious of the timing of what Ruby's coming went so they're not there together
00:50:22旅の最終日
00:50:33ゴルネオ島のシンボル
00:50:35キナバルさんを望む紳士屋さんの自宅で
00:50:39私たちは慰霊祭を行いました
00:50:43三打官死の行進の悲劇から
00:50:4978年
00:50:51ディックさん
00:50:55そして古井さんの意思を継ぎ
00:50:58加害と被害を超えて向き合った遺族による
00:51:02初めてのセレモニーです
00:51:05和解とは何なのか
00:51:13新たな世代も
00:51:16その答えを探していく
00:51:18きっかけとなりました
00:51:20和解というのは被害者のことだけでなく
00:51:31日本人は加害者ですけれども
00:51:35被害者と加害者の両方の知りたくもないところまで
00:51:41やっぱり知ろうと思わないと和解はできない
00:51:46I had blinders on that I knew my own family story
00:51:52but I didn't think more broadly about the experience
00:51:56of the people of Sabah and the indigenous people
00:52:01and the Japanese servicemen.
00:52:04And I think the best we can do is to start telling new stories
00:52:09and see what happens from there.
00:52:14Have you seen the names?
00:52:15Yeah.
00:52:17It's all together.
00:52:18Isn't it beautiful?
00:52:23First time, I think.
00:52:25I think it's a good idea.
00:52:26I'm not sure.
00:52:27I'm not sure.
00:52:28I'm not sure.
00:52:29I'm not sure.
00:52:34The name of the building is the name of the Bolleo River.
00:52:41I also felt their suffering.
00:52:46Then I just felt everybody's suffering that everybody suffered.
00:52:51And it was just human suffering through this crazy thing called war,
00:52:58where, you know, we forget, forget about being human.
00:53:05And it was just human suffering through this crazy thing called war,
00:53:11where, you know, we forget, forget about being human.
00:53:19I think maybe I just wanted to find that humanness for myself and for others,
00:53:42connect with that part of being human.
00:53:44I think it was human.
00:54:09優れたドキュメンタリー番組をご紹介するザ・ベストテレビ2025、日本民間放送連盟賞テレビ報道の最優秀番組、SBCスペシャル78年目の若い三田官氏の行進、遺族の奇跡をお送りしました。
00:54:28敵味方、そして関係の地元民も含めて多くの犠牲者を出した三田官氏の行進の悲劇、被害者・加害者の立場を超えて和解を目指す歩みを10年間にわたって追いかけた番組でした。
00:54:46どうご覧になったでしょうか。
00:54:48番組を見て感じたのが、遺族というのは加害者なのかと、子や孫の代になってまで責任を負わなくてはいけないのかなという疑問があったんですけれども、ここに登場される方々は責任を感じて被害者の遺族と対話を重ねていく、その姿に心を打たれました。
00:55:11これだけの時間と領域をかけて、結局のところ十数人の遺族たちがようやく和解が、それこそ三世代を超えてできるというのは、今もいろんなところにトラウマがものすごい残っていて、それも和解に向かってもいないんじゃないかなと思ってたりもしますね。
00:55:34多分、いや間違いなく彼らの祖父、曹祖父だって、今この時代にいたら同じように振る舞ってたはずだし、人間って本来そういう存在なんだと僕は思います。
00:55:48でも人間って環境によってすごく変わってしまう。だからどうやってそういう環境にしないようにするか、やっぱりそれを考えるべきだけど、いまだまあ人類はそこまで至ってないなみたいなことを見ながら考えました。
00:56:01番組の制作者をお呼びしています。ディレクターを務めた湯本和弘さんです。湯本さん、よろしくお願いします。
00:56:09よろしくお願いします。
00:56:10多くの被写が出た出来事ですけれども、オーストラリアでも日本でもさほど知られていないと。
00:56:19この出来事を取材するきっかけは、湯本さんどういうことだったんでしょうか。
00:56:24はい。戦後50年の時ですね、私まだ高校生だったんですけども、突然その祖父の兄、王子の戦友っていう人が自宅に訪ねてきて、戦争の時にどんなことがあったかっていう手記をですね、置いていってくださったんですね。
00:56:42こういう仕事を始めて、戦後70年の時で読んでみたら、これは知られてない、とんでもないことが過去にあったっていうことが分かって、
00:56:54そこからいろいろ調べていったんですけれども、ディックさんがですね、日本人の兵隊の手記なんですけれども、
00:57:02それを英語に訳したっていう本も見つかったんですね。
00:57:07なぜ被害者の方がこういうことをしてるんだろうっていう興味もあったりとか、
00:57:12実際現地で何が起こったかっていうことを知りたくて、ディックさん取材して、1時間の番組を作りました。
00:57:20その翌年にディックさんが亡くなってしまってですね、
00:57:23最後に膨大な調査の記録を本で出版されたんですけれども、
00:57:30日本人も含めた和解を実現してほしいということが書かれていて、
00:57:35その亡くなる前に私直接電話もかかってきたんですけれども、
00:57:40そういう願いがあって、政策者っていう立場もありますし、
00:57:45一人の遺族としてこの和解の取り組みというのを始めていきました。
00:57:50なるほど。まずその知られざる悲劇をどう受け止めたのか、
00:57:55皆さんに伺いたいと思います。
00:57:5770年たってその慰霊祭を日本メディアが初めて取材したというお話をすごく驚きました。
00:58:06出席者を刺激しないように日本人の私はロープの中にいることを求められた。
00:58:12さらに日本の慰霊施設の石碑も壊れていたという、
00:58:17被害者にとっては全く過去のことになっていないんだなというふうに感じました。
00:58:24メディアで見ても、社会全体で見ても、
00:58:28結局自国側でしか物事を見ようとしないんですよね。
00:58:33だから自国にとって被害が大きかったら、
00:58:36これが問題だとか、戦争をやめようという話になるんだけれども、
00:58:41加害者になってくると全然なかったかのようになってしまうというものですよね。
00:58:48まだ戦後70年の時だったので、
00:58:50大気軍人の方が、戦争を経験した方が参加していたんですね。
00:58:55ついていた人に取材したいんだけどという話をしたら、
00:58:58絶対にやめた方がいいと言って、
00:59:01本当に怒りが大きくて、
00:59:05トラブルになるからやめた方がいいというようなことを言われて、
00:59:09その温度感の差にすごくショックも受けましたし、
00:59:15そういう状況の中で和解という流れができてくる一つの大きなきっかけは、
00:59:21ディックさんが遺作として残された本の一番最後のところで、
00:59:28和解をということを書かれたと。
00:59:31実はディックさんの娘さんから聞いた話がありまして、
00:59:37ディックさんも最初は日本に対してかなり怒りを込めて、
00:59:42総合を書いていたと、憎しみを込めて書いたんですけど、
00:59:48これが将来の、例えば二度と同じことを起こさないという目標を掲げた場合に、
00:59:57これだけじゃダメだって思ったんだそうです。
01:00:00ディックさんが日本兵の手記を英語に翻訳しているんですけども、
01:00:09日本兵も苦しんでいたというような要請が書かれていたと。
01:00:12やっぱりこれ、みんな苦しんでいたんじゃないかというようなところを、
01:00:16ディックさんが自らどんどん調べて知ることによって、
01:00:21そこでやっぱり和解しなきゃダメだねという方向に向かっていったというふうに。
01:00:25やはり和解を提示できるのは、被害者側だけだと思うんですけれども、
01:00:34やっぱり苦しんでいるから、この圧倒的な不条理をずっと苦しみ続けていて、
01:00:39それを解放できるのは知ることしかない。
01:00:42何が起きて、どうしてこうなったのか、
01:00:45それしかないという思いだったのではないかと思います。
01:00:47ユマトスさんがディックさんに、
01:00:51事実だけを追うと遺族を傷つけてしまうのではないかみたいなね、
01:00:57そういったメールを送った時のディックさんの返事が、
01:01:04自分たちに都合のいい歴史は何も学べない。
01:01:09ディックさんの深い洞察、覚悟には本当に感銘しました。
01:01:15リクさん、やっぱり広島、長崎とか東京大空襲とか、
01:01:21日本人が被害になったことに関しては、
01:01:24我々の方が加害側だったということで、
01:01:27戦争をお互いにやりあっているので、
01:01:31複雑なものは複雑に見ていかなければならないというようなことをおっしゃっていて、
01:01:37今起きている戦争とかに関しても、
01:01:40やっぱり自分たちのことしか見えていないので、
01:01:42そこは本当に非常に深く考えておられたなということを感じました。
01:01:50和解への動きの中では、
01:01:53日本兵あるいはオーストラリア兵とは全く違う立場の地元、
01:01:58ボルネオ島の方、家族7人を殺害されたシンシアさんも出てこられますね。
01:02:04シンシアさんは日本人の人に、
01:02:07私の家族が被った被害を知ってほしいということを強く願っていて、
01:02:14その相手をずっと探していたんですね。
01:02:17古井さんと出会って話を聞いてもらえたということが、
01:02:21すごく癒しになったというふうにおっしゃっていて、
01:02:24すごく印象的だったのが、
01:02:29ババ中将の写真を見ると、
01:02:32ババさんの家族とか古井さんの顔が浮かぶっておっしゃっていて、
01:02:36それまでは加害者とか日本人とか、
01:02:39漠然とした存在だったものが、
01:02:42具体的な個人として結びついた。
01:02:45すごく彼らはいい人だし、
01:02:49ここに来るのは勇気がいっただろうと、
01:02:52それでも来てくれたという、
01:02:53互いをよく知ることが、
01:02:56もしかしてその憎しみから抜け出すための
01:02:59一歩になったのではないかなというふうに感じました。
01:03:03打ち合わせ30回もやったんですけど、
01:03:06実際に直接会うまでというのは、
01:03:08やっぱり離れているから、
01:03:11どんなことを思っているかってわからないんですけど、
01:03:13同じ場所で一緒に旅をして、
01:03:18一緒にご飯を食べて、
01:03:20それぞれの家族の話を聞いていると、
01:03:23やっぱりそこが原点になって、
01:03:26じゃあどうしたらよかったのか、
01:03:28どう防げばよかったのかみたいなですね、
01:03:31ところにまた考えが、
01:03:33それぞれ及んでいくみたいなところがあって、
01:03:37今80年経ったからこそ、
01:03:40冷静にお互いのことを知れるという部分が、
01:03:43あるのかなと思うんですね。
01:03:45ババさんのお父さんが、
01:03:47日本は神の国だって言ってた。
01:03:50お父さん、自殺しちゃったリチャードさんの、
01:03:53母が生きてた時だとしたら、
01:03:56今回のような和解の取り組みできなかっただろうって。
01:03:59若いって一家制のことじゃないなというふうに、
01:04:05実際行ってみて思って、
01:04:09交流を続けて、
01:04:10お互いのことを知る。
01:04:15さらに広げていければいいなというふうには思っていて。
01:04:2180年が経ったからこそできることって、
01:04:24これはもちろんあるんだけれども、
01:04:25じゃあ、戦争が起きるために、
01:04:2880年待たなきゃいけないのかというと、
01:04:30どうにかして、
01:04:31多分努力をしなきゃいけないと思うんですね。
01:04:35南アフリカ、アパルテヘイトの社会は分断されていた状態に、
01:04:40民主化されて、
01:04:42真実和解委員会というのを足し上げたんですね。
01:04:45この真実というところが結構大事だと思うんですね。
01:04:48何があったのかを話し合おうよと。
01:04:51実は私はこんなことをしちゃったんだと泣いて、
01:04:55遺族側の言い分もあって、
01:04:57それが何かの癒しになるというか、
01:05:02何かの和解につながるんじゃないかと。
01:05:03賛否両論があるんですけど、
01:05:05一応、成功例としては見られていますね。
01:05:10被害者遺族のディックさんとシンシアさんは、
01:05:13加害者遺族のユモトさんに謝罪は要求しました?
01:05:21直接というのはないですね。
01:05:23謝罪、要求はしてないですね。
01:05:27いつまで日本は謝り続けなければいけないんだということを、
01:05:31たまにね、そういうことを言う人がいるけれど、
01:05:36遺族たちは謝罪を要求しているのではなくて、
01:05:41忘れないでくれと。
01:05:42その思いだと思うんですよ。
01:05:47この事実を。
01:05:49ところが今の日本って、
01:05:52自分たちにとって都合の悪い歴史から目を背けようとする。
01:05:57なかったことにしようとする。
01:05:58だから、やっぱりメディアと教育って本当にそういう意味ではね、
01:06:04自分たちの過ちを、
01:06:07加害をしっかりと記憶する上では、
01:06:09とても大切な装置で、
01:06:11こういう作品がもっともっと増えてくれればいいし、
01:06:17立派なお仕事をしてくれたなと思います。
01:06:21ありがとうございます。
01:06:231050年、これから何をしていくべきなのかということに、
01:06:27大事な示唆を含んでいる番組だというふうに思いました。
01:06:32井本和弘さんでした。
01:06:34ありがとうございました。
01:06:34ありがとうございました。
01:06:36さあ、ザ・ベストテレビ2025、
01:06:39次回お送りする番組は、
01:06:42NHKスペシャル、
01:06:43法医学者たちの告白です。
01:06:46ぜひご覧ください。
01:06:48今日は皆さん、ありがとうございました。
01:06:51ありがとうございました。
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