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00:00:0030分です
00:00:00皆さんこんばんは
00:00:115回にわたってお届けしている
00:00:13The Best TV 2025
00:00:16NHKと民放で放送された
00:00:19優れたドキュメンタリー番組を
00:00:21たっぷりとご紹介しています
00:00:23この1年間に
00:00:25国内の代表的な
00:00:275つのテレビ番組のコンクールで
00:00:30最高賞を受賞した作品を中心に
00:00:33ご覧いただきます
00:00:34それではゲストの方々を
00:00:37ご紹介いたしましょう
00:00:38作家で映画監督の森達也さん
00:00:41こんばんはよろしくお願いします
00:00:43ノンフィクション作家の
00:00:45河合香里さん
00:00:46よろしくお願いします
00:00:47大阪大学大学院の教授で
00:00:50国際政治とメディア学がご専門の
00:00:53バージル・ホーキンスさんです
00:00:55よろしくお願いします
00:00:56皆さんよろしくお願いします
00:00:57こちらがラインナップです
00:01:02最高賞を受賞した作品を
00:01:05全編放送します
00:01:06今回お送りする
00:01:11地方の時代映像祭
00:01:13この賞は
00:01:15地域でなければ見えないもの
00:01:17地方でなければ伝えられないことを
00:01:20問い続けてきました
00:01:21審査員特別賞
00:01:24放送局部門の優秀賞
00:01:27戦勝のダイジェストをご覧ください
00:01:29ご視聴ありがとうございました
00:01:35ご視聴ありがとうございました
00:01:37ご視聴ありがとうございました
00:01:37I'm not sure if I'm going to be able to see the same kind of drama.
00:02:07He has to be an issue with the other people who wrote this book, I don't know if he wrote it.
00:02:12政治と金の問題を追求して24年、なぜ告発を続けるのか、一人の研究者が権力と対峙する理由、それは。
00:02:33日本の裁判で一体誰が一番悪いと思います?
00:02:38聞かれると裁判官と答え
00:02:41一人気になる裁判官が
00:02:44一年半の公裁裁判長の間に逆転無罪が7件
00:02:49他の裁判長がこんなことをやるはずがないです
00:02:52逆転無罪を連発されたシーンは何だったでしょうか
00:02:58真剣に取り組んだらそうなったということです
00:03:02オソによるものと思われる被害は
00:03:05合計65頭で発生しており
00:03:08残念ながら
00:03:09なかなかのやつを見るよ
00:03:11一旦学習してしまうと
00:03:14それをずっと繰り返す
00:03:174年にわたって66頭の死を襲い
00:03:22怪物ヒグマと恐れられてきた
00:03:25オソ18とは一体何者だったのか
00:03:32東南アジアの島ボルネオ島
00:03:36戦争中この島を占領していた日本軍が出した移動命令
00:03:41食料も薬もない中で日本軍のおよそ8500人
00:03:49イギリスとオーストラリアの捕虜およそ2400人民間人も500人ほどが次々と死亡しかし長い間事実は語られなかったといいます
00:04:03国と地方の関係を対等な協力関係へと転換したはずだった
00:04:10地方自治が生きるか死ぬかというぐらいのね、厳しい局面に今、追い込まれていると。
00:04:17辺野古のこの戦いっていうのは、この日本のね、政治のいろいろな歪みがありますよね。その根本がね、ここにもあるんですよ。
00:04:26沖縄の自治は今、海に葬られようとしている。
00:04:33野戸半島地震から4ヶ月近くが過ぎても復旧は進んでいません。
00:04:40中段いてんですよ。どうしようもないって。
00:04:45地震が過疎に追い打ちをかけていました。
00:04:50今の野戸の姿は20年前の中越地震の姿と重なります。
00:04:57過疎と震災、重い課題が突きつけられています。
00:05:04第44回、地方の時代映像祭2024グランプリ作品です。
00:05:12名古屋テレビ放送が制作し、2024年5月に放送しました。
00:05:18名テレドキュメント、手のひらで空は隠せない1926木の下事件です。
00:05:27ここに殺害された2人の墓石が押し込められていました。
00:05:42ペサンドさんとイ・ギウンさん。
00:05:49先人。
00:05:52朝鮮人の差別用語です。
00:05:572人は1926年、三重県木の下町で殺害されました。
00:06:04木の下事件です。
00:06:06生きている時も差別を受けて、また亡くなってからも差別を受けて。
00:06:12朝鮮人だという理由だけで、多くの人が殺害された関東大震災。
00:06:27その3年後に、木の下事件が起きました。
00:06:36トンネルの建設工事に携わっていた朝鮮人も、町民が集団で襲ったのです。
00:06:42木の下事件ってご存知ですか?
00:06:47木の下事件。
00:06:49木の下事件なんて僕らは知らんけど。
00:06:53多忙やからね。多忙になっとくから。
00:06:58虐殺はなぜ繰り返されたのか。
00:07:03100年続く差別と向き合う人たちがいます。
00:07:17三重県南部、熊野市。
00:07:21人口はおよそ1万5,000人です。
00:07:33太平洋に向かって突き出した祈願、獅子岩。
00:07:41熊野古道など世界遺産の名所が点在する観光の町です。
00:07:47熊野市の中心部に近い木の下町。
00:07:57町の外れにある木の下随道が、事件の舞台に遺産されました。
00:08:02熊野市の中心部に近い木の下町。
00:08:08町の外れにある木の下随道が、事件の舞台に遺産されました。
00:08:13町の外れにある木の下随道が、事件の舞台になったトンネルです。
00:08:19トンネルは熊野古道の難所、松本峠の下に掘られました。
00:08:34トンネルができる前、隣町へ行くには、
00:08:40熊野古道で山を越えるか、船を使うしか、方法がありませんでした。
00:08:46トンネルの完成は、町民にとって悲願でした。
00:08:52木の下事件は、このトンネルが完成する半年前に起きました。
00:09:04この日、木の下事件を取材するため、初めて現場を訪れました。
00:09:21リュウさんは在日コリアン3世出版社で働いています。
00:09:35仕事がもう朝鮮半島ではなくなってますからねこっちに来てなんとか仕事にありついて大変だけど頑張ったんでしょうね。
00:09:57事件と向き合う数少ない町民の一人です。
00:10:17足立さんに事件の現場を案内してもらいました。
00:10:28目撃者が残した地図です。
00:10:34当時、木の下町には、トンネル工事のため多くの作業員が出稼ぎに来ていました。
00:10:42そのほとんどが朝鮮人で、半場と呼ばれる宿舎に集まって暮らしていました。
00:10:49木の下町にいた朝鮮人は、作業員の家族を含めると、大きくなりました。
00:11:13木の下町にいた朝鮮人は、作業員の家族を含めると、多い時で200人を超えました。
00:11:26事件の発端は、町の中心部にあった映画館でのトラブルでした。
00:11:38友人に会うため、中に入ろうとした朝鮮人と、映画館側の日本人が、料金の支払いをめぐって口論となり、
00:11:48日本人が朝鮮人を日本刀で切りつけ、重傷を負わせました。
00:11:57翌日、大勢の朝鮮人が木の下神社に集まりました。
00:12:12最初、朝鮮人労働者の数が集まって、こちらのほうで、これからどうして行こうかという話し合いをここで持ったみたいなんですよね。
00:12:22集まった朝鮮人と町民との小競り合いが、町全体を巻き込む衝突へと発展していきました。
00:12:37その理由を物語る資料があります。
00:12:52郷土史家の平康史が地域の歴史をまとめたノート。
00:13:03平ノートです。
00:13:08この中に、当時の木の下町長の手記が書き写されています。
00:13:17草城の前夜、明治座において一つの喧嘩があった。
00:13:22その時に、先人は銅座を焼き払うなどと要言したので、
00:13:27付近の人々が心配して安眠ができなかったという流言家庇護に戦慄している時であるから。
00:13:35喧嘩そのものよりも火災が安ぜられたのである。
00:13:40町長は警察と協議。
00:13:47町長のほか、在郷軍人会や消防の幹部が役場に集まり、緊急会議が開かれました。
00:13:58町は鉄砲所持者に協力を要請。
00:14:03消防に出動を命じ、自警団が結成されました。
00:14:10自警団は日本刀や飛口などを手に、警戒に当たりました。
00:14:16自警団は日本刀や飛口などを手に警戒に当たりました。
00:14:29在郷軍人会の幹部として自警団に加わった谷川義和さん。
00:14:38自身の行動や自警団の動きを書き残していました。
00:14:44中学校に配備されてある銃剣を借りることにした。
00:14:51学校に連絡して承諾を取り、武器庫を開けてもらい、校庭に出て分解部隊の到着を待った。
00:14:59消防組の一体は消火用の飛口を持っている。
00:15:14歓声を上げて走ってきたが、そのまま労務車半馬を吸収。
00:15:20バラックの建物をぶち壊し始めた。
00:15:24襲われた朝鮮人は山やトンネルに避難。
00:15:34それを自警団が追い詰めていきました。
00:15:45在郷軍人会の元幹部が大声で命令した。
00:15:51住民は不安に駆られている。
00:15:55今からお勝ちに突撃を勘行し、彼らを一人一人連行する。
00:16:01警備隊員、続け。
00:16:05警備隊は段々畑の中の細道を、わーっと歓声を上げて駆け上がった。
00:16:12トンネルに逃げた朝鮮人は、数名いた日本人作業員とともに、工事用のダイナマイトで反撃。
00:16:29町民側は銃で応戦しました。
00:16:39このとき、谷川さんは犠牲者の一人、ペサンドさんが殺害される様子を見ていました。
00:16:51雑踏の中を、木の本神社方面から、人並みに揉まれながら橋に向かって近寄ってくる一人の総監がいた。
00:17:00笛吹橋までおよそ五十メートルほどの地点に来たとき、男の叫び声が聞き取れた。
00:17:10わしはダイナマイトの保管責任者だ。通してくれ。
00:17:17ダイナマイトを投げるのを止めてくると、悲壮な声で訴えているのだ。
00:17:23だが、群衆は聞き入れない。
00:17:30やれ、やれ、やれと言った怒声。
00:17:36大変なことになると直感したが、どうする暇もない。
00:17:42男の頭上に、いろんな狂気が雨のように降り注いだ。
00:17:48もう一人の犠牲者、イ・ギウンさんも、ほぼ同じ場所で殺害されたとみられています。
00:17:59二人の遺体は町の中を引きずられ、極楽寺の墓地に運び込まれました。
00:18:11当時から残る建物、その窓から遺体を見ていた人がいました。
00:18:18事件現場の地図を書き残した人物。
00:18:34松島茂春さんです。
00:18:41山へ逃れた人、捕らえられた人、朝鮮人全員が町を追われました。
00:18:56山へ逃れた人、捕らえられた人、朝鮮人全員が町を追われました。
00:19:08木の本事件というのが今もそうなんですけれども、木の本町では話題にされない、話をされない事件となっていまして、私も地元の小学校、中学校、高校と出ていますけれども、一回も聞いたことがなかったんですね。
00:19:35地元で語り継がれなかった木の本事件。
00:19:42名古屋の出版社、風売社。
00:19:57龍英翔さんはこの出版社の編集長です。
00:20:03風売社は1963年に稲垣清さんが設立。
00:20:20社会科学書や社会問題を扱ったノンフィクション。
00:20:25郷土の歴史書などを出版してきました。
00:20:29風売社の編集長
00:20:36例えばこれが林英大さんの本で、僕はこの本で、その前から風売社という会社を知ってたんですけど、これを見つけて、それでその後ここに入ることになったみたいな本ですね。
00:20:54やっぱり我々は東京とか中央でやってるわけではなくて、名古屋っていうのは大都市ですけど、中央ではないところでやってますから、そういったセンターが中心が取りこぼすような。
00:21:12むしろ地域にあるから、より社会の矛盾とか、いろんな仕組みの矛盾みたいなものが際立ってくるっていう傾向はあるんですよね。
00:21:23原発なんかそのいい例だと思いますけど、そういったものが誰か、本にして誰かに届くようにっていう受け皿として機能したいなっていうのは、それはこの会社ができてからのやっぱり考え方ですから、それを今でも続けてるっていうことですね。
00:21:45何よりもすごいのが、ずーっと活字を見てて、お昼休みとか休憩時間も新聞開いて活字読んでるんですね。
00:21:57かなり広い範囲の知識があるので、困ったら相談するという感じですかね。
00:22:04これは関東大震災の朝鮮人虐殺に関する資料と、その周辺のいろんな事件とか、それ以前に起きた事件なんかの本を書くために使っています。
00:22:11全部じゃないんですけど、ある程度持ってきたものですね。
00:22:41関東大震災で、多くの人が朝鮮人だという理由で殺されました。
00:22:50虐殺はなぜ起きたのか、劉さんはその歴史的背景を調べてきました。
00:23:02それを去年一冊の本にまとめました。
00:23:11何を伝えたかったっていうよりも、僕自身のルーツのこともあって、
00:23:17今こんなに日本と朝鮮、韓国っていうのが非常に緊張感が高まっているような状況の中で、
00:23:26じゃあ原点、何が悪くて、どんな出会い方をしてこういうことになっていったのかっていうことを、
00:23:32自分なりに知りたかったっていうことで確かめる作業で書き始めたんです。
00:23:38本を書く過程で、劉さんは子供の頃のある体験を思い出しました。
00:23:53小学校で友達と相撲を取ったときのことです。
00:23:59意外と相撲が強かったんですよ。粘りも強かったんですけど。
00:24:04それでクラスで男の子たちとやって、最後決勝戦に残るんですよ。
00:24:09うちの家庭っていうのは韓国籍、朝鮮籍であるっていうことを隠さないと、
00:24:15暮らしていけないと、何されるか分からないっていうことをずっと言われてたんですけど、
00:24:20相撲の決勝戦のときにクラスメイトたちが、
00:24:24朝鮮人に負けるなっていう掛け声を始めるんですよね。
00:24:29それでびっくりして、一つは隠してるつもりだけど、
00:24:36でもみんな知ってる。
00:24:38そうやって知ってると、みんな敵になるんだっていうことを、
00:24:43そのとき初めて体験して、
00:24:45ちょうどその頃、関東大震災の虐殺を知ったので、
00:24:50何かつながるものがあるなと思ったのが、
00:24:54何か原点みたいなものだったなと思い出しました。
00:24:59在日コリアンとして幼いときに感じた恐怖。
00:25:05その源が、関東大震災当時の日本社会にあると、
00:25:12劉さんは考えるようになりました。
00:25:24関東大震災の2年後に描かれた絵巻物です。
00:25:31軍服のような服装の人々が、武器を手に、
00:25:35集団で人を襲う様子が描かれています。
00:25:49警察官と見られる人たちが、遺体を取り囲む様子も。
00:26:01関東大震災を経験した画家、川目定治が描いた水彩画です。
00:26:09警察官に後ろ手に縛られた人。
00:26:14日本人に銃剣を突きつけられる人。
00:26:21日本刀で切りつけられる人。
00:26:27地震の後、川目は東京を歩き回り、
00:26:33街を包む異様な空気を記録していました。
00:26:48劉さんが注目したのが、震災当時使われていた不定戦人という差別用語。
00:26:57不平を抱いて無法に振る舞う朝鮮人という意味です。
00:27:03関東大震災みたいな大地震が起きて、
00:27:09その時の集団心理とか、群衆心理とか、
00:27:13異常心理みたいなものがそれをさせたんだというところも
00:27:17ちょっと強調されているような気がしていて、
00:27:20それは違うんじゃないのかな。
00:27:22関東大震災が起きる前からやっぱり、
00:27:25虐殺を起こさせる種みたいなものは何か残っている。
00:27:30それが繋がって虐殺の導火性になっていったんじゃないのか、
00:27:35というふうに考えたんですね。
00:27:38不定戦人という言葉は、1920年代、
00:27:47日本の植民地政策を背景に広く使われるようになりました。
00:27:53日本の植民地支配に対する独立運動の歴史を調査し、伝えています。
00:28:23研究委員のペヨンミさんは、不定戦人という言葉がメディアによって拡散され、
00:28:32虐殺の下地を作ったと考えています。
00:28:36愚かで何をしてかすか分からない、だから非常に危ないし危険、警戒もするけれども、差別もする、非常に複雑なイメージが全部絡み合ったのが不定戦人という言葉なんですけれども。
00:28:55日本による植民地支配が始まって9年後、1919年3月1日にソウルの公園で、朝鮮の独立を宣言する集会が開かれました。
00:29:103.1独立運動です。
00:29:22集会やデモが、朝鮮半島各地で同時多発的に発生しました。
00:29:31朝鮮独立を叫ぶ人々を、日本の軍や警察、在豪軍人会などが弾圧。
00:29:42多くの朝鮮人が殺害されました。
00:29:53独立運動は、朝鮮半島にとどまりませんでした。
00:30:011920年、中国の昆春という町にあった日本領事館が襲撃されます。
00:30:10当時、朝鮮やロシアの国境に近い中国の地域は関東地方と呼ばれ、朝鮮半島出身者も多く暮らしていました。
00:30:26領事館襲撃への報復として、日本は関東地方に軍を派遣しました。
00:30:36日本は中国に協力を要請しますが、中国が応じなかったため、日本単独での派兵に踏み切りました。
00:30:47陸軍大臣から朝鮮軍司令官に宛てた電報の原案です。
00:30:53自衛所をやむを得ず、単独に不定先人討伐を実行するに決せり。
00:31:02軍の派遣を正当化するために、不定先人という言葉が使われました。
00:31:17関東出兵の後、軍は死傷者について調査を行っていました。
00:31:28死亡したのは、朝鮮人522人、中国人9人。
00:31:36死傷者のリストには、殺害方法とその理由が記されています。
00:31:51銃剣にて突き殺す。
00:31:58独立団に加入し、不定先人なること確実。
00:32:07不定先人として取り調べ中。
00:32:10抵抗したるにつき射殺す。
00:32:14関東出兵が決まった頃の新聞記事。
00:32:273回のシリーズで掲載されました。
00:32:33独立を求める多くの朝鮮人が、朝鮮半島から関東地方に移住していると伝え、日本の派兵を後押ししました。
00:32:50不定先人と見出しをつけた新聞記事は、1920年に急増しました。
00:32:58関東大震災が起きたのは、その3年後です。
00:33:05日本の支配に浜く朝鮮人は、殺してもいいということが内面化したんだと私は思うんです。
00:33:14心の中で、いかに植民地の時代、帝国主義の時代であろうとも、
00:33:21民間の人、軍や警察も、軍、警察、民間が一つになって、一つの民族を数千人規模で殺すということはあってはならなかったということが、
00:33:32日本社会できちんと整理され、そのことが整理されていれば、木下事件は絶対起こらなかったはずです。
00:33:39木下事件が起きる前、町では朝鮮人について、どのような報道がなされていたのか。
00:33:46資料館に当時の地元紙が保管されています。
00:33:59木下事件が起きる前、町では朝鮮人について、どのような報道がなされていたのか。
00:34:10資料館に当時の地元紙が保管されています。
00:34:23関東大震災から6日後の記事です。
00:34:29震災を体験した人の証言が大きく取り上げられています。
00:34:41朝鮮人に対する憎悪や偏見を煽る見出しが踊ります。
00:34:46女子供を隠せ。
00:34:53朝鮮人は女子供とみれば暴行し、殺戮する。
00:35:00先人7名がやってきたので、男20人は直ちに捕らえて縛り付けた。
00:35:08この時には先人とみれば殺してしまえということになっていたのである。
00:35:20当時ですね、ここは大変、陸のことといわれていましてね、なかなか情報が入りにくいんですね。
00:35:29そういう中で、この地方紙の情報というのは大変貴重なものだった。
00:35:36こちらの人は順が多くない人が多いですから、療法については間に受けていると思います。
00:35:44不定先人という言葉で刷り込まれた朝鮮人への差別。
00:35:56関東大震災で問われなかった虐殺の責任。
00:36:02その3年後に起きた木下事件。
00:36:06木下事件の裁判では殺害に関わった罪で町民側の3人が懲役2年の実刑判決を受けました。
00:36:21しかし、昭和天皇の即位による恩赦で釈放されています。
00:36:31木下事件の6年後、岩手県で再び朝鮮人が犠牲になる事件が起きました。
00:36:42旧国鉄大船渡線の建設が進められていた陸前高田市で、
00:36:49朝鮮人労働者が労働条件の改善を要求。
00:36:55土木業者と日本人作業員が集団で販売を襲い、朝鮮人3人が殺害されました。
00:37:04八萩事件です。
00:37:06この時もあるうわさが広まっていました。
00:37:16朝鮮人がこのケツ沼からも集められて、報道を起こすという話がうまく作られて、その前にということで、戦道を煽られたのかな。
00:37:29夜。
00:37:38400年前から続く木下神社の霊体祭。
00:37:44極楽寺の住職、足立さんも参加していました。
00:37:59普段町を離れている若者たちが里帰りし、町は賑やかさを取り戻します。
00:38:16かつて漁師町だった木下町。
00:38:29勇壮なみこしの引き回しで、負傷者を出すこともあります。
00:38:33町の周辺では道路網の整備が進み、木下水道を使う人も少なくなりました。
00:38:50事件について語ろうとする人はほとんどいません。
00:39:05木下事件ってご存知ですか?
00:39:07木下事件。
00:39:09木下事件なんて僕らは知らないけど。
00:39:12もう私ももう86ですけどね。
00:39:15それはちょっと聞いてないね。
00:39:19俺の母親から聞いたこともあるよ、私。
00:39:22もう悲駄なこと言うなら、もう回転後悔招くてから、やめ、この話は。
00:39:27そうなんですね。
00:39:28そうしてください。
00:39:29同級生の親父なんかも豚箱が入ってからさ、出てきたったんでね。
00:39:37で、どうして豚箱が入ったんやいったら、俺も関わったったんやいってさ。
00:39:43それをそび口持ってやったんやいって、やったんでな。
00:39:49何てこないたってから調べるんですか。
00:39:52はっきり言って言われてるの。
00:39:54私たちも。
00:39:55もっと早く調べるの。
00:39:57なんかしゃべりにくいようなことなんですか。
00:40:00そんな関係ない私ら。
00:40:02私ら聞いたのは日本人やないっていうのを聞いただけ。
00:40:06多忙やからね。
00:40:10多忙になっておるから。
00:40:12もうその経験者いないからね。
00:40:15その子孫やら、いらっしゃってそれ。
00:40:20本当に弊害あるから。
00:40:25トンネルの脇に木の元事件の追悼碑が立てられました。
00:40:32市民団体の運動によるものです。
00:40:45犠牲になった2人の名前が刻まれています。
00:41:00朝鮮で一番親しまれている花といいますか。
00:41:15それをわざわざ植えてくれてるんですよね。
00:41:31追悼碑を立てた団体の代表、キム・チョンミさんです。
00:41:46歴史家でもあるキムさんは1980年代、何度も熊野市に通って証言を集め、多くの文献などをもとにして事件の経緯を論文にまとめました。
00:42:12そして、事件のことを後世に伝えようと追悼碑を立てました。
00:42:21その取り組みに当初は熊野市も参加する予定でした。
00:42:28熊野市の中に、やはり私たちの会の活動に共感する人たちが何人かいましてね。
00:42:34その人たちが追悼碑を混流する熊野市民の会っていうのを作ったんですよ。
00:42:39私たちの会と追悼碑を混流する熊野市民の会と熊野市が3社で追悼碑を混流するという会議も何回もやったんですよね。
00:42:48熊野市は200万円の予算を計上しました。
00:42:54しかし、虐殺という表現や非文の文言などをめぐって意見が対立。
00:43:01キムさんの団体だけで日を立てることになりました。
00:43:06仲間の追悼碑をね。
00:43:11あそこで作ってしまったら、名前が残るから。
00:43:15誰かがどんな形にしろあのイーギュンシとペーターンズ氏の名前を覚えてくれたら。
00:43:20100年後、200年後にどういう形だったんだろうって思う。
00:43:25それでもいいんですよ。
00:43:26そのようにまあそういう追悼碑ですよね。
00:43:30そういう事件ですよね。
00:43:341983年に発行された熊野市市。
00:43:40木下事件について、国の人種的偏見による政策がもたらせたものと指摘したうえで、町民としては、まことに素朴な愛聴心の発露であったと記載していました。
00:43:59この愛聴心の発露という表現が、事件を正当化しているとして、金さんらが削除を要求。
00:44:09熊野市は、文言を削除するよう、高読者に依頼しました。
00:44:19熊野市は、その後も詳しい調査や追悼行事を行っていません。
00:44:26市は、今、事件についてどう考えているのか。
00:44:31市長にインタビューを申し込んだところ、教育委員会からファックスが届きました。
00:44:41木下トンネル騒動は、あってはならない悲しい事件でした。
00:44:46すべての人々がお互いを尊重し、多様性を認め合う心豊かな町づくりを進めていく必要があると考えています。
00:44:58殺害されたペサンドさんの出身地、プサン。
00:45:07ペサンドさんの家があった場所は、今、公園になっています。
00:45:13孫のチョリョンさんです。
00:45:25被害者の遺族として、木下トンネルの人たちにどんな感情を抱いているのか、訪ねてみました。
00:45:34現時の人々は、この事件とは関係がありません。
00:45:40この事件とは感情がありません。
00:45:43でも、事件は起きました。
00:45:47記憶は残っています。
00:45:49真実は、この事件を背中に天を見ることができません。
00:45:55そして、反省は決めました。
00:45:591980年代末、極楽寺の無縁塚から、木下事件の犠牲者2人の破壊死が見つかりました。
00:46:16市民団体の調査によるものでした。
00:46:22調査に協力した、松島茂春さん。
00:46:27事件の地図を書いた人です。
00:46:32場所はどうしてわかったんですか、こんだけたくさんあるのに。
00:46:35知っとったねろ、どうせね。
00:46:37お父さんか。
00:46:38知っとったと思う。
00:46:41何か、思うとこあったんかもね。
00:46:46今たなってわからん。
00:46:49刻まれた戒名は日本での通名から取ったものでした。
00:47:02見つかった墓石の横に、2人の本名を刻んだ墓があります。
00:47:17住職の足立さんが2000年に建てました。
00:47:24生きている時も差別を受けて、また亡くなってからも差別を受けて、その差別が何十年も続いている。
00:47:34ここで私は20世紀に起こったことで、20世紀のうちに何か解決ができないかということで、こちらの方を婚礼をさせていただいたんですけれども。
00:47:42それがこの言葉になるわけですね。
00:47:57ブッダの宝尊として、この墓石の前で経を読み。
00:48:03一人の人間として一輪の花を手向けるとき。
00:48:08お二人の尊い命の悲しみ、差別される人の悲しみが癒されることを願う。
00:48:18差別する人の心が開かれることを祈る。
00:48:28三重県内の小学校の依頼で、足立さんは2007年以降、何度か子どもたちに木の元事件の話をしました。
00:48:39命っていうのを一番伝えたかったんですね。その命を伝えていく中で、差別やいじめの問題っていうのもどうしても出てきますので。
00:49:00極楽寺を訪れたのは6年生。平和教育の一環でした。
00:49:07なぜ木の元事件に目を向けたのでしょうか。
00:49:12極楽寺訪問を企画した教師の一人、山本光三さん。
00:49:19三重県出身で、木の元町の高校を出ています。
00:49:25自分の反省もあると思いますね。
00:49:29やっぱり自分の人生の中で、やっぱり同じように関心を持たずに生活してきた一人として、いろいろな事実に目を向けたときにそれを理解し、さまざまな考えに触れることで自分の未来を考える。
00:49:54それは子どもが育つことですもんね。
00:50:01私が書いた感想文。
00:50:08日本人って何だろうと思いました。
00:50:11国籍という鎖で縛られ縛りつけて、そのせいで大切なことを忘れてしまっていると思います。
00:50:20日本が良いことばかりをしているわけではない。
00:50:28反対に悪いこともしてきた。
00:50:31その悪いことも勉強しなければいけないと思います。
00:50:37世界中で差別する人、される人、いっぱいいると思います。
00:50:44僕は止めたいです。
00:50:46誰にでも幸せに生きる権利があるからです。
00:50:51印象的なこともありましたね。
00:51:03私は足立さんに出会っていなければ、他の人を自分の物差しで見ていたかもしれません。
00:51:12そういう別の物差しをお話からもらったっていうのも、この人はたぶん、その後そういう物差しをすごく大事にしているんじゃないかなと思いまして、うん。
00:51:28すごく良い作文だなと思いました。
00:51:33この感想文を書いた奥田春日さんです。
00:51:39多分、この書かせてもらっていることを見る限りでは、すごいやっぱり命の大切さっていうのを教えてもらってたのかなっていうふうには思いますね。
00:51:54奥田さんは小学校の先生になっていました。
00:51:59結構街ありますもんね。
00:52:02人権の学習をしていく上で、たぶん子どもたちに自分の実際に学んできた人権であったりとか、どういうところでどう思ったのかっていうのを伝える機会があるんじゃないかなっていうふうには思うので、
00:52:21今回の小学6年生の時に学ばせてもらった人権のことを少し思い出しながら伝えていけたらいいなというふうに思います。
00:52:33私は20世紀に起こった事件ですので20世紀のうちに墓石を建立して供養したいっていう気持ちでさせていただいてあとはですね私は生きているかぎり伝えていくあと2年後で100年迎えますけれどもお二人のご供養をですねつなげていくっていうのが私の思い出しです。
00:53:02今年4月、ある市民団体が追悼式を開きました。
00:53:32去年が関東大震災から100年だったこともあり例年より多い60人が参加しました。
00:53:44韓国人である僕も知らない事件に関して日本の方々が忘れられないようにこの集会を開き続けていることにすごく心から感謝な気持ちを込めて今回の集会に参加させていただきました。
00:54:11この日参加したのは県外から訪れた市民団体のメンバーや在日コリアンの大学生が中心。
00:54:21今の市の人はほんの数人でした。
00:54:28消えていく加害の記憶。消すことができない被害の傷。
00:54:38このままギャップを放置して記憶を埋めなければですね。
00:54:45もっと社会が閉塞状況に陥った時に、例えばそれが相手が在日コリアンかどうかは分かりませんけれども、その時に立場の一番弱いマイノリティの国籍の人たち、民族の人たちっていうところに虐殺が起きるとは思いませんけれども、大変な差別やヘイトがはけ口としていくだろうと思います。
00:55:09やはり起きた事実っていうものをちゃんと見据えて、お互い同じ立場から事件の解決、和解に向けて話をしていかないと、また100年なんていうのはすぐ経ってしまう。そういう意味で短い時間なんじゃないかなと思います。
00:55:25NHK都民報で放送された優れたドキュメンタリー番組をご紹介する、ザ・ベストテレビ2025、地方の時代映像祭のグランプリ作品。
00:55:39メーテレドキュメント、手のひらで空は隠せない1926木の下事件をご覧いただきました。
00:55:47関東大震災の3年後に地方の小さな町で起きた朝鮮人殺害事件。
00:55:55遠い過去の事件を紐解きながら、今にもつながる差別の構造に迫った番組でした。
00:56:02森さんは関東大震災の後に朝鮮人と間違われて日本人が殺害された福田村事件をテーマにした映画を作られていますけれど、どうご覧になったでしょうか。
00:56:13関東大震災における朝鮮人虐殺、これ政府も正式には認めていません。
00:56:21でも、多くの人は知っています。
00:56:24でも、知っている人の中にもパニックになって、そこの中で流言被護に浮き足立って朝鮮人を殺したというふうに解釈している人が結構多いんじゃないかと思うんですよ。
00:56:36その前にいろんな情勢されたものがあったわけで、ただ映画はドラマなので、なかなか描ききれない。
00:56:48福田村の村人がね、朝鮮人が暴動を起こしたという流言被護を耳にした時に、
00:56:55ああいう人は普段いじめられているから、怒ったら怖いっぺなみたいな、そういうセリフがあるんですけれど、
00:57:00ドラマですから、それほど実証的に論理的にそれを積み重ねて展開したわけではないんです。
00:57:06そして、メイテレのこの作品はね、なぜあんなことが起きたのか、あんなことになってしまったということを見事に示してくれたと思います。
00:57:18私、岸心淡路大震災の時に留学生支援のボランティアをしたんですけれども、
00:57:25留学生の方が何もしてないのに道で殴られたという話をして、
00:57:30やっぱり震災後で不安で、気が立っている異常な状態だったからというふうに、
00:57:36その時はずっと理解していたんですけれども、この番組を拝見して、すごいハッとなりました。
00:57:44記念碑を建てようとして、どういう文言を残すのかということが争われていて、
00:57:50ナショナリズムとかアイデンティティとか、そういうものに基づいた分断ということになってしまっているので、
00:57:57果たしてどれくらい状況が変わったんだろうかって、ちょっと悲観になってしまいますよね。
00:58:04番組の制作者をお呼びしています。プロデューサーを務めた名古屋テレビ放送の村瀬文則さんです。
00:58:11よろしくお願いします。
00:58:12よろしくお願いいたします。
00:58:13100年前の事件ですよね。しかもほとんど知られていない。
00:58:18どうして取材しようと思われましたか。
00:58:20はい。テレビの仕事のすごく大きな役目の一つとして、
00:58:25戦争状態になることを未然に防ぐような報道をちゃんとしなきゃいけないんじゃないかっていうのを常々持っています。
00:58:35最終的に戦争状態に陥る一番最後のトリガーは、
00:58:40僕は民族差別とか他者に対する憎悪とか、
00:58:44そういうものが合致したときに弾けちゃうんじゃないかっていう恐怖感がすごくあるんですね。
00:58:49その中で、例えば外国人に対する偏見とか憎悪みたいなことを、
00:58:57今、この社会がどういうふうに位置づけているのか、
00:59:01今どうなっているかっていうことを考えていく中で、
00:59:04100年前の朝鮮人虐殺っていうのは、
00:59:08もしかしたらそれと似たような状態が当時あったんじゃないかっていう気がすごくしました。
00:59:13ああいったことが何でこの国で起きたんだろうかってことは、
00:59:17ちゃんと理解をしたいし、
00:59:20それが生まれたメカニズムをちゃんと理解すれば、
00:59:24もしかしたらそれを和らげる方法が見つかるかもしれないっていう、
00:59:28すごく淡い期待があったもんですから、
00:59:34私どもの放送エリアが愛知県、岐阜県、三重県になるんですけれども、
00:59:38リュウさんにこういった事例ってないんですかって聞いたら、
00:59:42即答で秋の元事件っていうのがあるんだよ、
00:59:44知らないのって言われて、
00:59:46リュウさんはどの程度ご存知なんですかって聞いたら、
00:59:49僕もほとんど知らないから、
00:59:51一緒に調べようかっていうところからの取材になりました。
00:59:56はい、という思いも込めて、
01:00:00描かれた知られざる事件ですけど、
01:00:03どうご覧になりましたか。
01:00:04はい、事件のきっかけっていうのが、
01:00:08映画館での喧嘩っていう、
01:00:10些細なことだったっていうことに驚きました。
01:00:13その結果が、町民が集団で虐殺することにまで至るっていう、
01:00:19そこまでエスカレートした背景には、
01:00:21集団心理もありますけれども、
01:00:23それまで蓄積されていた、
01:00:27鬱屈した思いとか、
01:00:29やっぱり差別とか偏見っていうのがベースにあって、
01:00:33それが弾けたように大きな力になったのではないかな、
01:00:36というふうに感じました。
01:00:38関東大震災と木の下事件、
01:00:40その共通する背景があるんじゃないかっていう問題意識で、
01:00:44不定先陣という、
01:00:46これも関東大震災の時に使われた言葉ですね、
01:00:50その元を探っていこうとする。
01:00:52やはり言葉っていうのは恐ろしい側面があるなっていうのが、
01:00:57まず思いました。
01:00:59研究者のペイ・オンミンさんが、
01:01:01関東大震災後、
01:01:03日本の支配に向かう、
01:01:05歯向かう朝鮮人は、
01:01:08殺してもいいっていうことを、
01:01:10内面化した心の中で、
01:01:11というふうな、
01:01:12おっしゃっていた場面がありましたが、
01:01:14それを言語化したのが、
01:01:16不定先陣というお話でした。
01:01:18で、木の下町の方々は、
01:01:21外からやってきた朝鮮人の方々に対して、
01:01:25なんとなく怖いとか、
01:01:27詐欺すむような、
01:01:28もやもやした気持ちがあったのではないかと、
01:01:31それが新聞を通して広まっていった、
01:01:34不定先陣という言葉と結びついたことで、
01:01:37より過激な形で、
01:01:39内面化したんだと思います。
01:01:41今、河合さんがおっしゃった、
01:01:43その言葉って怖いですよね、
01:01:44とおっしゃったけど、
01:01:46僕今、
01:01:46テロリストという言葉がすごく安易に、
01:01:50世界レベルでインフレーションを起こしているなと思って、
01:01:53この言葉を使った瞬間にも絶対的な悪、
01:01:57もうこれは殲滅しなければいけないみたいな、
01:02:00もう一つは自衛ですね。
01:02:01自衛という言葉を使った瞬間に、
01:02:04全てが正当化されてしまう。
01:02:06自衛、当時は自形。
01:02:09そうですね、自形団の自形ですね。
01:02:11何が自形なんでしょうね、
01:02:13本当に結局ね、
01:02:14竹槍で橋の巣のようになるまで突き刺すっていう、
01:02:18その差別の構図というか、
01:02:21差別の概念もまたこれが、
01:02:23朝鮮半島から今度日本に入ってきて、
01:02:27で、木の本町みたいなところに入ってきて、
01:02:30その繋がりというか、
01:02:31この広がりもまたいろいろ考えさせられますね。
01:02:33あの、差別って公によって作られるんだなっていうことに気づきました。
01:02:41日本は朝鮮半島を植民地支配をしていて、
01:02:44それに抗うものは不定の輩であるという、
01:02:47その、すり込みっていうんですか。
01:02:49なんかそういう形で、
01:02:51その、植民地支配を正当化するために、
01:02:53ある種の人たちを差別するっていうことを、
01:02:57公の権力が、
01:02:58まあ、意図的に作り出してたんだっていうことに気づきました。
01:03:03まあ、その事件が100年前ですよね。
01:03:06で、またそれ50年前遡ると、
01:03:09その、リュウさんの相撲大会の話ありましたよね。
01:03:13朝鮮人に負けるなって。
01:03:14それが50年前ですよね。
01:03:17で、今の外国人問題だっていう言葉になってきて、
01:03:20どこまで我々が成長したのかっていうか、
01:03:26続いてるんじゃないですか。
01:03:27同じような問題が。
01:03:30何かしら似た構図というのは、
01:03:33今でもあるんじゃないかなというふうに、
01:03:35私は感じています。
01:03:37そういう中で、歴史をどう受け止め伝えていくか、
01:03:40ということが問われていると思うんですけど、
01:03:43木下事件でなくなったペサンドさんのお孫さんの言葉、
01:03:47手のひらで大空を隠すことはできない、
01:03:51だから反省してほしいという言葉がありました。
01:03:54そうですね。
01:03:54大きな空を手で隠した、隠している方は隠しているつもりかもしれないけれども、
01:04:00全然隠れていませんよと。
01:04:01その空のように大きな事実っていうのは、
01:04:05手のひらでは隠せないぐらい大きいし重いっていうことだと思うんですが、
01:04:09つまり、加害をしたことの後ろめたさとか、
01:04:12怯えみたいなものが、おそらくやった側にも残る。
01:04:16でもそれは、自分たちが何をしたのかということと向き合わないと、
01:04:20解消できないと思うんですよ。
01:04:22そういう作業をきちんとすべきなんじゃないですか、
01:04:25ということは、ペチョリオンさんは、
01:04:27我々に伝えたかったんじゃないかなというふうに思います。
01:04:30熊野志氏に、誠に素朴な愛聴心の発露だったと書かれていたことには、
01:04:37本当に衝撃を受けました。
01:04:41立場によって見えるものは、もちろん違うんでしょうが、
01:04:45現状では、もう加害の事実に向き合いたくないという、
01:04:48以前にですね、無関心という、
01:04:51そういった側面が大きいのではないかなというふうに感じました。
01:04:55でも、ちゃんとそれを状況を変えようとしているという人たちがいて、
01:04:59しかもそれが、小学生が気づくというところは、
01:05:04希望を感じたというか、
01:05:06その作文でね、日本人って何だろうと思ったと、
01:05:10国籍という、鎖に縛り付けてという、
01:05:13大切なものを忘れてしまっているという言葉が、
01:05:16すごい印象に残ったんですね。
01:05:18その背景には、住職の足立さんの努力もあるし、
01:05:22無関心を反省して伝えようとする、
01:05:26山本先生という動きもあるわけですよね。
01:05:30さらに、その子が今大人になって、
01:05:33先生になって人権問題に取り組んでいるというのも、
01:05:36教育が大事だなと思いました。
01:05:38皆さんやっぱり、記憶をしっかりと保つ、
01:05:43後世に残すということで、
01:05:45それを理念にされている方ばかりだけど、
01:05:49逆の人をね、
01:05:51ないものをねだり承知で言いますけど、
01:05:53そんなことはなかったとか、
01:05:55あれは自衛だったとか、
01:05:57そういうことを言っている人たちを取材してほしいなと、
01:06:02どうでしょうか。
01:06:02はい。来年の1月が事件から100年になるんですね。
01:06:07継続して今も取材をしているんですけれど、
01:06:10熊野の方々も、
01:06:12やっぱりあの事件が起きたことを、
01:06:13自分たちの負の歴史として、
01:06:15すごくまだ心に刻んでいて、
01:06:18どういうふうに消化しているのか、
01:06:19まだよくわからないというようなところが正直あるんです。
01:06:24今回こういう番組にしたことで、
01:06:26少しずつ事件のことを、
01:06:28事件にもう一度向き合うべきなんじゃないか、
01:06:30ということも少しずつ出てきたりはしているんですけれど、
01:06:33まだ公の場で、
01:06:35その事件のことを振り返って発言するのは、
01:06:38はばかられる。
01:06:39なぜかというと、
01:06:41あの人の知り合いの、
01:06:42あの人の孫が知り合いだからとか、
01:06:44ひ孫が友達だからとか、
01:06:47人間関係はまだずっと続いているんですよね。
01:06:50ですから今森さんがおっしゃったような部分というのは、
01:06:52もしかするとその事件の伝え方を、
01:06:55今後どうしていくかということを取材する中で、
01:06:58もしかしたら出てくるのかもしれないな、
01:07:01ということは今感じています。
01:07:04いや、あの、忘れられていた、
01:07:08しかも昔の出来事、
01:07:09それを遡ることによって、
01:07:11私たちにとても大事なメッセージが、
01:07:15届けられているなというふうに思いました。
01:07:18名古屋テレビ放送の村瀬文則さんでした。
01:07:21ありがとうございました。
01:07:22続いてお送りするのは、
01:07:28ギャラクシーショーです。
01:07:30放送制作者の番組作りへの情熱に光を当て、
01:07:34番組の向上と発展を目的としています。
01:07:37情報の公開をめぐって揺れる地域がある。
01:07:52ごみ処理施設を共同で作る福岡県田川地区だ。
01:07:59情報を誤解しないとは赤山市が何の関係ありますか?
01:08:04費用は同じメーカーが作った同規模の施設を大きく上回る220億円。
01:08:13その詳細は明らかにされていない。
01:08:18人口減少の最終段階に入った穴水町。
01:08:27コンパクトな町づくりと取り残される限界集落。
01:08:32奥の戸に見る民主主義の議員在地。
01:08:40お寛大にご採取いただき、誠にありがとうございました。
01:08:45穴水町の最大のタブーは何なんですか?
01:08:49当時46歳の会社役員。
01:08:52飲酒運転をし、パトカーの追跡を振り切るため猛スピードで逃走。
01:08:58女子大学生の命を奪ったのです。
01:09:04危険運転致死傷罪に問われた場合、懲役の上限は20年になるのですが、
01:09:10下された判決は過失運転致死傷罪でした。
01:09:16不可解な罪の壁に迫ります。
01:09:194センチ近い光の柱。
01:09:22その一つ一つが特攻で戦死した若者のふるさとを表している。
01:09:29戦死した隊員のふるさとを訪ね、遺族にも話を聞いた。
01:09:34動画書いても逃れられないですからね。
01:09:39特攻とは一体何だったのか。
01:09:43かつて日本が突き進んだ1億特攻への道を辿った。
01:09:47ペサンドさんとイギユンさん。
01:09:532人は1926年、三重県木之本町で殺害されました。
01:09:59建設工事に携わっていた朝鮮人を町民が集団で襲ったのです。
01:10:04キノモト事件ってご存知ですか?
01:10:07キノモト事件だって僕らは知らん。
01:10:09タボーやからね。タボーになっておくから。
01:10:12사건は起きて、記録は残りだ。
01:10:15真実はこの背中に天を狙いなのか。
01:10:20インビア船は全駅営業を停止してください。
01:10:24今目の前で患者に起きている症状を信じる。
01:10:54ミナタンの未来はミナタンで作り上げていくんだ、開いていくんだ。
01:11:02みんな世代も国も越えてつながっていくべきだなと思います。
01:11:07変えます。
01:11:09ノーモアは広島。
01:11:12ノーモアは長崎。
01:11:14ノーモアは大。
01:11:15ノーモアはひばくさ。
01:11:17第62回ギャラクシーショー、テレビ部門の対象作品は、
01:11:28NHKが制作し、2024年に放送しました連続テレビ小説、虎に翼でした。
01:11:35さあ、ザ・ベストテレビ2025、次回お送りする番組は、
01:11:45SBCスペシャル、78年目の若い三田間氏の行進、遺族の軌跡です。
01:11:53ぜひご覧ください。
01:11:55今日は皆さん、ありがとうございました。
01:11:56ありがとうございました。
01:11:57ありがとうございました。
01:11:57ありがとうございました。
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