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  • 3 weeks ago
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00:00You
00:30My father was a scientist, and he was a very厳格 of a father in his house.
00:51So, I'm going to have a job to deal with my children.
01:02I'm going to have a job to do this in my life.
01:07I'm going to have a job to do this in my life.
01:14It's very important to think about it.
01:18I was just at the beginning of the year,
01:22and I was just at the time of自由学園.
01:26I was just at the time of自由 and憧れ,
01:30and I was just at the time of time and I was just at the time of自由学園.
01:38自由学園時代にはやはりここは何もとこさんの学校でございまして、普通の学校教育とは大変に違う自由な雰囲気を一応持っておりました。
01:52けれども、その間に私は取材旅行なんかに送られて行ったということはあるのでございますけれども、措置をする頃から学校の決まりというものに大変反抗するようになりまして、私は髪の毛を切ってしまいました。
02:10あの頃はみんな長い髪を持っているのですよね。断髪と言われまして、そして洋服になりました。一般世の中はまだ着物時代でございましたけれども、私はいわゆる洋服になりだした。
02:27そうしましたらば、私のそこら辺の変な格好なんでございます。
02:33その当時といたしますと、断髪で洋服姿ということで、お化け屋敷のお化け娘というふうに近所の人たちから呼ばれるようになったのでございます。
02:45私はそれでも反抗心でいっぱいでございますから、そういうふうに呼ばれることによって、結婚なんていうものはもう口がかかってこないからかえって喜んでいたのでございますね。
02:59そうして、今度は関東大震災が起こります。
03:06その後なんでございますね。
03:08震災の時には、朝鮮の人たちが殺されたり、いろんな事件がございました。
03:13そして、世の中がだんだんだんだん暗くなってくるのでございます。
03:18そういたしますと、私など街を歩いておりましてもね、例えば洋服のこの袖なしをドレスを着ておりますとね、
03:28巡査がおい、こらこらって呼びつけて怒られるわけでございます。
03:33ちょっとしたことで、いつもこの巡査の目が光っておりましてね、息苦しくたまらなくなるわけでございます。
03:40この日本ではこれはどうにもならないわ。
03:44どうしたら自分の行き先を探り当てることができるかなと思っておりました時に、
03:49たまたま結婚いたしました姉が渡米することになりましたもんですから、
03:53私も自由の天地、アメリカというのに随分憧れておりましたから、
04:00そこでは女性が自由であるというので、
04:02何とかして自分の可能性を試してみたいと思ってアメリカに参りました。
04:08これが大正15年、昭和元年になった年でございます。
04:14その8月で私は23歳でございました。
04:17ワシントンに最初に参りましたけれども、すぐ私はニューヨークに出ております。
04:37その時には誰も知っている人がございませんでね、
04:42今ですとずいぶんたくさん日本人がおりますけど、
04:44当時は日本人でも本当に見かけることもございませんでした。
04:49その中に飛び込んで、あの頃から摩天楼というのがございますか、
04:55高層のビルがずっと立っておりまして、
04:57そこをぽつぽつ歩いてますと、
04:59まるでそれに圧倒されるような感じなんでございますね。
05:02なんか自分の存在というものがどこかに吹き飛んでしまうような、
05:08ゴミあくたのような感じがいたしましてね、
05:12どうしたらいいかと思いながら、
05:15わからない街の中をですね、
05:18これはレッドブックというのが売っておりましてね、
05:21これに地引きのようになっておりまして、
05:24どこに行きたい時にはどこの電車に乗って地下鉄に乗って、
05:27どこで降りたらいいというのがついておりますもんですから、
05:30それをね、手に持ちまして、
05:32一生懸命、つきたてはそれで自分一人で歩いておりました。
05:38そして実を言えばですね、
05:40陶器に降りました時には、
05:42かなり地震たっぷりとも言ったかもしれません。
05:46そして、モガ、モガというふうに言われてたんでございますけれどもね、
05:50ニューヨークに着きました時には、
05:53まるでおのぼりさんというふうに後で笑われましたけれども、
05:58街灯を日本で作りました街灯がね、
06:01ちょうど毛布のね、
06:02島のこう、なんていうんですか、
06:04かっすりじゃない、なんていうんですか、
06:06島がこうなっておりますね。
06:07そういうのを着ておりましたからね、
06:09まるであの、こう、
06:11見た目なんかとてもおかしかったんでございますよね。
06:15で、そういう中で一体どうしたらいいかなと思いながら、
06:18実を申しますと、
06:19ニューヨーク行くということは、
06:21父が大反対で、
06:22もう送金はしないとも言われておりました。
06:26ですから、なんとかして働かなくちゃならない。
06:29だから、新聞に広告をね、
06:32出しまして、
06:33日本から来たこれこれのものだけれども、
06:35ということで、
06:37家庭働きの口を取りました。
06:40で、これが、
06:40アメリカ人の牧師さんのお宅でございまして、
06:44で、そこに泊り込みで給料、
06:46ほんのわずかですけれども、
06:47もらいながら、
06:49あの、コロンビア大学で勉強するってことで、
06:51そこで働き出しております。
06:53ニューヨークに私が参りましたのが、
06:561927年の、
06:59明田ばっかしの寒い冬の1月でございました。
07:03そして、あの、
07:04日本を東京を立ちますときに、
07:06実は、あの、
07:06石垣英太郎っていう人がいるから、
07:10画家で、
07:10会ってみたらよかろうっていうことをね、
07:13あの、
07:13井の又綱尾から伺ったのです。
07:16これは、あの、
07:16その、バスダに私ちょっと行っておりましたときに、
07:19先生でございまして、
07:20その紹介状だけ1つ持ってたわけでございますね。
07:23で、ニューヨークに参りまして、
07:24早速、
07:25まあその人をね、
07:26訪ねてみようと思って、
07:27私、あの、
07:28グリニッチヴィレージへ、
07:29彼を訪ねていくんでございます。
07:32あの、
07:33ニューヨークっていうところは、
07:34あの、
07:355番の目のようになっておりましてね、
07:37割に、
07:38こう、
07:38分かりやすいんでございますけど、
07:40ウィレージだけはね、
07:41まるで違っておりまして、
07:43あの、
07:43ちょうど東京のように、
07:44こう、
07:45横道がいくらもがあって、
07:46こう、
07:47分かりにくいってことでございましたけど、
07:48やっと探し当てて、
07:49まあ、
07:49彼に会いました。
07:51そして、
07:52あの、
07:53初めて私、
07:54あの、
07:54ウィレージの雰囲気っていうものを知るわけでございます。
07:57と申しますのは、
07:58このアップタウンの方のニューヨークっていうのは、
08:01なんか冷たい、
08:02あの、
08:02コンクリートの、
08:03こう、
08:04街でしてね、
08:05みんなこう、
08:06高いビルの中で、
08:07人は、
08:08人のことなんか、
08:08ふりもけにせずに、
08:10パッパッパッパッパッと歩いているんですよ。
08:12で、
08:12ウィレージに行きましたらば、
08:14第一、
08:14街からそういうふうに、
08:15こう、
08:15ちょうど人間が住むようにね、
08:17曲がりくねってる。
08:19そこに初めて行きましたときに、
08:21私は、
08:22エータローに、
08:23これは、
08:23エータローは後に私、
08:24結婚するんでございますけど、
08:25また結婚する前に、
08:27あちこち、
08:28ビレージの画家とかね、
08:30作家とか、
08:32っていう人のところへ、
08:33連れて行ってくれたんでございますよね。
08:36その頃会いましたのが、
08:38セルドライザーですね。
08:40アメリカの悲劇を描いた人なんかも住んでおりました。
08:43それから、
08:44ユージン・オニールも、
08:45ビレージに住んでおりまして、
08:47アメリカの、
08:48この、
08:48後に有名な作家、
08:51画家になってく人は、
08:52みんな、
08:53ビレージに住んでおりました。
08:55私はそこで初めて、
08:57アービレージの中には、
08:58人間の血が通っている。
09:01ここにこそ、
09:02なんか、
09:03情熱というものが、
09:05生き生きとしていて、
09:07そして、
09:08こういうグループの中に、
09:09私が入っていけば、
09:11いろんな、
09:12いろんな、
09:12いぶき、
09:14人間のいぶきをね、
09:15受けることができる、
09:18というふうに、
09:19感じまして、
09:20初めて、
09:21アメリカに来て、
09:23ニューヨークに来てよかったな、
09:25それまでは、
09:25なんか、
09:26迷い子みたいで、
09:27どこへ入っていったらいいのか、
09:29わからなかったのが、
09:30やっとビレージに近づいて、
09:32ビレージの中で、
09:33自分はこの中で、
09:35何かしらを得られるな、
09:37という感じになりました。
09:57私は1929年に、
10:08石垣英太郎と結婚いたしました。
10:11この29年という年は、
10:14皆様ご承知したと思うのでございますけれども、
10:17大恐慌が起こるのでございますね、
10:19この秋に。
10:20そして、
10:22株の値段が、
10:25谷底に転げ落ちております。
10:27ちょうど、
10:28英太郎の、
10:30この展覧会がございまして、
10:32そこで、
10:322階付きのバスという、
10:34彼の絵が、
10:36売れていたわけでございます。
10:40注文が来ていたのでございますけれども、
10:44それが、
10:45ちょうど、
10:47展覧会の開期中に、
10:49株が大暴力したものですから、
10:51それを買うといって、
10:53手付金を置いた人が、
10:55もう株で大損をしてしまったんです。
10:58だから、
10:58とても絵を買うところじゃないと言って、
11:00キャンセルされてしまいました。
11:03そういうわけで、
11:05もう、
11:07絵では、
11:08とてもとても、
11:08食べていかれない時代を迎えております。
11:11その頃、
11:14町を歩いておりますと、
11:18いわゆる、
11:18ブレッドラインなんですね。
11:20無料配給所というのが、
11:22そこに、
11:24中い列ができておりまして、
11:26そして、
11:27みんな仕事がなくて、
11:29もう、
11:30食べるものがなくなってしまったというような人たちが、
11:33いっぱいのね、
11:35ブレッドラインの缶に入っているコーヒーとか、
11:38それから、
11:38一切れのパンとかをね、
11:41もらうために、
11:421時間ぐらい、
11:43サムズロの中に震えながら、
11:45立っているんでございますよね。
11:48それから、
11:48町角を、
11:51あちこち歩きますと、
11:53今まではいい暮らしをしていたなというような、
11:59いわゆる紳士風の人がですね、
12:03屋台にリンゴをずっと並べましてね、
12:07そして、
12:08それを1個5セントって、
12:09針紙をつけましてね、
12:11売っているんでございます。
12:12そのリンゴを売ろうと思うのですから、
12:15半径で持って、
12:16こう、
12:16一生懸命磨いているんですね。
12:18だから、
12:19並べたリンゴが、
12:20ツヤツヤとして、
12:21いい色しているんです。
12:22ところが、
12:23周りを歩いている人の顔というのは、
12:26みんな、
12:27この、
12:27食がない、
12:28食べるものがない、
12:30明日はどうしたらいいだろうか、
12:31というような、
12:32こう、
12:33青ざめた、
12:35しょげーた顔をしているんです。
12:37そのリンゴの赤いツヤだけが、
12:39なんか、
12:39町の中でパーッと、
12:41明るさを持っている、
12:43というような感じでございました。
12:45まあ、
12:45そういうわけで、
12:46絵は売れない。
12:47で、
12:48あの、
12:48えーたろうは、
12:51まあ、
12:51いろんな、
12:52ちょっとした、
12:52家具のデザインなんで、
12:54アルバイトでしておりましたけれども、
12:55そういう仕事も、
12:56だんだんなくなるんですね。
12:58で、
12:58本当に言いますと、
12:59まあ、
12:5929年に、
13:00この大不況が始まりましたときに、
13:03まあ、
13:03まあ、
13:03もう少し経ったらば、
13:05いずれは、
13:05これは過ぎてくれるだろうと、
13:07まあ、
13:08そう思ってたんですよね。
13:10そしたら、
13:10それが、
13:11だんだん、
13:11だんだんひどくなっていくんでございます。
13:132年に、
13:13ランプシェードを縫います。
13:16町工場に働きに参りました。
13:18そこはイタリアやスペインや
13:25、 あちこちの国から来た移民の吹きだまり
13:28みたいなものでございまして、みんなあまり
13:32教育もないような人ばかりが集まっておりました。
13:35私もその中に入ってランプシェードを一緒に
13:38縫ったわけでございます。
13:40これは1個縫いますと、1ペニーというのですから
13:481,000円でございます。当時のお金で。
13:51そしてこれを1時間に60個ぐらい縫い上げるのでございます。
13:58これはみんな競争してやるわけでございますよ。
14:01これは賃仕事ですから、給料が決まっているわけではないのでございます。
14:06出来高だけで毎日勘定されて、土曜日の金を払ってくれるんです。
14:12そこで持って、私のランプシェードを縫うんですけど、
14:20これはとても硬い紙なんでございますよ。
14:22だから布団針のような大きな針を使いましてね。
14:26それをもめ糸をずっと二重にして通すんです。
14:29長すぎるとこれまたもつれてしまう。
14:32短すぎるとまたしょっちこれをやりかえなくちゃいけないから、
14:35時間がかかる。ちょうどいい長さにして、
14:37そして私はこの指抜きというのがございましたから、
14:39それをはめながら一生懸命縫うんですけど、
14:41手が汗ばみますもんですからね。
14:43針が手から滑るんです。
14:45それで私の手は針の穴だらけになったんです。
14:49そしたら隣に座っております、
14:53イタリアの女の子があなたが来たとき、
14:56綺麗な手をしていたのにねって言って、
14:59私のその汚くなった手を同時してくれたりしました。
15:03それでここではね、私、みんなそうやって、
15:05英語もろくにできないような人ばっかりなんですけれどもね、
15:09ちょっと具合が悪いなんて言いますと、みんな心配してくれましてね。
15:15一個縫い上げる時間は惜しいんですけど、
15:19みんな肩をたたいてくれたりね。
15:21それから、どうなんて聞いてくれるし。
15:25それから時々、お昼のお弁当なんですけどね。
15:29イタリア式の何かものをこしらえたからといって持ってきてくれたりね。
15:34スペインの人はスペインのものを持ってきてくれるんです。
15:37で、私は時々日本のお寿司とは言えないかき混ぜご飯みたいなものを持っていて、
15:41みんなに振る舞うんです。
15:43で、お互いにね、何かそういう貧乏してつらいから、
15:48やっぱり自分がつらさを知ってるから、相手のつらさがわかるんですね。
15:53だもんですから、困ったって言うと、みんなも助けてくれるんです。
15:57で、例えばそこで黒人の女がいました。
16:00急に彼女がいなくなったんですよね。
16:02あら、どうしたのって言ったらね。
16:04お母さんがね、この掃除を直していたって言うんです。
16:08それが結核で急に亡くなっちゃって、それでもう彼女が来なくなっちゃったんです。
16:14そうするとそういう彼女に対して、みんな何とかしてあげようって気になりますよね。
16:19それから、このぬい子の方じゃないんですけれども、そういうランプシェードの紙を配って歩く青年がおりました。
16:27これは父親が日本人だったかしら。
16:33で、母親がイタリア人か何人かなんでございます。
16:39そして、自分の母親の顔を見たことがないって言うんですね。
16:44で、この青年がまたよくくりくりリスのように働きましてね。
16:48それで、お昼なんか、みんな無いお金をこうやって出してね。
16:53昔してね、3日ちょっと安いの買ってきてなんて言いますとね。
16:56彼がね、よしなんて言ってね。
16:58すでに安いところから見つけてね。
17:00そうして、その買ってきてくれたりして。
17:02そういう、この、みんな人生のどん底にいる人間同士の、なんかこう、思いやりっていうんでしょうか。
17:14お互いにね、苦しいときは何か手を伸ばそうっていうものがあるんだなっていうことをね、私はそこで教わりました。
17:23私その後、こういろんな金持ちとも随分の友達になりましたけどね。
17:29金持ちって案外ね、ケチだなってことを後で考えるわけです。
17:33そして、この町工場では決して楽じゃありませんよ、そうやって。
17:40もう時間に終わりながら、一個でも余計にね、ごしらえようと思うんですから。
17:45もうこんなに山のように積んだお家はね、さっさっさっさっとやってるんですよ。
17:50そういう、このお互いに競争をしていながらですよ。
17:54しかも、やっぱし、相手をやっつけっていうことじゃなくてね。
17:58何かしら、こう、持ってきたものをお互いに分けて旅合おうとか、なんとかって気持ちがあるっていうことで。
18:05辛い人生というものは、かえって何か人間性というものをどっかに残している時もあるんだなっていうことを私はそこで教わっているのを感じていたします。
18:16英太郎のほうは英太郎のほうでね、印刷工なんかに行って少しやっておりましたけど、そういうのもなくなっていくんでございますよね。
18:25そうすると、本当に食べるものもなくなりました。
18:29で、朝起きた時にパンもない、コーフィーももちろんない。
18:33それで、あの、じゃあお湯を沸かして塩を入れて飲めば、まあなんとか人間ってもつだろうって言うんでね。
18:40そんなことをいたしました。
18:42で、ちょうどその頃です。
18:44ジャック・シライといいまして、これは北海道までのね、元1000円上がりでございますけど、
18:52この人が、あの、すぐ近くのシマっていうレストランにね、コックとして働いておりました。
18:59で、あの、彼がね、よくお店からね、コーフィーのキャンに入ったのとかね、カニの缶詰とかね、それからあの、キャビアみたいなね、ちょっと贅沢なものなど、こう、ポケットの中に入れ込んでね。
19:11それでよく持ってきてくれたの。
19:14それから今度あの、お米をね、あの、安く買える方法を教えてあるって言いましてね。
19:19そのシマーレストランに来るあの、卸屋さんからね、このお米の大きな浅袋に入ったね、まあ、大きいのをね、そこで買い入れました。
19:29それで、まあちょっと、一息ついたわけでございますけど、このジャック・シライというのは、あの、後にね、スペイン戦争の時に、あの、義勇兵として、あの、スペインの人民戦争側、共和国側の方に行って、あの、とうとう戦死いたしました。
19:44あの、あの、その不況の中で貧乏しておりました頃ね。
19:47もちろん、あの、私たち日本に帰ろうと思えば、帰れるはずだったわけでございますよね。
19:54そして、友達も、なぜ日本に帰らないの?なんて言っておりましたけれども、私としましてはね、あの、日本を出る時には、やっぱし親に反抗して、うちを飛び出たものでございますからね。
20:06それを、お嫁は帰っていかれないってことがございました。
20:09それから、英太郎にいたしましても、彼はもう子供の時にアメリカに来ておりまして、
20:13ちょうどタコの、糸の切れたタコみたいなもんでございますよね。
20:17だから、あの、日本というのは、もう、私たちと関係がなくなっていうよりも、心の中で日本を思うことはたくさんなんですけれども、
20:26そこへ行くことはできないっていうなんかがあったわけでございます。
20:30それで、おまけに、あの、日本はもうその頃から、あの、戦争の方へどんどん傾き出しておりましたからね。
20:37あの、言論の自由というものはなくなっているわけでございます。
20:41それならば、このアメリカにいて、どんなに苦しくてもですよ。
20:45生活の面では苦しくても、少なくとも、あの、自分の思うことが言えるこの自由というものは、
20:51これは大切なもんで、貴重なもんだから。
20:55これをむざむざと、この、後ろにしてですね、
20:59あの、日本には帰っていかれないっていう気持ちが、非常に強くございました。
21:03あの、それから、あの、まあ、あの、不況の時代ね。
21:09まあ、救済が、あの、少し、ニューヨークの市の方から出たんでございます。
21:14それで、まあ、私たちも、どうにもしょうがないから、あの、その、救済受けに行きました。
21:21で、そういう配給所があるんですよね。
21:23で、私ね、そこ行きましたらね、あの、黒い血の付いた、こんな肉の塊、何の肉だかわからないんですけど、
21:29それを、こう、新聞紙に積んだの、渡されたんでございます。
21:33それで、その時、こんなの私を受け取らなくちゃならないのか、と思ってね。
21:38あの、本当はあの、こう、パンと突き返したけどさ、
21:41それを突き返したら、こっちは食べるものがありませんから、
21:44仕方なく、それを持ち帰ってるわけです。
21:46しかし、その時の、この、こう、煮えたぐるような思い、な、というものがありましたから、
21:53今度、あの、ローズベルト大統領の時代になってね、
21:57ニューディング始まり、ちゃんとこっちが仕事をして、
22:00そして、それに対する正当なね、まあ、何かがもらえるという、
22:04その喜びというものが、また大きかったんでございます。
22:07今でも、私、あの、肉の、血の付いたのを覚えてますけどもね、
22:12ああいう体験というのは、二度としたくないけども、
22:17あれは、やっぱし、何か私に憤慨する心というものを教えてくれました。
22:22あの、私がニューヨークに参りました。
22:251927年の8月でございました。
22:28あの、死刑団のメロディーで、皆さんご存知だと思うんですけども、
22:32あの、サコとバンゼッチのね、死刑の事件がございました。
22:37死刑になった事件でございます。
22:39で、ちょうどその夜、私は、あの、死刑反対のデモに、
22:44英太郎に連れられて、あの、行っております。
22:47で、この事件ではですね、
22:49ビレージの作家とか画家とか、そういう知識人が、
22:54非常にね、影響を受けております。
22:56で、いわゆるあの、その前に、ローストジェネレーションというのがございますけど、
23:01その人たちがみんな、この、こう、
23:03街頭へ繰り出してきて、そしてこう、
23:06社会意識というものに目覚めていって、で、その中で、あの、
23:09ジョンリークラブっていうのがね、組織されております。
23:14で、あの、英太郎もその中に入ってまいりましたし、
23:18他、私も少し物を描くようになりましてから、そのメンバーになっております。
23:23で、あの、また同時にあの、ジョンリークラブができた頃に、
23:28あの、ニューマーセスっていうのがやっぱり中心になりまして、
23:32これは、あの、やっぱり新しい、この、
23:37労働者とか、それから働く人たちの息吹を伝えた、
23:42あの、評論とか、それから、小説とか、それから絵とかっていうものが、
23:49それに乗るんでございますよね。
23:51で、ニューマーセスという雑誌と、まあ、私たちもあの、
23:55いろいろと、この関係をいたしておりました。
23:58まあ、生活は、そうやって貧乏のどん底で、
24:01貧乏のどん底でございましたけれども、
24:03まあ、精神的にはね、そこからいろんな、こう、
24:07知的な刺激を、私、受けまして、
24:10その中で育ったっていう感じがいたしますね。
24:13この大不況というのはね、29年、1929年から、
24:2033年ぐらいまで続いておりますけれども、
24:23あの、いや、33年にローズベルト大統領が当選いたしまして、
24:28それで、ニューディールが始まっております。
24:32それは、やっぱし、あの、あの、不況の中で、みんな、
24:36あの、なんとかして、人間らしい尊厳を保った生活がしたいっていう、
24:41っていう望みがございましたんでね。
24:43あの、ローズベルトは、まあ、一周それに応えたっていう意味もあったと思いますけれどもね。
24:49あの、ニューディールが始まりましてね。
24:52で、その、まあ、おかげで、と申したらいいでしょうか。
24:56あの、エータローがね、画家として、
24:59WPAというのがございまして、これは政府の方の仕事で、
25:03画家にはみんなそういう一定のサラリーを払いましてね、
25:06そして、自分の好きなことをさせるんでございます。
25:09で、エータローもその仕事を取りました。
25:12そして、初めて私たちの生活というものがね、
25:16明日どうやって食べられるかっていう不安から、
25:19解放されていくわけなんでございます。
25:21なもんですから、やっぱり私は、あの、ローズベルト時代、
25:26この、大統領に対する謹慎感っていうのは、
25:31非常に強いんでございますよね。
25:33あの、やはり私は、彼はね、そうやって、あの、
25:37まあ、小児麻痺をした人であって、
25:39そういう、この、どん底にある人たちのね、
25:43苦しい思いっていうものに対して、
25:45救いの手を述べるっていうだけの、
25:48人間的なものを持ってたわけなんでございます。
25:50それで、私たちも、市民権を持ってないくせにですよ、
25:54やっぱりそうやってね、
25:55あの、ローズベルトのニューディールのおかげでね、
25:59生活がやっと、こう、息をつけるようになり、
26:03で、私自身はその時から初めてですよ、
26:06あの、こう、長いことを考えておりました、
26:09ものを書く方にね、
26:10最初は、まあ、原稿料のかなしでもやっていくことができるようになりましてね、
26:15そういうことで、やっぱし、あの、ニューディール、ローズベルトっていうのは、
26:19私の人生では、とても大切なことになっております。
26:23で、いつもあんまり褒めるもんですからね、
26:25そんなこと言ったって、歴史的に見ればね、
26:28彼は彼なりにいいことをしたけれども、そこに限界があってね、
26:31そして、随分おかしなこともたくさんあったじゃないかと言われます。
26:34確かに、理屈から言えば、そういうところに私はうなずくんでございますけれども、
26:38とにかく、あのどん底生活からちょっと浮かび上がったっていう、
26:42その実感がね、私の胸にこう、どしんとあるもんですからね、
26:47やっぱし、ローズベルトって言うと、私、目がぱっとこういうふうに輝いちゃうんでございます。
26:53一方、ちょうどその頃、日本では満州事変、それからずっとこの中国大陸への侵略戦争が始まってまいりまして、
27:08日中戦争に行くわけでございますけれどもね、
27:11その暗い谷間に転がり込んでいく私の日本、それに対しまして、
27:18もし黙っていればね、私もそれを支持するということになるわけでございますよね。
27:24私はこれはどうしてもね、日本というものがそういうふうになったら、
27:28これはとんでもないことに大変な日本になってしまうんじゃないかと思いましてね。
27:32その頃から私は、やはり反戦運動の中に入っております。
27:38それはやっぱし、貧乏のどん底でいろんなことをいたしまして、
27:42人間の悲しみとか辛さとかっていうものが、
27:45やっぱし、私の実感としてね、心の中にあったっていうことが、
27:49そしてそれを乗り越えてきたっていうことがあったと思うんでございます。
27:53で、その中で私は、初めてニューヨークの鳩場で、
27:58反戦のね、アピールをしたり、それからあっちこっちに行って、
28:03そういう反戦、日本の反戦、日本に対する反戦活動をしたわけでございます。
28:09ですから、もちろん、祖国に弓を引くものをして、
28:13ずいぶん、いろんな人から悪口言われました。
28:17でも、私はね、私は日本を愛してるから、
28:20やっぱし、本当の日本はよみがえってほしいという気持ちから、
28:25反戦活動をしたわけでございます。
28:29で、それはどうしても私としては、黙っていることはできない。
28:34やっぱし、人間ね、生まれた以上、
28:37自分に恥ずかしいような行為はしたくない。
28:39やっぱし、自分の一つの信念と言ったらいいでしょうか。
28:44正義と言ったらいいか分からないんですけれども、
28:46やっぱし、そうと思ったら、何かしらのアタックを受けても、
28:51それはしなくちゃならないんじゃないかなっていう気だったんでございます。
28:56そして、そうなるに、私は東京ではね、
29:01ずいぶんわがままなところがたくさんございましたけれども、
29:06アメリカに回りまして、不況の中で苦労したっていうようなことも、
29:14ある意味では、私のそうした人生の土台になってくれた、
29:19というような感じをいたしております。
29:21おめでとうございます。
29:51Amen.
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