幸徳秋水と堺利彦 非戦と平等を求めて 2 大逆事件
  • 12 年前
「大逆事件」の本質について明治大学教授・山泉進氏は分析する。

 「大逆事件は権力が起こした犯罪で、国家権力による社会主義者たちの抹殺だった。彼らの思想が国家体制と相いれず、国家の利益を守っていくため、また国家の権力を守っていくためにはこういう人間は根絶する、根っこから排除してしまう。事実がどうであれ、当局にとって、彼らの思想が問題なのだ。当局は彼らをスケープゴートして、メディアを通して、『危険な思想を持つと、こうなりますよ』というメッセージを国民に発していった」

 長年、日本社会、メディアの世界でもタブー視されてきた「大逆事件」の本質を鋭く明解に言い当てている。堺利彦と幸徳秋水の深い信頼関係にも圧倒される。絞死刑を前にして、獄中から幸徳は堺にこう書き送っている。

 「君の目下の境遇も一向にわからず、さぞ迷惑だと察するけれど、迷惑なことだけに余人ではだめだ。僕の一身と周囲とも知りぬいている君の一家に骨拾いの役を務めてもらわなければならぬ」

 堺もまた幸徳の期待を裏切らず、幸徳らとの面会のため刑務所に通い、書籍や日用品の差し入れをし、残された家族の世話に奔走している。そして刑死後の12人の遺体を堺は引き取り、文字通り「骨拾いの役」を果たした。さらに刑死した同志たちの遺族たちの慰問のために、日本各地を旅して回る。
 堺はその後、「ばらばらになった社会主義者たちの仲間が集まる場を作りたい」と新聞「へちまの花」を発行し、一方で翻訳や代筆などを請け負う「売文社」を創設して、生活の手段を断たれた社会主義者たちを支える。ある研究者はそんな彼のその後の活動に触れ「堺がいなかったら、日本の社会主義はあそこで終わった」と言い切った。
 その思想と信念のために警察に拘束されたり、軍人に襲われ重傷を負ったりしながら、活動を続けた堺利彦は、1933年1月、脳溢血で倒れ、62歳の生涯を閉じる。「僕は諸君の帝国主義戦争絶対反対の声の中で死すことを光栄とす」という言葉を遺して。その葬儀で、娘、真柄は、制止を命じる警官たちの怒号のなかで、こうあいさつをしている。

 「明治37、8年、日露戦争の非戦論から今日の世界大戦の危機をはらむときの戦争反対まで常に捨石、埋め草として働きたいとしていた父でありました。どうか戦争反対の声をさらに拡大させ、その光栄をさらに強く感じさせていただきたいと思います」
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