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  • 2 日前

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トランスクリプション
00:00戦争が終わって78年
00:06この国に息づいてきた戦死者たちの記憶は
00:10この先どうなっていくのか
00:14群馬県赤城山のふもと
00:17この日僕はある特攻隊員の遺族のお宅を訪ねた
00:23こんにちは
00:24すいません玄関の方からお帰りください
00:27はい突然すいませんありがとうございます
00:29ここの家自体は父がね亡くなったのが6年前なんですけどそれまでは父がずっと住んでまして村松さんの父親が92歳で亡くなるまで大切にした品々
00:46教科書は何かね
00:48この方は何か
00:51分かんないんですよね
00:54それを分かる方がもういらっしませんので
00:57そうなんですよね
00:58そうなんですね
01:00これあれですね
01:02これあれですね
01:02遠蔵さんのお写真ですね
01:05北詰遠蔵さん
01:09この家から出生し22歳と5ヶ月で戦死した
01:17これはこっちの方が本人が書いたノートだと思います
01:24遠蔵さんは18歳で志願して海軍に入り特別に選ばれて飛行機の操縦員となった
01:35そして戦争が終わる半年前爆撃機で体当たり攻撃に向かい消息を絶った
01:52遠蔵さんのことで他に何かお聞きになっていることってありますうわぁ記憶の中にはそんなにもっと詳しく聞いとけばよかったんですけどもうん
02:06日本が圧倒的な国力のアメリカを相手に戦った太平洋戦争
02:13その絶望的な戦いを象徴するのが体当たり攻撃、特攻だった
02:28爆弾や魚雷を積んだ飛行機による特攻だけでおよそ4000人の搭乗員が命を落とした
02:35彼らはどのような人生を歩み、何を思って出撃したのか
02:45その手がかりを求め、今から15年前、僕は当時存命だった元搭乗員たちを訪ねてインタビューを始めた
02:58亡くなった隊員の遺族にも話を聞きたかった
03:06軍が残した名簿から本籍地を一人一人調べ、彼らのふるさとを訪ねていった
03:15ごめんください
03:16本籍地が判明した隊員は、現在の日本国内だけで3708人
03:32その場所を地図にしてみた
03:351つの点が、戦死した1人の特攻隊員を表している
03:49例えば、赤城山のふもと、北詰遠蔵さん
03:54同じ群馬県だけで59人が戦死していた
04:00北は北海道から、南は沖縄まで、全47の都道府県
04:14特攻は日本の隅々まで行き渡る戦争の記憶だった
04:21こっちがおじさんだ
04:28右側の
04:31これが時世の句だよ
04:38こう書いてある
04:40こう、国の、とわの、さかえでね、祈りつつ
04:45みわ
04:46みわ、たまとちり、れいち、くら、かん
04:50どんな思いでこれをね、書かれたんですかね
04:56彼ら一人ひとりの死が、今を生きる僕たちに問いかけるものとは
05:11それを考える手助けとなる秘蔵資料が、今年閲覧を許された
05:17戦後すぐ、遺族から寄贈され、眠り続けてきた
05:26膨大な数の遺書
05:30記されていたのは、勇ましい覚悟の言葉だけではなかった
05:38検閲をくぐり抜けて残された、本音や葛藤が目を引いた
05:44特攻とは、一体何だったのか
05:52答えを探して、人々に残る記憶をたどった
05:57団員たちのふるさとをめぐっていると、彼らが生きていた頃の佇まいが、今も残っていることがある
06:16熊本県水俣市の谷合、特攻の先陣を切った、ある隊員の集落も、そんな場所の一つだった
06:28少年飛行兵を要請するヨカレンに、16歳で入隊した、佐喜田清さん
06:4517歳でゼロ戦の搭乗員となり、翌年に戦死した
06:52清さんは何人兄弟だったんですか?
06:58えっとな、男は3人、全部死んでしまった
07:05あ、戦死して
07:07ああ
07:11清さんは末の弟だった
07:15兄たちは皆、徴兵で軍に取られ、全員が戦死していた
07:24佐喜田の家は、一番上の兄が残した一人娘がついていた
07:30県道に沿った集落の入り口には、清さんを忍ぶ慰霊碑が残されている
07:45清さんには、多くの友人がいたという
07:50彼らが友の死を忘れないと、戦後に立てたものだった
07:54短い生涯が記された、秘文
08:01戦死は、特攻が始まって5日後
08:051944年10月30日のことだった
08:14この頃、南方では、日本本土を目指すアメリカ軍が
08:18フィリピンのレーテ島に上陸
08:20戦争の行方を左右する決戦が始まっていた
08:27追い込まれた日本軍は、1944年10月25日
08:33初めての体当たり攻撃を行った
08:40隊員たちに与えられた任務は、レイテ島の沖合にいる
08:45アメリカ空母を見つけ、体当たりすることだった
08:52最初の1週間、10月の終わりまでの戦死者は
08:56サキタさんを含め、76人
08:59彼らの最後は、どのようなものだったのか
09:0780年近くを経て、驚くほどの精度で明らかになりつつある
09:13織田裕介さんは、太平洋戦争中に米軍が撮影した
09:20映像資料の分析を行っている
09:23日米双方の記録を付き合わせ、1カットずつ
09:27いつ、どこで撮られた映像か解析している
09:37その中に、サキタさんが出撃した日の映像も見つかった
09:471機目が、空母そばの海に突入し、煙を上げているところから映像は始まる
10:00そこへ、2機目が激突
10:03体当たりされた空母からの映像も残っていた
10:19対空砲火に被弾しながら、機首を空母に向けていた
10:24続く3機目は、炎上する空母に爆弾を投下し、さらにその先を行く別の空母に突入
10:41そして、4機目
10:45日本画の記録と称号した場合、本当に1番機から順番に突っ込んでいたとすれば
10:504機目はサキタさんが登場していた機体になりますので
10:55恐らくはサキタさんが登場していたゼロ戦が突入した際の映像と思われます
11:02この日、護衛機を伴う6機の特攻機が3機ずつの編隊を組み出撃した
11:121番機と2番機は、サキタさんのヨカレンの同期生
11:19爆弾を10日後に体当たりしたとされる3番機は、17歳だった
11:25サキタさんはその後方を飛ぶ3機の先頭にいたサキタさんと思われる機体は狙った空母を僅かに外れ爆弾は水中で爆発した
11:48この4機目の突入で特攻機の残骸と搭乗員の肉片が環状に降り注いだというふうに米軍の戦闘報告書には記載されております
12:00壮絶な最後を遂げていた特攻隊員たち
12:07彼らはどのような思いでこの時を迎えたのだろう
12:15それを知るため、ぜひ見ておきたい資料があった
12:27広島県江田島、海上自衛隊の第一塾下学校
12:35終戦までは海軍士官を要請する兵学校が置かれていた
12:42敷地内にある資料館に戦後、遺族から寄贈された特攻隊員の遺品が納められている
12:50だが、原則非公開だった
12:58都道府県別にまとめられた1827人分の特攻隊員のファイル
13:17特別にすべての閲覧が許された
13:27ファイルには、隊員一人ひとりについての情報とともに
13:32直筆の手紙や写真が閉じ込まれている
13:36これは、終戦の翌年から旧海軍の関係者が
13:47全国の隊員遺族のもとを一軒ずつ回って集めたものだった
13:55その足取りを地図にしてみると、徹底ぶりがよくわかる
14:00このうち198人分の遺書が託され、家族のもとから下手島に移された
14:09サキタさんのヨカレン時代の同期生の遺書を見つけた
14:20市野兵忠夫さん
14:2519歳3ヶ月で死ぬことになる思いを、強い言葉でつづっていた
14:31兄上様
14:39海軍独特の肉弾攻撃の光栄ある攻撃に参加ができる自分は
14:46男泣きに泣きました
14:49我らの同期生は、直ちに出発しました
14:56後を追って、負けずに突撃します
15:01彼のことを知るため、ふるさとを訪ねた
15:07いわき山を望む、青森県津軽の米農家の生まれだった
15:12イチノヘの家は、老井の邦幸さんがついていた
15:26忠夫さんは、男2人、女5人の7人兄弟の末っ子だった
15:32早くに両親を亡くし、年の離れた兄と姉に育てられていた
15:42衣装を海軍関係者に預けたのも、その2人だった
15:51イチノヘ家では、農業の傍ら、忠夫さんの兄が医学を学び、診療所を開いていた
16:05忠夫さんは、幼い頃から、命を粗末にするな、と教えられたという
16:17そんな忠夫さんを、体当たりも実さない搭乗員に変えたのは、余可憐での教育だったのかもしれない
16:37身を、孔猛の軽木に置け、国を守るという目的のためには、1人の命は取りのけほどに軽い
16:51少年たちは、繰り返し教えられた
16:54全ての人々よ、帝国戦闘機体へ続け
17:07我に続け、肉弾だぞ、いいか?
17:16ああ、自分で自分で、あの、触れ正しで、自分さえ言い返っていたようなもんだな
17:31最初の1週間、76人で始まった特攻
17:38一戸さんが戦死する11月12日には、136人に増えていた
17:49このうち、余可憐で訓練を受けた20歳以下の若者が、6割以上を占めていた
17:59その後も、戦死者の故郷は各地に増えていく
18:03そして、12月の半ばには、全ての都道府県に行き渡った
18:14一方、連日空から降ってくる特攻球
18:18アメリカの兵士たちは、どう見ていたのだろう
18:221944年の終わりまでに、90隻以上に特攻機が命中し
18:321800人を超える戦死者を出していた
18:35無事に特攻を生き延び、故郷に帰った者たちは、英雄として迎えられた
18:48今ではその多くが亡くなっている
18:55そうした中、特攻の矢表に立たされた人物が存命と聞き、訪ねてみた
19:02退役軍人専門の老人ホームで暮らす、ジョー・クーパーさん
19:11まもなく、102歳の誕生日を迎える
19:17クーパーさんは、19歳で海軍に志願し、空母に乗り組みを命じられた
19:29飛行甲板で、機銃の射手を務めていたクーパーさん
19:38目の前を、特攻機が撃墜されていく
19:41そのクーパーさんの乗る空母に、特攻機が命中する瞬間
19:57炎に追われたクーパーさんは、海に飛び込み、サメが周りを泳ぎ回る中、仲間と救助を待ち続けた
20:21助け出されたのは、空母が沈没した後のこと
20:3093人の乗組員が命を落とした
20:34カミカゼ・パイロット
20:45カミカゼ・パイロット
21:00フィリピンでは、日米の若い命を犠牲に戦いが進んでいった
21:16特攻隊員が攻撃した海域を地図で見ると、時が経つにつれ、場所が移動していることが分かる
21:37アメリカ軍が、日本の最重要拠点、マニラのあるルソン島に押し寄せようとしていた
21:57その頃の話を聞かせてくれた人がいる
22:02角田和夫さん、当時26歳
22:06ヨカレン時代の同期が次々戦死する中、残り少ないベテラン搭乗員となっていた
22:13誰よりも詳しく、僕に特攻のことを教えてくれた人だった
22:21角田さんは、特攻が始まった当初から、たびたび護衛任務を命じられていた
22:31若い隊員の最後を見届けながら、日米の戦力差を目の当たりにしていた
22:37とにかく一気に艦を沈めれば勝つんだという考え方は全く出場できなかったそうで船の艦と特攻隊の艦はまるにきり違いますがね一気に艦ぶつかったら先になくなるのは飛行機の方ですね
23:03角田さんの話で強く印象に残る若者がいた
23:11かわいらしい子だった人はやっぱり19歳ぐらいからかわいらしい子だったけど
23:24本当にする時はしょぶくりでひどどくだなと思いましたね
23:31後藤喜一さん
23:37ヨカレン出身で角田さんの7年後輩だった
23:411945年1月6日早朝
23:4815機からなる特攻隊の一人として出撃を命じられた
23:53その中で後藤さんだけが体当たりすることなく爆弾を投下し基地に戻ってきた
24:03飛行長司令にすごく怒りました
24:10どこに出たものをなんで落として帰ってくるのかって
24:17薄ぐらい僕の中に連れ込まれていてもどんな説教されましたかね
24:26半日近くそこに行ったんですが
24:30夕方後藤さんは再度出撃を命じられ
24:37マニラ郊外の飛行場から飛び立った
24:40後藤さんの遺書が海軍関係者が戦後に集めた資料の中から今回見つかった
25:09その最初の言葉
25:16広告のために資す
25:19武人戦場に資するが最大の名誉なり
25:26死に場所を得たり
25:30ヨカレンで教えられる死への心構えや美学が
25:37丁寧な字で書かれていた
25:40後藤さんの憎しんならこの遺書をどう読むのだろう
25:53そう思い尋ねてみた
25:59特攻で亡くなった
26:00キイチさんの老いにあたるまさゆきさん
26:07遺書が見つかったと聞き
26:09親族が集まっていた
26:15何枚かあったんですよ
26:17はい
26:18これが実家に帰ってきた時の
26:22ああそうですか
26:23ヨカレン時代ですねこれ
26:24幼い頃に父を亡くしたまさゆきさんにとって
26:31キイチさんは頼りがいのある兄のような存在だった
26:39そのキイチさんが臆病風に吹かれたと上官からなじられ
26:44再度出撃を命じられたと知ったのは戦後長く経ってから
26:52以来キイチさんの思いを押し量り続けてきた
26:58死ぬなんていうことは別にどういうことはないという意識だったんだろうけどそうでなければこんな形では書けないもんねうん
27:19だから私とするといいように解釈するようだけども帰ってきたっていうのは意味が多分あって攻撃を2回できる学校になれるという意識で爆弾がないんじゃもう意味ないからいったん帰ったっていう学校の中での帰り方だったんじゃ
27:48どういう気持ちだったんだろうと思うんですよね
27:51どういう気持ちだったんだろう
27:55後藤キイチさんの2度目の出撃記録
28:07夕方遅くゼロ戦後期で体当たりしたと記されている
28:13それと符号する記述がアメリカ軍の戦闘報告書から見つかった
28:23ゼロ戦は敵艦隊の上空まで到達
28:31うち3機が命中していた
28:34まもなく日本軍は飛行機が底を突き
28:53搭乗員はフィリピンから撤退した
28:56特攻ではアメリカを止めることは難しい
29:03680の命を犠牲にして明らかになったはずだった
29:09ふるさとを遠く離れて死んでいった特攻隊員たち
29:24その記憶
29:27彼らと人生を共にした人たちの言葉からは
29:34今も鮮やかな思い出があふれ出てくることがある
29:39そんな出会いが今年もあった
29:44川辺照子さん99歳
29:56思いを寄せていた男性の写真1枚とともに戦後を生きてきた
30:02戦争中海軍の飛行場があった宮崎県の町で暮らしていた川辺さん一家は
30:25休日軍の要請で隊員たちを受け入れていた
30:29そこで囲い和夫さんに出会った
30:34日曜日とか家に来てくれて喋ってる間楽しかったよ
30:43そして時間たまに町を富高の町をね
30:52富高って知ってる?
30:54あの基地のあった宮崎の町ですよね
30:58そこに二人で歩いたこともあるけど
31:04ただもう二人で歩くの嬉しくて
31:09喋ったことも覚えてない
31:14やがて和夫さんは千葉県にある基地へと移っていった
31:23二人は手紙を送り合い言葉を交わした
31:29女の名前で来るとね
31:35軍隊の方で友達からいろんなこと言われて
31:41話されるからできれば男の名前で欲しい言ってね
31:50それは和夫さんが行ってきたんですね
31:52向こうから
31:53そう言ってね
31:55父がもうすぐ
31:58お父さんがお父さんの名前で出そうと言ってね
32:03封筒の裏書きは自分の名前にして
32:09中の封筒は手紙を入れてくれてね
32:19そこにはどんなことを書いて
32:23それはもう戦争やから一生懸けながらね
32:28頑張って頂戴って言うより他にないもん
32:33昔はあまりことなんか言われへんかったから
32:38お互いに好きなのを分かっていて
32:43それは口に出せる時代と違う
32:46特攻隊員となった肉親から
32:56思いがけない形で告げられた最後の別れが
33:00今も脳裏に焼き付いている遺族もいた
33:03貝崎みどりさん
33:09みどりさんの10歳年上の兄は
33:13空からやってきた
33:15陸軍の少年飛行兵に志願し
33:3121歳1ヶ月で戦死した兄
33:34内村茂次さん
33:37生まれ育った家の上空を何度も旋回し続けたという
33:47あそこの畑ですよそこ
33:59母はそこの上に出て向こうに行って
34:06自分で着とった洋服を脱いで
34:11お上げを脱いで
34:14こうどんどんどんどん振ったみたいです
34:18どろどろ回って
34:20手を振り方で下を見て
34:24なんとかなんとか
34:25お母さんなんとか
34:27大きな声で
34:28痛いって言って
34:29いつということは
34:31帰ってこんって言ってるやな
34:33やっぱりな
34:36死ぬ前に
34:38生まれたところに行った
34:42お父さんお母さんを見て
34:44家族を見て
34:45安心して
34:47沖縄に行ったのが
34:49可能性ですね
34:50茂次さんに与えられた任務は
34:56沖縄に押し寄せた
34:57アメリカの輸送船に
34:58体当たりすることだった
35:00沖縄本島に上陸が始まった
35:06まさにその日
35:071945年4月1日に
35:10戦死した
35:11まもなく内村の家には
35:19茂次さんの戦死後方が届いた
35:22機場だったという母親は
35:29名誉の戦死と
35:31子供の前では
35:33涙一つ見せなかった
35:35国のために頑張った
35:43よかった国のためによかった
35:45って口では言うんですよね
35:48そして戦争に負けたでしょう
35:52それからが駄目だったんですよ
35:56犬陣にだったつってな
35:59何もならんがったつ
36:01そういうことを今度は
36:03口に言い出してな
36:05犬陣にやったつ
36:07それから
36:09やっぱり体を壊して
36:13長くは生きておらんがったからな
36:18母は
36:19アメリカの軍艦が
36:25海を埋め尽くした沖縄戦
36:27日本軍は特攻をさらに拡大して
36:31立ち向かった
36:314月1日から7日までの
36:361週間だけで
36:37フィリピン戦3ヶ月の
36:40戦死者に匹敵する
36:41548人が戦死した
36:43今回
36:51閲覧が許された遺書の中で
36:53この1週間に戦死した人のものは
36:56全部で43通
36:58その中に
37:03とりわけ目を引く遺書があった
37:05今まで
37:10真面目一方で海軍で働きましたが
37:13なんだか馬鹿らしくてなりません
37:16人間の生活の中には
37:23表裏があります
37:25これをうまくやらなければ
37:28結局は
37:30人生の落語者となるのです
37:32海軍に入る弟がいるし
37:39入っている弟もいますので
37:42このことが心配でなりません
37:46遺書を書いたのは
37:52中川敏夫さん
37:53真珠湾攻撃に参加した精鋭部隊の
37:58数少ない生き残りだった
38:00これは沖縄戦が始まる少し前
38:06特攻を命じられた仲間の出撃を
38:09見送った時の写真
38:10軍は特攻の戦果を上げるため
38:15それまで温存してきたベテランをも
38:18一度きりの作戦に投入し始めていた
38:21アメリカ軍に打撃を与えることで
38:30少しでも有利な条件で
38:33戦争終結に持ち込もうという
38:35目論みだった
38:361945年4月7日
38:47中川さんは
38:48まだ訓練途上の若い搭乗員たちを
38:52率いる隊長機として
38:53攻撃の先頭に立つことになった
38:56瀬戸内海に面した
39:08広島県大竹市
39:10海軍の資料によれば
39:13中川さんの本籍地は
39:15川沿いに続く海道筋となっていた
39:18その場所を訪ねてみたところ
39:28一家が暮らしていた家は
39:30もう残っていなかった
39:32父母上様
39:40何一つとして
39:43紅葉を尽くすこともできませんでしたことを
39:47深く深く嘆いております
39:50死んで花見の咲く者なれば
39:56何の苦労がありますか
39:59死んで花見の咲く者では
40:05ありません
40:07敏夫さんの遺族が
40:19愛知県の豊橋で見つかった
40:21敏夫さんの老いにあたる
40:28秋彦さんが
40:28駅まで迎えに来てくれた
40:30そろそろっていうのもあって
40:33敏夫さんのことをよくお聞きになってたんですか
40:40そうですね
40:41やっぱり終戦の時だとか
40:44そういうタイミングとか
40:46原爆記念日とか
40:47そういうタイミングでは
40:48話をすることがあったですね
40:51お邪魔します
40:54秋彦さんの父は
40:56敏夫さんの11歳年下の弟
40:59遺書の中で
41:04海軍に入ろうとしている弟と
41:07敏夫さんが気にかけていたのが
41:10敏夫さんだった
41:11敏夫さんはどんな
41:18お兄さんだったんですか
41:20いやしっかりしとったですよね
41:23自分で
41:24主眼してから
41:26出たんですからね
41:28うん
41:28まあ
41:31岩国まで
41:32帰ったらですね
41:35まあ
41:37歩いて
41:39だいぶあるんで
41:43距離はあるんですがね
41:44雨降りでも
41:46帰ってきよってですよ
41:47歩いて
41:48家にね
41:49うん
41:49歩いてるとやっぱり
41:52敬礼とかしてくる人がいるので
41:54そういうのを少し避けて
41:56裏の細い
41:59中の道というのか
42:01奥の道というのか
42:03そこを歩いて帰ってくるとか
42:05そんな話は聞いたいですね
42:07敏夫さんの遺書は
42:13戦争が終わって3年後
42:15自宅を訪れた軍の関係者に
42:18両親が渡したものだった
42:19素直さんが目にするのは
42:23この日が初めて
42:24今日まで
42:30真面目一方で
42:34かゆくんで
42:34働きましたが
42:37馬鹿らしく
42:39やっぱり
42:50この戦争に対しての
42:52虚しさが全部現れてますよね
42:54やっぱりその
42:55何のために
42:57っていうのが
42:59やっぱり
43:00答えが出なかった
43:02出ないでしょうけど
43:05それでやっぱり
43:06こんな思いの文章になっているのかなと
43:10出しちゃいけない答えなんでしょうけどね
43:16それを家族のものに
43:22一生懸命
43:23伝えようとしているのかな
43:25海軍への絶望を綴った
43:32中川さんの遺書を見て
43:33僕は
43:35同じような葛藤について
43:37語ってくれた
43:38あるベテラン搭乗員を
43:40思い出していた
43:41特攻が始まった頃から
43:47護衛任務に就いていた
43:48角田和夫さん
43:50戦場で偶然出会った
43:55ヨカレンの同期生から
43:57罵倒されたことがある
43:58角田さんは
44:02若い部下だけを
44:03生かせられないと
44:05特攻に志願していた
44:06その決断についてだった
44:10特攻以外で勝つ
44:15見込みがないんだろう
44:17急ぎく
44:19降伏すべきだった
44:21それで
44:22改善に対して責任のある
44:25情報は全部
44:26払い切って
44:27終わりすべきだった
44:29お前たちみたいな
44:31馬鹿がいるから
44:32とてもみんな
44:33幸せをするんだけど
44:34そんなことしていれば
44:36犠牲がますます増えるばかり
44:38早く
44:39降伏したい
44:41という
44:41今から聞くと
44:44その考えというのは
44:45理にかなっているように
44:47聞こえるんですけど
44:47私はそう思いました
44:50確かに
44:51俺の部下たちは
44:53みんな
44:53幸せをしているとか
44:54俺は一緒に
44:56行かないわけで
44:57行かないんだ
44:57というぐらいの説明しか
44:59できなかったんです
45:00不条理な命令と感じながら
45:09多くのベテランが出撃していった
45:11馬鹿らしくなったと
45:15遺書に書いた中川さんも
45:17その一人だった
45:18中川さんの最後が
45:27明らかとなった
45:294月7日
45:3411機の爆撃機が
45:365つの隊に分かれて出撃
45:38第一攻撃隊の
45:42一番機だった中川さんは
45:4413時37分に空母を発見
45:47突撃を開始し
45:49消息を絶った
45:51ちょうどその時刻
45:56アメリカ軍の報告書には
45:58海面スレスレを忍び寄る2機を
46:01空母に戻る途中の戦闘機が
46:04偶然発見したと記されている
46:062機は
46:10撃墜された
46:12長川さんの2機変隊以外は
46:20比較的高い高度で飛んでいるので
46:21やっぱり米軍のレーダーに捕捉されて
46:24アメリカ軍の戦闘機隊が
46:26そっちに向かっていって
46:27落とされて
46:27やはりその
46:28長川さん
46:29新宿湾にも行かれたベテランなので
46:30レーダーに発見されないように
46:32超低空をずっと飛び続けた
46:34かつその超低空を飛んでたらやっぱり
46:37視界がすごい狭くなっちゃうので
46:39敵の空母って見つけられないかもしれないですね
46:41でもそれをきっとこの位置に空母がいるだろう
46:46ということで飛んでいって
46:48実際に空母を見つけられてるんですよね
46:50なのでもう中川さんはもう
46:52自分の人生の最後に
46:54用いる力の全てを最後の最後まで
46:57出そうとしてたっていうのが分かります
46:58日本軍は
47:11沖縄での戦いに敗北した後も
47:14終戦まで特攻を続けた
47:22戦争が終わる6日前
47:231945年8月9日
47:26千葉県銚子沖の洋上で撮影された映像
47:30アメリカ空母を飛び立った戦闘機が
47:35特攻機を追い詰めている
47:37この頃アメリカの艦隊は
47:51本州の沿岸に姿を表すまでになっていた
47:55終戦までの最後の最後の1週間で
48:02さらに59人が特攻で命を落とした
48:06その中に
48:11宮崎県の川部照子さんが思いを寄せる
48:15囲い和夫さんもいた
48:16和夫さんも戦争を生き延びたと信じ
48:27再会を心待ちにしていた川部さん
48:30現れたのは
48:36和夫さんの死を伝えに来た
48:38戦友だった
48:40もうやっぱり毎朝
48:47どっちだろうね
48:48拝む時には思い出してますよ
48:52毎朝顔を見て
48:54おはようさんって言ったりね
48:57早く私を呼んでねとか
49:00いうことを言ったりね
49:03川部さんはその後
49:08一度は結婚したものの
49:10和夫さんのことを忘れられず離婚
49:14長い戦後
49:18思い出の品は
49:20集合写真を引き延ばした
49:22この1枚だけだった
49:24向こうから記者手紙を持っとったわけよ
49:30それが全部家が台風で流されたんよ
49:36だから全部なくなったんよ
49:39それだけでも悔しい
49:41今回閲覧を許された資料の中から
49:49和夫さんの遺品が見つかった
49:522枚の写真と遺書の写し
50:01原本は家族が渡さなかったのだろう
50:05誰かが書き写したものだった
50:11慎みて生前のご厚意を感謝いたします
50:16和夫も待望を叶えて
50:20いよいよ晴れの偉人に参加することとなりました
50:25今和夫は帝国海軍に
50:32人としての良き死に場所を得ましたことを
50:36無情の喜びとしております
50:41遺族の元には和夫さんの遺品が
50:46他にもあるのではないか
50:47本籍地は鹿児島県の西
50:51海に面した集落となっていた
50:54和夫さんは農業を営む加古池の
51:017人兄弟の4番目だった
51:04家は兄が継いでいた
51:06この一番奥の家が
51:11ここが買わされる前の
51:14和夫さんの実家の写真です
51:16じゃあここに和夫さんが
51:19生まれ育った家が建ってたっていうことなんですね
51:22そうですね
51:23そこに遺品なんかも結構残されてたんですか
51:29残ってたんでしょうかね
51:31実家はおよそ40年前に取り交わされ
51:39兄弟も全員亡くなり
51:42遺品は残されていなかった
51:44近くに和夫さんをよく知る女性がいると聞き
51:53訪ねてみた
51:55和夫さんの妹と同い年で
52:12子供の頃よく一緒に遊んだ
52:15囲井重子さん
52:17囲井和夫さんの
52:21お話をね
52:24ちょっと聞きたいなと思って
52:26そうですか
52:27なんか覚えてること
52:29聞いてることあります
52:31えっとうちの兄藤高
52:36もう生きておりは100歳かね
52:38優しくてね
52:41兄弟でも一番いい人でした
52:44うん
52:45うん
52:46もう顔もしっかり覚えてる
52:49うん
52:50うん
52:52小さい時あんた
52:57和夫さんの家が遊びどこだった
53:02私も遊びに行って
53:04あの頃から
53:06あったあったあった
53:08あの家にのはしごにあんしがほら作って
53:13でそこであした人たちはね
53:15夏の休みに家を書きよったの
53:19あそこから書きよったの
53:22万歳万歳で送ったのよね
53:33うん
53:34ねえ
53:38ほんとみんな若い人が死んじゃっちゃってな
53:41和夫さんの遺族に許しを得て
53:58遺品を川辺さんに届けた
54:00和夫さんのお写真が見つかったんで
54:09うん
54:10現像してちょっと持ってきたんですけど
54:13ああおいしい
54:14いい男やったんやで
54:18えー
54:19やっぱり目元なんかそうやない
54:32うん
54:34うれしいわ
54:41うれしいわ
54:46この3枚ともいいの?
54:47全部
54:48いいの?
54:49うれしいな
54:51うれしいな
54:52うれしいな
54:53うれしいな
54:54うれしいな
54:55うれしいな
54:59一緒に?
55:00一緒に行きます
55:02どれにしましょうか
55:05飛行服がいいわ
55:09ああそうですか
55:10うん
55:11飛行服姿の
55:12うん
55:13大体死にますわ
55:16そして
55:20和夫さんが出撃前に残した遺書
55:24慎みて生前のご厚意を感謝いたします
55:33海軍に身を投じて3年言うよ
55:37この間、何一つとして皆様方に喜んでもらえる働きもできず、今日まで身をちぎれるような思いで過ごしてまいりましたが、しかし、この間、日夜、禅、闘魂を打ち込んで鍛えに鍛えたこの腕、この息を思う存分試す時がきました。
56:05自由に思いを語ることが許されなかった時代和夫さんはその最後に次のような言葉を選んでいた
56:30また、富高の川辺の家には、今後も忘れずお便り出してください。
56:45もはや出撃の時刻となりました心置きなく目的に向かいますではさらば最後にね、これ、川辺さんのことがね、ちゃんと書いてありますね。
57:04本当にね、でもありがたいな、出世するとき大変やで、気持ちもね、それを、うちのこともね、忘れんと、この間に言ってくれたんだ、申し訳ないわ。
57:30うーん。
57:32うーん。
57:33うーん。
57:37うーん。
57:44うーん。
57:45うーん。
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58:50ご視聴ありがとうございました