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  • 5 週間前

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トランスクリプション
00:00お別れの日が参りました
00:08都会学童たちがいよいよ東京へ帰ります
00:12長い間お世話になりました
00:16この懐かしい福島の山や川
00:18皆さんの温かいお心はいつまでも忘れることはできません
00:22僕たちは月の日本を建設するために
00:25陰をたたけてやり抜く覚悟です
00:27ではさようなら
00:30これは敗戦から2ヶ月後
00:33疎開していた子供たちが東京へ帰る様子を伝えるニュース映画
00:39子供たちが向かった東京は変わり果てていた
00:53この時作家の半藤和人氏は15歳
00:58疎開先の新潟で終戦を迎えた
01:02歴史上初めて体験する幸福であり
01:08辺りは満目症状たる焼け野原である
01:12この国の運命がどうなるか
01:17我ら一人一人一人の明日がどうなるか
01:21日本人にはただただ暗淡たる思いのみがあった
01:27一面の焦土と火事
01:33何もかも失った日本人は
01:35復興という苦難の道を歩み出す
01:39焼け野原の子供たちに夢を与えたのは漫画だった
01:47粗末な紙で閉じられた本に漫画家たちは生きる希望を描いた
01:54戦争終わってからパッと電灯がついて明るくなって
02:00行った時の感動というものは何とも言えなくて
02:03生き残ったわいという考えが今でも思い出されるわけです
02:08僕の漫画はただひたすらそれを追いかけてきたんです
02:12戦後復興のヒーローは街頭テレビから生まれた
02:27外国の巨漢レスラーを叩きのめす力道山に
02:33誰もが開催を叫んだ
02:35勝ち負けよりもそれまで占領軍だったアメリカ人が
02:45頭から血を流すほどコテンパンにやっつけられる光景に
02:51慣習の溜まっていたコンプレックスやストレスが
02:54吹っ飛んだのだ
02:56小さな町工場から再起を図った
03:04二人の技術者がいた
03:06敗戦の焼き跡からソニーとホンダという企業を築き
03:12戦後の経済復興を牽引した
03:15人のやらないことをやるということは
03:21非常にこれは勇気のいることであり難しいことであります
03:25しかもそのやったことってのは
03:28世の中の役に立たなければならない
03:31命令されて仕事をやったんじゃない
03:35国民全体が私は自分が生きるために
03:39本当にシャニムにやったんだろうと思う
03:41激動の昭和をたどる3回シリーズ
03:46今回は焼き跡からの再出発
03:50敗戦のどん底から日本人はどう立ち上がったのか
03:56人々に勇気を与えた
03:59破れざる者たちの物語である
04:02何か食い物はないか
04:18食料から食料へと漁り歩いて
04:21一日を終わる人々がどこの巻き方にも増えていきます
04:25終戦から数日で
04:30焼け跡には闇市が現れ
04:33どこからともなく集められた食料や衣類
04:37鍋、釜などが並んだ
04:40生き抜くために誰もが必死だった
04:45終戦の翌年
04:51浜松に小さな町工場が誕生する
04:55立ち上げたのは
04:57本田総一郎、39歳
05:01本田は戦争中
05:07従業員2000人を抱える
05:09自動車部品製造会社を率いていた
05:12戦争が激化すると
05:18国の管理下に置かれ
05:20航空機などの部品製造の発注を受けた
05:24軍需工場は激しい空襲にさらされ
05:32本田の工場も壊滅した
05:35戦争に敗れ
05:39信じてきたものが崩れ去る中
05:42本田は生き方を見つめ直した
05:45人間と生まれて生きている限り
05:51どうせやるなら
05:53自分の手で何かをこしらえよう
05:56工夫し、考案し
06:00そして社会に役立つものを作るべきであろう
06:04目に留まったのは
06:08交通が壊滅し
06:10自転車で重い荷物を運ぶことを
06:13強いられる人たちの姿だった
06:17不要になった軍用の小型エンジンをかき集め
06:21自転車の補助動力として取り付けられるよう
06:24作り変えた
06:29排気温からバタバタと呼ばれた自転車用補助エンジン
06:35ホンダの第1号製品となった
06:42小型エンジンの一式を自転車に取り付け
06:46わずか30分間で自動自転車が出来上がるという耳寄りな話
06:50東京では娘さんたちに評判になっています
06:54バタバタは爆発的に売れた
06:59模倣品も出回った
07:05ホンダは自前のエンジン開発も成功させた
07:10バタバタの音が街にあふれた
07:14そのホンダの活躍に注目していた男がいる
07:182歳年下のイブカマサル
07:22イブカも戦後間もなく小さな工場を立ち上げた技術者だった
07:28自転車に付けるものですから
07:33排気量50ccの小さなエンジンですが
07:37それを地方の小さな会社が流れ作業で量産しているというのです
07:43なかなか元気のある奴がいるものだと
07:46私もホンダさんの名前を記憶に刻み込んだのです
07:52イブカは学生時代から電気工学の分野で成果を上げ
08:01若き発明家と目されていた
08:04戦時中には軍の研究機関のメンバーに任命され
08:13陸海軍向けの新兵器や測定機器の研究製造に従事した
08:19終戦の翌年
08:25イブカは総勢20人ほどの小さな会社
08:29東京通信工業を設立する
08:36昭和24年
08:39NHKのスタジオ工事を受け負っていたイブカは
08:43GHQが持ち込んだテープレコーダーを目にする
08:48テープ式の録音機はアメリカでも製造が始まったばかりだった
09:04日本では設計図も手に入らず
09:08ゼロから試行錯誤で研究を重ねた
09:11翌年
09:15日本初のテープレコーダーの開発に成功する
09:20その時録音されたイブカの貴重な肉声が残されている
09:26昭和25年8月6日
09:33これは今日はテープコーダーの生産を基としてから
09:41丸1周年記念で大いに頑張ってもらうように
09:47今いろいろ相談しているところであります
09:51イブカ
09:55しかし期待に反しテープレコーダーはさっぱり売れなかった
10:01重さは35キロ
10:05民間企業の初任給が4000円程度の時代に16万円もした
10:16設計を見直し
10:18泊り込みで小型化の開発を続けた
10:231年をかけ8万4000円のテープレコーダーが完成
10:29学校の視聴覚授業で使われるようになった
10:39さらに持ち運べる録音機も開発
10:43デンスケと呼ばれたこの携帯型は
10:47NHKや民放ラジオ局がこそって導入した
10:53今日は日米行政協定をめぐってという話題で
10:57東京マルビル1階商店街入り口で
11:00皆さんからご意見を伺ってまいります
11:03こちらの方いか
11:05私はこの新聞を見ましてびっくりしたんです
11:08ほとんどアメリカには自由の権利を与えて
11:10ただ日本では各々日本人の一人一人の背中に
11:15重たい義務を背負わせた
11:17私はこう思いました
11:19音を持ち運ぶことを目指した小型化への執念は
11:24後に世界を接見するウォークマンにつながっていく
11:32大きな会社と同じことをやったのでは
11:35我々は叶わない
11:38しかし技術の隙間はいくらでもある
11:43我々は大会社のできないことをやり
11:47技術の力で祖国復興に役立てよう
11:51お寺の縁の下や焼け跡などで湯を過ごしたこの子供たちは
12:02気が高くなると食べ物を求め楽しみを求めて
12:06闇市付近を暴露し泥のようにその日その日を暮らしています
12:10敗戦後
12:15親を失った千歳孤児はおよそ12万人もいた
12:20お腹を空かせ窃盗やすり
12:24物恋に身を投じる孤児たちが社会問題となっていた
12:28昭和22年
12:33GHQの要請で千歳孤児の救済を訴える
12:38ラジオドラマが制作される
12:42黒ちゃん
12:44この人はほっとけば死んでしまうのよ
12:46死んだって構わないよ
12:48こいつずっと昔河見先生に助けられたのに
12:51その河見先生に悪いことをしに来たんじゃないか
12:53戦後をたくましく生きる孤児たちの姿を描いた
12:59鐘の鳴る丘は
13:01明るく軽快な主題歌とともに大ヒットした
13:06緑の丘の赤い屋根
13:12どんがりぼうきの時計台
13:16鐘が鳴りばきの時計台
13:18主題歌を作曲したのは戸籍雄二
13:21ねえ小屋にも泣いてます
13:27戸籍は戦時中数多くの戦時歌謡を手掛けていた
13:32出征する兵士を見送る時に歌われた
13:43露影の歌
13:44大将軍航空隊のパイロットを目指す練習生を募集する
14:00若鷲の歌
14:01戦時の歌
14:03戸籍の歌に愛国心をかきたてられ
14:07多くの若者たちが戦地へ向かった
14:11戦時中、国民を繊維高揚させる音楽を作り続けたことを
14:18後のインタビューでこう語っている
14:24若鷲の歌を歌いながら
14:27南に飛び立ってまいりますっていうような
14:30お手紙を頂戴したこともございます
14:32本当に今考えますと
14:34胸が痛んでまいります
14:38戦後
14:39戸籍は平和への願いを込め
14:43人々に希望を与える応援歌を手掛けていく
14:49全国高校野球大会は8月13日に始まりました
14:56昭和23年
14:58戸籍は復活した全国高校野球大会の
15:03新たな大会歌を作曲した
15:05雲は湧き
15:10光あふれて
15:15明るくてテンポが良くて
15:19エールとして素晴らしいなと思って
15:22戦後貧しい時代で
15:25食糧難、物資不足という状況の中で
15:29とにかく野球がやれただけ幸せでした
15:32その後も戸籍は多くの応援歌や行進曲を作り
15:47復興に立ち上がる日本人を励まし続けた
15:51娯楽のなかった子どもたちの心を掴んだのは漫画だった
16:04露店や駄菓子屋には
16:07粗末な紙でできた赤本と呼ばれる20ページほどの漫画本が
16:1210円程度の値段で売られていた
16:16昭和22年
16:22革命的ともいえる赤本漫画が登場する
16:27新宝島
16:29斬新な構図の小回りに200ページの長編ストーリー
16:36貧しい時代に40万部も売れたと言われる
16:41これは確かに紙に印刷された止まった漫画なのに
16:48この車はすごいスピードで走っているじゃないか
16:52まるで映画を見ているみたい
16:56そうだ、これは映画だ
16:59紙に描かれた映画だ
17:02いや、待てよ
17:04やっぱりこれは映画じゃない
17:07それじゃあ、一体これは何だ?
17:13空襲の焼け跡だらけの街で
17:16手塚さんの漫画がどういう衝撃を僕らに与えたのか
17:20多分、理解できないだろうと思います
17:25違う世界、目の前が開けるような世界だったんです
17:32作者は大阪大学の医学生だった手塚治
17:40卒業後、手塚は医師にはならず
17:46漫画家の道を歩む
17:50物語に引き込む長編ストーリー
17:53キャラクターの深み
17:55漫画の新たな地平を切り開いていく
17:59漫画雑誌を買えない子どもたちは、貸本屋に集まった
18:08貸本屋には、手塚治虫に憧れた作家たちの作品が並んだ
18:16子どもたちの心を踊らせた
18:251952年4月28日
18:41アメリカの批准書帰宅によって
18:44司令部の屋上には日の丸も昼返り
18:47日本は独立を回復して、国際社会に復帰
18:50昭和27年4月
18:54サンフランシスコ平和条約が発行し
18:57独立を回復した日本は、喜びに湧いた
19:02ちょうどその頃、手塚の代表作となる
19:09鉄腕アトムの連載がスタートする
19:12多くの日本人が、アトムの活躍と
19:18日本の再出発を重ね合わせた
19:27当時の日本は、戦後の混乱期
19:32今とは違い、科学は全て薔薇色だったから
19:37なんとか科学の力で、最低の生活から立ち直りたいという願いを
19:42アトムに託した
19:45昭和28年、テレビ放送が始まる
20:01NHKに続き、民放の日本テレビも開局
20:08テレビが、国民的ヒーローを誕生させる
20:11日米対抗プロレスリングタッグチーム世界選手権をかけた
20:22シャープ兄弟対力道山木村の一戦
20:25力道山弟のマイクを掴んでは投げ、担いでは叩きつけて大奮戦
20:30得意のハンマー投げ、見事に決まりました
20:38昭和29年2月、日本初のプロレス国際試合を
20:44NHKと日本テレビがそろって中継した
20:48街頭テレビが設置され、新橋駅前には2万もの人が詰めかけた
20:55群集の中に、出版社に就職したばかりの半藤和人氏もいた
21:07とにかく日本中の人々が行転したのである
21:15そして夢中になった
21:17テレビ栄光の歴史は、この夜に始まったと言ってもいいほど
21:22街頭テレビの周りは、黒山の人だかりとなった
21:29その瞬間、力道山ブームは口火を切った
21:43何しろ、あの頃は一般的日本人の中に
21:49アメリカ人に対するひけ目が、まだ王を引いていた
21:54戦後9年が経っていても、戦争でアメリカに負けたという
22:00劣等感に支配され、新中軍への怯えに包まれるという空気は
22:05依然として生きていたのだ
22:14一夜にしてヒーローとなった力道山は、元力士だった
22:19これは、力士時代の力道山の貴重な映像
22:26張り手を武器に、荒々しい相撲で、関脇まで番付けをあげ
22:32将来の大関候補だった
22:35しかし、昭和25年
22:38親方との確執や、番付けをめぐる教会への不満が募り
22:45自ら曲げを切って引退した
22:48その後、新中軍の異門工業のために来日したレスラーと出会い
22:58プロレスの世界に飛び込む
23:00外人どもに目に物を見せてやる
23:07日本の相撲のすごいことをお前たちは知るまいと
23:12親中ひそかに気するところがあった
23:16道場破りぐらいの気持ちだった
23:21力道山の登場は、テレビ普及の起爆剤となった
23:28テレビの生産台数はぐんぐん伸び
23:32プロレス放送が始まった2年後、その数は10倍になった
23:38夕方になるのを待しかねて、部落の人たちは我も我もと詰めかけてきました
23:52テレビを変えた裕福な家には、近所中から人が集まった
23:58プロレス中継を見ようと、蕎麦屋や喫茶店は満員になった
24:10近頃、子供たちの間でプロレス遊びが大変に流行っております
24:19すっかり力道山気取りで、飛び蹴りや空手ジョップの連発です
24:23ところが、このプロレスごっこのおかげで大けがをする子供が目立って増え
24:35世のお母さんたちの心配がいつも絶えません
24:38加熱するプロレスごっこに歯止めをかけようと、力道山が子供たちに呼びかける事態も起こった
24:50プロレスラーはこれだけ鍛えるからこそですね、毎日打ったり蹴ったり殴ったり激しい事ができるので
24:58少年は体も柔らかいし、絶対にプロレスの真似をしたらいけないとは思うので
25:06絶対に辞めてもらいたいんです
25:08しかし、この数年後、国民的英雄となった力道山に
25:16思いもよらぬ運命が待ち受けていた
25:26爽やかな秋を彩る、こちらはニューヘアスタイルコンクール
25:31一世を風靡したヘップバーン以来、緑の黒髪をさっぱり断ち切る事が流行
25:42戦後10年、ローマの休日のオードリー・ヘップバーンに憧れ
25:48女性たちのショートカットが大流行した
25:51ヤミイチは姿を消し、食うや食わずの暮らしから這い出した人々には
26:01経済的な余裕も生まれつつあった
26:09この頃、町工場のイブカ・マサルは、新たな製品の開発に挑んでいた
26:15この小さなトランジスタは、電子力の大きな部分に
26:21アメリカのベル研究所が、昭和22年に発明した
26:28トランジスタ
26:30イブカは、この小さな部品を真空管の代わりに使い
26:36小型のラジオが作れないかと考えていた
26:39トランジスタを、買ってくるのではなく、自分たちで作ると決意した
26:49ラジオ用のトランジスタは、製作不可能に近いほど難しいものだと分かった
26:57何年も中止しようと思ったが、難しいからこそ、我々がやる価値があるのだ
27:08昭和32年、世界最小のトランジスタラジオの開発に成功する
27:18ポケッタブルラジオと名付けた新製品に、ソニーのマークをつけ
27:26アメリカのクリスマス商戦で売り出した
27:30トランジスタラジオは、若者たちのライフスタイルを劇的に変えた
27:40自分の好きな音楽を、好きな場所で楽しめる
27:44ラジオは、単なる音を聞く道具ではなく、自由への扉を開くものとなった
27:56それは当時、一番クールなものでした
28:00あの包みを破り開けた時のことは、今でも鮮明に覚えています
28:05手のひらに収まる感触が良く、スイッチを入れると、世界が私に向かって開けたのです
28:15ソニーのポケッタブルラジオは、すぐに売り切れ
28:23チャーター便で、アメリカに輸出するほどの人気商品となる
28:27他の大手電気メーカーも、こぞって生産に参入し
28:35トランジスタラジオは、日本製品の大名詞となった
28:41工場の働き手となったのは、地方から集団就職で上京した若者たち
28:52トランジスタラジオの生産には、緻密な作業が求められた
29:00製造ラインから、次々と流れてくる部品の組み立てを
29:05素早く、正確にこなす女性たちは、トランジスタ娘と呼ばれた
29:10これは、ソニーの工場を、昭和天皇が視察に訪れた時の映像
29:23トランジスタの生産ラインを、イブカが案内した
29:28トランジスタ娘と呼ばれて、新潟県とか岩手県からたくさん中卒の人が来てね
29:40自分の与えられた仕事だけじゃ無しに、自分にどんな形で流れてくるか
29:46それをどんな形にして次へ移そうかというような
29:49両側の配慮とかね、そういうような娘さんたちの動きってなぁ、非常に見事だったですね
30:01イブカのもと、ある人物が訪ねてきた
30:05ホンダ総一郎である
30:09ある相談を持ちかけてきた
30:11エンジンを点火するのに、トランジスタが使えないか
30:20この時、ホンダのアイデアは実現しなかったが
30:24その大胆な発想に、イブカは舌を巻いた
30:31同じ技術の世界でも、自動車のエンジンというのは
30:35かなり保守的なところがあって、新しい発想をなかなか受け入れない面があります
30:44ホンダさんの発想には、私もびっくりすると同時に
30:49すっかり感心したものです
30:56この頃、ホンダはこれまでにないバイクの開発に取り組んでいた
31:01頭にあったのは、そば屋の出前餅
31:07街中では、そばを積み上げ、出前に急ぐ自転車が走り回っていた
31:18そば屋の出前のお兄ちゃんが、片手で乗れる車にする
31:23戦後、まもなく手がけた、バタバタの手軽さを進化させ
31:33操作が簡単で、誰でも乗れるバイクを目指した
31:37これは、後ろに足を上げてまたぐオートバイじゃないぞ
31:45前からまたぐ車だ
31:48スカート履いたお客さんにも買ってもらう車だ
31:52昭和33年、50ccの実用的バイク、スーパーカブを世に送り出す
32:07小型で簡単、燃費も優れたスーパーカブは、爆発的に売れた
32:12発売から3年で、年間生産台数は、56万台を超えた
32:27昭和34年、アメリカホンダを設立
32:32大型バイクが主流のアメリカに、売って出る
32:36スーパーカブは、バイクの持つ不良めいたイメージを一新した
32:58小回りが利き、普通の人が気軽に乗る乗り物として、アメリカでもブームになった
33:06人気絶頂のビーチボーイズも、こんな歌を作った
33:16スーパーカブは、アメリカのみならず
33:33世界60カ国以上で、1億台以上も売れた
33:39技術は、人間のためにあるという哲学が、世界で受け入れられた
33:45旦那、やっぱり旦那だったですね
33:54そう?
33:56わしですよ、いつか墨田公園で奥野と一緒に
34:00国民的スターとなった力道山は、リングの外でもスポットライトを浴びた
34:09自らの反省を描いた映画では、美空ひばりとも共演した
34:14さまざまな事業にも手を広げ、実業家としても名を挙げた
34:33しかし、昭和38年12月、突然この世を去る
34:48赤坂のナイトクラブで、些細な事から諌かいとなり、腹を刺され、1週間後に命を落とした
34:57力道山の死は、韓国でも報じられた
35:12反民族へ、皮をたくな、世界プロレスローへ、王者を奮いまいった
35:17力道山は、半青年の彼の治療、治療を受け入れ、
35:21昨年12月15日、晩、死亡しました
35:24力道山は、自らの出自を公に語ることはなく、家族も知らなかったという
35:34しかし、プロレス記者たちも、そのことに触れる者はいなかった
35:42力道山が、戦前の朝鮮で生まれたことは、私の頃のプロレス担当記者は、みんな知っていましたよ
35:52しかし、そんなことを書く記者は、一人もいなかったな
35:59力道山は、日本の力道山でなければならなかったんです
36:04力道山がなくなったこの年
36:21日本初の長編テレビアニメシリーズ、鉄腕アトムの放送がスタート
36:29アニメ制作は、手塚が長年抱いてきた夢だった
36:33この時の考えは、終生忘れられないだろう
36:43我が子が、テレビに出演しているのを、ハラハラと見守る気持ちだった
36:49手塚は、アニメ制作のため、専門のプロダクションを設立
37:018本の漫画連載を抱えながら、毎週放送されるアトムの総監督を務め
37:07文字通り、寝る間もなく打ち込んだ
37:14最高視聴率は40%を超え、アトムは子供から大人まで
37:22誰もが愛する国民的キャラクターになった
37:28天皇陛下も幼少期、鉄腕アトムが大のお気に入りだった
37:34鉄腕アトムは、アストロボーイのタイトルでアメリカでも放送され、人気番組になった
37:52その後、ヨーロッパや中国でも放送され、日本のアニメが世界へと飛躍する先駆けとなった
38:00鉄腕アトムの放送が始まった昭和38年
38:10ホンダは、念願の四輪自動車の販売を開始する
38:19作り上げたのは、小型で高性能のエンジンを搭載した真っ赤なスポーツカー
38:25その色に、誰もが度肝を抜かれた
38:33翌年、世界最高峰の自動車レース、F1にも果敢に挑戦した
38:39世界一でなければ日本一でない
38:47我々は、あくまでも世界一のものを作らなければならない
38:53参戦2年目、メキシコグランプリで初優勝
39:03メイドインジャパンの信頼性を一気に高めた
39:07現代は激しい勢いで変わっています
39:17古いものに変わって、新しいものがどんどん生まれていく時代です
39:24昭和39年
39:26オリンピック開催を控えた東京に、焼け野原の面影はなくなっていた
39:33ここに、戦後19年
39:43戦火の跡から立ち上がって、目覚ましい復興と新たな躍進を遂げた
39:48日本の首都、東京で、世界の民族の祭典、平和の祭典
39:53和光度の美と力の祭典、オリンピックを開くことは
39:57なんと嬉しいことではありませんか
39:59アジアで初めて開かれたオリンピック
40:05敗戦からの復興を、世界に向けてアピールした
40:12心も浮き立つような戸籍有事作曲のオリンピックマーチが鳴り響きます
40:20入場更新曲を作曲したのは戸籍有事だった
40:24開会式には戸籍も出席していた
40:29愛用のカメラで、戸籍は戦後日本の晴れ舞台を撮影した
40:36当日はロイヤルボックスの前、最前列で自分の曲で入場する世界の和光度の姿を見て、感激しました
40:57作曲生活中、最良の日でした
41:03東京オリンピックの9年後、本田宗一郎は、会社設立25年の節目に、66歳で社長を退いた
41:11東京オリンピックの9年後、本田宗一郎は、会社設立25年の節目に、66歳で社長を退いた
41:25その後、数年をかけて、国内外の工場や営業所を回り、一人一人の手を握り、お礼を伝えた
41:41退任後も、社員たちからは親しみを込めて、親父さんと呼ばれた
41:53結局はね、自分の思うこと、思うことだから精一杯やれたというか、命令されて仕事をやったんじゃないというか
42:02国民全体が私は、自分が生きるために、本当に社にもにやったんだろうと思うね
42:11平成3年、本田宗一郎は、84歳で亡くなった
42:20本田を慕う社員たちが開いたお礼の会に、2歳年下の井深勝も参列した
42:27焼け跡の小さな町工場を、世界的な企業へと成長させた2人は、生涯の友として認め合い、尊敬しあってきた
42:48こういう大きな人とね、友達になれてね、ありがとうですよ、本当に
42:57昭和20年、人々は、焦土の中に立ち尽くした
43:0623年後、日本は、世界2位の経済大国となり
43:15それを成し遂げたのは、幾多の破れざる者たち
43:20そして、名もなき、無数の人たちだった
43:25毎日毎日を、いかに生き延びるかが大問題であった
43:35そうした惨憺たる敗戦日本を想起すると、どうやってその廃墟から立ち上がり
43:42世界史にも稀な経済大国として、復興、平和国家建設ができたのか
43:49ほとんど奇跡と思いたくなる
43:52が、決して奇跡でも夢物語でもなく、それは現実であった
44:00日本人は、本当によく働き、頑張ったのである
44:05全体と戦っても、本当によく働き、頑張ったのに、とても大事だ
44:23次回は奇跡と呼ばれた高度成長
44:50日本が眩い光を放った時代
44:54その分影も濃かった
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