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  • 8 年前
ふと耳に潺々水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると岩の裂目から滾々と何か小さく囁ながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で掬って一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て夢から覚めたような気がした。歩ける、行こう。肉体の疲労恢復と共にわずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。
「日没までにはまだ間がある、私を待っている人があるのだ。少しも疑わず静かに期待してくれている人があるのだ。私は信じられている、私の命なぞは問題ではない。死んでお詫びなどと気のいい事は言って居られぬ。私は信頼に報いなければならぬ、いまはただその一事だ。走れメロス。私は信頼されている、私は信頼されている。先刻のあの悪魔の囁きはあれは夢だ。悪い夢だ忘れてしまえ。五臓が疲れているときはふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロスおまえの恥ではない。やはりおまえは真の勇者だ、再び立って走れるようになったではないか。ありがたい、私は正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ陽が沈む、ずんずん沈む。待ってくれゼウスよ、私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。」
 路行く人を押しのけ跳ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴のその宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の十倍も早く走った。一団の旅人と颯とすれちがった瞬間不吉な会話を小耳にはさんだ。
「いまごろはあの男も磔にかかっているよ。」「ああその男、その男のために私はいまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げメロス、おくれてはならぬ。愛と誠の力をいまこそ知らせてやるがよい。風態なんかはどうでもいい。」メロスはいまはほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度三度口から血が噴き出た。見える、はるか向うに小さくシラクスの市の塔楼が見える。塔楼は夕陽を受けてきらきら光っている。
「ああメロス様」うめくような声が風と共に聞えた。
「誰だ」メロスは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます」その若い石工もメロスの後について走りながら叫んだ。
「もう駄目でございます、むだでございます、走るのはやめて下さい、もうあの方をお助けになることは出来ません。」
「いやまだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今あの方が死刑になるところです。あああなたは遅かった、おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも早かったなら!」
「いやまだ陽は沈まぬ。」
メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい、走るのはやめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方はあなたを信じて居りました。刑場に引き出されても平気でいました。王様がさんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私はなんだかもっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来いフィロストラトス。」
「あああなたは気が狂ったか。それではうんと走るがいい。ひょっとしたら間に合わぬものでもない、走るがいい。」
「言うにや及ぶ、まだ陽は沈まぬ。」
最後の死力を尽してメロスは走った。メロスの頭はからっぽだ、何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽はゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。
「待て、その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま帰って来た」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり。群衆はひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ刑吏! 殺されるのは私だ、メロスだ。彼を人質にした私はここにいる」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に齧りついた。群衆はどよめいた、あっぱれ、ゆるせと口々にわめいた。セリヌンティウスの縄はほどかれたのである。
「セリヌンティウス」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ、ちから一ぱいに頬を殴れ。私は途中で一度悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ、殴れ。」
 セリヌンティウスはすべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み。
「メロス私を殴れ、同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけちらと君を疑った。生れてはじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ私は君と抱擁できない。」
 メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。
「ありがとう友よ」二人同時に言いひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
 群衆の中からも歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様をまじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめてこう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらはわしの心に勝ったのだ。信実とは決して空虚な妄想ではなかった。どうかわしをも仲間に入れてくれまいか。どうかわしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
 どっと群衆の間に歓声が起った。
「万歳王様万歳。」
 ひとりの少女が緋のマントをメロスに捧げた。メロスはまごついた、佳き友は気をきかせて教えてやった。
「メロス、君はまっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのがたまらなく口惜しいのだ。」
勇者メロスはひどく赤面した。

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