- 2 days ago
Category
📺
TVTranscript
00:00:00京都市東山区豊臣秀吉を祀る豊国神社ここに一層の屏風絵が所蔵されている
00:00:18こちらが秀吉港の七日駅にあたり催されました豊国大名神臨時祭礼の模様を描いた屏風でございます関ヶ原合戦から4年後の慶長9年8月に催された豊国大名神臨時祭礼
00:00:48この祭礼は極めて盛大なものだった
00:00:53圧巻は町州たちの乱舞
00:00:59華奢風流を飾って華やかなる井出たちにて踊り上がり飛び上がり拍子を合わせ乱拍子
00:01:16思い思いの仮装をした町州たちが歌い踊り亡き秀吉をしのんだ
00:01:27だがこの祭礼には単に秀吉をしのぶ以外に大きな狙いがあった
00:01:35仕掛け人は豊臣秀吉の後継秀頼の母である淀殿
00:01:42ロド殿はなぜ祭りを行いそれを屏風に描かせたのか
00:01:48そこには関ヶ原合戦の後勢いを増し続ける徳川家康との権力争いが関わっていた
00:01:58スタジオでは屏風絵に隠されたメッセージを論客たちが読み解く
00:02:05エンターテイメントっていうのはある意味で政治や宗教よりも力を帯びる場合があるわけですよ
00:02:09最強のやっぱり屏風絵だなという気がしますし
00:02:12この絵をよく見て秀吉の恩子をよく思い出してくださいねと
00:02:16そういうメッセージを込めたんじゃないかと
00:02:20両笛から浮かび上がる淀殿の豊臣復権の秘策とは
00:02:25関ヶ原から大阪の陣に向かう時代
00:02:29豊臣徳川の静かだが熾烈なせめぎ合いに光を当てる
00:02:35豊臣徳川の静かだが熾烈なせめぎ合いに光を当てる
00:02:54皆さんこんばんは
00:03:10イソラさんいつものスタジオですが
00:03:13今日ちょっと雰囲気違いますよね
00:03:14何やらありますね
00:03:16今回豊国神社所蔵の報告サイレーズ屏風の
00:03:19超高精細コピーをお借りしてきました
00:03:22いかがですか
00:03:23いやもうね収録こっちのけでこれ一つずつ見てきたらしょうがないです私はね
00:03:28こっちの左側で風流の踊りやってたりしませんかね
00:03:33よく見るとねそれぞれが趣向を凝らしてるわけですよ
00:03:38桃山の終わり頃から江戸時代の初めの入り口にかけての
00:03:42この時代のやっぱり特徴でしょうねこの感じがね
00:03:46なんか豊臣の解放と豊臣の自由っていうのが見えていい感じですね
00:03:50これを行わせたとされる人物が今回の主人公ヨド殿です
00:03:56ヨド殿が何でこんな立派な屏風を描かせたのかっていうのは何か大きな狙いがあったはずですよね
00:04:02世はまさに豊臣と徳川の勢力が並び立ってただから天下を巡る静かなせめぎ合いを今回は屏風を入り口にですね手がかりにしてひも解いていきたいと思います
00:04:16まずは屏風に描かれた秀吉の七海紀の祭礼がどのようなものだったのか見ていきましょう
00:04:24秀吉七海紀の豊国大明神臨時祭礼
00:04:31行われるまでの戦いを記しているのが豊国の社の責任者ボンシュンの日記だ
00:04:39日記によるとボンシュンは慶長9年6月12日に豊臣家の家老片桐勝元とともに家康を訪ね
00:04:52指揮次第を説明している
00:04:55この記述から臨時祭礼は豊臣家が企画し豊臣政権の大老である家康が許可して行われたことがわかる
00:05:08費用は豊臣家が負担する
00:05:118月4日家康は1日限りという条件付きで祭りの許可を出した
00:05:20それから10日後の14日臨時祭礼が始まった
00:05:29その様子が描かれたのが豊国祭礼図屏風だ
00:05:36この屏風をもとに祭りの全容を見ていこう
00:05:50まずは五兵と酒木を掲げた100人の行列
00:05:55続いて200人の神官が馬に乗ってパレードする騎馬行列
00:06:03屏風に描かれた神官と馬を見てみると
00:06:13美しい装飲に身を包んでいることがわかる
00:06:17これらの衣装は祭りのために新調されたものだ
00:06:23馬を提供したのは前田俊永、加藤清正、福島正則、細川忠之、八塚家政など
00:06:36秀吉に取り立てられた大名たちだった
00:06:38この日のために設けられた佐治席席では
00:06:44公家や武士、僧侶が身を乗り出して見物している
00:06:48行列は京都市城、県忍寺西門の前を出発
00:06:59大和王寺を南に進んだ
00:07:08沿道は華やかな騎馬行列を一目見ようとする群衆で埋め尽くされた
00:07:17およそ1キロの距離を練り歩き
00:07:23秀吉が祀られた豊国のやしろへ
00:07:26こちらに描かれているのが豊国のやしろの三門部
00:07:43中では特別なイベントが行われる
00:07:46ちなみに現在の豊国神社にこの門はないが
00:07:51実は現存している
00:07:53明治28年に移築された
00:07:59門の横にあるのは三十三玄堂
00:08:09当時の豊国のやしろの境内は極めて広大で
00:08:14三十三玄堂までが敷地の中に取り込まれていた
00:08:18その上の方
00:08:25座り込んでいる男がいる
00:08:27湯を沸かし茶を立てて売っているのだ
00:08:32美しい衣装で祭りを見に急ぐ女たち
00:08:38お目当てはこの日だけの特別イベント
00:08:44舞台の上をご覧いただきたい
00:08:49秀吉がこよなく愛した能の奉納だ
00:08:53祭礼の記録にはこのような記述が
00:08:57太鼓四小鼓十六で打ち生やす
00:09:03音は天地に響き渡り
00:09:06社殿も揺れ動くほど
00:09:08豊国神社権利儀の大島博直さんによると
00:09:16この日の能は特別なものであったという
00:09:19この時は大和の猿学士座
00:09:25コンパルコンゴ
00:09:27関税宝書揃っての沖縄舞を奉納しているという場面でございます
00:09:32通常当社の祭りでは
00:09:35交代でそれぞれの座が奉納するということになっておりましたけれども
00:09:43この時は志座合同ですべてが新しい能を奉納し
00:09:49沖縄舞を舞っているという場面ですね
00:09:51沖縄舞とは能の中でも特別な格式の高い舞
00:09:59これを能楽を代表する志座が一緒に舞う特別な演目となった
00:10:05抱えて人数はこれぐらいですけれども
00:10:09もっとたくさんの人がご覧になっていたはずです
00:10:12さらに社殿の階段下では電楽の上演
00:10:20いくつもの小刀をジャグリングのように投げ上げている
00:10:30牙の行列に能や電楽の奉納
00:10:3914日の臨時祭礼はこうして終わった
00:10:43だが1日限りだったはずの祭りは翌日も続いた
00:10:47豊国神社前の広場
00:10:57慶長9年8月15日
00:11:03ここで行われたのが町州たちの浮流踊りだ
00:11:08神業下業から5つの組が参加し
00:11:14それぞれに衣装を凝らした祭礼用の飾り
00:11:18作り花かさぼこを披露
00:11:20どの組もかさぼこを囲んで100人ずつの踊り手が舞い踊る
00:11:29周りには扇を手に踊りを盛り上げる者が100人
00:11:35さらに外側に敬語の者100人の輪
00:11:39総勢1500人を超える町州たちが踊りを奉納した
00:11:46衣装に注目してみるとどれも派手できらびやか
00:11:54みんな好みの仮装で浮流踊りに参加している
00:12:03こちらには七福神の呪老神
00:12:08こちらは弁慶
00:12:13当時日本に来ていた南蛮人の仮装をした者もいる
00:12:24天狗の姿も見られる
00:12:26この男は何の仮装
00:12:32タケノコだ
00:12:35盛り上がりの頂点に達した祭礼
00:12:41町州たちの踊りは夜まで続き
00:12:44見物人の列は三畳大橋から五畳大橋まで続いたという
00:12:49この日町州が歌った歌詞の一部が記録に残されている
00:13:00豊国の豊国の神の遺行は居山死に
00:13:08よろずよまでも久しくめでたし
00:13:11豊臣の世がいつまでも続いてほしい
00:13:17そんな願いが込められた歌だった
00:13:20見物の差敷の数だけでも
00:13:272300を超える盛況ぶりとなった臨時祭礼
00:13:31浮流踊りの一段は代理にも赴き
00:13:39御用勢天皇の前で踊りを披露
00:13:42記録には面白くおぼしめされたと記されている
00:13:47さらに5日後
00:13:52町州たちは伏見城で家康に踊りを見せている
00:13:56祭りを仕掛けた淀殿は祭りが終わるとすぐに
00:14:07お抱えの画家加納内禅に屏風絵を製作させた
00:14:11祭りの翌年完成した屏風絵は豊国の社で公開される衰え知らずの秀吉の意向と人気をあらゆる人々に見せつけたのであった
00:14:36今回はお二人のゲストをお迎えしています美術史家の筒井忠仁さん漫画家で文筆家の山崎麻里さんですよろしくお願いします筒井さんは宝国サイレーズ屏風を研究されていますけれどもどこに注目されていますかはいやっぱり一番はですねこの描かれているもの非常に細部が丁寧に描かれていることですね例えばこの辺り見ていただきたいんですけれどもこの辺りを見ていただき
00:15:06ここに騎馬行列書かれていますけれども人々の動きとか馬の様子とかですね非常に細部まで丁寧に描かれていて表情なんかも一人一人分かるように描かれているんですねさらに着物の衣装すごい細かい模様が入っているんですけれどもそれも全部手書きで丁寧に描いていますこうした細部の丁寧さ緻密さがやっぱりこの描くの一つの重要な要素だと思います
00:15:36という画家はまあ屏風を得意にした特異にした画家なんですが特にまあこうやっぱり細部描写の丁寧さに定評のある画家だったんですね恐らくこの豊臣秀吉の七回忌七回忌っていう重要なイベントを丁寧に記録するにあたって選ばれたんだろうというふうに思います上の方能のところを見てみると本当に周りの人たちが楽しんでる様子っていうのも伝わってきますよね
00:16:06ですので当時の公家の日記なんかを見るとこれを一生懸命見に行って楽しんだっていうようなことが日記に書かれていますで能をこのイベントに取り入れた理由はですね一つには秀吉が能好きだったっていうのはあるんですけれども能好きの公家たちへもちょっとアピールする気持ちがあったかもしれないですねなるほどそして山崎さんこちら左席の方もご覧いただきたいんですけれども
00:16:34風流踊りこれ近くにご覧になっていかがですかいやもうあの私漫画家でやっぱりたくさんの群衆描写ってよくやるんですけどもう何ていうのかな躍動感この停止画像からいかにこの動きを演出しようかっていうことの何ていうのかチャレンジ精神半端ないなっていうのもありますし本当に何ていうのかな音が聞こえてくるわけもうガヤガヤワイワイドンドンピーヒャララ全部です
00:17:03全部書いちゃう感じだけどそれ書かなくてもちゃんと音が私たちに伝わってくる振動感というか躍動感というか空気の中のこの動きがこれはやっぱり絵師の技ですよねこの傘鉾なんて傘の上になんか子供乗っててしかもなんか酒漬き3枚重ねにしててこっちで尺持っててその上に今度松生えてるみたいな本当ですねどういう解釈にしたらいいんですかっていうようなでもこれを見た人は絶対見たいこれ生でって思うじゃないですか
00:17:33例えば情報番組でこれ見たら今度絶対行きたいわって思うようなそういった意味でも本当にもうすさまじき情報量だなという気がします
00:17:41私あとこのタケノコなんかもすごいキャッチーだなと思ってここにいるんだそうですね多分おめでたいモチーフとして選ばれてるんだと思いますねあと子孫の範囲仮想大会みたいな雰囲気も感じますよねやりたい放題の感じですねそうですね豊臣コスプレ解放区いやーあの当時戦乱が終わって平和の世になってそれまでのちょっとやっぱりうくつした気持ちがあったと思うんですよね
00:18:11お金もらって仮装していいよって言われてるんでみんなすごいうれしいですよね。
00:18:19これ見て何に驚くかって全員幸せそうなんですよ着てるものもない裸のおじさんたちですら笑ってるこれ見たら誰も彼もがいい時世だなこんなふうにこんな貧しくても幸せだったら何かもういいかこれでって思わせる力がこもってて秀吉のおかげで王道楽童が現れたっていうね非常に政治的な絵なわけです
00:18:42でもこのお祭りの主催者である与殿の秀頼そして家康っていうのはこの屏風に描かれてはいるんですか?
00:18:49実はですね来てないんですね来てない家康も来ていないし与殿殿秀頼も来ていないです家康は当時伏見城にいて秀頼与殿殿は大阪城にいたと言われていますでもなんか主催者が来ていないってちょっと不思議な気もするんですね
00:19:07理由ははっきりとわからないんですけども当時はその紅葉祭り側はですねまあちょっと下地も庶民がやるものだっていう認識があって一番偉い人はあんまり来ないんですね
00:19:18あとあれですよ秀頼はひょっとすると死んじゃえば終わりですから何が起きるかわからないかもしれないっていうのも考えないではないかもしれません
00:19:30でもそれにしてもなぜ与殿はこのお祭りをそもそも屏風にさせたんでしょうか一つにはですねやっぱりシンプルに自分は見に行ってないわけですよねでもやっぱりどんな様子だったか知りたいという気持ちがあってそれからもう一つもっと大きな理由としてはやっぱりこのイベントが行われてそれで終わりではなくてやっぱりその行われたこの大規模なイベントを豊臣家がやったっていうことをアピールしたかったんじゃないかと。
00:19:58でそれを屏風に描かせて人々に見せることで豊臣家の権力というか権威というかそれがいかにすごかったかっていうのを見せたかったんじゃないかと思うんですねここに大仏殿っていうのが書かれています大きな建物ですねこの大仏殿実はこの祭りが行われた時にはなかったんですね前年に焼けてるんですだけど欠かしてるんですね
00:20:26で何でかっていうとこの建物はこの秀吉が自分の権力権威を示すためにものすごいお金をかけて作らせた非常にモニュメンタルな建物だったんですねその豊臣秀吉のその権威を思い出させるためにあえてなかったものを書き込ませたんじゃないかというふうに考えられるんですねうんなるほど
00:20:56あれを見せた人たちがもうみんなもうびっくりしてしまってなんてすごいエネルギーなんだというまたそれと多分同じ人なんだと思うんですけれども要するにエンターテイメントっていうのはある意味で政治や宗教にも力を浮える場合があるわけですよ
00:21:11で圧倒的に人々っていうのはもう生きてて楽しいなって思うことにひかれてってしまうそういったもうコンテンツが全部この1枚の中に盛り込まれてってしまってるっていうのはもう最強のやっぱり屏風絵だなという気がしますしねだから本当に古代ローマ皇帝がいたら絶対スカウトされてるなと
00:21:29この政治って感情で動く部分も結構大きいのであのその感情を作り出す政治感情の製造装置だからこれで秀吉いかに楽しい世を作ったかとあなたたちが今戦乱で追いまくられなくて生命財産を脅かされたいのはねえ大公殿下のおかげであるということを視覚化するそれでそれを政治的な新たな力としてねそうそうそう
00:21:58京都の人たち上から下まで全員にアピールしようとしたんでしょうねこれでねではなぜこの秀吉七回帰祭令が行われたのかその背景を見ていきましょう
00:22:10慶長5年9月天下分け目の関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は西軍大名たちの領地を没収し味方についた大名たちに配分した
00:22:27ところが奇妙なことがある東軍につき武善の国を与えられた細川忠之の手紙には家康から高等で領地を与えると言われたが証拠となる領地衆院状はもらえなかったとある
00:22:48この時代を研究する笠谷和彦さんはその理由をこう想像する
00:22:58家康はそれだけ全部領地支配しながらなぜ領地衆院状を出してないのかここが問題になるわけでそうするとどうしてもですね秀吉の権威が発給をですね制約しているつまり要するに発給する権限はやっぱり豊臣秀吉の方にあって実務は全部家康がやるけれどもですねその領地衆院状を発給するという権限はやはり秀吉しかない
00:23:27だから家康は出せないしかし秀吉の名前で出すのは家康だとやっぱりまずいそこでもって結局ところ高等で出してお茶を利用するとこういう電になるわけですね
00:23:40まあ言うならば秀吉の権限は依然として豊臣家と秀吉に存在しているんだということを示唆します
00:23:50とはいえ関ヶ原合戦後の豊臣家の領地は摂津河内泉の3カ国現在の大阪府と兵庫県の一部程度の広さしかなかった
00:24:02力を失った豊臣家はどうしたのか
00:24:08大阪城天守閣に関ヶ原の翌年豊臣秀頼が描いた掛け軸が残されている
00:24:19これがあの豊臣秀頼がですねあの自分の父親の秀吉
00:24:38神格化された秀吉の名前が豊国大名人というんですが父親の信号を描いたものになります
00:24:46この8歳という年齢まで描いた
00:24:49関ヶ原合戦によってとか政治の実験が変わるという中でも大枠では
00:24:55豊臣の政権の中で動きそしてその中で当然の行為として秀頼がですね
00:25:02父親の豊国大名人の文字を書くことによって
00:25:08豊臣家を含めた国土全体の安全安寧
00:25:14こういったようなものを願って
00:25:18またそれを諸大名も受け入れていた
00:25:22こういうような時代だったという風に見た方がいいんじゃないかと思います
00:25:28関ヶ原合戦はあくまで
00:25:30豊臣政権内の内輪揉め
00:25:33天下はまだ豊臣のものと訴えていたのだ
00:25:37だがこの時秀頼はまだ8歳
00:25:42秀頼にこれを書かせたのは
00:25:44秀頼の母淀殿であると考えられている
00:25:48織田信長の妹尾市と
00:25:54近江の大名浅井長政の娘であり
00:25:58秀吉のただ一人の跡取りの母である淀殿は
00:26:02秀吉の死をお袋様として豊臣家の実権を握っていた
00:26:07ヨド殿が秀頼に代わり
00:26:12伊勢神宮の橋の修理を取りしきったという記録も残されている
00:26:16その権威は絶大であり
00:26:27関ヶ原の合戦以後も
00:26:29正月にはヨド殿は秀頼とともに
00:26:32家康をはじめとする諸大名や
00:26:35久下宗の念師の挨拶を受けていた
00:26:39そして慶長七年の末
00:26:46朝廷に出入りする僧侶が日記にこう記した
00:26:50秀頼が関伯に任命されるらしい
00:26:54関伯とは成人した天皇の補佐役のこと
00:27:03朝廷では最高の官職であり
00:27:06武家として初めてついたのが秀吉だった
00:27:10久下宗の間では
00:27:15秀頼の関伯就任は確実視されていたのだ
00:27:19久下宗からするとですね
00:27:25秀頼が関伯になるというのは
00:27:27ほぼこれはもう致し方ないという考え方ですね
00:27:31それはなぜかあったらですね
00:27:33秀吉がこの久下たちの窮上を救ってくれたという
00:27:39そういう奥義があるわけですね
00:27:41豊臣武家が関伯になりますとね
00:27:43これ終身関伯になるんですよ
00:27:45秀吉は当然終身関伯ですね
00:27:47そして秀継もありました
00:27:50その後要するに亡くなるわけだけど
00:27:52それは秀頼が幼いから要するに秀頼は関伯にならないだけであって
00:27:58言ってみるならば成人した暁には関伯になるという
00:28:02がいなわけ
00:28:04だから要するに関伯の地位は
00:28:06豊臣がキープしているわけです
00:28:10ところが翌慶長8年2月
00:28:14家康が正位大将軍に任命される
00:28:18豊臣政権の大老の立場を離脱し
00:28:20自らを頂点とする
00:28:22新たな政治体制を作ることになった
00:28:26一方秀頼は内大臣に昇進するが
00:28:32関伯になることはなかった
00:28:34勢いを増すのは家康ばかり
00:28:40この時期ヨド殿を診察した医師の記録には秀頼の母は気鬱で食事も取らずめまいの症状もあると記されている
00:28:56豊臣家の未来を悲観し体調を崩したのかもしれない
00:29:07こうして大阪城に関伯の維持秀頼
00:29:11伏見城に将軍家康
00:29:14天下人が二人いる奇妙な時代が始まったのだ
00:29:21どうすれば秀頼を関伯にできるか
00:29:24豊臣の人気を高める必要があると考えたヨド殿は
00:29:28様々な施策を進めていく
00:29:35家康が将軍になった慶長八年
00:29:38当時の近藤を再建
00:29:41戦国時代に荒廃した自社を復興することで
00:29:44豊臣の権威を示し
00:29:46人々の心を掴もうとしたのだ
00:29:54豊臣家が再建した自社の建物は
00:29:57大五寺、小国寺、南禅寺、倉間寺、北の天満宮など80を超える
00:30:06さらに大阪の町の開発に関わっていたことを示す資料も残されている
00:30:18これは橋の欄関の上に取り付けられていた
00:30:25カバーでありまた飾りでもあるギボシと呼ばれるものです
00:30:30これは大阪の高麗橋という
00:30:34大阪にとって非常に一番の重要な橋であります
00:30:43このギボシのですね、この銅の部分に
00:30:47慶長9年のですね、8月というふうに
00:30:51銘が彫られているんですよ
00:30:53おそらくこの時に高麗橋の掛け替というものが
00:30:57行われたんだろうと思います
00:31:01高麗橋は大阪城と千葉を結ぶように掛けられた橋だ
00:31:06この橋が大阪の発展の大きな鍵を握っていたという
00:31:11ここが高麗橋です
00:31:25そしてここが、ここの東大小堀から東の方は
00:31:31豊臣大阪城の一番の
00:31:35一番外側のですね、防衛ラインにあたるわけです
00:31:38そしてこちらが市街地ということで
00:31:41秀頼の時代にはこの高麗橋を越えて
00:31:44こちらの千葉方面の市街地下が
00:31:49非常に非常なスピードでですね、進められることになります
00:31:53これが大きく発達していきますから
00:31:55さらに西千葉の方が発達をして
00:31:59いわば八百八橋と言われるような
00:32:01街の景観を作り上げていく
00:32:03秀頼の時代に決して都市政策というか
00:32:06都市開発というものが止まっていたり
00:32:09あるいは衰退していたわけでは
00:32:10決してないということですね
00:32:11新たな街の発展というものが
00:32:14秀頼の時代も継続して進んでいたということを
00:32:17よく表すものだと思います
00:32:19自社の復興と街づくりで
00:32:23豊臣人気を高める淀殿
00:32:26同時に秀吉に取り立てられた
00:32:29豊臣恩子の大名との結びつきを強めていく
00:32:33慶長八年、淀殿は加藤清政、八塚義茂らに
00:32:40豊臣の生を与えている
00:32:42有力大名たちを豊臣方に囲い込もうとしたのだ
00:32:49同じ年、家康が孫の千姫を秀頼に訪がせた際には
00:32:55黒田長政、浅野義長ら
00:32:59豊臣恩子の大名たちが秀頼に突き従い
00:33:03家康に豊臣方の結束を見せつけた
00:33:07武家の統領、征夷大将軍となった徳川家康に対し
00:33:15秀頼が関白になるまでは
00:33:17世間の人気と結束で
00:33:20権威の維持を図ろうとした淀殿
00:33:23こうしたせめぎ合いの中で催された一大イベント
00:33:29それが秀吉七回忌の豊国大明神臨時祭礼だった豊臣人気と権威を示した祭礼を屏風にして公家たちに見せつけるその先には秀頼の関白就任があったはずだ
00:33:49磯良さん、あの盛大なお祭りの裏に徳川、豊臣の激しい権力争いがあったということなんですね。そうなんですよ。あの豊臣と徳川という2つの権力が並び立ってて学問的には二重公儀なんていうご公儀様が2つあるといわれる時代ですよね。
00:34:11でもその先位大将軍になった家康に対して与党殿が秀頼の関白就任を目指すわけですよね。これ関白と将軍っていうのはどちらの方が立場が上と言えるか。そりゃ圧倒的に関白なんですよ。天皇と相談して将軍を任命する立場にあるのが関白ですよ。だから秀頼が関白になっちゃったら家康との立場はやっぱり完全にひっくり返りますよね。
00:34:39だいたい関白っていうのは人事権どういうふうに振るうかっていうとあの候補者リスト。
00:34:47ダイナゴンだったらダイナゴンになるべき人3人ぐらい書いてあってその書類を持って天皇の前に行って天皇の前へ座って候補者のところへ扇の先でこの人が僕はいいと思うとか言うと天皇が全部言うこと聞いてくれればそのまま親指でお爪点って言ってぐりぐりぐりって書類は分厚い紙ですからへこましてくる。
00:35:13関白と天皇のあうんの呼吸でそうやって決まっていくのが最終的な朝廷の人事ですから将軍になったってさあどうすんだですよ将軍決められるんですから天皇と2人でなるほどただの関白だったら軍事力で脅して徳川言うこと聞かせるかもしれませんけど豊臣関白家だけは決定的に違うのは軍事力を持ってる関白家なんですよ。
00:35:39ですから軍事力で脅して言うことを聞かせられないんですでもこの祭りを行ってこの平坊を作るっていうことがそれほどその関白になることに対して近づくことなのかなって大いに近づきますよねそうなんですか圧倒的にやっぱり力を持つ手段だと思いますよこれは例えばアメリカの大統領選挙の場合でも人気の歌手とかを連れてきてわーっとこう人々を寄せ集めてあれ何でかっていうとやっぱり政治の話だけしても人は関心を持たない。
00:36:08で理路正々と弁路のうまい人が誰かの前で立ってしゃべってもそれがどれだけの人に届くかっていうところですごくこう沸点の浅い要するに大勢の大使の人たちがうわっと盛り上がるもの何かって言ったら祭り事なわけですよねだから豊臣を残しておけばこういう時世がこれからもまだ続いてきますよっていうようなそういう主張にもなりますからね。
00:39:01ヨド殿と秀頼に朗報が届く。
00:39:08慶長9年11月、4年にわたり漢博の職にあった九条金鷹が辞任。漢博が空位となったのだ。
00:39:18しかし、秀頼に漢博就任の知らせが来ることはなかった。
00:39:25さらに3ヶ月後。
00:39:32慶長10年2月。
00:39:34慶長10年2月。
00:39:38家康は江戸にいる息子秀忠に、
00:39:41普代、戸様合わせて10万もの大軍を率いて都に向かわせた。
00:39:47何のための大軍勢か。
00:39:52大阪城のヨド殿らは警戒を強めたが、
00:39:574月16日になってその意味を知ることとなる。
00:40:01家康は朝廷に赴き、
00:40:06征夷大将軍の職を秀忠に譲った。
00:40:09天下は徳川のもの。
00:40:14そう世に示したのだ。
00:40:17一方の秀頼は、
00:40:22右大臣に昇進するが、
00:40:24またしても関白の地位は与えられなかった。
00:40:32笠谷さんは、
00:40:34一連の動きの背後に家康がいたと考えている。
00:40:40あたかも秀頼がですね、
00:40:42関白になるかもしれないという可能性を匂わせておいて、
00:40:47実は将軍の地位をですね、
00:40:50家康から秀田にやるという、
00:40:52これだけをやってしまったんじゃないか。
00:40:54秀頼には、
00:40:55右大臣というね、
00:40:57昇進はさせていますが、
00:41:00逆に言うと、
00:41:01右大臣止まりであったという、
00:41:03そういう結果。
00:41:04これは豊臣と秀頼、
00:41:06特に与党の中も大変予想に、
00:41:09そこがカチンと来てですね、
00:41:11いわば家康に出し抜かれたという、
00:41:14思いを深くしたと思います。
00:41:16追い討ちをかけるように、
00:41:21家康は大阪城の秀頼に伏見城まで来て、
00:41:25新将軍に祝いの言葉を述べるよう要請する。
00:41:29伏見には徳川の兵、
00:41:3410万。
00:41:35この時の、
00:41:36淀殿の心の内に分け入ってみよう。
00:41:39秀吉様の七回忌があれほど盛況に終わったというのによもやこのような事態になるとは。
00:41:58家康は天下は徳川のもの、
00:42:03豊臣には渡さぬ。
00:42:05それどころか、
00:42:06豊臣も家来になれと脅しているのだ。
00:42:10もし家康の要求を受け入れれば、
00:42:13徳川の天下を認め、
00:42:16豊臣は一大名として従い続けることになろう。
00:42:21そうなれば秀頼が関白になっても、
00:42:24天下は徳川のもの、
00:42:26それだけは認められない。
00:42:31天下は豊臣のもの、
00:42:33家来筋の徳川に従うなど、
00:42:36あってはならない。
00:42:40しかし、
00:42:49旗色が悪いのは明らか。
00:42:52今、伏見には徳川十万の大軍が控えている。
00:42:59我らの出方次第では、
00:43:04攻め込まれる恐れもある。
00:43:07第一に考えるべきは豊臣家の存続。
00:43:13一時は屈しようとも、
00:43:16加藤清政ら秀吉様恩子の大名は健在だ。
00:43:22それに祭りに示された豊臣人気は、いまだ衰えていないはず。
00:43:29ここは耐えいずれ訪れる機会をまとう秀頼が関白になればまた違う流れも生まれてくるはず。
00:45:11で母親として秀頼の将来とか豊臣家の生き残りっていうのを考えたとするとこの段階ではまだ仲良くしておいたほうがいいんじゃないかと。
00:45:23もしかしたらそれでまだ豊臣家が存続する道も十分にあるということで。
00:45:29やっぱり何でしょうね圧倒的なやっぱり力っていうのはもう十分に見せつけられてしまっている状態ですからまあ無意に多分あらがって何かしようとしたところに移動しまいととりあえず私は様子を見つつですねこの先どうなっていくのかを見極めながらそこでまた新たな展開図が見えてくるのかなということを考えていたのかなというふうに思います。
00:45:57お二人とも呪作を選ばれましたが井空さんどちらを選択されますか私は選択1秀頼の伏見行を拒絶するにしますはいこれね行っちゃったらもし家康のもとに行っちゃったらもう徳川家の家来になったって示したようなもので家康の性格だったら次から次へと家来扱いを打ち出してきています。
00:46:27もう戻れなくなるとでまあ命も相手が家康ですので僕は安全じゃないというほど家康を警戒します。なのでやっぱりじーっともうひたすら大阪城で耐え続けてまあそのうち家康も年寄りですから時間は自分の味方と思って自分が秀頼が
00:46:57主従の関係はしっかりまだあると認識している初代名豊臣の初代名がいる間はですねまだ家康の息子が将軍になったぐらいで将来の官博候補が上落して頭を下げるのは政治的にはちょっと踏み込みすぎかなと思います。
00:47:57夜戸殿の極めて強い態度に家康はお礼父男タダテルを大阪城に送り秀頼に挨拶させることで落着させた。
00:48:04夜戸殿の極めて強い態度に家康はお礼父男タダテルを大阪城に送り秀頼に挨拶させることで落着させた。
00:48:20以後しばらく家康が秀頼に服従を迫ることはなかった。
00:48:25しかし徳川の権力が強まるにつれ豊臣に心を寄せる大名はだんだんと減っていった。
00:48:42慶長15年、秀吉の十三回帰にはまた豊国大名人臨時祭礼が行われた。
00:48:50だが秀吉の愛した能の疲労が行われないなど、七回帰に比べて小規模なものであった。
00:49:04そして慶長19年、奉公寺の釣り金の名分が家康の名を分断して呪っていると問題になり、大阪の陣が始まった。
00:49:20慶長20年5月8日、大阪城落城。
00:49:25淀吉の秀頼は城と運命を共にした。
00:49:29淀吉の47歳、秀頼23歳だった。
00:49:34秀頼の七回帰祭礼の開催に尽力した、豊国の八代の盆春が残した日記には、こう記されている。
00:49:48大阪城落ちる。
00:49:53秀頼公とおふくろ様、その他、女中たち20人ばかりが自害した。
00:50:01内地には2万人ばかり。
00:50:03実は大阪の陣の前後に、秀吉の七回帰の臨時祭礼を描いた屏風がもう一つ作られている。
00:50:17秀吉恩子の大名、八塚氏が所有していたものだ。
00:50:21豊国神社のものと構図は似ているが、よく見ると堅能な雰囲気が漂っている。
00:50:35不竜踊りの左端の輪は踊っていない。
00:50:40隙間もなく密集し、陣傘をかぶった町衆たちは、これから敵陣へ突撃する軍勢のようだ。
00:50:48輪と輪の間の男たちも殺気立っており、罵り合う声まで聞こえそうだ。
00:50:59他にも興味深い描写がある。
00:51:02右席には、豊国神社版にはない喧嘩する歌舞伎者たちの姿。
00:51:09もろ肌脱ぎの男の鞘には文字が記されている。
00:51:13行き過ぎたり屋二十三。八万引けは取るまい。
00:51:21ああ、二十三まで生きてしまった。
00:51:24戦の神八万様よご覧あれ、喧嘩で引けは取りませんの意味だ。
00:51:30二十三は大坂の陣の時の秀頼の年齢。
00:51:40この歌舞伎者こそ秀頼で、この喧嘩は大坂の陣を表しているという説もある。
00:51:46十年の時を隔てて描かれた二つの屏風。
00:51:53ヨド殿の秀頼をかんぱくにする願いは忘れ去られ豊臣と徳川の決定的な決裂を暗示するものに変わっていた。
00:52:10ヨド殿は秀頼の伏見行きを拒絶し大阪の陣で豊臣家は滅びました。
00:52:16これね伏見行き上洛拒絶両方やるにしてももう一つやるべきことがあったんですよこれはねびっくりされるかもしれませんけどね家康秀忠を呼び出すか何かしてやっぱ殺さなきゃダメだったんですよ秀頼はこれをやらなければ自分がやられる状況にあったと私は思いますあの家康について考えてみますとね祖父は暗殺されて殺されておりお父さんも暗殺されて殺されており
00:52:45自分は嫡男の信康を死に追いやって制裁だった月山殿を殺してるんですでこういう行動を取ってきた人は自分の安泰のためには簡単に排除するんです豊臣をだからそういう人だと思ってどうにかして家康のみもしくは可能であれば家康と秀忠を
00:53:14あの暗殺によって消滅させるということを豊臣は考えなければいけなかったわけですところがやらないのでやられたとそれはもちろんあの家康や秀忠をうまいこと打ち取ったとしてもですねあの家康の子供たちが関東地方に残って必死で抵抗するのをおい家康の領地みんなで山明けだって言って豊臣恩子の代名を連れてあの秀頼は自ら軍勢を率いて箱根の山越えて制伐しなきゃいけませんその場合はじゃないと生存はないんです
00:53:43なるほどそして秀吉七海峡を描いたお屏風はですね徳川美術館にも存在します
00:53:53まあこれは最近の見方なんですけれどもおそらく豊臣徳川ですねもう戦争は避けられないという時期に描かれたんじゃないかとその時期に多分10数年前のこの七海峡を思い出して描かれたようじゃないかというふうに考えられているんですね
00:54:11八塚家が描かせたんじゃないかという説もあるんですがあの私なんかはこれはあれは豊臣家が描かせたんじゃないかとで八塚家に送ったんじゃないかというふうに考えてるんですね
00:54:24簡単に言うと戦争が始まる直前にあなたたちはじゃあどっちに着くんですかとあの祭りのことを思い出しながら秀吉っていう人を思い出してくださいねで豊臣家の方に着きなさいねとそういうメッセージを込めたんじゃないかというふうに考えています
00:54:42でも八塚家は徳川に疑われながら豊臣に滅亡させ作戦に参加してそれで家康からよくやってくれたねっていう感情っていう感謝状をもらうんですよそれでこれね不思議な話で知ってる人は知ってる話なんですけどご感情その感謝状をご感情箱って大きな箱に入れてそれで参勤交代の時に大きな箱をみんなに見せつけながら江戸時代中。
00:55:12更新したんですよ江戸と国元の間をやっぱり政治っていうのはイメージ戦略っていう人間の認知認知で戦うものと物的な暴力戦があるわけですでこっちは認知戦なんですそうそう皆さんが笑顔で楽しんでいる屏風と片屋こちらには今ケンカのシーンが盛り込まれてるじゃないですかあの豊臣の屏風を見た時にどこかで暴力的なシーンって書かれてるのかなって探しちゃったんですよ
00:55:40何かこうケンカしてたりとか何かこのこれに対して抗う勢力が描かれてる全くないじゃないですか
00:55:47どのように人間の頭の中を豊臣だったら良くするかという秀吉広告豊臣広告代理店秀頼広告代理店淀殿広告代理店の話でこれどう認知秀吉政権の後は秀頼政権が生まれるという認知的な脳内世界を作り上げるためのものなんですでもこれが車の片方だけであるという認識が恐らくなかったんでしょうね
00:56:12屏風で豊臣の人気が都で高まっちゃったら認知じゃ無理だ力で取らなきゃっていう家康の行動を引き金を引いた可能性があるだから家康が死んだ時は象徴的ですよ家康駿府城でも勝手死ぬ時に大名を呼び寄せてこうやって脅したそうですよ
00:56:34お前が天下取りたかったらうちの秀田だから天下奪っていいぞってやめそうもないでもなって言うんですよ必ず指輪にて取るべし暴力で取れこれなんですよ
00:56:50家康は認知戦と簡易によって行う認知戦とそれと暴力による実力行使で取るという2つの政治欲をよく認識してるんです
00:57:00ここが豊臣家と肉親を殺されまくったもうしたたかな政治家暴力と認知の2つで押してくる政治家のそれはもう違いなんですよさあ今回は報告サイレーズ屏風をもとに豊臣と徳賀2つの権力が並び立つ時代を見てきました筒井さん改めて今回どんなことをお感じになりましたか?
00:57:24我々つい歴史を調べる時に文字資料に倒れがちなんですけども絵画っていうのはやっぱり非常に当時作られた一級資料なんですね当時の政治的な葛藤であるとかあるいは当時の人たちがですねどういう政治的権力の中で生きていたかとかそういうことからダイレクトに分かる非常に貴重な絵だなというふうに思いました
00:57:46絵画の持つ力っていうのはねルネサンス時代もそうなんですけど恐るべくものがあるなっていうのと政治欲の欠落している部分であったりとかその後補わなきゃいけない反省点だったりとかそういったものも全部見えてくるっていうだから本当に一枚の中に込められている情報量の多さにはちょっとびっくりしちゃうっていうか
00:58:16そういう宣伝用に作られたものっていうのは文字を返さずに直接人間に認知や感情を起こすっていうね政治って感情で起きるのでそれはねやっぱり美術師や芸術家や歴史学者が語り合う中から救えなかった歴史の部分っていうのは見えてくるんじゃないかなと
00:58:38やっぱり異分野の交流でやるってことはいいなと
00:58:42そうですねそれぞれの分野の想像力をぶつけ合わなきゃ出てこないものがあるからね
00:58:47皆さん今日はありがとうございました
00:58:49太平洋戦争の敗戦後朝鮮北部に取り残された日本人を脱出させ命を救った男がいた
00:59:08昭和の選択BSで12月8日夜9時
00:59:13スポーツヒューマン柔道斉藤立選手生命を脅かす首のけがどん底から復活を目指す1年に密着
00:59:30ゆったり温泉ひとり旅秋の北陸新越歴史自然人とつながる名湯へNHKBS12月6日土曜夜7時半新BS日本の歌海にまつわる演歌大特集熱唱の波をお届けします放送は12月7日日曜夜7時30分
01:00:00スポーツヒューマン柔道斗
Comments