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偉人・敗北からの教訓 第137回「石川数正・出奔を決断した徳川家の重臣」 - 2026年04月25日
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00:05偶然の勝利はあれども、敗北はすべて必然。
00:11日本の歴史を彩った偉人たちは、いかにして敗れていったのか。
00:16その裏にはどんな原因と過ちがあったのか。
00:25今回は徳川家康を幼少期から支えた重心、石川一政の敗北を紐解きます。
00:39豊臣秀吉との外交交渉を任され、優れた手腕を発揮しながら、突如徳川家を出本。
00:42果たしてその真相とは。
00:50敗れし者たちの失敗から学ぶ人生哲学。
00:54偉人敗北からの教訓。
01:07歴史上の偉人たちが犯した失敗から私たちは何を学ぶのか。
01:11偉人敗北からの教訓。
01:13進行役の中西由里です。
01:15そして歴史作家の伊藤潤さんです。
01:17今日もよろしくお願いします。
01:18よろしくお願いします。
01:25戦国時代には主君を変えて生き残りを図る武将というのが結構いたみたいですよね。
01:31戦国時代には主君と家臣は対等という意識が大きかったんですよ。
01:34ですから主を変えるのは家臣の権利でもあったと。
01:39現代で言えば自分の価値を最大限発揮できる仕事に転職するということなんですね。
01:45そういった意味では現代は江戸時代より戦国時代に近いということが言えると思いますね。
01:55さあということで今回は徳川家を出本し豊臣秀吉の家臣となった石川一政の敗北に注目します。
02:05この人は徳川普代の重心だった人物ですけれども徳川四天王にも徳川十六将にも入っていないんですよね。
02:20貢献度から言えば坂井忠次に次ぐぐらいの活躍をした一政なんですけどやはり朱子学で教える忠義の精神をですね浮援させたい広げていきたい江戸幕府にとっては都合の悪い人物だったんですね。
02:28そのため生物伝説定かではなくてその彼の自責の多くもほかの家臣にさらわれているような状況なわけなんですね。
02:32伊藤さんどうですかこの和正っていう人物をどう評価されますか。
02:50徳川家を出奔するといった思い切った決断をした人なんでその実像はですねやはりあの今でいえば外資企業によくいるような気質の人物まあ私みたいな人物だったんではないかなと思いますね。やはり自らの価値を正しく評価してくれる主人に使いたいというそういう思いが強かったのかなと思いますよね。
03:18特に彼の場合は取り継ぎ役というですね交渉ごとに携わることが多かったんですねですから板挟みになりながらも何とか戦にならないような努力もしてきたということでその本質的な部分というのにやはり調和を重んじる気質があったんではないかなとさあ今回はそんな石川一正の敗北をひもときながら現代にも通じる教訓を探っていきますまずは石川一正とはどんな人物だったのかこちらをご覧ください
03:36徳川家康の重心で国宝松本城の天守を築城したことでも知られる石川一正は三河の戦国武将石川康正の子として1533年に生まれたと考えられています
03:50石川家は坂井家や本田家と同様徳川家の前身である松平家に家康の曹祖父松平信忠以前から使える安城府大の家臣です
04:071549年17歳の一正は8歳の家康が鶴賀の今川義元のもとに送られる際の従者を務めその後寸府でも家康に禁辞していました
04:281560年桶狭間の戦いで吉本が討ち死にしたのち家康が岡崎上司となり今川家から独立すると一正は吉本の後を継いだ今川氏真と交渉し寸府にいた家康の嫡男信康を取り戻します
04:51さらに家康が尾張の織田信長と清津同盟を結ぶ際には筆頭過労の坂井忠を補佐して交渉に当たりました1563年浄土新宗本願寺派いわゆる一光宗のモントラが領主の家康に立ち向かう三河一光一騎を起こすと
05:12一正はそれまで信仰していた一光宗から浄土宗に改修し主君と共に戦いますその後家康が三河を平定すると一正は西三河の徳川家臣団を統率する旗頭となり
05:35姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠・北良ヶ原の戦いなど数々の合戦に従軍し徳川家の勢力拡大に貢献します1582年本能寺の辺で信長が応出し織田家の重臣羽柴秀吉が台頭すると
06:03一正は家康の命を受け、秀吉との取り継ぎ、すなわち外交交渉を任されますその後、秀吉が信長の次男、織田信勝と敵対し織田徳川軍と対峙する小牧長久手の戦いが勃発すると一正は秀吉を相手に戦います徳川軍は長久手の局地戦で勝利を収めますが
06:27信勝が秀吉と講和を結び、事実上を屈服すると家康は選択を迫られます秀吉との戦いを継続するか、侵入するかそんな中、一正は突如徳川家を出本し秀吉の家臣となったのです一正敗北の瞬間です
06:42和正はなぜ家康の重臣の地位を捨てたのでしょうか今回はおよそ40年間疲れた徳川家を見限った石川和正の敗北に迫ります
07:03さあここで石川和正の人生の主な出来事を振り返っていきますこの和正が生まれた石川家というのはどんな家だったんでしょうか分かっているのはですね、河内源氏の血を引いていてまず最初三河守護のですね、石家氏の悲観だった
07:28後にどのような経緯からかですね、松平氏の家臣になってですね安城不大、または岡崎不大と呼ばれる人たちを取りまとめる筆頭下路の言い方になっているんですねこの石川家という中にも優秀な武将、他にもいたみたいですけれどもおじさんの石川家成という人物、この人がまた特に優秀だったようですよね
07:57そうですね、この方は和正のおじにあたるんですよねただ和正の一つ年下で、この人も家康初期の活性の全てに参入していたということでその貢献度が非常に大きかったとこの和正自身は徳川家臣団の中ではどんな存在だったんですか坂井忠次に継ぐ地位にあったと言ってもいいと思うんですよね家康は英国8年と言いますか、1565年に三河の国を統一するわけなんですけどこの時にですね、三津ぞなえという軍政を導入するんですね
08:24東三河の旗頭の坂井忠次と西三河の旗頭のですね石川家成を東西の旗頭としてですねその後、石川家成が掛川上司に就任すると同時に西の旗頭を引き継いだのが和正になるわけですねそこに至るまで和正が取り継ぎ役としてですね活躍していたということが非常に評価されたと思うんですよね当然そうなってくると和正というのは相当の学識とか頭脳も名席だったということがわかると思います
08:42家康が幼い頃から側近として仕えた和正は初代名との交渉役としての能力を発揮し徳川家の安定と勢力拡大に尽力しますそこには主君、家康に対する絶対的な忠誠心がありました
09:02こちらをご覧ください愛知県岡崎市にあるトロ八幡宮は数少ない石川和正ゆかりの地です和正は家康の名誉を受け三河一行一騎により消失した八代を再建し門前町を復興したのです
09:24宮司の大塚さんは和正の人生についてこう話します石川和正は幼い頃より徳川和正に仕えてきましたが出奔することにより裏切り者という風に言われてきたのが
09:51非常に私は残念で仕方ないという風に思っております和正はなぜ徳川家を出奔する道を選んだのか和正が生まれた石川家は家康の曹祖父以前から松平家に仕える安定不代でありまた和正の祖母が家康のおばにあたることから
10:18徳川家と強い絆で結ばれていました和正は17歳の時8歳の家康に従い従属する今川義元の本居である寸府に赴き家康のそばに仕えます岡崎市で郷土の偉人を研究する市橋さんは和正の寸府での役割をこう推測します
10:48松平家にとってはこの竹内を守護するだけではなくって大使の今川に接しなきゃいけないそういう意味でいうとえりすぐりのねエリートたちがここにつけられたわけその筆頭に和正がいましたからかなり厳しくねその中説に関してについてもですねその武家のたちなみについてもこの教育をされていたんじゃないかというふうには思っています
11:0311年後今川義元が桶狭間の戦いで信長に打ち取られると19歳の家康は岡崎城に入り今川家からの独立を図りました
11:18翌年29歳の和正は急速に勢力を拡大する信長の交渉役を任された筆頭下郎坂井忠の補佐役を務めます
11:32大河ドラマどうする家康などの時代交渉を務め家康とその家臣団に詳しい柴さんは和正がただ次の補佐役になった背景をこう話します
11:55坂井家と石川家というのがこの頃の徳川家を代表する家臣ですのでその中で石川家の中という家として和正という存在に光が当たったというのも間違いないんですねただあくまでもまだ外交の主担当は坂井忠ですので
12:11それを補佐するような形で動いているというのが実態なんじゃないかと思います和正は信長との同盟交渉の過程で尾張と三河の境界を決める際の下地作りをしたと伝えられています
12:38四川一方っていうのはそういう意味で言うと外交の半分プロみたいな男つまり相手を相手にこの条件を飲ませたい時に先にある程度いい条件を作っておくことも分かってたそれから相手がこれだったらいいよっていう交換条件も用意できる情報収集能力を持っていた
13:01和正の粘り強い交渉が身を結び家康と信長との間で清洲同盟が成立しますさらに1562年30歳の和正は寸父に残されていた家康の着難で当時4歳の信康を取り戻すべく動きます
13:19まず今川家を継いだ宇治真のいとこ宇戸の永てるが守る東三河の神の豪女を攻め 永てるの息子2人を捕らえますその上で和正は宇治真と交渉して人質の交換を成立させ
13:24信康を家康のもとに戻したのです
13:49宇戸の永てるの息子2人というのが今川宇治真と非常に親密な関係になったということを和正も寸父時代から掴んでますそれはただ単に竹塩にくっついて寸父で過ごしていたというだけではなくて寸父城内での様々な様子や出来事
14:16それから今川家とそれから家臣たちの関係性そういうものをねやっぱりきちんと把握していたとだから四角な方だったのはそういう意味で言うとほんまに優れた外交官だったと言えると思いますさらに和正は当時の今川家の状況を分析し巧みに交渉を進めたと考えられています
14:38家康を打つために動いてきていますけれどもあくまでも本当に状況としてきっこうしているんですねここでうどんを見捨てちゃうと一気に今川は崩れていくかもしれない状況になりますから今川としてもここで応じに強かったのではないでしょうかこの後も和正は必死に家康を支えていきます
15:031566年家康が三河を平定した後
15:32和正は元服した信康の貢献人となります自分が幼い頃から和正に一番側近で捜査されて坂井忠次はしっかりした人間だったけどうるさいもう嫌だった半分はねだけど和正は本当に自分をそばで見守って育ってくれただから自分の息子にも頼むぞという意味があったと思います
15:59このこと家康は家臣団を西三河軍東三河軍家康直属軍の3つに分ける三つぞなえと呼ばれる軍勢を整えますその一つ西三河軍を統率する旗頭となった和正は姉川の戦いを始め数々の激戦に出陣し徳川家の勢力拡大に尽力します
16:16そんな和正が47歳になった1579年徳川家に一大騒動が起きました和正に支えられ岡崎上司を務めていた21歳の信康が
16:21無本の疑いをかけられ自害へと追い込まれてしまったのです
16:46一体何があったのか信康事件というのは岡崎州と浜松州の対立がということを言われるけどそうではなくて信長と尾張のね浜松にある家康の間に岡崎にいる信康が上司の真似事を始めて
17:11もういろんな家臣たちを城の周りに集めたりするそれによってね信長が危ない存在だと思い始めていることを家康は危惧して処断した石川和正はその時に信康の側近として岡崎州にいたわけですからこれはダメですよということをねあのー信康にも言っていたし
17:39まあそれでも信康が言うことが分からなかった聞かなかった増長する信康を正すことができなかった和正はじくじたる思いに駆られますしかし和正自身は責任を問われることなく信康亡き後岡崎城代となりました和正はあくまでも家康についていく存在だからこそ
18:05家康は彼を切り捨てることなく重んじていったというふうに捉えていいかと思いますあの信康事件が和正のその後に影響することは一切ありませんというふうに私は見ています1582年本能寺の変により信長が辞任し堺に滞在していた家康に危機が迫ると50歳の和正はわずかな友の一人として
18:24伊賀越を観光し必死に主君を守ります翌年秀吉が織田家の重心柴田勝家をほどぼし織田家中での地位を確立すると和正は家康の命により秀吉との取り継ぎを任されました
18:51秀吉がどんどん台頭していきますからその中でやっぱり自分の意図を深くですね組み取ってくれるような信頼できる家臣としてある和正が秀吉との交渉の中で重く分身を増してきたのではないかと家康は静ヶ岳の戦いの勝利を祝し秀吉にかつて信長が所持していた名物茶器
19:21恥ずかな片付きを献上しましたこれは秀吉が最も喜ぶことを考えた上で和正が家康に進言したのではないかと市橋さんは考えています秀吉はもう分かってましたからこれ天下人の印でそこで秀吉はもうこの男はすごいなって心つかまれちゃうわけ
19:48秀吉がつかんだじゃないよ秀吉が心をつかまるじゃん以来秀吉は和正を定調に扱いますそして和正は家康の期待通り取り継ぎとしての役目を果たし秀吉との良好な関係を築きますしかしこの後家康と秀吉が敵対し和正は苦悩を抱えることになるのです
20:07頼りになる武将であると同時に交渉能力というのはすごく高い人だったんですよねだからこの先とても家康を裏切るとは思えないような活躍ぶりだなという印象ですね
20:30誰も思わなかったでしょうねびっくりという感じでしょうねこの和正は幼い家康と一緒に駿府で過ごしていたということですけれどもその間って家康にとってはどんな存在だったんでしょうかただ和正の駿府での逸話というのはないので和正がどのように過ごしていたかは謎なんです和正は家康よりも年上ですからね
20:54当然のことながら今川家中と信頼関係を築いていたのは間違いないですねそれがA65年といいますか1562年の時に今川氏座の桃園の宇都の兄弟を徳川方が捕虜にするわけですけどその時に家康の着男の信康との人質交換を成功させたというこれがその人間関係をしっかり構築していたことの証になるわけですよね
21:23その後もこの和正は徳川家の取り継ぎ役として重要な交渉ごとになっていくということになるわけですこの和正は本当に交渉役として活躍していましたけれどもあの秀吉と直接会って交渉していたわけじゃないですかお互いどんな印象で見ていたと思いますか秀吉としては田舎大名の家康にこんなに優秀な家臣がいるのかということで非常に高い評価を与えていたんだと思うんですよね
21:50ただしいつもの話になるんですけど秀吉は大きな大名家の分断工作が得意ですよね家臣をとにかく褒め殺しにして独立させるとその大名家を弱くするというのは得意技ですから当然和正も褒め殺しにしたというこれは最初はおそらく和正の能力を生むよりもそういう方針でいこうという形で決めたと思うんですよねただ秀吉の家臣になった後和正を政権の中枢には据えずとも
22:05カーチの国に8万億も与えたということでこれ秀吉がかなり評価していた証になると思いますね逆に和正から見て秀吉ってどんな人に見えてたでしょうねもちろん秀吉というのはね今までもこの番組何度もやってきましたけど
22:24大変優秀な人物ですからもう話を聞いてるだけでこんな頭いい人いるのかぐらい思ったと思うんですよ逆に家康家康には失礼なんですけどある意味普通の人なんですよその魚見てこれはこれから豊臣県の時代だと思うのは
22:39競合相手と直接会って対話をすればその実力を肌で感じることができますしかし相手の噂だけを聞いている人にはピンとこない可能性もありますね
22:58主君家康から秀吉との取り継ぎを任された和正そんな中小牧長くての戦いが勃発します秀吉の実力を知る和正は何を思いどんな行動に出たのでしょうか敗北までのカウントダウンをご覧ください
23:20秀吉との取り継ぎを務める和正の働きもあり当初家康と秀吉は良好な関係にありましたところが実質的に織田家の当主となった信勝が秀吉と対立し家康に助けを求めたことで両者の関係がこじれます
23:39やっぱり家康の立場が織田家があってこそ今の立場というものがありますから家康としては今の織田家の状況ましては自分が支持した存在が信勝という存在でしたのでその信勝を助けるというのがこの時の家康の目的だったというふうに思います
24:001584年織田徳川連合軍と秀吉率いる柏軍との直接対決小牧長久手の戦いが勃発し52歳の和正は秀吉と戦うことになりました
24:19家康路線がそれに行くんだったら和正もついていったと思うんですよ和正の役割というのは秀吉と戦っても最終的には和睦することになるわけじゃないですかずっと戦い続けるわけじゃないですかではないのでその際に自分が前面でいるということで戦っているんだと思います
24:30徳川軍は長くての極地戦で勝利しますしかしその後秀吉が信勝の本領である伊勢に攻撃の的を絞ります
24:37そして弟秀長が大軍を率い諸城を落としていきました
25:07開戦から8か月後たまりかねた信勝は秀吉と和義を結び事実上屈服してしまいます戦う退位を失った家康は秀吉との和睦交渉を進めました徳明自体もですねもうこの和睦をしなければ存亡の危機にあいますからそういった中でも重要な役割を担う存在として和正があったと。
25:26和正は秀吉から和睦の条件をこう提示されました家康の息子とは当時11歳の次男小木丸後の結城秀康のことです
25:34和正はこれを家康に伝えましたすると家中から猛反発を受けてしまいます
25:41長くてで勝った徳川が人質を出すなどあり得ぬそうだそうだ
25:50みんな秀吉の強さ恐ろしさがわかっておらんのだ絶対に戦は避けねばならん
26:16秀吉との和睦を何としても成立させたい和正は彼らを必死に説得しました戦いを続ければ徳川家は潰されるここは妥協するしかない小木丸様は人質ではない養子に出すのだだから家臣として何を一番大事にしたいのかというと
26:35石川和正は徳川のお家を大事にしたいだけど反対した連中は徳川の名誉を大事にしたいどっちですかっていうことがある今豊臣と真っ向からやれば負けるのは分かってるんですよねで和正はそれを抑えるように必死になったと思いますけどね
27:02家康は和正の熱のこもった主張にうなずき次男小木丸を大阪に送り秀吉との和睦が成立しましたこの時和正は家康から安の字をもらい安てると改名しています和睦を成し遂げたことにですねかなり和正としても徳川家を守り抜いた
27:28また家康としてもよくやったという評価が与えられたのかというふうにこの後和正は渦中で孤立一体なぜ和正の尽力により和睦した後も家康は秀吉に侵入することを拒み続けていました
27:541585年家康は万一に備え和正が上代を務める岡崎城をはじめ三河の諸城を改修します一方秀吉は紀州四国越中を次々と平定し関白に任ぜられ豊臣政権を確立するなど天下統一の足場を固めていました
28:18そんな中秀吉から家康にさらなる要求が突きつけられます重心の子を差し出せ追加の人質要求でした秀吉の要求に従うべきか否か
28:43家康は浜松城に重心を集め協議しましたならぬ人質の追加など言語道断徹底抗戦あるのみ徳崎中枢の中でまだまだ秀吉に真珠の姿勢を示す必要はないなぜならば北条という勢力との関係がある
28:57そういうふうなことを考えている坂井忠徳井直政本田忠和坂木原康政あたりのグループそうではない石川一政らのグループとの主導権争いが起きていた
29:21徳川家の筆頭下郎である坂井忠は相模の北条氏との取り継ぎを務めており北条と組んで戦えば秀吉に勝てると考えていましたしかし何度も大阪城に足を運び秀吉の実力を知る一政は声を大にして主流となった強硬派をなだめます
29:47秀吉の要求を拒めば海戦は免れないさすれば敗北は必要徳川家を守るためには従うしかないその和田さんが描いていた景色というのは徳川と豊臣は平立しない徳川が豊臣の下に入るしかない
30:14でもその大きな力を持って日本の社会を安定させていくんだというそういう景色ところが一政は秀吉との融和を必死に唱えたものの渦中の大半が坂井忠次や本田忠勝ら強硬派の意見に賛同しました
30:43そして激論の展開をじっと見守っていた家康は多数派の意見を受け入れ秀吉の要求を拒みますなぜ分かってくれない家康様までもが一政は渦中で完全に孤立してしまいましたそれは徳川家で自身の地位や居場所を失うことを意味していました
31:05一政連木失意の敗北ですそして15日後一政は53歳にして突如徳川家を出本し秀吉の家臣となったのです一政は外交官としての立場を奪われたというよりも
31:17もう見たもうここで見限ったそこではもう外交官としての自分の場はないなというところで出本ということになる
31:29要するに一政が窓口でそれで橋場徳川家というのが成り立っていたわけですからそれを切ってしまうということは自分に対して敵対姿勢を示したということで
31:42秀吉は徳川を討伐対象としていくということになります秀吉は取り継ぎを務める一政の出本を宣戦布告とみなし家康の討伐を決意します
32:0810万を超える大群を用意し徳川家を殲滅しようとしたのですところがいざ出陣しようとしたその矢先秀吉の領地を震源とするマグニシュード8の大地震が発生し本陣の大垣城が倒壊してしまいます秀吉は計画を断念せざるを得ませんでした
32:35旧史に一生を得た家康は勢力差のある炎上を冷静に把握し翌1586年秀吉に神科の例を取りました秀吉の家臣となっていた和正はそれをどんな思いで受け止めたのかまあほっとしたでしょうねこれはもうその一言ですよ
32:55徳川家が残ったってことに対してよかったというようなところもあったんではないかと安城府大の石川家に生まれ40年近く家康に仕えた和正は結果的に徳川家を守ることができ胸をなでおどしたのかもしれません
33:22和正が出本した理由って本当に謎だなと思っていて今でもいろいろな説があるみたいですけれどもちょっとVTRを見ていてそれはちょっと仕方ないよなという気持ちになりましたねなりますよねこういったですね経緯をたどってちゃんと見ていくと和正にも和正の理屈っていうのがあってねこれ仕方がなかったなというふうに思えると思うんですよね
33:44多分秀吉の凄さっていうのを直に見ていたわけですよねそうです他の徳川家中はですね見てないわけですよこれ和正が交渉役ですからねですから秀吉の凄さをいかに家中のみんなに語っても分かってもらえないんですよそれにしても家康って幸運の持ち主ですね
34:06あの地震がなかったら結構危なかったのかなという気もするんですよまさに豊臣家の滅亡と徳川家の天下脱出というこの後のシナリオの鍵を握ったのはこの天変地異にあるわけですよね天正13年といいますか1585年の前半まで秀吉はですね家康成敗という言葉を書状なんかにも書いてそれを内外に献殿してたんですよね
34:34具体的な攻撃の日程は計画まで狙われていたとところが同年の11月に天正大地震というのがありましたねこれによって秀吉の両国の機内北陸ミノが大被害を受けるんですよところが家康の両国にはほとんど影響がなかったということで秀吉としてはこれ軍事的にもう家康を克服させることを諦めて侵入させようということに方針変換をするわけですよねこういったことからすると本当にですね
35:03この地震のタイミングって天が本当にイエスのために起こしたのかというぐらいイエスというのは虚文の持ち寿司だと思うんですよねそうですよね秀吉の要求に従うべきだと一生懸命一政は主張していたと思うんですけどこれ家康で誰も理解してくれなかったんでしょうかこれは当然のことながら徳川家康の派閥争いというのが絡んでいるんですけどそれよりも大きなものがやはり小牧長手の局地戦で
35:26徳川軍が豊臣軍を打ち破ったことが大きかったと思うんですよねもしもこの戦いに敗れるか曖昧な形で収束していたらですね坂井忠津くら高派もですねこれ強いことは言えないわけなんですよねつまり小牧長手の局地戦の勝利が一馬さんの墓穴を掘ってしまったということが言えると思いますね変に勝ってしまったから
35:27何で勝ったのに人質出さないといけないの?ということになってしまいますねドラマや小説の中では和正は徳川家を守るために出本したというような描かれ方をすることも多いみたいですけれども伊藤さんはこの出本の一番の理由って何だったと思われますか?
35:45ドラマや小説の中では和正は徳川家を守るために出本したというような描かれ方をすることも多いみたいですけれども伊藤さんはこの出本の一番の理由って何だったと思われますか?
35:53ここで歴史作家ならではの視点で歴史の裏側を考察する伊藤淳の見解ポイント
36:17まあ本当美談のようにねその和正の出本を描くそういうのはドラマや小説もありましたけどこんなありえない話なんですよねそうですか定説ではですねこの和正が渦中の高葉を説得しきれずですねまた渦中から秀吉との内通まで疑われたということでもうそこまで追い込まれてしまうと出本せずら追えなくなってしまったわけですよね
36:43最も大きな出本の原因としてはですね豊臣県と徳川家が総力戦を行えば徳川家が滅亡するのは当然というふうに和正が考えたことだと思うんですよねこれ本能寺の編同様ですね一つの決定的な要因がこういう大きな事件のきっかけになるということではなくて複合的要因によって至ったと考えるのが妥当だと思いますねどんなに正論を述べても数の力には勝てません
36:51自分の地位や居場所を失ったら外に活躍の場を求めるのも致し方ないかもしれませんね
37:0853歳で徳川家を去った和正はその後どのような人生を歩んだのでしょうかそして和正の本当の意味での敗北とはこちらをご覧ください
37:23秀吉の家臣となった和正は秀吉の弟秀永の所領の一部である河内の国の中から八万石を与えられますが豊臣政権で目立った活躍はできませんでした
37:41秀吉からすれば徳川との関係という存在で和正というものが重視されたとその徳川が従った以上を秀吉としてはもう和正は一家臣でしか住めないという状況だと思います
38:051590年秀吉が北条氏を屈服させ天下統一を果たすと和正は信濃の国松本十万国に家臣を違法されましたその後和正は居場となる松本城を大改修し後に大天守をいただく名城へと変えていきます
38:28そして着南石川康永とともに城下町の整備を続ける中61歳で波乱の生涯を閉じました主君家康を幼少期から支え徳川家の勢力拡大に力を尽くしながら出本の道を選んだ石川和正
38:51改めてその数奇な人生を振り返り思うことはいろいろな組織の中のいわゆる頭脳にあたる部分の人っていうのは表に出られない常にだけど内側で支えながらそれなりの評価もしてもらえないんですよね
39:13だからそういう処理の代表格が石川和正だったと多分和正は徳川十六章の中に本当は入るべき人物だったと思うんですねそれぐらいの功績もあるそういう人物だと思いますけれどもやっぱり徳川家を結果的ですけど裏切ってしまった
39:41それが彼のですねその後評価となってしまっているというふうに私は見ていますですのでもう一度和正という人物を見直していきそしてなぜ彼が裏切らなければならなかったのかそういったことを見直していく必要があるんじゃないかなというふうに思っています家康が天下を取り徳川の長期政権が続いたことで
40:11徳川家に背いた者たちは歴史から消される運命にありましたその最たる例が和正であり実績が詳細に伝えられず裏切り者の汚名だけが広く伝承されてしまいました和正は勝者によって綴られた歴史の犠牲者でありそれこそが真の敗北であったのかもしれません
40:35和正も自分の私利私欲で裏切ったわけじゃないわけじゃないですか裏切りたくて裏切ったわけじゃないだからこそちょっとこの結末は切ないなという気がしますねそういった切なさからいろいろ解釈が生まれてきてドラマや小説にあるような特がけのために出本したとかそういった説も出てきているわけなんですけど
40:55やっぱり私自身逆にも和正というのはですねもっと自立した考え方の持ち主つまり徳川家とはまた自分は別なんだと自分の価値をしっかり評価してくれる人の仕立てに使いたいとそういうメンタリーで持ち主だったんではないかなと思うんですよねじゃあ自分では秀吉の下に行ったことを後悔はしていなかったと思いますか
41:16あの時の判断では間違った判断ではありませんしね後悔もしなかったと思いますよ和正が亡くなった後の石川家というのはどうなったんですか和正は文禄2年といいますか1993年に60歳で死去しているんですよねその医療の10万石はですね着難の安永に8万石次難の安勝に1
41:23.5万石三難の安杉に5000石が分与されているということになります関原の戦いでこの3人とも東軍に組みしたんで
41:53この三兄弟の国高というのは安堵されるんですけどその後ですねこの着難の安永がですね大久保長安事件という事件に連座してですね持参難とともにですね解禁所されているんですよねそうなんですかこれはおそらくなんですけどこのお父さんの和正が徳垣を裏切って豊臣県の参加に入りそれで戸様大名として生き残ったもののですねやはり孤立しているわけですよね
42:17爆反対戦の大名としてはそれでおそらく爆核なんかも厳しい措置を取ったんではないかなということが推測できますよねさあ改めて石川和正の敗北から私たちが学ぶべき人生の教訓をお願いしますはい時には耐えることも大切ですね和正の高派を支持した家康に裏切られたような印象を持ったと思うんですよ
42:39徳川家中では生きる場所がないと思い込んで出本したというそういう流れになると思うんですよねしかし人生というのは浮き沈みなんですよね一時的な不遇をこらえているとですね再び幸運が巡ってくることもあるということで私は個人的には和正の出本という判断はあの時点で全く間違っていなかったと思うんですよね
43:09ただこの出本ということを思い切ってしてしまった時点でそれまでの徳川家での彼の功績というのは無に帰すわけなんですよしかも彼がそれまでの徳川家で果たしてきたいろいろな貢献なんかも他の人に捉えてしまうこともあるわけですよね結果論ではなくて不遇な環境に甘んじる選択もあったような私は気がするんですよねですからおそらくですね和正の豊臣家でいかに幸運されていたとしても大阪城内などで徳川家の人たちと
43:36の顔を見るとですね決して気持ちのいいものじゃなかったと思うんですよねその時にもしかしたらやめなければよかったなという思いをよぎったかもしれませんよね窓際に追いやられても耐えしのぶそうすればいつか事態が好転しそれまでの働きが再評価されたかもしれませんこれぞ石川和正の敗北から学ぶ教訓です
44:05あの時には本当に堪えるっていうことが大事になる場面はあると思うんですけどあの時に和正が踏みとどまって徳川家にいたらまたそれはそれでねすごくしんどかったかなと思っちゃうんですよねおそらくですね針のむしろの上に乗っているようなもんですよね唯一残っている方法としては家康との絆がまだね
44:30強かったと思うんでそこから家康の側近として復活していくという手立てがあったと思うんですよねおそらく同僚との関係というのは最悪の状態になっていると思うんでなかなか難しかったと思うんですけど何らかの形でそういった関係修復の糸口というのをつかめたと思いますし世代もどんどん変わっていくんでね坂井さんがいつまでもいるわけじゃないじゃないですかそれを考えていけばやっぱり耐えることは大切だなという気がしますね
44:45そこでねやはり一馬さんに徳賀家に必要だなってなったらまた周りも変わっていくっていうのはあるかもしれないですからやっぱりちょっと耐えることで未来が変わるっていうのはあるかもしれないですねはい伊藤さん今日もありがとうございましたありがとうございました
44:52偉人敗北からの教訓それではまた次回お会いしましょう
44:57ご視聴ありがとうございました
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