- 2 日前
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テレビトランスクリプション
00:14江戸から明治へと、まさに時代が移り変わろうとする
00:18慶応3年12月。
00:21京都伏見の町に一軍の武士が姿を現しました。
00:27県に行き、県に散るを主義とした県豪の集団、新選
00:31組です。
00:33負傷した近藤勇に代わって率いるは、副長、肘方俊三。
00:40既に政権を朝廷に返上した徳川将軍家に赤実の
00:44勢いはなく、
00:46薩摩長州を中心とする新政府軍に押される一方の秘
00:49密。
00:52薩摩長州が幕府にしたことは、弟が兄を討ち、家臣が
00:57主君を制するようなものが断じて許せぬ。
01:01そう誓う新選組一同は、武士の面目にかけて徳川家
01:05を助けるべく、運命の戦いに身を投じようとしていました。
01:12二番隊長を長倉新八が残した手記。
01:16そこには、旧幕府軍と新政府軍が、次の時代の主役の
01:21座をかけて争った、
01:22戸場伏見の戦いの様子が国名に記されています。
01:28旧幕府軍の戦法を担う新選軍。
01:31その行く手を阻んだのは、薩摩の軍勢だけではなく、内なる敵の
01:36数々でした。
01:38意思決定のできない旧幕府軍の首脳、責任者の不在、そして
01:44状況をわきまえぬ命令の数々。
01:52苦戦しながらも敵を撃退する新選軍。
01:55しかし、その前に現れたのは、旧幕府の武士たちにも抗う
01:59ことのできない新時代のシンボル、
02:02錦の御旗でした。
02:06やがて味方からは裏切りが相次い、肘方率いる新選
02:10組は、敗退を繰り返します。
02:16そして訪れた最後の決戦の時、
02:19ついに正気を掴んだと信じる肘方が見たものは、
02:23我が目を疑う大敗北の姿でした。
02:29兵力に勝っていたはずの旧幕府軍は、なぜ、どのようにして
02:33決戦に敗れたのか。
02:35時代の変わり目に勝敗を決するものは果たして何か。
02:40その時、歴史が動いた。
02:42今日は、戸場伏見の戦いに赴いた新選組副長、肘方俊三
02:46の目を通して、
02:48幕末から明治へと、日本を大きく動かした決戦の瞬間
02:53の真相を描きます。
03:08その時、歴史が動いたマスタイルです。
03:10今日、私は京都の伏見という町に来ています。
03:14この伏見の町から、今日は戸場伏見の戦いをこれからお伝え
03:18していこうと思っておりますが、
03:20この戸場伏見の戦いといいますのは、皆さんご承知の通り、
03:23明治維新の行方を決定づけた旧幕府軍と新政
03:26軍との戦いでございました。
03:28旧幕府軍が負けるんですね。
03:30今日のその時は、その旧幕府軍が負けたその時、
03:34つまり慶応4年の1月6日の昼といたしました。
03:38そして、今日の主人公は、その負けた旧幕府軍の新選組の
03:42副長、肘方俊三といたしました。
03:45今、私が働いておりますこの伏見の町といいますのは、
03:49これは京都と大阪の間にあります。
03:52京都寄りですけれども、
03:53方角的に言えば、この伏見の町の北側が京都、南側が
03:57大阪という位置関係ですね。
03:59で、当時はこの京都には西郷高森率いる新政府軍がいた。
04:03そして南の大阪には西郷の将軍徳川義信がいた。
04:06それがこの伏見の地でぶつかり合うわけでございます。
04:10その最前線に新選組がいました。
04:12したがってここは大変な激戦地であったわけです。
04:15その証拠がここにあります。
04:16これです。
04:17これは当時、銃撃戦で着いた弾の跡ですね。
04:22この弾の跡というのは、着いてから130数年、同じ場所にいて、歴史
04:28の流れを見できたわけでございます。
04:30さて、両軍の戦力比較でございますけれども、これは諸説ありますが、旧幕府
04:39軍は1万5千と言われております。
04:41そして新政府軍は4千とも7千とも言われているわけです
04:44けれども、いずれにしても旧幕府軍の半分ぐらいの戦力、
04:49これが新政府軍でございました。
04:51しかし、結果はこの新政府軍が勝つんですね。
04:54なぜか、なぜそうなったのでありましょうか。
04:57よくその歴史はですね、成功例よりも失敗からこそ学ぶ
05:02ことが多いと、こう言いますけれども、
05:04この戸場伏見の戦いの裏側で一体何が起こっていた
05:08のでありましょうか。
05:09それを今回は敗者の側から見ていこうというふうに思うんですね。
05:13番組はまず、この新選組がこのすしめのうちに陣を張
05:17るようになったその戦いから話を起こしていくことにいたしましょう。
05:23江戸時代の末、ペリー率いるアメリカ艦隊の来航
05:27をきっかけに、日本は動乱の時代を迎えます。
05:32外国の圧力に屈する徳川幕府に対し、薩摩長州な
05:36ど幕府を倒そうとする勢力の対等、各地で騒乱が相
05:41次ぎました。
05:45慶応3年10月14日、将軍徳川義信は、事態を打開
05:51するために思い切った策を打ちます。
05:54政権を幕府から朝廷に返上する大政奉還を行ったの
05:59です。
06:01天皇の下で諸大名が合議する形を取りながら政治
06:05の実権を握る。それが義信の真の狙いでした。
06:12その狙いを薩摩は認めませんでした。
06:1712月9日、京都御所に工芸や大名を集めて密かに
06:21会議を開き、
06:23徳川義信を排除する体制の樹立に成功したのです。
06:27義信には、簡易剥奪、領地没収という厳しい処分が下され
06:32ました。
06:36この処置に対し、義信は抵抗することなく、一旦京を離れ、
06:40大阪城に移ります。
06:44薩摩を中心とする新政権の基盤は脆い。
06:48復活の機会を訪れるまでじっと時をまとく、そう義信は
06:52考えたのです。
06:54そのためには、京にいる薩摩の軍勢を牽制しておかねばな
06:59りません。
07:03その役を担ったのが新選組でした。
07:08新選組大使長倉新八が残した、老子文休報告記事。
07:15そこには、新選組が義信から直々に召し出され、命を
07:20受けたと記されています。
07:26新選組は、元は浪人や農民からなる建合の集団でしたが、
07:32京の治安維持の働きを認められ、この頃には直産の
07:36武士に取り立てられていました。
07:39徳川家と旧幕府に対する忠誠心はひと際強く、
07:44薩摩と長州が幕府にしたことは、弟が兄を討ち、家臣
07:50が主君を制するようなものだ。
07:53断じて許せぬという気概に燃えていたといいます。
08:0012月16日、新選組は命により伏見奉行所に出陣。
08:06京に近い伏見に婦人し、京にいる新政府の軍勢に睨
08:10みを聞かせようとします。
08:15時が経つにつれ、新政府の内部には動揺が生まれました。
08:20一部の公家たちは態度を変え、やはり吉野部を政府
08:24の一員として京へ迎えようという決議を出します。
08:29吉野部の目論みは、まんまと成功したかに見えました。
08:37薩摩の西郷隆盛は、危機感を募らせていました。
08:43何としても吉野部を排除して新政権を打ち立てたい
08:46薩摩は、強行手段に訴えます。
08:50旧幕府勢力を挑発し、戦争を起こさせて決着をつ
08:54けようとしたのです。
08:5912月21日、薩摩兵を主力とする新政府軍は、新選組が
09:06駐屯する伏見奉行所を放り、
09:09その夜遅く、門前に兵を送り、以後、挑発を繰り返します。
09:17肘肩は動きませんでした。
09:21軽率な行動を控えようという指令を受けていたからです。
09:29薩摩は、旧幕府の膝元、江戸でも挑発を重ねていました。
09:36浪人を雇い、強盗や放火を行わせて、社会不安を煽
09:40ったのです。
09:49大阪城に詰めていた旧幕府の軍勢は生きり立ちました。
09:54騒ぎの裏に薩摩がいることは分かっている。
09:58到底、このままにしてはおけない。
10:01その声に押され、吉野部は、京へ軍勢を進めることを
10:05承知してしまいます。
10:10慶応4年1月2日。
10:14藍津藩、桑原藩などの兵を主力とする旧幕府軍は、
10:18次々と京へ進発。
10:22天皇を惑わし、天下を私する薩摩を務め、京の都へ
10:27乗り込む。
10:28それが出陣の名目でした。
10:33大阪と京を結ぶ主な進路は2つ。
10:361つは、淀川沿いに京に向かう戸場街道。
10:40もう1つは伏見街道。
10:43旧幕府軍は、淀で二手に分かれ、北へ向かいます。
10:511月3日。
10:53淀で本隊と分かれた旧幕府軍別動隊は、続々と伏
10:58見奉行所に到着。
11:00その指揮をよだねられていた陸軍奉行、竹中重方は、
11:05奉行所を守っていた新選組副長肘方に向かって、
11:09思いもよらぬことを言い出したといいます。
11:13ここは幕府陸軍が守備をするから、
11:17新選組は、奉行所から立ちのけというのです。
11:22先祖代々の幕臣であるという経歴を立てに、
11:25新山者の新選組を排除しようとする竹中。
11:29それに対し、肘方は、新選組のメンツにかけて、
11:32退くことはできぬと突っ張れます。
11:37土家、いや土家の押し問答が繰り返されていた午後5
11:42時。
11:46土家たちの耳に、突然、大砲の鳴り響く音が聞こ
11:50えてきました。
11:55鳥羽街道を北へ向かっていた旧幕府軍の本隊と、
11:59待ち構えていた薩羽軍との間で戦闘が始まったのです。
12:06旧幕府軍壊滅。
12:08その3日前のことでした。
12:15ゲストのご紹介です。
12:17京都大学教授、幕末維新氏がご専門の佐々木杉
12:20さんでいらっしゃいます。
12:20どうぞよろしくお願いいたします。
12:22この鳥羽伏見の戦い、本戦といいますか、戦いの前にですね、
12:26本当の戦いの前に、いろいろとこの薩摩藩は挑発を
12:30いたしました。
12:32この挑発を繰り返す薩摩藩の思惑といいます会計、
12:35これをちょっとご説明いただきたいと思います。
12:37薩摩藩、長州藩は吉野坊を討つ名分がないわけなん
12:42ですね。
12:44じゃあ何をするかというと、挑発という手段に出てくる。
12:49挑発をして、幕府側が我慢しきれなくなって、
12:56彼らの方から立ち上がる。それを待っているわけですね。
13:01旧幕府軍は大阪町におりますですよね。
13:04彼らが出兵して軍事行動をすると、
13:08京都に攻め上ってくるという形になるわけですね。
13:12一方、薩摩長州藩の兵は京都にいて、
13:16天皇と御将を守るという、そういう形になっているんです。
13:19ですから、旧幕府軍が京都に向かってくると、
13:25それを迎え撃ち、天皇と御将を守るために自分たちは
13:32戦うんだ、
13:33そういう正当性みたいなものが、そこで主張できるわけなんです。
13:40薩摩川の挑発に乗る形で、旧幕府軍側が動き出
13:43すということで、
13:44ここに旧幕府軍側と新政府側との激突が、
13:48余裕始まるわけですけれども、
13:50しかし、この旧幕府軍側の指揮、命令系統の乱れによ
13:54って、
13:54旧幕府軍側は、初戦から非常に苦戦を強いられるのでございます。
14:01慶応4年1月3日午後5時。
14:05戸場街道で戦いが始まったのとこうして、
14:08新選組が布陣する伏見奉行所にも、
14:10次々と薩摩軍の砲弾が襲いかかりました。
14:17新選組副将、肘方俊三はすぐさま応戦を命令。
14:22しかし、優勢な敵の砲撃力の前に、
14:25有効な反撃もできないまま、
14:27布陣所の施設は次々と破壊されていきます。
14:36午後6時、肘方は作戦変更を決意。
14:402番組隊長を長倉新八に命じます。
14:45逮捕ではどうにもならん。
14:49長倉さん、兵を乗り越えで切り込んでくれ。
14:56折からの闇に乗じて、敵陣に奇襲をかける。
14:59それが肘方の作戦でした。
15:02もはや、討ち死に覚悟で切り込むしかない。
15:05そう決意した長倉隊は、
15:08土兵を乗り越えて、路地に突撃。
15:17旧幕府軍の戦法、藍津藩の兵も切り込みに参加。
15:21新戦組とともに敵陣に肉迫します。
15:25しかし、
15:27肝心の旧幕府軍の主力はほとんど動こうとしません。
15:33一説によると、責任者の陸軍奉行竹中重方は、
15:37戦闘の最中、上層部と協議するために、
15:42戦場を離れてしまうことがあったといいます。
15:48この時、旧幕府軍を統括する老中閣松平武善の神は、
15:54戦場から5キロメートル離れた淀に居残ったままでした。
15:59さらに、総大将の徳川義信は、
16:02遠く大阪城に籠り、
16:04戦局の行方を知る術もありませんでした。
16:09それに対し、
16:10新政府軍の軍事責任者西郷隆盛は、
16:13危険を承知で最前線に姿を現し、
16:16直接選挙を把握しようと努めていました。
16:20責任者が自ら現場へ足を運び、
16:23統一的な指揮を行う新政府。
16:26一方、最終決定権を持つ責任者が不在のまま、
16:30行き当たりばったりの戦いを続ける旧幕府軍。
16:34両者の姿勢の違いは、
16:36勝敗の行方を大きく左右することになります。
16:421月3日夜、旧幕府軍に思ってもみない行行が訪れ
16:47ました。
16:49藍津藩の一軍が、
16:50偶然敵陣の一角を抜け出ることに成功したのです。
16:54この突破口に兵力を集中すれば、
16:57一気に京へ進撃することができる、
17:00まさに潜在一軍の後期でした。
17:04しかし、旧幕府軍の主力は、
17:07またも動きませんでした。
17:10この時も、
17:11指揮官の竹中が不在のため、
17:13進撃の判断を下せる者が、
17:15いなかったからだとも言われています。
17:18結局、藍津兵は突破口を広げることができずに後退。
17:27薩摩軍の絶え間ない砲撃によって、
17:29伏見奉行所は炎に包まれました。
17:34露地の暗がりに潜んでいた新戦組や藍津兵は、
17:37燃え盛る火炎によって姿を照らし出され、
17:40新政府軍の焼銃によって狙い撃ちにされました。
17:491月3日深夜、
17:51伏見奉行所を陥落。
17:54新戦組は撤退を余儀なくされます。
18:01伏見では敗北した者の旧幕府軍の本隊は、
18:05戸場街道の下戸場付近で、
18:07なおも戦い続けていました。
18:121月4日朝、
18:14一旦、夜戸まで退いた新戦組と藍津兵は、
18:17再び下戸場に向かって出撃し、
18:20旧幕府軍本隊と合流。
18:24戸場街道を南下しようとする新政府軍と、
18:27それを阻止しようとする旧幕府軍は、
18:30下戸場で激戦を繰り広げます。
18:34時が経つにつれ、
18:35数に勝る旧幕府軍は次第に優勢となりました。
18:40勢いを盛り返した新戦組と藍津兵は、
18:43槍と刀を振るって突撃を繰り返します。
18:47新戦組大使長倉新八の指揮には、
18:50この時、薩摩兵は退敗して退いていったと記されています。
18:57ところが、
18:58あと一息で勝利は確実と思われた時、
19:02淀にいた旧幕府軍の責任者から、
19:05思いがけない指令が届きます。
19:09日没が近づいたので、
19:12一旦兵を引き上げよ。
19:16新戦組と藍津兵は激効しました。
19:19今援軍をもらえれば、
19:21新政府軍を追って、
19:22今日まで入れるものを、
19:23なぜ意味のない撤兵を命じるのか。
19:28結局、旧幕府軍は長蛇を逸して撤退。
19:31新政府軍は息を吹き返しました。
19:35旧幕府軍壊滅、
19:37その2日前のことです。
19:44旧幕府軍の戦術のまずさと、
19:46いくつかございましたけど、
19:47中でも、
19:49あと一歩で勝つという時に、
19:51日没だからということで、
19:52兵を引き上げさせた。
19:53このまずさとは何だったのでしょうかね。
19:55もう本当におっしゃる通り、
19:56まずいですよね。
19:58それと、
19:59例えば旧幕府軍の総督ですけれども、
20:03彼は松井武善の神、
20:05まだ24歳という若さなんですよね。
20:08しかも、
20:08実践の経験なんてない、
20:09お殿様なわけです。
20:11彼が総督になったのは、
20:13たまたま大阪に来ている、
20:16幕府の要人の中で、
20:21一番地位が高い人で、
20:23そういうことで、
20:24総督になっているわけですが、
20:26実際の戦争が始まってみて、
20:29彼が全軍を指揮して、
20:31指令を出せるという、
20:32到底考えられない、
20:34そういう人材なわけですね。
20:36そういうように、
20:38旧幕府軍の体質みたいなものが、
20:42ちょっと問題があると思いますね。
20:45兵隊の数としては、
20:46旧幕府軍が圧倒しているわけですけれども、
20:50実際の戦争になってみた場合、
20:53ちょっと勝ち目が薄かったのかな、
20:56そういう印象ですね。
21:00各地で、
21:01初戦敗退した旧幕府軍でありますけれども、
21:05しかし、
21:06肘方敏三は、
21:07まだ諦めてはおりませんでした。
21:09しかし、
21:09そんな肘方の前に、
21:11実は驚くべき、
21:12秘密兵器とも言うべきものが、
21:14現れるんですね。
21:16それは、
21:17鉄砲でも、
21:17大砲でもありませんでした。
21:20さあ、
21:20何だったんでありましょうか。
21:25伏見を失った後の、
21:27旧幕府軍の拠点、
21:29それは、
21:30鳥羽街道と伏見からの道が合流する、
21:32交通の要衝、
21:34淀でした。
21:37淀には、
21:38幕府老中、
21:39稲葉美濃の神の居場があります。
21:42この拠点を支出すべく、
21:44新戦組は、
21:45淀の前方1kmの占領末に浮尽、
21:48足の茂みに潜んで、
21:49新政府軍を待ち伏せました。
21:52敵が近づくや、
21:54抜刀して、
21:54不意打ちを繰り返し、
21:56奮戦を続けます。
22:00抜刀を振り回して、
22:02薩摩軍へ、
22:02シャニムに切り込む。
22:04二時余りも決戦し、
22:07薩摩兵を追いまく。
22:09長倉新八の指揮には、
22:11そう記されています。
22:14ところがその頃、
22:16奮戦を続ける、
22:17新戦組の知らないところで、
22:19戦局の行方を決定する、
22:21出来事が起きていました。
22:241月5日午前、
22:27戸場街道上の、
22:29新政府軍の陣地に、
22:31一流の旗が翻ったのです。
22:35赤い布地に金銀で、
22:38日月の模様を刺繍した、
22:39金貴、
22:40いわゆる、
22:41錦の御旗でした。
22:44金貴は、
22:45鎌倉時代の頃から、
22:47天皇の軍隊を表す表彰として、
22:50使われるようになった旗です。
22:53この旗を持つ軍隊と戦う者は、
22:55天皇に対して、
22:57弓を引く者ということになり、
22:59朝敵、
23:00つまり天皇の敵として、
23:01駐せられることになります。
23:06金貴を見た、
23:06旧幕府軍の将兵の間には、
23:08動揺が走りました。
23:11自分たちは、
23:12天皇を朗絡する、
23:13薩摩を撃つために、
23:15戦いに来ているのであって、
23:17決して天皇に、
23:18抗うつもりではない。
23:20金貴に対して、
23:22弓を引くことはできない。
23:27金貴を押し立てた、
23:28新政府軍の、
23:29怒涛の進撃が始まりました。
23:32戦意を喪失した、
23:33旧幕府軍を蹴散らし、
23:35新戦組が陣取る、
23:36千両松に迫ります。
23:401月5日午後、
23:41金貴は、
23:42千両松付近に登場。
23:43旧幕府軍は、
23:45なだれを撃って、
23:45退却を開始。
23:47戦場に、
23:48取り残される形となった、
23:50新戦組は、
23:51孤立します。
23:526番大将、
23:53井上玄三郎は、
23:55味方の退却を援護する最中に、
23:57腹に弾丸を受けて絶命。
24:00実直な人柄で、
24:01若い大使に慕われた井上は、
24:04最後まで、
24:04大砲の脇を離れなかったといいます。
24:10弾丸も、
24:11ついに撤退を命じざるを得ませんでした。
24:14この時までの、
24:15千両松手の新戦組戦士、
24:1814人。
24:23こうなった上は、
24:25一旦、
24:25淀に引き上げ、
24:27城を拠点に敵を防ごうというのが、
24:29旧幕府軍の作戦でした。
24:32しかし、
24:33淀まで引き上げてきた弾丸は、
24:35思わず自分の目を疑え、
24:37予定しました。
24:38旧幕府軍の軍勢は、
24:40城に入ることができず、
24:42宿場の周りで立ち往生しているのです。
24:46淀城の主、淀藩が、
24:48旧幕府軍の入城を拒む、
24:50固く城門を閉ざしているためでした。
24:55城に入らなければ、
24:56どうにもできない。
24:57何とか入城できるように、
24:59淀藩に掛け合ってください。
25:04藤方の必死の進言を受けて、
25:06旧幕府軍の総督、
25:08松平武善の神は、
25:09高尚に赴きましたが、
25:11しかし、淀藩は応じようとしません。
25:15新政府軍が近畿を押し立ててきた以上、
25:19ここで旧幕府軍に城門を開けば、
25:22天皇に対して弓を引くことになる、
25:25それを恐れたためでした。
25:29やむなく旧幕府軍は、
25:31淀からさらに南に撤退。
25:34それに代わって、
25:35近畿を先頭にして進撃してきた、
25:37新政府軍に対し、
25:39淀藩は城門を開きます。
25:42旧幕府軍の拠点であるはずだった淀城は、
25:46一瞬にして、
25:47新政府軍の支柱に落ちてしまったのです。
25:55追い詰められた旧幕府軍の最後の拠点、
25:58それは橋本でした。
26:01土方敏夫を率いる新選組は、
26:04橋本の宿場で、
26:05新政府軍を迎え撃つため、
26:07特幹工事で陣地を築き始めます。
26:12連戦連敗とはいえ、
26:14土方の胸には、
26:15なお不屈の闘志が宿っていました。
26:20旧幕府軍壊滅、
26:23その一日前のことです。
26:29佐藤さん、
26:30この旧幕府軍が見たものが、
26:33錦の御旗であった。
26:35これは旧幕府軍はびっくりしたでしょうね、
26:37ショックだったでしょうね。
26:38そうですね。
26:40時代が変わっていく、
26:44徳川家の青井の御門という、
26:47江戸時代には絶対的なシンボルみたいだったものが、
26:51戸橋見戦争の時に、
26:53近畿、そして菊の古文という新しいシンボルが出て、
26:57それに、
26:58大人の人間が受け入れて、
27:00従っていくというね、
27:02そういう時代の流れといいますか、
27:05シンボルの交代みたいなものがね、
27:08非常によく現れているというふうに思いますね。
27:13つまり、吉野もそうですけども、
27:17バックサイド、それから諸藩もですね、
27:20天皇を中心とした新しい国家を作るということでは、
27:25合意が出来上がっているんですね、もうね。
27:28それが天皇に反抗する、
27:33反乱ということになってしまうと、
27:36新しい国家建設に参加できなくなってしまいますよね。
27:39ですから、近畿に歯向かうことはできない、
27:43そういう気持ちが強くなってしまうわけですね。
27:48各地で、いよいよ追い詰められた旧幕府運でございますけれ
27:51ども、
27:51しかし、土方敏夫はですね、
27:53まだまだこの時点でも諦めなかったんですね。
27:56まだこの時点では、
27:58兵力のおいては相手より勝るというふうに思っていました。
28:02で、今一滴、ここで頑張ろうと思うわけですけれども、
28:06しかし、一旦動き出した歯車というのは、
28:08なかなか止めることはできませんでした。
28:11なんとか頑張ろうと、
28:12必死になっていた土方敏夫にですね、
28:15今度は信じられないような裏切りが起こるわけですね。
28:19そして皆さん、いよいよ、
28:21今日のその時はやってまいります。
28:25京都・大阪を結ぶ街道は、
28:28現在の京都府八幡市の付近で、
28:31二つの山に挟まれます。
28:33東に男山、
28:35そして西が天皇座。
28:38戦国時代、
28:39橋場秀吉が明智光秀を破って、
28:42天下取りへの第一歩を踏み出したこの地は、
28:44古来、京都・大阪の間の関門の役を果たしてきました。
28:49二つの山に挟まれた道は、
28:51藍路となって大軍の侵攻を妨げ、
28:54防衛に適している場所だからです。
29:00伏見・淀と連敗した旧幕府軍は、
29:03この地に布陣して新政府軍を迎え撃とうとします。
29:09西の天皇山の麓山崎には、
29:12徳川恩子の大名、角東道派、
29:15そして、東の男山の麓橋本には、
29:19新選組はじめ旧幕府軍の主力部隊。
29:261月6日朝、
29:28橋本に陣地を構築する旧幕府軍には、
29:31大阪城の徳川義信より死者が健山、
29:35直々の命令を伝えます。
29:38戦機が一機となっても退いてはならぬ、
29:42奮発して力を尽くせ。
29:46吉野部の言葉に、
29:47橋本の陣地は、
29:49ようやく奮い立ったといいます。
29:55一方、橋本の対岸、山崎では、
30:01前日1月5日の夜、
30:05旧幕府軍東道館の陣地を訪ねる人影がありました。
30:10新政府軍が要請して派遣した、
30:13天皇の直司です。
30:19値迎えた東道派の重役に、
30:21直司は告げました。
30:25近畿が上がった以上、
30:27もはや、旧幕府軍は族軍である。
30:32かくなる上は、
30:33新政府軍に味方せよ。
30:41あくる1月6日、朝6時。
30:44戦いの日蓋は、
30:46新選組以下、
30:47旧幕府軍が立てこもる橋本で、
30:49切って落とされました。
30:52新政府軍の兵2500が、
30:54総攻撃を開始。
30:56藤方はすぐさま、
30:57兵を引き連れ反撃。
31:02藤方が兵を引き連れ、
31:03山頂ほど行くと、
31:05薩摩兵が発砲してきた。
31:07ようやくのことで陣地に引き上げ、
31:10これから激しい戦いとなった。
31:13新選組対士、
31:14長倉新八は、
31:16藤方の奮戦を総記録しています。
31:20激しい攻防が続くうち、
31:22旧幕府軍の兵は、
31:24奇妙なことに気づきました。
31:27新政府軍の攻撃は、
31:30淀川の東側にある、
31:32橋本の陣地だけに集中し、
31:35対岸の山崎を守る、
31:37東道藩の陣地には、
31:38全く攻撃を仕掛けていないのです。
31:43閉めた。
31:44この時、
31:45藤方はそう思ったかもしれません。
31:48橋本に攻撃を集中する、
31:50新政府軍の側面は、
31:52無防備のまま、
31:53がららきにあっています。
31:55そこへ、
31:56対岸から東道藩が、
31:57砲撃を加えてくれれば、
31:59新政府軍は、
32:00一瞬にして、
32:01壊滅するに違いない。
32:05だがどうしたことか、
32:06東道藩の砲撃陣地は、
32:09朝から沈黙したままです。
32:14激戦数時間。
32:16土方たち新戦組は、
32:18橋本塾の入り口で、
32:20新政府軍の進撃を食い止め続けています。
32:24ここで、
32:25東道藩さえ、
32:26大砲を放てば、
32:27死優は決する。
32:29が、
32:30その陣地は、
32:31静まり返っている。
32:33なぜだ。
32:34なぜ東道藩は撃たないのか。
32:37そして、
32:45慶応4年の1月6日昼。
32:49それまで沈黙を続けていた、
32:51東道藩の大砲が、
32:52ついに火を吹きました。
32:54やった!
32:54と、
32:55土方が思った瞬間、
32:58その砲弾は、
32:59あろうことか。
33:00敵の新政府軍ではなく、
33:02味方の旧幕府軍の陣地に着弾して、
33:05炸裂したのです。
33:08信じられない光景が、
33:10短の目の前で繰り広げられました。
33:13次々と砲弾に吹き飛ばされる味方の兵。
33:16東道藩は、
33:17敵の新政府軍ではなく、
33:20味方の旧幕府軍に向かって、
33:22一斉射撃を開始したのです。
33:26側面から予期せぬ攻撃を受けては、
33:29ひとたまりもありません。
33:31新選組も、
33:32藍津兵も大打撃を受け、
33:35旧幕府軍は一気に壊滅。
33:40長倉新八の手記によれば、
33:42それでも土方は諦めず、
33:44なおも進めと号令したといいます。
33:53しかし、
33:54その声も虚しく、
33:56旧幕府軍は産を乱して、
33:58大阪へ敗走。
34:00藤方もやむなく撤退を開始。
34:02しかし、
34:03藤方はなおも、
34:05まだ諦めていませんでした。
34:08こうなったら、
34:09大阪城に立てこもるしかない。
34:12城には、
34:12総大将の徳川慶信がいる。
34:15慶信を押し立てて、
34:17最後の決戦を挑もう。
34:22あくる1月7日夜、
34:25藤方率いる新選組は、
34:27ようやく大阪城に起陣。
34:30ところが、
34:31そこで肘方を待っていたのは、
34:34さらに驚くべき知らせでした。
34:37大阪城にいるはずの、
34:39総大将徳川慶信が、
34:42いないというのです。
34:45自ら戦場に出馬すると宣言していた慶信。
34:50その慶信は、
34:52前日の1月6日夜、
34:54わずかの側近を引き連れ、
34:56城を抜け出し、
34:57船に乗って、
34:59江戸へ脱出していたのです。
35:03新政府軍が近畿をかざして、
35:05進軍してくる以上、
35:07抗うことはできないと考えた上での、
35:10逃亡だったと言われています。
35:13幕末の動乱の体制は決しました。
35:17総大将がいなくては、
35:19左下の肘方も戦いを諦めざるを得ず、
35:23新選組は、
35:25旧幕府軍主力とともに、
35:27江戸へ落ち延びます。
35:32上方を制した新政府軍は、
35:34江戸に進撃を開始、
35:36戸場節目の戦いから3ヶ月後の4月11日、
35:40江戸城は新政府軍に明け渡されます。
35:45新選組は抵抗を続けますが敗退。
35:48局長近藤勲は、
35:50天皇に歯向かった賊軍として残殺されます。
35:56旧幕府軍の主力として戦った藍津藩は、
35:59朝敵と断定され、
36:00総攻撃を受けて敗北。
36:03領地没収となります。
36:07新選組副長、
36:09土方俊壮は、
36:10関東を東北から北海道へと転戦。
36:14戸場節目の戦いから、
36:161年余り後の明治2年5月11日、
36:20函館で倒れます。
36:23その遺体は、
36:24行方が死です。
36:26今も、
36:26北の大地に眠り続けているといいます。
36:35佐々木さん、
36:36今日のその時をどうご覧になりますか。
36:38東道藩は、
36:40関ヶ原の合戦以来、
36:43徳川将軍家の信頼が非常に厚い藩ですよね。
36:47だからこそ、
36:48天皇山という重要なポイントに配置されたわけですね。
36:53その東道藩が裏切ったということは、
36:56これはものすごい旧幕府側にとってはダメージですよね。
37:03旧大祭が崩壊していくときというのは、
37:06こういうものなんでしょうね。
37:09思いがけないこととか、
37:10信じがたいことが、
37:12連鎖反応的に起こってきて、
37:15もう流れを変えることができないんですよね。
37:18だからこれが、
37:19時代の大きな状況が変わっていくということを、
37:25非常に象徴的に示しているような出来事だったと思いますね。
37:31この戸場伏見戦争を勝利することによって、
37:37新政府は事実上確立したというふうに、
37:41見ることができるんだろうと思いますね。
37:43ということは、
37:45日本の近代国家建設の方向が、
37:48もうここで決まったということが、
37:51言えるんだと思いますね。
37:52これは非常に大きい意味を持ちますね。
37:56ただ、肘方俊蔵とか、
37:59あいつ藩にとってみれば、
38:01この戦争は、
38:03なんていうか、
38:04悔いの残る、
38:05納得しがたい戦争だったように思いますね。
38:11明治審を見、
38:13あるいは考えるときですね、
38:15官軍と俗軍という、
38:17そういう目で見てしまうと、
38:20明治審の深みが分からなくなってしまいますね。
38:24負けた側も、
38:26俗軍と言われた側も、
38:28やはり新しい国家を作るための、
38:30非常に強烈な思いがあったという、
38:33そこら辺をやっぱり、
38:35ちゃんと理解した上で、
38:38明治審というものを、
38:39考えなければならないんじゃないかなと思いますね。
38:42どうもありがとうございました。
38:47きょうの町では、
38:48この戸場伏見の戦い、
38:51これが終わった直後にですね、
38:53瓦番が出まいりました。
38:55その瓦番が、
38:58つい最近3年前にですね、
39:00見つかったんですね。
39:00そこには、
39:01新選組についてのある評価がありました。
39:04その話と、
39:05それからこの戸場伏見の戦いの激戦地、
39:07その戦場の後にですね、
39:09その後、
39:09その一文が立ったんですけれども、
39:11この瓦番と石文のエピソード、
39:14これをご紹介しながら、
39:16今夜は終わりたいと考えます。
39:18今夜もご覧いただき、
39:19ありがとうございました。
39:23平成11年11月、
39:26この戸場伏見の戦いについての瓦番が、
39:29京都で発見されました。
39:33これは戦いの直後に出回ったもので、
39:36旧幕府軍の敗北の様子が記されています。
39:42そこには、
39:44新選組を表した、
39:45次のようなザレ歌が載せられています。
39:51新選、
39:53死す死す、
39:54死に尽くす、
39:56死に、
39:57つるつる、
39:59すっぱりと、
40:01新選組が打たれて、
40:02死に尽くしたのは、
40:04君が良いことだ。
40:06旧幕府のために奮戦した新選組も、
40:09敗北の後は、
40:11もはや、
40:12俗軍の一味に過ぎませんでした。
40:22それから130年余りの後、
40:27最後まで戦いを諦めなかった、
40:29新選組副長、
40:30肘方俊蔵の距離には、
40:33その生き方をしのんで、
40:34訪れる人の姿が絶えません。
40:45戸場伏見の戦いの激戦地、
40:47淀の占領末。
40:50新選組大使、
40:5114人をはじめ、
40:53多くの人々が命を落としたこの地に、
40:56一つの石踏みが建っています。
41:01戦いから、
41:02およそ100年の後、
41:04昭和45年、
41:06戦死者の魂を慰めるために建てられたものです。
41:13この石碑には、
41:14次のような言葉が刻まれています。
41:19漢軍、俗軍というが、
41:22いずれも信じるところに従って戦い、
41:26指導に準じた。
41:28ここに100年の歳月を閉じ、
41:31不幸を俗命に倒れたる、
41:33誇りある人々に対し、
41:35慰霊碑のたつるを見る。
41:39財天の魂、
41:41もって、
41:42名すべし。
42:06視聴は、
42:06insufficient天の歳月をたточ turnsしていますね。
42:14ご視聴ありがとうございました。
42:29この銃に含めて、
42:32Dwight豪が染報告します。
42:33saar mapが止まった!
42:33ご視聴ありがとうございました