忘れられない写真家 鈴木清の仕事
  • 12 年前
写真家鈴木清さんの不在が、ずっと長いことのみこめなくて。

毎晩、店長と「どうして?」と話していました。病気で亡くなったのが2000年、もう10年経つことになります。

98、99、00年と3年連続コニカプラザで写真展をやったんですね。ご本人は3部作と呼んでいました。

3回とも、オープニング・パーティーの料理とお酒を私たちベルクが請け負いました(ベルクは鈴木さんに壁の展示のこと等で色々お世話になりました。現在、店内に飾ってある食の職人たちの写真も鈴木さんが撮影して下さったものです)。

ムービーでは、主に3回めの展示の様子がご覧になれます。ただ、3回めの時はすでに鈴木さんは亡くなっていました。99年が生前最後、00年は遺作展となりました。

毎回凝った展示で、綿密な設計図のようなイメージ・スケッチがあるんですね。鈴木さんに直接見せていただいたこともあります。00年の「遺作展」もスケッチだけは残されていて、娘さんたちと金村修さんをはじめとする若手が中心になって、それを元に3部作を完成させました。

床に写真があったり、空間を縦横無尽に使う。石ころや布、貝殻と写真が同等に扱われている。展示のイメージ・スケッチまでもが展示物になる。見るたびに「これ、私もやってみたい!」と刺激を受けました。

私が現代写真研究所の研究生だった頃、1回だけ鈴木さんの特別講義「体験的写真論」があったんです(その17年後に、自分が同じ場所で同じタイトルで講義する立場になるとは)。それに衝撃を受けまして。黒いシミのついた写真があって、フィルムに穴があいたからだそうですが、それがまたむちゃかっこよくて(DMにもなっている、男の子の写真)。それ以来、鈴木さんをオッカケてます。

インクジェット・プリンターが普及しはじめた頃、企業(エプソン)が最初にプッシュした写真家は、森山さんでも荒木さんでもなく、鈴木さんでした。

もちろん海外での評価も高いし、土門拳賞も受賞されていて有名写真家ですが、今、意外と話題にのぼることが少ないように思います。色々な人たちを巻き込み、精力的に活動されていましたから、やはり皆さん、突然の不在がいまだに信じられないのかも知れません。

でも作品は残されています。もっと見られる機会があってもいいんじゃないか。

とりあえず、今となっては貴重な鈴木展の様子をムービーにさせていただきました。意外とこれも、映像で記録している人は少ないような気がするんです。音は、店長の井野がつけてくれました。マイド!

ところで、一瞬なのでよくわからないと思いますが…ムービーでは3度ほど登場します…展示の中にはベルク(1卓…スタッフには死角になる一番落ち着く席)の写真もあります。エッセン・ベルクの開発中、実現はしませんでしたが、ディップを使うイメージが私の中にあって、その関係でエジプト人の料理人と会うことになり、家族で遊びに来てくれたのです。鈴木さんも偶然通りかかったんですね。すーっとうちとけるように入ってきて、何枚もパチパチと。はい。私も写っています。これ見て、急にそのときのことを思い出しました。

(迫川)

見果てぬ夢

 十年前、新宿駅構内に、小さいながら、自分たちの店をもちました。目の前を毎日何万という人間が通り過ぎていきます。商売にならなければ店は続きませんが、商売にすればいいんでしょ(って簡単にいけばいいんですけどね)、壁は自由に使わせて。商売の支障にならない範囲でするから。
 そんな訳で、殆ど衝動的に、ベルクという店で、月がわりのオリジナルプリント展が始まりました。先日亡くなられた鈴木清さんには、いつの間にか、勝手に顧問になっていただいて。でも実際、鈴木さんは毎月店に律儀に見に来て下さいましたし、写真家を、鈴木さんと並ぶ大御所からご自分の教え子さんまで、何人も紹介して下さいました。感謝の気持ちでいっぱいです。
 ただ、こんなことは言うだけ空しいですが、なぜ今なの?という思いはあります。これでは他人の面倒見がいい鈴木さんという話に落ち着いちゃうじゃありませんか。鈴木さん顧問なんだから。まだまだ聞けずじまいのことが沢山あるのに。もっともっと食い下がらせてもらう時間がほしいのに。
 ベルクは、場所柄、雑多な人間が、移動のあい間にほんの一息ついて、またあわただしく人混みに消えていくビア&カフェです。写真は、店内の折れ曲がった壁に並べるのですが、飾りにするには主張の強すぎる写真もありますし、かと言って、ギャラリーのように鑑賞する雰囲気ではなくて、写真に全く見向きもしない人もいれば、ビールのつまみにする人もいる。コーヒー飲みながらぼんやり見るともなく見る人もいる、という状態です。
 写真展の感想ノートにも、ギャラリーとはまた趣のちがうコメントが書かれるようです。一度、盗み撮りはやめろという批判があり、ノート上で大論争になったことがあります。その月の写真展は、街で見つけた男女の、老人から若者までですが、カップルの写真ばかりを集めていました。被写体と写真家の距離感が、決して遠すぎず、近すぎず、その場の空気までちゃんと盗みとったような、胸にしみる写真でした。いわゆる「盗み撮り」写真は、確かに巷にあふれています。しかし、それらが品性下劣な感じがるのは、盗み撮りというより、むしろ何も盗んでいないのに盗んだつもりにっているからではないか。ノート上でそのような作品擁護の反論が続出しのです。
 作家はさすがにかなり動揺したようで、写真展の中止を申し入れてこられました。ただあの批判自体は悪質ないやがらせにしても、それをきっかけに、様々な言葉が呼び起こされたのはとても面白く思い、もう少し続けて様子を見ましょうと説得しました。顧問であり紹介者でもある鈴木さんも、心配してすぐ電話をかけてこられました。事情を説明すると、すぐ安心され、「有難う」とお礼まで言われました。その後、感想ノートに目を通され、こんなことはギャラリーじゃ起こらないよ、ここは面白い場所だねとおっしゃいました。鈴木さんはいつもじっとしていられず、動き回っていないといられないような方でしたが、その時もさあーっと店にいらっしゃって、ほんの一瞬ですが、でかい獲物でも釣り上げたかのような、晴れ晴れした顔をされたのを思い出します。ベルクで写真展をやる意味を、その勢いにのって私もつかみかけた気がしました。
 ただ、鈴木さんとは一度もあらたまって、腰をすえてそのことについてお話したことはありません。今書いてふと思ったのですが、腰をすえたとたん逃してしまう何かを追いもとめるのが鈴木清という写真家だとしたら、そんなことは初めからかなわぬ夢だったのかもしれません。私にしても、殆ど衝動的に始めたことですし、鈴木さんとも衝動的に出会った。それがことの全てだったのかもしれません。
 といっても、鈴木さんご自身の手によるベルクでの鈴木清展はついに実現していません。「流れの歌」のオリジナルプリントをお借りして飾らせていただいたことはあるのですが、何年かのうちには絶対に、と密かにもくろんでいたのですが。たまたまというより、それに関しては……鈴木さんは腰が重いように私には見えました。勿論、床から天井まで空間全部を自由に駆使して作られる鈴木ワールドが、店ではどこまで可能かと私だって考えました。鈴木さんは初めから諦めていたかもしれませんが、私は相当覚悟していたのです。その月だけは、ひょっとして営業にならなくても…と、それは無責任で、気持ちの上の話ですけど。鈴木さんはあくまでもギャラリーの中で無意識の制約をほどこうとされた。
 それが、あのどこが始まりでどこが終わりかも分からない、迷宮のような写真展になったのだと思います。でも、それ自体が迷宮のようなベルクという店で、店には店の制約がありますから、それを鈴木さんはどうふりほどくのか、恐らくギャラリー以上に壮絶なバトルがまちかまえているでしょう。ぜひ、一度お手あわせ願いたかった。鈴木さん、さすがにびびったのかな。少なくとも、ものすごく慎重ではあったな。それだけ、やっぱり大変なことなのだろうと色々考えます。
 でもそれについていくら腰すえて話し合ったところで、きっとらちはあかなかったでしょう。もっと無責任に、衝動的にのせるしかなかったでしょう。それには、もうちょっと私もエネルギーを蓄えて、タイミングを見計らうしかなかったでしょう。そのチャンスが永久に奪われたのはくやしい。神様を、本当に私はうらみます。

迫川尚子
(『写真の会』会報No.46 2000 5.27 追悼鈴木清より)

写真 by 迫川尚子
音楽 by 井野朋也

鈴木清写真展『百の階梯、千の来歴』 2010.10.29-12.19 東京国立近代美術館
http://www.momat.go.jp/Honkan/suzuki_kiyoshi/index.html