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00:00前回の一番新しい金元代史は中国で国民党の尊分が共産党と連携した。
00:29今回は新朝最後の皇帝不義が北京を追放され中国各地の軍閥がしのぎを削る激動の時代をひもときます1924年11月中国・北京政府の実権を奪い合う軍閥の抗争のさなかラストエンペラー
00:59不義が至近所を追われます。不義を追放した軍閥の狙いとは?
01:07行き場を失った不義は日本の保護下に置かれ天心で暮らすことになります。
01:13日本はなぜ不義を保護したのでしょうか。
01:19大正14年1月、日本がソ連と日ソ基本条約を結び国交を樹立。
01:27これまで対立していた両国が条約を結んだ背景とは?
01:34同じ年の3月、日本で治安維持法が成立します。
01:40後に多くの人々が弾圧される根拠となったこの法律は、そもそもどのような目的で定められたものだったのでしょうか。
01:48それでは始めましょう。関口博史の一番新しい近現代史。
01:58一番新しい近現代史でございます。
02:01前回、中国第一次国境合作というものが行われました。
02:071924年、大正13年、孫文は中国統一のため中国共産党との連携、合作を決断。
02:18連想、要協、扶助、効能を旗印に方針を転換しました。
02:24で、ソ連の共産党幹部を国民党の顧問に加えたり、中国共産党員が国民党にも参加すると。
02:37そして今回の話でございますが、大正13年から大正15年、ラストエンペラーと呼ばれた不義が資金上追放ということになります。
02:48そのきっかけが、張作林という人が北京を掌握する、北京の資金上にいた不義が追放され、天津というところへ行くことになります。
03:02そして日本はソ連と国交を受立します。日ソ基本条約。
03:10仲が悪かったり良かったり、こういうのが国際関係なんですね。
03:14笑顔で殴り合っているとか、握手しながら足は蹴り合っているとか、よく言われますよね。
03:23そして、その大正14年にラジオ放送局が開設されます。
03:31そして、治安維持法というものができる普通選挙法が成立することになる。
03:38そして、孫文が58歳で亡くなります。
03:44孫文の後継者は王朝明という人になりますが、
03:48甲州に国民政府が誕生して、
03:52紹介席が北伐、北の方にいる軍伐というものを収めていくということを始めるわけでございます。
04:01そして大正15年になります大正天皇47歳で法御いたします。
04:09中国では軍閥による抗争が続いていました
04:141924年10月、張作林は軍閥抗争の末、北京を掌握、中国政府の主権者であると宣言します。
04:29どのような軍閥が争い、どのように張作林が勝利したのか、その経緯を見ていきましょう。
04:36孔衆で孫文が中国共産党と第一次国境合作を決断したその頃なんです。
04:47ここで孫文が国境合作をやっております。
04:51その頃、北京政府、中華民国、8年前の遠征外の死後から軍閥抗争が続いておりまして、
05:01この年、宝天派の張作林らが北京を攻略して勝利することになります。
05:11主な軍閥としては宝天派、宝天というのは、ここに宝天という町がありますね。
05:19ここの宝天派、張作林、日露戦争中から満州の日本軍との関係を深め、
05:26宝天を中心に軍閥を形成していた。
05:30日本は張作林に対して満州支配のため、住民の統制に張作林を利用していた。
05:40張作林は張作林で、自軍の強化のため利用していた。
05:45さらに暗記派と呼ばれる軍閥がございます。
05:50遠征外の死後、北京に君臨していたのは、このダン・キズイという人。
05:56また、直令派と呼ばれる、アメリカとかイギリスが経済支援していたところは、
06:03五派育という人が仕切っておりました。
06:07暗記派と直令派の戦い。
06:11そして、2度にわたる直令派と宝天派の戦いを経て、
06:15北京を掌握した宝天派の張作林。
06:18その力は、新朝最後の皇帝、不義にも及ぶことになります。
06:241924年11月、新朝最後の皇帝、不義が北京を追われます。
06:44長作林とともに、北京を攻略した一派が、
06:50他の軍閥が不義を担いで、新朝復活をさせないため、
06:55不義の優待条件を破棄して、
07:00不義と側近らを至近城から退去させました。
07:05不義の至近城での生活はどんなもんだったか。
07:08新外革命で、新が滅亡した時、皇帝不義、6歳。
07:15資金城に住むことを特別に許可されました。
07:19私的財産も保護、退位後も城内で皇帝並みの生活を送っておりました。
07:27その後、イギリス人顧問ジョンストンを家庭教師にして、
07:32ヨーロッパ風の教育を受け、成長してまいります。
07:35そして1922年、大正11年11月、不義16歳になっておりますが、
07:43満州貴人、遠陽という女性、16歳を皇后にし、
07:49猛虎貴人、文州という人を第二夫人として、
07:55資金城で挙式いたしました。
07:58さて、追放の目にあった祝儀は何と言ってたか。
08:06私は自由の身になりたかったと、歓迎しているようなことを言う一方では、
08:13屈辱感が沸き起こり、いつの日か必ず勝利した君主として帰ってくると誓ったと、
08:21辞伝の我が反省で語っております。
08:23そんなもんかな。
08:26まあ、なんか相反する感情があるような感じもしますよね。
08:30本当に自由になりたかったのかなって気持ちもするし、
08:33でも、負け惜しみで言っているのかなという感じもしますし。
08:37そして、追放後の不義たちは、
08:40イギリス、オランダの公館に保護を求めたそうです。
08:43でも、これ拒否されるんです。
08:45そして、北京の日本公式館が一時、保護いたしました。
08:51そして、翌年、不義ら、天津の日本疎開に移住することになります。
09:00これは、日本の監視下で生活するということになりますが、
09:04新潮時代の維新の屋敷を借りて住んだそうです。
09:09以降、不義は、遠洋らと7年間にわたり、
09:13その日本疎開で生活することになります。
09:17この天津の疎開、これが日本の疎開。
09:21フランスもあれば、イギリスもあれば、
09:25イタリアも、オーストリアも、ロシアも、
09:29みんな疎開を持っていて、違い方形、ここでは。
09:33だから、中国は、ここに干渉できなかったんですね。
09:39ここへ、不義を住まわせた日本の思惑は何だったか。
09:46中国に対して、不干渉の方針の日本政府だったんですが、
09:52不義の扱いに困惑して、
09:55一方では、満州統治を拡作していた。
10:00つまり、ゆくゆく満州事変が起こって、
10:03満州に日本の傀儡国を作るわけですね。
10:07その拡作がもう始まっていた。
10:10その関東軍にとって、不義は利用価値ある手駒になると。
10:17まあ、掲載していましたかね。
10:19権力のなくなった王様なんて、
10:21一番使い道がありそうな手駒ではありますよね。
10:26本来、そんなこと、軍人が考えることじゃないはずなんですけども、
10:29この時の関東軍というのは、
10:31そういうことを考える人たちになっていたんでしょうね。
10:34ですね。
10:35奥さんが満州の人と猛虎って出てきましたから、
10:40微妙なこの辺りの民族問題を使おうという気持ちも、
10:47すでにあるのかなという印象を受けますよね。
10:50そしてこの9年後、昭和9年になります。
10:541934年、不義は満州国の皇帝に日本の力でなるという。
11:03日本とソ連の関係が回復します。
11:10大正14年1月、日ソ基本条約が締結され、
11:15日本とソ連の国交が樹立します。
11:18シベリア出兵での衝突や、
11:21資本主義と社会主義という思想の違いもあった、
11:24日本とソ連が、なぜ国交樹立に至ったのでしょうか。
11:28この時、日本は日本で考えた、何を考えたか。
11:36ロシア革命後のシベリア出兵、これ5年間続いたんですが、
11:40国内外から批判され、3年前に撤退、
11:45北、カラフトの駐留は継続していましたが、
11:48大きくは撤退。
11:50関東大震災で経済的打撃を浴びて、
11:54ソ連との経済関係を結んで、実利を得たい。
11:58経済復興のためにロシアを利用したいと。
12:01じゃあ、ロシアはどうしたか。
12:03前年のレイニンの死後、スターリンは、
12:06経済再建を優先して、
12:10資本主義国とも関係回復へ方針転換した。
12:15そして、極東も安定化したいという狙いがあった。
12:20スターリンは一国社会主義なので、
12:22今の資本主義国を今すぐひっくり返そうとはしないという方針なんですよね。
12:27いろんな国からもようやくこの頃になって、
12:31国家として承認してもらえて、
12:34そこで初めて外交というものがソ連の中に出てくるわけですよ。
12:38それまで外交しようにも、
12:40外国からも敵視されているし、
12:42ソ連自身も資本主義を敵視しているから、
12:44外交しようがなかったわけじゃないですか。
12:47でも、やっとこういう外国と関係を結んで、
12:50貿易をやってというようなことが、
12:53革命後、一息ついて言えるようになってきたという状況だったと思うんですよね。
13:00そして、敵対関係が解消されて、
13:02最初14年の1月、
13:04北京で日ソ基本条約を締結します。
13:08ドイツ、イギリス、フランスに次いで、
13:12ソ連と外交経済関係を日本が再開したということで、
13:17日本は北洋漁業圏、
13:20北から太の石油石炭の利権、
13:24北から太、この辺ですね。
13:26この半分は日本の領土になっております。
13:30この時代。
13:30これを石油石炭を獲得し、
13:34締結、4ヶ月後、
13:36北から太の日本軍、
13:38撤退することになりました。
13:41この4年後の1929年に出るのが、
13:45小林滝時のカニ航戦なんですよね。
13:48この少し前から日本の船って、
13:50もうこの北洋の北の海に入って、
13:52そのカニ取ってってやったみたいですけど、
13:56多分この時に、
13:58いよいよもっとずっと北の方まで入っていって、
14:01本格的な北洋漁業が展開されるようになったと思うんですよね。
14:05だからそういう小林滝時がカニ航戦を書くような時代背景にも、
14:11この日曹基本条約がなっていると。
14:152025年はラジオ放送100周年。
14:19開始当初のラジオ放送とは一体。
14:222025年で100年の節目を迎えます。
14:31大正14年3月、日本でラジオ放送が開始。
14:36まずはラジオの歴史を振り返ってみましょう。
14:38ラジオの歴史をちょっとご紹介しておきますと、
14:431900年、明治33年にカナダの電気技術者、
14:48フェッセンデンという人が、
14:50無線で音声を送る音声通信の実験に成功。
14:55その20年後、大正9年、
14:57アメリカのピッツバーグのラジオ局が、
15:00世界初の商業放送を開始。
15:03広範囲に届く中波、今で言うAMでございます。
15:08の電波帯を使って、
15:10不特定多数の人間が受信可能になりました。
15:15日本では関東大震災で情報が混乱する中、
15:19無線による情報伝達が活躍しておりましたが、
15:23情報メディアとして、
15:25ラジオの必要性が認識されておりました。
15:28そして、天津省の主導で、
15:32政府財界が出資した社団法人、
15:36東京放送局JOAK、現在のNHKが開局いたしまして、
15:433月22日午前9時30分放送が開始されまして、
15:49その第一声は、
15:51ああ、ああ、聞こえますか。
15:54JOAK、JOAK、
15:57こちらは東京放送局でありますと言ったそうです。
16:05では、当時のラジオ、どんな感じだったか。
16:08放送開始当初、ラジオを聞くには届出が必要だった。
16:14聞くものを持っていなきゃ聞けないわけですからね。
16:17それがこういう方がありますが、
16:19鉱石ラジオとか、
16:20その後、真空管ラジオというのも登場してきますが、
16:24これを持っているよと、
16:26だから聞きますと、
16:28届け出る。
16:29で、月額1円、
16:31聴取料が必要だったそうです。
16:34当時、米10kgが3円の時代、
16:37だから結構高いもんだったんです。
16:39でも、それに関わらず加入数が急増しました。
16:44放送開始時には3,500件、
16:481年後には20万件になった。
16:51これ分かるんですよね。
16:53それまでは新聞見るぐらいしか情報ってなかったのは、
16:57生で家にいながらにして何か聞けるっていうのは、
17:01これは相当カルチャーショックがあったんじゃないかと思います。
17:05すごいでしょうね。
17:06はい。
17:07電波メディアの特性というのがここにあります。
17:10ちょっと紹介しておきましょう。
17:11活字メディアより圧倒的な即時性、当然です。
17:16生で何か聞けます。
17:19識字能力の有無によらない伝達力、
17:23難しい漢字読めなくても耳で聞くわけですから、大丈夫。
17:27臨場感と感情への訴求、
17:30つまりドラマとか何とかだと、
17:34感情が動かされる情報もあったのかもしれません。
17:39そしてラジオの特性を権力者が最も利用したのは、
17:45後年ナチス政権のゲッペルスって人でしたよね。
17:50あの人がうまいことの放送というものを使うわけでございます。
17:55もう一つここに特性があるとすると、
17:57国境を越えるってことだと思うんですよね。
17:59すぐ国境の向こうから電波を流されたら、
18:03つまり全く統制できない形で、
18:06外国のプロパガンダとかが自分の国に入ってくるわけですよね。
18:10もっと言うと、外国に自国のプロパガンダを届けることも可能になるじゃないかというふうに、
18:15ほぼ即時にみんな気がつくんですよね。
18:19だからこの時代って、
18:20例えばイギリスのBBCであるとか、
18:23ソ連のモスクワの声であるとか、
18:27国営ラジオ放送が外国向け放送を始めるんですよ。
18:31そのことによって自分たちのメッセージを、
18:35相手国にブロックされずに伝えられるということが言われ始めるし、
18:40軍事戦略家たちは、
18:41これで国民が洗脳されたら戦わずして負けるんじゃないか、
18:46こういう電波を使った戦争だ、
18:48みたいなことを、
18:49もうこの頃から言い始めるんですよね。
18:51今、いわゆるインターネット上での認知領域戦だ、
18:55みたいな話と、
18:57そっくりの話を実は100年前にやっていて。
19:00やってるでしょうね。
19:01この後30年代になると、
19:03ソ連は国境沿いに妨害電波を発する装置を作って、
19:08外国のラジオが入ってこれないようにしてやれとかですね。
19:11そういうことも考えた。
19:13それがまた衛星放送で乗り越えられるとか、
19:15ずっとイタチごっこを実はやってるんですよね。
19:18その始まりがここだった。
19:19そうです。
19:21理想の実現へ、道半ばでの死でした。
19:271925年3月、孫文が58歳でその生涯を終えます。
19:34死の直前まで、中国統一に向けて動き続けていました。
19:40孫文の晩年、1924年、大正13年、
19:461月に共産党との第一次国境合作を成立させた、
19:51孫文、11月、国家統一へ北京政府と話し合うため、
19:57北上を宣言し、関東を出発して北京に向かった。
20:03途中、上海でイギリスの妨害を受け、
20:07孫文は上海から日本を経由した。
20:12そして立ち寄った神戸で大アジア主義の演説を孫文がしました。
20:18その内容、用紙でございますが、
20:23欧米諸国は、波動、武による統治を基調とした精神的文化だ。
20:31アジアは、欧道、徳による統治を基調とした精神的文化だ。
20:40アジア諸国は、人道中心の大アジア主義によって団結し、
20:47横暴な欧米諸国に対抗しなければならない。
20:53日本は、西洋の波動の番犬となるのか、
20:58アジアの王道の画像となるのかを問うと、
21:03大きな問いかけをいたしました。
21:05日本に何を期待しているのか、いまいちよくわからないですよね。
21:10これでは。
21:11下手すると、これは日本においしく利用されちゃう可能性のある枠組みですよね。
21:19実際、日本の古典的な右翼の発想ってこれですよね。
21:22そうそう。
21:23大アジア主義で、日本を中心にアジアがまとまって、
21:27欧米を追い出そうではないかという発想だから、
21:31昔の右翼は、欧米が嫌いでアジアの人たちのことが好きで、
21:35でも、その中で一番の兄貴が俺だよなという、
21:38そういう思想じゃないですか。
21:40だから、これは岩本先生がおっしゃる通り、
21:43日本ではおそらくそういう思想として理解されてしまったんだと思うんですよね。
21:48実際、宮崎東天とか東山みずるとかと交流があったみたいなんですよね。
21:53だから、こっちで共産主義と付き合い、
21:56こっちで右翼主義者と付き合い、
21:58よくわからない人だなっていうね。
22:01そしてどうなったか。
22:02その後、1924年、大正13年、
22:0512月に北京入りした孫文、
22:08肝臓がんに倒れ、
22:101925年、大正14年、1月末に入院、
22:143月12日、
22:16妻の宗恵霊と国民党幹部に見守られながら、
22:21中国統一、道半ばで亡くなりました。
22:25革命に来た孫文の生涯を振り返ってみましょう。
22:301866年、中国関東省に生まれ、
22:3712歳の時、兄を頼ってハワイに渡っています。
22:4228歳で、ハワイで新朝打倒のため、
22:47公中会を結成、革命運動を始める。
22:5129歳、公衆で革命運動に頓挫して、
22:57日本に亡命。
22:5845歳に、新内革命で新朝を倒します。
23:04そして翌年、
23:05中華民国臨時政府の臨時大総統に就任しますが、
23:11遠征外ですか、
23:13との権力争いで負けるんですね。
23:16第二革命を目指しましたが、失敗して、
23:19結局、日本に再亡命しました。
23:23そして57歳、
23:25中国統一へ共産党との国境合作、
23:30そうしている間に、
23:3158歳で、北京で亡くなっております。
23:35小泉さんのこの人の印象は、
23:37どんな感じでございますか。
23:38この人が出てきてから、
23:40多少話が分かるようになったんです。
23:42どういうことですか。
23:43この番組が始まってからの、
23:45前半の中国って、
23:47なんかよく分かんないんですよ。
23:49その皇帝がいて、
23:50軍閥がいて、
23:52私たちが知っている社会のルールと、
23:54違うルールで動いているらしいということが、
23:57分かるんですよね。
23:58でも、どうなっているのか、
23:59あんまりよく分かんないんですけど、
24:01とりあえず、
24:01孫文が出てきてからは、
24:03中国を統一して、
24:04なんとか民国というのを作って、
24:06そのトップになるのね、という、
24:09なんかこう、
24:09急に私たちが分かる世界になってくるんですよね。
24:13やっぱり、
24:13この人は、
24:14中国に近代をもたらしたのかな、
24:18というふうに、
24:19私なんかは思える。
24:20それはなくないでしょう。
24:22で、
24:23やっぱりこの近代に入ってくのに、
24:26なかなか、
24:26中国はでっかいから難儀していて、
24:29その間に、
24:29欧米とか、
24:30ロシアとか、
24:31ロシアとか日本とかに、
24:32いいようにされていたわけですよね。
24:34それを、
24:34なんとか、
24:35近代の国にして、
24:36こいつらに、
24:36いいようにされないようにしなきゃ。
24:38だから、
24:38だから、
24:39そのためには、
24:40共産党とも手を結ぶし、
24:42ロシア人の顧問も受け入れるし、
24:44でも、
24:44日本にも大アジア主義を持ちかけるし、
24:46みたいなことを、
24:48ずっと奮闘した人だったのかな、
24:50という感じがしますね。
24:51いわが参考にしているのか。
25:21って言うんですけど、
25:23でも、
25:23国に実際、
25:24例えば、
25:25そこで製片があって、
25:26送り返されると、
25:28ローカルなドロドロの、
25:29ルールが、
25:30全く理解できなくて、
25:32その国をまとめることができず、
25:35数年で役立たずに終わる、
25:37という、
25:38そういうパターンって、
25:39結構あるんですよね。
25:41だから、
25:42外向けのインテリが、
25:44必ずしもローカルで役に立たない、
25:47という、
25:47そのパターンに、
25:49もしかして、
25:49この人はハマっていて、
25:51いまだに日本とか、
25:53アメリカとかでは、
25:54人気があるけれども、
25:56実は中国では、
25:57そんなに、
25:58みんなに尊重されていなかったのではないか、
26:02という気が、
26:03ちょっと今日、
26:04今日のこの、
26:05いろいろな、
26:07上がったり下がったりを見ていて、
26:08思いましたよね。
26:09でも、この人が出てきたことによって、中国の中の新王朝というのが、いかにもう行き詰まっていたかというのは分かりましたよね、それをなんとかしたかったんでしょうが、この方は。
26:23対象14年、後に、多くの民衆を弾圧する、治安維持法が成立します。
26:35大正14年3月、加藤高明内閣の下で、治安維持法と、普通選挙法という、2つの法律が成立します、まずは、治安維持法がどんなものだったのか、見てみましょう。
26:49政府は普通選挙法、25歳以上の男子に選挙権を与える。これにもって有権者が増え、なおかつ、日ソ国交受立がしたことで、労働運動、社会主義運動が激しくなることを警戒して、社会主義運動などを取り締まるための、治安維持法を成立させた。
27:16やっぱりこれは、当時の日本としても、この社会主義というのは、国の邪魔になるものだという考え方です。
27:26相当警戒したんでしょうからね。
27:28やはり、皇帝一家を追い出して、銃殺してしまうという政権が隣の国にできるわけですから、
27:36近代的な立憲君主制を目指していた当時の日本としてみりゃ、こんな国が隣にあるのは不気味でしょうがないという感じだったんだと思うんですよね。
27:45社会主義とか国体妥当とかっていうことを言い出す連中というのを、すごく当時の当局が警戒するのはそうだったんだろうなと思うんです。
27:55そうかもしれない。
27:56その治安維持法の内容、第1条でございますが、国体を変革し、この国体というのは天皇を中心とした国家体制のことを言います。
28:09その天皇を中心とした国家体制を変革し、または私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し、または事情を知りながらこれに加入したものは、
28:2410年以下の懲役、または禁固に処する。
28:29私有財産制度を否認することを目的として結社していけないということですから、
28:35まさに名指しで共産主義はダメですよとはっきり言っているわけです。
28:40そういう法律を作ることで、社会主義者とか、当時の日本政府に逆らいそうな連中を抑えられる法的根拠を作ったということなんですかね。
28:54普通、頭の中で何を考えているかと、実際に破壊活動を行うことって別で、
29:02本来やっぱり破壊活動を行ったらそれは罰するけども、
29:06頭の中で考えているだけで罰するということはなかなか難しいんですけど、
29:12これもかなりそっちの方向へ行ってしまってますよね。
29:16これがだんだん激しくなって、またいろんな批判も出てくるんですが、
29:21その治安維持法のその後、日本経済が不況になると、
29:25労働総議や社会主義運動が加速、
29:28政府は治安維持法の適用範囲を次々拡大原罰化していって、
29:37反国家的思想全般の取り締まりへ拡大していきました。
29:43そう、だから思想自体を問題視してしまうと、
29:46やっぱりそこかなり適用範囲がね、
29:49お前はこう思っているだろうっていうだけで摘発できてしまうので、
29:54そこかなりちょっと怖いところですよね。
29:57だからこの治安維持法の危険性も分かっている民衆は、
30:02デモを起こしたりしていました。
30:04反対意見もたくさんあったわけです。
30:08続けて、加藤孝明内閣の公約だった普通選挙法も成立します。
30:14これまでの選挙法は、ある程度納税した人しか選挙権を与えなかったんですが、
30:2925歳以上の男子に選挙権を与える。
30:33納税額の制限を撤廃。
30:36これまでの選挙法は、ある程度納税した人しか選挙権を与えなかったんですが、
30:41その制限は撤廃。
30:44有権者数は4倍の1240万人になり、
30:48当時の総人口が6000万人、
30:52その20.1%、
30:545人に1人に選挙権を与えたということになりますね。
30:59平塚大長とか市川夫妻らによる、
31:02婦人賛成権獲得運動は広がっていたんですが、
31:07ここでは認められませんでした。
31:09そして女性が選挙に参加するのは、
31:12戦後のことになります。
31:14徐々にヨーロッパでは始まっていて、
31:19このワイマール憲法では、
31:21女性も同等に普通選挙を認められるというのが、
31:24一番先進的な憲法だったわけですけれども、
31:28でもやっぱり女性がまだ本当に徐々にいっている感じですよね。
31:32そうですね。
31:33そういう中で、ソ連なんかは、
31:35うちは女性にも参戦権がありますよね。
31:37めちゃめちゃ先進的ですよということで、
31:40アピール材料にしたし、
31:41当然スターリンが実際にどんな弾圧をやっているか、
31:44よく分からないわけですから、
31:45日本から見ると、
31:46やっぱりソ連は民主的ですげえな、
31:48というふうに見えるわけですよね。
31:50だから、日本政府としても、
31:53普通選挙とかやるときに、
31:54社会主義伸びないように、
31:56治安維持法セットでないと怖い怖い、
31:58というふうに、
31:58おそらく思ったんだと思います。
31:59普通選挙法成立、各地で喜びの声も上がりました。
32:04東京上野公園では加藤総理はじめ、
32:07各大臣が演談に登場する祝賀会が開催され、
32:12新聞では男となったような。
32:15そういう感想になるんですかね、
32:19その前は何だったんだって、
32:22大正14年5月には、
32:28宇垣一茂陸軍大臣が主導した、
32:31宇垣軍宿が行われます。
32:35ワシントン海軍軍宿、
32:37艦船の数の制限の流れや、
32:40大正デモクラシー、
32:42関東大震災による財政難を受けて、
32:45加藤内閣、陸軍大臣、宇垣一茂、
32:49その主導のもとに、
32:51陸軍も軍宿に向かいます。
32:55軍宿の主な内容、
32:57陸軍4個手段廃止、
32:59将兵約3万4千人、
33:02経費約1,295万現在の価値で、
33:061,300億円を削減したと。
33:10仕事がなくなってしまった兵隊さん、
33:13将校たちの失業対策はどうしたのか、
33:15学校に配属したそうです。
33:19中学校以上の学生に、
33:22軍事教練を教育する目的。
33:27一方で、
33:28第一次世界大戦で効果を示した航空部隊、
33:31戦車部隊などを新設、
33:34軍宿の名のもとに、
33:36陸軍の近代化を推進することに、
33:40予算を当てたことになります。
33:41じゃあ、
33:42羽垣軍宿の狙いは何だったのか、
33:45陸軍の指導の下に、
33:47全国民を組織する、
33:50国家総動員体制を作り上げることに、
33:54これが役に立ったと。
33:56軍宿が結果的に、
33:58軍国主義化を、
33:59覚則することになったのではないかと、
34:03言われております。
34:04これはどうでしょう。
34:04軍宿の結果、
34:06こうなったというよりは、
34:08この当時の軍人たちの間の、
34:10最新流行思想がこれなんですよね。
34:13第一次世界大戦があって、
34:15これまで見たこともないぐらい、
34:16激しい戦争になって、
34:18ものすごい勢いで、
34:20人間が死んだわけじゃないですか。
34:22敗戦国である、
34:24ドイツ自身が見ても、
34:25もうこれはおかしい、
34:27こんな戦争は、
34:28我々の常識で知っている戦争ではない、
34:32言い出すんですよね。
34:33その時に、
34:35敗戦国ドイツでは、
34:37何が言われるかというと、
34:39総力戦という概念が出てくるんですよ。
34:41それはもう、
34:42戦争が先。
34:44戦争に奉仕する教育、
34:47戦争に奉仕する経済、
34:49戦争に奉仕する政治でなければいけない、
34:51戦争でひどい目にあいすぎて、
34:54逆に戦争を崇拝して、
34:55戦争を崇拝し始めるみたいなことが起こるんですよね。
34:58今の目から見ると、
35:00もうおかしいだろうって思想ではあるんですけど、
35:03多分この浮垣軍縮にしても、
35:06おそらく軍人としては本位じゃないわけですよね。
35:09こんなことしている場合じゃねえんだけどな、
35:11と思っているんだけど、
35:12だったらせめて、
35:13軍事教育をしっかりして、
35:15軍の機械化を進めて、
35:17いざという時に総動員できるようにしておくんだ、
35:20というような考えだったんだろうと思います。
35:22ただ、でもやっぱり近代化する要請というのはあるわけじゃないですか。
35:26当然ありますよね。
35:27だから戦車とか飛行機とか、
35:28それまでそんなに資源を投資してこなかったところに、
35:33資源を投資しようと思ったら、
35:35どこかを切らないといけないというのは、
35:37普通の合理主義であって、
35:40でもそれができたというのは、
35:41やっぱり中の人だったからこそできたんだと思うんですよね。
35:45全くの文民の政治家から四個手段削れって言われたら、
35:49軍も面白くないんでしょうけど、
35:51現役軍人の行く軍大臣からやれって言われたら、
35:55まあ将来ですねって話になるんじゃないですかね。
35:59その頃、中国では孫文の意思を継ぐ者たちが、
36:03新政府樹立へと動いていました。
36:051925年7月、孫文亡き後の中国国民党が、
36:15国民政府を樹立します。
36:17そこには、中国国内での民衆の動きも関係していました。
36:23孫文の死から2ヶ月後の5月、
36:26誤算銃事件というものが発生しました。
36:29上海の宝石工場で、
36:31日本人監督がストライキ中の
36:34中国人組合指導者の1人を射殺したことを契機に、
36:40上海、陳太郎、香港などで激しい
36:43反帝国主義運動が展開され、
36:46上海ではデモ隊がイギリス警官と衝突13人が死亡、
36:52香港ではゼネストが1年4ヶ月余り続き、
36:56イギリス支配が動揺したと。
36:59そして労働者、学生らによって、
37:01運動が中国全土に拡大していきました。
37:05それに乗るという形で出てまいりますのが、
37:09孫文の意思、中国統一を目指す
37:11中国国民党。
37:147月1日に、
37:15共産党と協力した国民政府、
37:19関東政府、
37:21これを樹立することになります。
37:23主席は王朝明という人、
37:27国民革命軍総司令が紹介席、
37:30そしてここには若き日の毛沢東も、
37:34すでに参加しておりました。
37:36そして国民政府は孫文の悲願だった
37:42全国統一へ向け
37:43国民政府樹立後1926年、
37:51大正15年になると
37:53国民党内部で勢力を増す
37:56共産党員に紹介席は脅威を感じ、
38:00共産党員を弾圧して、
38:03ソ連寄りだった指導者、
38:05王朝明を抑えて、
38:07紹介席が国民党の実権を握ったんだそうです。
38:13そして1926年の7月1日、
38:17孫文の悲願だった全国統一へ、
38:20紹介席38歳が北伐、
38:24北方軍閥の討伐戦を宣言、
38:28約10万の国民革命軍を率いて、
38:31北伐を開始したと。
38:35そしてその頃、
38:36北京では調査国人という人が、
38:38北京政府の死刑者であることを宣言、
38:41北上する紹介席と調査国人が対決するということになってまいります。
38:49要するに中国というところは、
38:51軍閥があちこちにあって、
38:53これが大きな力を持ち合って、
38:56なんとなくやってた国でございまして、
38:59紹介してここですね、
39:01甲州から北伐、北へ北へ進んで、
39:06この辺を抑えていこうと。
39:08目指すは、北京のこの宝天派、
39:13張作林。
39:14すごいですよね、38歳で、
39:1610万の軍を率いて、
39:18中国統一を目指しに行くっていうのは、
39:21なんかものすごいバイタリティですよね。
39:23ああ、そう。
39:2338歳の時、僕それできない。
39:29大正天皇が崩御し、
39:32大正時代が終わりを迎えます。
39:34大正天皇の幼い頃から病弱。
39:39大正10年には皇太子博人、
39:42後の昭和天皇が摂政となって、
39:45公務を代行しておりました。
39:47その後、療養生活を続けた大正天皇、
39:51この年の10月、
39:52風の発熱から病状悪化。
39:55これは、12月25日午前1時25分、
39:59西洋先の早間御用邸で奉行されました。
40:04当日に御用邸内で、
40:07後遺継承の儀式が行われます。
40:09昭和天皇が戦争、
40:11当日中に昭和と改元いたしました。
40:15ですから、
40:17昭和元年というのは、
40:191週間だけしかありませんでした。
40:22そして、体操の例は、
40:25昭和2年、明ける年ですね、
40:282月7日から8日、
40:31新宿御苑を主な式場として行われ、
40:35ラジオ中継がされました。
40:38新宿御苑での葬儀後、
40:41棺は専用の御体操列車というものが
40:45組まれまして、
40:46これに乗られまして、
40:49新宿御苑、
40:50仮停車場から、
40:52八王子の武蔵寮墓地にある、
40:56多摩の御捧ぎへ運ばれました。
41:01歴代天皇、
41:02初めて、
41:03関東の寮墓に埋葬された。
41:07つまり、
41:07それまでは関西でしたからね、
41:09京都を中心とした。
41:11関東では、
41:12初めてのことになりました。
41:14大正天皇と大正時代というものを
41:19振り返っておきましょう。
41:21大正天皇、
41:23明治12年、
41:25青山御所、
41:27今でいう赤坂御所でしょうか、
41:28そこで誕生されて、
41:30九条貞子さんと結婚されたのが20歳、
41:3427歳、
41:35平和前の韓国に行刑されていることもあります。
41:39そして朝鮮後に興味を持たれていたようです。
41:4432歳、
41:45明治天皇の奉仰に伴い天皇に即位いたします。
41:50そして天皇になられてからは、
41:52第一次世界大戦があった、
41:54シベリア出兵があった、
41:56国際連盟が設立された、
41:58日本も常任理事国で、
42:00国際連盟には参加しております。
42:03そして42歳、
42:05健康状態悪化で、
42:06皇太子広人さんが摂政に就任、
42:10大正天皇は広人さんの摂政就任を、
42:15心よく思わなかったという話が伝わっております。
42:19そして44歳、
42:20関東大震災を経験されます。
42:23そしてこの時、
42:24直後を出して国民に団結を呼びかけました。
42:27その3年後、47歳、
42:31大正天皇、
42:32奉仰されました。
42:34お二人のご印象を伺っておきますが、
42:37小泉さんどうですか。
42:39あんまり日本の近代の天皇陛下の中で、
42:43強い印象ってないじゃないですか。
42:45短くもありました。
42:46短いんですよね。
42:47だからこれを見ると、
42:49天皇に即位されてから、
42:51摂政を置かれるまで10年間しかないので、
42:54天皇としての仕事された期間って、
42:57とても短いんだと思うんですけど、
42:59ただその間に、
43:00大きな戦争をやっているんですよね。
43:03どういうスタンスで、
43:06こういう戦争に臨んでこられたのか、
43:08ということが、
43:08あんまり伝わってこない人ですよね。
43:11どちらかというと、
43:11出てくるように、
43:13朝鮮後に関心を持たれたりとか、
43:14カルチャーの方に関心があった、
43:18天皇だったというふうには聞いているんです。
43:21たまたまそういう人が、
43:23こういう戦争を連発の時代に即位してしまったという、
43:27ちょっと不幸なタイミングだったのかもしれませんね。
43:31岩本さんのご印象はどうですか。
43:32いわゆる大正デモクラシーという言葉がありますし、
43:38普通、選挙とかも始まりますし、
43:40現代社会が本格的に始まっていく、
43:45そして大衆社会ですよね。
43:47さっきのラジオの話もありましたけれども、
43:50大衆社会が本格的に始まっていく、
43:53入り口のところだったんですけれども、
43:56その前の明治の45年と、
43:59また昭和展のものすごく長生きされるじゃないですか、
44:02その間に挟まれて、
44:03このか弱い花のような印象は何だろうなって、
44:09そのか弱さが、
44:11戦前の日本のデモクラシーのか弱さと、
44:15イメージ的に重なるものがあるし、
44:19その儚さというものが、
44:22切ないなという感じがすごくしますね。
44:26その大正天皇、
44:29大隈重信と親密で、
44:32山形有朝が苦手としていたようでございます。
44:36大隈は明治天皇と違ってもいいという立場を取ったんですが、
44:42山形は先手、
44:43明治天皇を模範とせよという態度を取ったそうですが、
44:48どっちもそれぞれ、
44:49両親でやっているんでしょうけれども、
44:51若い大正天皇としてはやっぱり大隈の方が付き合いやすかったんでしょうね。
44:57やはり明治天皇って偉大なお父さんじゃないですか、
45:00その後自分はどう生きるかというのは、
45:03とっても難しかっただろうなとは思いますよね。
45:06かもしれませんね。
45:09さて、そうして、
45:11激動の昭和が始まることになります。
45:14来週でございます。
45:16昭和の金融強行というのがやってこまいりまして、
45:19銀行企業の倒産が連鎖いたします。
45:23そんな中で、
45:24日本軍の三島疾兵党法会議、
45:28日本が対中強行外交へ転換する年になります。
45:36ありがとうございました。
45:37ありがとうございました。
45:37ありがとうございました。
45:37ありがとうございました。
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