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00:00前回の一番新しい近現代史は明治政府が分裂した明治6年の政変をしています。
00:29中心にお伝えしました。
00:34岩倉施設団が欧米諸国を視察している間、日本国内の政治は西郷隆盛や板垣大輔らいわゆる留守政府に任されていました。
00:47留守政府は朝平令や地と改正などの重要改革を行い、さらに政官論を主張。
00:54そこへ帰国した岩倉智美らが反発。
00:57留守政府と国内政治を優先したい岩倉らで政府が2つに分かれます。
01:06結果的に政官論派が敗北し、西郷らはゲアしたのでした。
01:11今回は武士の時代に終止符を打つこととなる、日本最後の内戦、西南戦争を中心に紐解きます。
01:23明治10年2月、西郷隆盛を中心とする士族らが挙兵し、西南戦争が勃発します。
01:31明治維新の盾役者である西郷が、なぜ政府と対立する行動を取ったのでしょうか。
01:41また、西南戦争では明治政府が当時の最新技術である電信を活用します。
01:49電信が戦争にもたらした大きな変化とは。
01:53一方、世界ではロシアとオスマン帝国によるロト戦争が勃発。
02:01その戦後処理ではヨーロッパ諸国の思惑が絡み合った条約が結ばれることになります。
02:07それぞれの思惑とはそれでは始めましょう関口博史の一番新しい金元大師一番新しい金元大師でございます前回おさらいしときましょう西郷対大久保明治6年の政変がございました
02:28海外を視察していた岩倉施設団が帰国すると、留守政府が約束を破って徴兵令や地層改正などの改革を進め、さらに政官論を主張していた。
02:43内政優先内地派と政官論派が対立して、政官論派が破れて、下野にします。
02:52明治政府は内務卿大久保利道が主導することになりました。
03:00世界は大英帝国の派遣パクス・ブリタニカ、イギリスによるスウェーズ軍が買収とインド帝国が成立したことによって、帝国主義の時代へと進んでまいりました。
03:13そして今回はどうなるか、まずは明治9年、氏族の反乱が相次ぎます、明治10年、西南戦争が勃発いたします、その頃にロシアとトルコがロト戦争というものを始めます、ここですね。
03:33イギリスはじめ7カ国がロシア南下阻止へベルリン条約を締結した。
03:42平和だったところがここに来て急になんかこう、おかしくなってくるんですよね。
03:48そこを巡って、ロシアが南下してくるだけじゃなくて、それを止めようとするオーストリア、ハンガリーがいて、そこが常にぶつかると。
03:58それをまあまあまあまあって言いに行くのが、ビスマルクであり、イギリスであるんですけど、
04:03それを何十年か続けるうちに、うまくいかなくなってくるっていう、そういうストーリーが一貫して流れてるんですね、ここね。
04:12そして西南戦争が9月、西郷隆盛が自害することによって終わりますが、ちょっといろいろ考えさせられてしまいますね。
04:22明治11年、その次の年、内務協大久保利道が暗殺されるということになります。
04:32明治9年氏族の反乱が相次ぎます不平氏族たちは何に不満を持って行動を起こしたのでしょうか反乱に至ったいきさつを見てみましょう反石奉還で武士階級が解体され氏族へと変わったことによって不満を持つ人が増えた40万人以上が没落したそうです。
05:01武士階級の特権が廃止されるわけですね。
05:06武士以外の平民にも苗字が許されるまた徴兵令、国民戒兵でもって軍役独占の権利、それまでのお侍さんの権利がこれで失われてしまったわけですね。
05:22廃党令というものが出る武士の誇りも奪われてしまった。
05:27出力処分これは世襲制の過力が停止することによって生活の安定が奪われたと。
05:37でお侍さんたちはどうしたか。
05:42売られない商売に手を出して失敗したことから失敗が目に見えていることのたとえに氏族の商法という言葉が生まれるほど苦労する氏族が多かったということになります。こんな風刺画も残っております。さて武士の特権が失われていく中、氏族の反発が強まって反乱が相次ぎます。
06:08まず明治7年、佐賀の乱。
06:13政官論で下野した江藤新兵と不平氏族約1万2000が放棄します。
06:19約2週間で鎮圧され、氏族200名が戦死、江藤ら13名が処刑されました。
06:28明治9年、神風連の乱というのが起こります。
06:33熊本県で敗倒霊に反発した大田黒智ら約170名の氏族が政府軍の熊本鎮台や県庁を襲撃約120名が戦死、自陣しております。
06:48秋月の乱というのも同じ年に起こります。
06:53旧秋月藩の氏族、宮崎、謝之助ら約250名が放棄し、小倉連隊によって鎮圧され、指導者7名、自陣しております。
07:08もう一つ、萩の乱、これは山口県ですね。
07:15下野下、前三義、前原一世、旧長州藩士らが挙兵、政府軍は軍艦も出動させ、1週間後に鎮圧、首謀者7名が残首刑になっております。
07:31こうした、だから日本中に不満がくすぶってたんですね。
07:35これが結局は西南戦争へとつながっていったものと思われます。
07:42反乱の鎮圧に当たっていた明治政府軍とはどのようなものだったのでしょうか。
07:50明治政府軍設立のいきさつ、明治4年、薩長との三藩から選抜し、御神兵を設立しました、これが後に、小倉兵に改称されます。
08:05各地の治安維持のため4か所に陳代を設置後に6陳代ということになります。
08:12第1は東京のここですが、第2は東北、仙台です。
08:22ここが第3、名古屋、第4は大阪、第5が広島、第6が熊本・陳代ということになります。
08:33そして明治6年には徴兵令交付で国民開兵になります。
08:40明治9年頃には兵力約6万人はいたそうです。
08:45で、兵部省を再編成した陸軍省と海軍省が軍政を司りました。
08:52陸軍はフランス式の平成を導入、海軍はイギリスを参考にしたそうでございます。
08:58陸軍が山形有朝、海軍、河村、杉吉でございます。
09:05この当時の日本陸軍、面白いですよね。
09:08まずその基本的な単位が陳代なわけですね。
09:13つまりもう名前の通りで沈め台なんですよ。
09:17外国の軍隊戦うというより、やっぱりまず国内における反乱鎮圧とかっていうのが、そもそも日本軍の任務になるわけですよね。
09:27ロシア革命だって1917年に革命やってからソ連ができるまで5年かかってて、この間何やってんのっていったら内戦やってるわけですよね。
09:37ですから最初はやっぱり新しくできた国っていうのは外の敵じゃなくてうちの敵が最大の敵になるんだっていうのはこの日本のこの軍事力を見ても分かります。
09:49この後西南戦争勃発。
09:52西郷隆盛はなぜ挙兵したのでしょうか。
09:56西郷隆盛の挙兵で始まる西南戦争。
10:13西郷はなぜ政府に反旗を翻したのでしょう。
10:18明治6年、西韓論論争に敗れた西郷隆盛が参議を辞任。
10:25ただこの時陸軍大将の肩書きは残ってたそうです。
10:29薩摩へ帰境して政治と距離を置いて山中でもって狩猟や農作業をする日々を続けた。
10:36当時の西郷の心境、脱出す人間湖氷の群れという言葉が残っております。
10:46もはや国のために戦うこともなく自分は去っていく。
10:51東京のなんかもう嫌なこの奴らから逃げてもういいんだ俺は引っ込むんだみたいな。
10:57そんな感じ見えますよね。
11:00そして西郷は鹿児島の不平氏族抑制。
11:05そして近代的な人材の育成のために私学校を開設しております。
11:11これ残っています。
11:14ちなみに当時の鹿児島というのは独立国と思われる節があったんだそうでございます。
11:21地元出身者の大山綱吉が県令に就いたことで、政府の力が届きにくかったためだとも言われています。
11:32私族の法律制度が旧来のまま太陽暦でなく太炎暦、旧暦をそのまま使っているとか、私族が台頭や武器を各家で保管していた。
11:47だから政府は薩摩氏族の反乱を警戒していた。
11:54明治10年1月でございます。
11:59明治政府が鹿児島県内に保管した政府軍の火薬、兵器、大阪へ移管するため帰船を差し向け、密かに移送作業を行った。
12:12だから政府の挑発とみた私学校生が火薬を襲撃して小銃弾などを奪取した。
12:22それで西郷さんどう言ったか。
12:25ちょっ下田。
12:27要するに西郷はその存在は知ってたんでしょうね。
12:31だからそこでこんな問題が起こるってことはよく考えれば分かったはずなのに、ちょっとそこ行けなかったなみたいな感じなんでしょうか。
12:422月の3日、鹿児島の動向を探るため潜入させた警視庁の密定が私学校生に捉えられ、最後、暗殺計画が発覚。
12:57そういうものがあるぞっていう噂がもう出てくればそれで火がついてしまうような状況がすでにあったっていうことですよね。
13:07そしてその2月でございますが、私学校生に押し上げられた西郷と1万3000人の氏族、これは不平氏族ですね。
13:17今般政府へ尋問の筋これあり、陸軍大将西郷隆盛が政府に問い正すことがあり、上京すると名目を掲げて兵を率いて鹿児島を出発した。
13:32私はこれを見て想起しちゃうのは2023年のプリゴジンの乱なんですよね。
13:40民間軍事会社社長のプリゴジンがその反乱を起こしたわけですけど、あの時彼も反乱だとは言わないんですよね。
13:49これはあくまでもこの我々戦地で頑張っている民間軍事会社が全然帰り見られないから、
13:55もうスクワまで行ってプーチン直訴するんだと、正義の行進なんだと言って始めるわけですけど、
14:01当然のことながらこれはその近代国家の目から見ると反乱なんですよね。
14:05だからもうダメだお前らということで鎮圧されてしまう。
14:10もしかするとそのプリゴジンも西郷ももっとこう我々に共感する勢力がいっぱい出てきて、
14:17本当にこう我々の政治的要求が通るかもって期待を持ったのかもしれませんけど、
14:22でもその反乱に人々が同調してくれるかどうかって一番事前に計算できない部分ですよね。
14:29そこで見誤ったんじゃないかなという気がしますね。
14:332月19日、政府はそれを知って、
14:36政党令を発し、政党軍を編成する。
14:41この時点において西郷たちは俗軍、
14:45新政府に逆らう人たちということになったわけですね。
14:50でこの薩摩挙兵の方に内務卿の大久保利道伊藤博文への手紙でこの事態になったのは朝廷にとって不幸中の幸いと笑いが込み上げるほどだと鹿児島平定の後期と利道は考えたと。
15:10ついに西郷軍が政府の拠点である熊本城を攻撃。
15:17戦いの火ぶたが切られたのです。
15:22日本最後の内戦、西南戦争が始まります。
15:27明治10年2月22日、熊本城攻略戦から西南戦争が開戦。
15:34どのような戦いが繰り広げられたのでしょうか。
15:382月22日、熊本城攻略戦、西郷軍当初1万3000、ほかからも氏族が合流し、約4万になったそうです。対する熊本鎮大、熊本城、兵力、当初3000だったが、伝進で即座に増援、徴兵制の兵も合わせ6万になったっていうんです。
16:05この伝進というのはいわゆるツートンツートン、あれがもう使えるようになってたんですか。
16:14そうですね。実は19世紀半ばにはもうヨーロッパの戦争ではこの伝進が使われるようになってるんですよね。
16:23いやこれのちょうどちょっと詳しくご説明いたしますが、とりあえず、軍艦12隻も含めた政府軍の増援部隊との戦いで、西郷軍は熊本城を攻略できずに、次第に劣勢になっていった。
16:38その中で有名なのがこの田原坂の戦い熊本のちょっと北になりますがこの田原坂。
16:47本州からやってきた政府軍、このブルーで書かれた線が政府軍です。
16:53西郷軍が熊本城の北にある田原坂で迎え撃った17日間戦ったそうです。
17:00この激闘の末政府軍がこの要所田原坂を制圧して西郷軍は交代両軍の戦死者がここで3500出たそうです。
17:13以後西郷軍熊本から大分、大分から宮崎、宮崎から鹿児島と配送を続けることになります。
17:23そんな中、明治維新を牽引した木戸孝義がこの世を去ります。
17:32この西南戦争の最中に木戸孝義、この時43歳だったそうですが、亡くなっています。
17:41西郷と幕末維新を戦ってきた木戸5月に京都で病に倒れ、意識朦朧の中、最後、大概にせえと言葉を発したのを最後にこの世を去ったとされています。
17:57何か信頼関係がある感じがしますよね。
18:02まだ敵型の大将の顔をお互い知っていて、人間同士としてやってた戦争の最後の世代って感じなんでしょうけど、
18:11一方、こっちの田原坂とかになってくると電信を使って即座に増援を呼び寄せて、しかもこれは蒸気船なんかも使うわけですよね。
18:21電信による高速通信と蒸気機関による大量輸送能力という、当時ヨーロッパの最新の戦争のやり方が日本にも入ってくる。
18:32政府軍はそういう最新の戦争テクノロジーを駆使してやる。
18:37西郷軍は見た感じ、やっぱりまだ維新の頃の内戦の最後の残りがみたいな感じですよね。
18:45だからその最新テクノロジーに負けて滅びていく西郷に対して季戸がこういう言葉をかけて、やっぱりでも彼も亡くなっていくっていうのは、なんかこう一心が遠くなり逃げるって感じですね。
18:56これはそうですね西南戦争で政府軍を支えた当時の最新技術電信と強力な輸送力とはどのようなものだったのでしょうかまず電信の発達と軍事利用電信が軍事作戦で威力を発揮したのは
19:26台風にあって大きな損害を受けてそれからやっぱりこう天気予報の情報を早く得なきゃいけないっていうことで電信がこうすごく注目されるようになったのがそもそもだっていう話ですけども。
19:38要するに気象状況の情報をこれで知ると。1866年海底ケーブルが大西洋を横断1870年にロンドンとインド帝国で電信がつながり大英帝国の電信網ができる。
19:58そして1870年の不仏戦争でプロイセン軍が電信戦を付設しながら進行してこれが勝因になったっていうからやっぱこのツートンツートンのこの猛烈信号の威力がすごかったんでしょうね。
20:16トルストイの戦争と平和っていう大長編小説があるじゃないですか。
20:22あの中にいっぱい主人公がいるんですけど、そのうちの人がニコライっていう若い軍人がいるんですけど、彼が伝令に出されるシーンがあるんですよ。
20:33お前皇帝の司令部まで行って伝令してこいって言われるんですけど、何時間も戦場の中を探し回ってあげる。
20:40やっと皇帝の司令部を見つけたらもう状況が変わってて情報は役に立たない。
20:46これがその19世紀前半までの戦争なんですよね。
20:50ところがこの19世紀後半になるともうこのケーブルさえつながっていれば瞬時に情報がやり取りできるっていう。
20:57その戦争のテンポとか意思決定のテンポがもう何十倍にも一気に加速するわけですよね。
21:02だからこれをやはりいかにうまく使いこなせるかっていうその四季統制のレベルが高い低いっていう新しい要素が戦場に加わってきたっていう時代の先駆けですよね。
21:16日本でも西南戦争の直前、北海道から長崎まで海戦が敷かれ、さらに長崎から上海とウラジオストクを経て世界へとつながったのでした。
21:31そして明治政府は西南戦争で初めて電信を軍事利用しました。
21:38陸軍トップ山形ありとも電信で作戦を展開し、一方の薩摩軍は人間による伝令だのみ、そりゃ電信の方が早いんでしょう。
21:50そこからあと30年経つととうとう無線が軍隊でも使われるようになって、まさにこの日本が日露戦争でこの無線による今度通信っていうのをフル活用してロシアに対して誘引立つわけですよね。
22:06だからこれはまだ無線になる前の有線の時代の軍事情報革命ですよね。
22:13一つ輸送力の点でも西郷軍と政府軍は違っておりました。
22:18政府は三菱基線の輸送船38隻を調達、6万に上る政府軍の輸送に動員。
22:28岩崎八太郎は有名な人ですね。
22:31三菱が大財閥に発展するこれが契機になった。
22:37大兵力を迅速に送り込んで補給を維持し続けるっていうのはやっぱりこの船が威力を発揮するわけで、しかもそれが蒸気だから、
22:46比較的気象とか波とかに関係なく安定的に兵団が行えるという、これはこれでもう一個の当時の軍事革命ですよね。
22:56西南戦争開戦から7か月西郷隆盛がこの世を去ります明治10年9月政府軍に追い詰められた西郷は自陣これにより西南戦争が終結します8月追い詰められた西郷が軍を解散宣言そして翌月政府軍は5万の軍勢で薩摩の拠点白山を包囲しています。
23:259月24日白山を包囲した9月24日白山を総攻撃負傷した西郷49歳もうここらでよかの言葉を最後に自陣しました。
23:40この西南戦争の戦死者の数、政府軍6800、西郷軍6400、約1万3000だったそうですが、母親戦争が約8200と言われているところから、いかにこの西南戦争というのが激しいものだったかということがわかります。
24:02その最後、高森の生涯を振り返っておきましょう。
24:06生まれは薩摩藩の下級武士の家。32歳、安政の大国。この時に天見大島に身を潜めました。
24:1736歳、大久保利道の鳥梨で持って薩摩に戻りますが、島津久光と対立。今度は沖の選ぶに流されましたが、そこであの有名な経典愛人というものの思想を得たそうです。
24:3840歳、再び薩摩に戻りますと、今度は倒幕へ動きました。
24:45そして長州の木戸孝義と薩長同盟を締結。母親戦争では指揮を取りました。
24:54その中で、勝海州との会談で江戸城無欠会場を決めた、これが大きな手柄として肩に継がれています。
25:0345歳、賛議として新政府に参加する者の政観論で対立し、下野しました。
25:13そして49歳、不平氏族に担がれて西南戦争を始めましたが、敗北して自陣ということになります。
25:26お二人のご感想を伺いましょうか。最後に対する。
25:30ロマンチストかなという感じですよね。
25:33経典愛人とかっていう、ロマンチストじゃないですか。
25:35ああ、こういう言葉自体が。
25:39だから、革命に割と夢を持っちゃうタイプだったんですかね。
25:44そういう人いるじゃないですか。
25:46夢を持っちゃうと革命を実現すると失望するんですよね。
25:52それはもう革命につきものです。
25:55それまで、粛清が起こるっていうパターンに見事に乗ってますし、
26:03粛清された、あの人が生きていればもっと素晴らしい革命ができたのにっていう伝説も大概生まれますよね。
26:12そうですね。
26:13そうですね。
26:13確かにファンタジーの対象になりやすい人ではありますよね。
26:19何した人かよく分からないけど、とにかく日本人の理想の上司ナンバーワンみたいな感じじゃないですか。
26:24そういう意味ですよ。
26:25とにかく人格がすごく良さそう。器がでかそう。この人の部下だったらいいなって思うんですけど、
26:33よくよく見ると、この人の部下になると命が危ないんですよね。
26:38本当は良くないんだけど、なんとなくすごくいいイメージがつきまとう。
26:43だから、割と早く亡くなったからかもしれないし、
26:46でもその過程で非常に大人物ぶりをたびたび見せつけてもいるしっていう不思議な人ですよね。
26:55大久保と比べても全然人気がこっちのほうが高いって言うんですよね。
26:59そうですね。
27:01頭がいいっていう意味ではもうね、大久保ですよね、やっぱりね。
27:04どう見てもね。
27:05でも、あの人についていきたいってとこはあまり思われない。
27:11最後さんの方は何考えてたかよく分からないとこがあるんですけど、
27:16みんなに愛されてるっていうね、不思議ですよね。
27:18でもこうして見ると、大久保が出てきて、木戸隆之が出てきてって、
27:22みんなこのね、ここまで出てきたいろんな登場人物の名前がいっぱい出てきますよね。
27:27だから本当にこう、明治維新って割と狭いサークルの中でやってたんだろうなと。
27:34みんなこう知り合い同士で、地方エリートたちの中で一緒にやった革命だったんでしょうけどね。
27:41だからそうであるがゆえに、政府の中でもみんな昔からの同志たち同士で争って、
27:47こういう結末になっていった。
27:53日本が西南戦争をしている頃、世界ではロシアとオスマン帝国の間で戦争が起きていました。
28:031877年4月、ロシアとオスマン帝国が対立するロト戦争が勃発します。
28:10戦争までにはどんな経緯があったのでしょう。
28:14温暖な不登校を求め、南下政策を続けるロシア、クリミア戦争で英仏に敗れます。
28:22黒海から地中海へ抜ける海峡が封鎖されてしまう。
28:28この方面で南下を一度諦めたロシアだったんですが、
28:31クリミア戦争を20年後、1877年、近代化を進めてきたアレクサンドル2世の下、
28:40再び南下政策を開始、オスマン帝国と対立することになってしまいました。
28:47どうもこのロシアの歴史というものを語るとき、
28:51南下政策というものがつきものなんですが、
28:54相当ロシア人にしてみれば大きな問題なんですか。
28:58一般論として確かにロシア人南の方が好きというのはあるんですけどね。
29:03ただ、国家政策として温かいところに行きたいなと思っているわけではおそらくなくて。
29:09不登校でしょ。
29:10不登校もありますし、もう一個はロシアという国自体がユーラシアの一番北側なんですよ。
29:16だから戦争するとどうしても南側の方になってしまうという地理的な必然性もありますし。
29:21北には敵がいませんからね。
29:23そうですね。でも例えばスウェーデンとは大北方戦争をやっているわけですよ。
29:28ナポレオンとも戦う、ポーランドとも戦うということで、
29:33実は西でも北でも南でも戦争をやっているんですけど、
29:36南の方に向けて特に勢力拡張をすることが近代において多かったので、
29:43やっぱりロシアは寒いから南の方に行きたいんだなという理解のされがちだった。
29:47されがちだけど。
29:49今でもそういうふうに見られがちですけど、別に暖かいからとか不登校だからという理由で、
29:56今のロシアが戦争をしているわけではないですけどね。
29:58そうなんだ。
29:59だから直前までひたすら東に膨張するというか、
30:02でも東に行くだけ行ったから、次南にしか行くとこがないわけですよね。
30:07行きやすいとこに行っているんだと思いますね。
30:09ここでロシアが敵対したオスマン帝国について改めて見ておきましょう。
30:1713世紀末にはアナトリア半島に誕生したイスラム国家であるオスマン帝国、
30:25多民族ひしめくバルカン諸国を取り込み拡大した。
30:3116世紀、最盛期にはバルカン半島、アフリカ北部の地中海沿岸一帯まで治め、
30:37というのはこの赤線を引いているところまでオスマン帝国は広がったということですか。
30:44北アフリカ側もですね。
30:45アフリカの北部、地中海沿岸一帯まで治めたと。
30:51そして、西欧キリスト教諸国の脅威になっていた。
30:56ナポレオンのエジプト遠征18世紀末をきっかけに、
31:0119世紀には帝国は次第に衰退した。
31:04そして民族の独立要求やロシアの難化を抑えきれなくなっていた。
31:11そのトルコとぶつかると。
31:14ロト戦争はどのような経過をたどったのでしょうか?
31:181877年オスマン帝国領バルカン半島のスラブ系民族が反乱これを機にロシアはオスマン領内のスラブ民族救済を大義名分にしてオスマン帝国に宣戦布告ロト戦争が勃発したと。
31:41ロシアがここですからこの辺を助けるという意味合いですか?
31:47やっぱりこのバルカン半島ってなんだかんだ言ってそのロシア人と同じスラブ系民族って非常に多いんですよね。
31:55ロシア人から見てもセルビアとかこのボスニアとかっていうのは非常にこう自分たちとは近いって意識があるんですよね。
32:05そして開戦10ヶ月でロシアがイスタンブールに迫ったイスタンブールってこの国家のここですね。に迫ってロシアがオスマン帝国にこれ圧勝しました。
32:19そしてイスタンブールで講和が開かれサンステファノ条約というものを締結する。その内容はバルカン半島諸国のセルビアなどスラブ系国家の独立ブルガリアをロシアの保護領にしてロシア国会艦隊の地中海への南下も可能にしたと。この辺のことですね。
32:47ここ出たいんですよ、ロシアは。この辺を何とかしたい。これだけ複雑に絡み合ってたら何か起こっちゃいますよね。
33:00民族が絡み合っているとじゃあいつの喧嘩するかというと必ずしもそうでない場合もあるわけですよね。
33:07民族が違うとか宗教が違うって必ずしもお互いいがみ合うわけでもないし殺し合うわけでもないんですけど、何かの表紙に政治がその違いをこう無理やり際立たせたりとか。
33:20なんかこうすごく苦しいときにあなた方と我々はそういえば違うよねっていう意識が頭を持たれてくると非常に悲惨な戦争になってしまう。
33:30なぜかというと隣人同士で争い合うようになるからですよね。遠くから来た異民族と争うわけではなくて昨日までの隣人と殺し合うことになってしまうっていうのがまあ起こりがちだったのがこのバルカンですよね。
33:45サン・ステファノ条約で南下の足掛かりを作ったロシアに対してヨーロッパ諸国が反発しますロシア南下を危険視するイギリスとオーストリアハンガリー帝国が反発した。
34:01そのためドイツ最初ビスマルクが誠実な仲外人と称して朝廷に入りドイツイギリスロシアオーストリアなど7カ国でベルリン会議を開催さっきのサン・ステファノ条約を破棄しちゃうわけですから。
34:19この破棄することにロシアはどうだったんですか。
34:24ムシアは不満だと思いますけども。
34:31でも周りを囲まれて我慢しろと。
34:34これらの国々全部と戦ってでも意思を押し通すことはできなかったわけです。
34:39できないわけか。
34:41そして新たにベルリン条約が締結されたと。
34:44ルーマニア、セルビア、モンテネグロがオスマン帝国からの独立を承認したと。
34:54この辺までオスマン帝国はずっとのしてましたか。
34:57そうです。
34:58そこに独立国ができるわけだ。
35:01で、ボスニアはオーストリアが統治。
35:05それからロシアがロト戦争で出たブルガリア。
35:11ブルガリアは小さくなりましたね。
35:14これがエーゲ海までブルガリア領が認められていて。
35:19このブルガリア領を足掛かりにロシア海軍が地中海まで出てくるんじゃないかって懸念があったわけですよ。
35:26だからこのエーゲ海側からはブルガリア領が排除されちゃう。
35:30なるほど。エーゲ海っていうのはここですね。
35:33だからここを通過したいわけだ。
35:36ロシアは。
35:37それが最大の焦点なんです。
35:40実ははい。
35:42だからここで地中海抜ける海峡を封鎖するっていうのはロシア軍を通さないという。
35:49これですか。
35:50黒海から地中海抜けるボスフォラス海峡とダーダネルス海峡が封鎖されてロシアの南下がまた挫折しちゃったと。
36:02ベルリン条約でロシア南下を拒んだ国々にはそれぞれの思惑がありました。
36:09イギリスのディズレーリ首相はロシア南下を阻止してインドへの大動脈である地中海を確保したいと思っていた。
36:20ロシアが南下してきてそのインドへの道を脅かすようになるととても困るのでなんとかこうそこを安定していてほしいという気持ちがあるんですけどもそれがうまくいかなくなるのが19世紀だんだんだんだんこう時間がたつにつれてうまくいかなくなって何度も何度もバルカン危機って起こるんですよね。
36:44オーストリアハンガリー帝国フランツヨーゼフ一世ロシアのバルカン半島進出を阻止したいと。
36:53ドイツ帝国最初ビスマルクオスマン帝国を犠牲にしても欧州の協調を優先したかった。
37:02ヴィスマルクとしてはそもそも思い起こしていただくと不服戦争にドイツ帝国って始まってるわけですよね。
37:11なのでフランスは常に復讐心に燃えてるわけでそうすると自分の後ろは安全であってほしいっていうのがもうまず基本なんですよ。
37:21内地優先って自分の国づくりに先進するためには平和が必要なのでロシアとオーストリアが仲良くしておいてくれないと困ると。
37:31それがもう彼の外交の通争提案みたいなものでここはオーストリアとロシアがこういがみ合うのをなんとかこうなだめたいというのとそこにイギリスの利害とがうまくこう一致してこの時代はだからまあビスマルク体制って言葉ありますけどもそこでこう大国が手を握ってなんとかこうロシアを押しとどめているっていう状況。
38:00それじゃあそのロト戦争の影響をまとめておきましょう。
38:05ロシア南下失敗のその後ロシアの南下政策は狙いを東方に転じる。
38:13十数年後にフランスの援助でシベリア鉄道建設へ着手。
38:19そして後年日本と衝突日露戦争につながってしまうわけですかそれが。
38:28一方バルカン問題を沈めた欧州列強はその後アフリカ分割これがまたややこしい話ですよねアフリカも何でああなっちゃったかそしてバルカン半島は欧州の火薬庫として36年後に第一次大戦の発火点になってしまうと。
38:51内務卿大久保利道が暗殺されます明治11年5月明治政府の事実上のトップ大久保が不平氏族に襲われ亡くなりますなぜ襲撃されたのでしょうか?
39:10大久保利道明治天皇に越見するため広島地の自宅から馬車で赤坂の仮皇居。
39:19皇居は実は明治6年に火災を起こしまして消失し再建中だったそうです。
39:25だからこの仮皇居に向かう途中で清井町付近6人組に襲撃されて残殺されました。
39:34その襲撃犯が犯行理由を記した残官状を手に自首してまいりました。
39:44その残官状の内容を大久保は国会も開設せず民権を抑圧している国を思う志士を排斥し内乱を引き起こした外国との不平等条約を放置し国意をおとしめているこの3点はどうでしょうか。
40:08いやここに不平等条約が出てくるんだなっていうねちょっと不思議な感じですけど先ほどの西南戦争にこう心情的には同調しているような人々がたくさんいてもうとにかく不平を並べてみたっていうところじゃないですかね。
40:27そうなのかな。
40:28とりあえず当時の世の中のニュース全部が気に入らなくて全部大久保のせいにしてるみたいななんかそんな風に見えます。
40:34そんな感じになりますか。
40:35そして犯人6人即刻死刑になったそうです。
40:41ちなみに事件当日の朝大久保は辞邸に来た客人にこう語っていたそうです。
40:49維新を貫徹するには30年の月日が必要である。
40:54明治元年から10年は明治元年から10年は平蘭多く創業の期間。
41:00次の10年は最も寛容な時期で内地を整え食産を行う時代で自分が尽くすべき時代である。
41:10それから先の10年は優秀な後輩たちが明治の日本を大きく発展させてくれるだろうとですからまだ始まって10年ほどでございますからその次の10年自分が尽くすべき時代というものに入った時点で大久保は暗殺されたということになりますが。
41:38明治政府で新しい国づくりを主導してきた大久保利道の生涯を振り返ってみましょう薩摩藩の下級武士の家に生まれました24歳の時島津成明に仕え尊王攘夷を唱える若手藩主の中心的存在になりました32歳島津久光が藩の実権を握ると藩政に関わることになりました。
42:0738歳東幕維新を主導し王政復古のクーデターを実行しました42歳の時岩倉施設団の副士として外遊43歳政官論で西郷と対立内務省長官内務卿に就任して政府を主導しました。
42:14そして47歳不平氏族に暗殺される一生ということになりました。
42:21すごく西郷さんと対照的なですね。
42:28キャラクターがやっぱりどの人物もものすごい人生ですよね。
42:35大久保のさっきの言葉を見ても、彼はおそらく国家を建設するってビジョンがある人だったんでしょうね。
42:42だからこの人が生きてたらどういう明治になったのかっていうのも興味がありますけど、
42:49もしかするとそうであるが故に殺されちゃったのかもしれませんし。
42:56まあね。
42:58これにて一心の産血と呼ばれる人がこの世を去りました。
43:01木戸隆義。
43:03木戸隆義。
43:04木戸隆義。
43:06木戸隆義。
43:08木戸隆義。
43:09木戸隆義。
43:10木戸隆義。
43:12木戸隆義。
43:19病物でございましたが43歳。
43:22西郷隆盛。
43:24自害しました。
43:2549歳。
43:26木戸隆義。
43:27木戸隆義。
43:28暗殺されました。
43:2947歳でした。
43:31さあ、この産血と呼ばれた人がこの時期にいなくなったんですが、これについては。
43:37ものすごくやっぱり個人頼みでここまで来るじゃないですか。
43:41政治をどうやっていくかっていうことが個人の政策にすごく依存しているところから、やっぱりこんな英雄ってそんなにたくさん出てこないわけですよ。
43:53なので、ここからやっぱりもうちょっと英雄に頼るんじゃなくて、制度として運営していけるような方向に持っていかなきゃいけない。
44:03大久保は自分でそれ作りたかったんでしょうけどね。
44:06でもできなかったって無念だっただろうなっていう気はしますよね。
44:10マニュアル操縦でやってきた明治国家をそろそろシステム化しなきゃなという矢先だったんでしょうね。
44:20でも何か明治維新って一言で言うには、やっぱりここは大きな転換点になったでしょうね。
44:30最後のとりあえず大規模内戦を乗り切るわけじゃないですか。
44:36おそらく明治維新という政治運動が武力で覆されるという危機はとりあえず脱して。
44:44でもそれと同時に明治維新を遂行した中心人物たちも去っていって、まあ多分もう明治国家はなくなりはしないので、どういうふうに明治国家を運営するのかってフェーズにこれから入っていくわけですよね。
44:58だからまあ祭りが終わって日常が始まるみたいな。
45:01なんかそういう感じなのかな。
45:03うん、そうかもしれない。
45:05さて次回でございます。
45:07明治12年から明治16年。
45:11琉球処分は琉球王国から沖縄県に変わるということ。
45:17また伊藤博文が憲法研究のためドイツへ旅立ちます。
45:22世界ではビスマルクがフランス孤立化を推進した。
45:27そして独多い三国同盟が締結するという時代になります。
45:34ありがとうございました。
45:36ありがとうございました。
45:38チャンネル登録よろしくお願いします。
45:47チャンネル登録よろしくお願いします。

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