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00:00第1話 明治国家
00:20私は明治国家というものが、これは人類の長い歴史の中の一つの時代であって、もう過ぎたものですから。
00:34私はこれは人類の財産だろうと思うんですけどね、日本人の財産であるとともに。
00:44よくやったと思うんですよね。
00:47明治国家というものを、明治時代じゃなくて、明治国家というものを物体のようにここに持ってきて、これが明治国家だというようにしてお話したいんですけども。
01:00それにはですね、最も重要な問題は明治4年、明治維新が起こって4年目に廃藩地権というのがありましてですね。
01:13これが実際の大革命だったんですけども。
01:18明治元年から明治4年までの廃藩地権は確か7月だったと思うんですけども。
01:26それまでの間は昔の将軍がいないだけで大名がずっとありましてですね。
01:33お大名が270くらいあったんでしょうかね。
01:40そして侍の数というのが、
01:46国民が3千万だとしまして、2百何十万、だいたい6%から7%くらい家族を入れますと。
02:01それ全部首です。
02:03むろん一時期が出ますけども。
02:07考えてみましたらですね、明治維新を起こしたのは大名のお金と大名の兵力と大名の家来によって起こしたわけです。
02:19いわゆる種族によって起こしたわけですが。
02:22それが、せっかく起こしたのにパーンになる。
02:27勝った方がですね、明治維新を成立させた薩長同士というのだけが優遇されて、他は例えば平民になってしまったというのは、政治力学として分かるような感じするんですが、薩長同士も全部荒海に飛び込むという感じで、全部平民、普通の人間になると。
02:48いうようなことをやったわけですから。
02:55これは当時はあっとみんな驚いて息を呑んだままでおったんですが、数年経って氏族の反乱というのが相次いで起こって、結局明治10年の西南戦争で大爆発して、その後明治国家は内乱的には平穏になるんですが、
03:12この平安地権という、もう東京としか言いようのないもののリアクションだと思うんですけどね。
03:19それは当たり前のことで、その明治国家というのはもんなしから始めたというのは申し上げましたが、
03:28お代名というのはお殿様はよかったんですよ。お殿様は東京集まれで。
03:35東京集まってきましたら、アーダンたちに1年にいくら、国高によってこれだけ差し上げますと。
03:42年金がつくんです。後になって家族さんになるほどですから。これは喜んだそうですな。
03:49もう、つまり反の面倒を見なくてもいい。反死を食べさせていかなくてもいい。
03:55それから、租税を取り立てて、百姓一騎の起こるような辛い目に遭わなくてもいい。
04:04もう、みんなほっとしてですね、東京に集まったと言いますな、お代名は。
04:10お代名集めとかないと危ないですからね。
04:12誰はその、お代名は東京に集めると。
04:15まだすぐさか集まってるわけじゃないんですよ。
04:17で、その、反死、つまりいわゆるお侍はですね、一時金なんですよ。
04:26国高に応じて。ほとんどもらえないぐらいの低い身分の人もあれば、それぞれだったんですけども。
04:35正岡式、正岡式は確かね、慶応三年、だから明治維新の一年前の生まれですね。
04:43伊予の松山藩の、松山藩には十五万石で、式が十五万石の浄化かなって、早く作ってますね、自分の藩のことですが。
04:54関永十二年、1635年、松平貞幸が十五万石の領主となってから、廃藩まで、十四代にわたって、松平氏が治った。
05:23松平氏が治めた伊予松山藩は、元禄以来、独特の松山文化を開花させたのである。
05:38松山で雑誌、ホトトギスを創刊。やがてこれを東京に移し、俳句だけでなく、日本文学全体に大きな影響を与えた正岡式が、ここの出身であることも、江戸の半ば以来、松山が伊予徘会の拠点であったことと無縁ではないであろう。
06:00四季は、毎年よ、彼岸の入りに寒いのは、という幼い日に聞いた母の言葉を、自ら句となっている俳句として発表している。
06:15四季の家はね、お父さんがね、大御所という、非常に低い侍。侍といってもね、やっぱり四分は四分なんです。四分は後藤館ですね。
06:3414国だったと思うんですよ。少ないですね、14国。お父さん亡くなって、四季が明治維新早々には、四季が、小さい四季が当初になってですね。
06:50で、そこで、要するに、四族償還金という、あの、一時金が出ましてですね。
06:591200、1300円だったと思う。1200、1300円の大きいですよ。
07:05四季の近所にね、四季が小さい時、感覚を教えてもらった先生でね。
07:14うーん、まあ、どうするしちゃったんですけど、なんとか久明という人がですね。
07:20えらい、真面目な、きちっとしたお侍でした。
07:24私族償還金をもらいましてですね。
07:26自分は商業もやらない。
07:28種族の商売もしない。
07:30お殿様からいただいたこのお金がなくなるときに合資するんだと。
07:34いって、本当に合資した人がいるんです。
07:37それから、同じこの十五番国の松山、穏やかな穏やかな松山藩でですね。
07:43えー、秋山よしふる。
07:46私、坂の上の雲で描いた人ですが。
07:49この人の家はね、四季の家はさっき言ったように、
07:52小成と家でも高等官ですけども、
07:54彼の家はお価値といって、お目見え、殿様にお目見えできない身分で。
08:00で、十穀でした。十穀ですよ。年利十穀。
08:07800円ぐらいかな。
08:09一時金がおりましてですね。
08:13うーん、それで、秋山よしふるはもう、その頃は、
08:1910歳ぐらいになってたんじゃないかな、降りた頃は。
08:23うーん、もうちょっと前かもしれませんが。
08:26えー、風呂滝を。
08:29近所の家で、私族が風呂屋さんになった家に行きましてね。
08:35風呂滝をやって、一家に着いて、天保線一枚。
08:42風呂滝をやったと。これは、秋山県の当主の息子がですね、風呂滝をやるわけですね。
08:50もっとも、秋山県のお父さんはね、少し学問のあった人なもんですから。
08:54県の小さな役人になったもんですから、これは運の違法なんです。
08:59小さな役人でもあったらサラリーもらえますから。
09:02だから、よしふるはそれを、それで本を買ってたらしいんです。
09:06生活費とまで行かなかったらしいんです。
09:09だけども、明治7年にできた松山中学には入る。
09:14経済的ゆとりはなかったんですね。
09:16だから彼はその後に、大阪にできた四半学校に、四半学校タダで、
09:22しかもご飯食べさせてくれて、少しお小遣いが出たんじゃないでしょうか。
09:27四半学校とかですね、さらにもう一つタダの陸軍四半学校に。
09:32タダだから行ったんですね。
09:34ほんで彼は中戦争で、つまり日本陸軍、いわゆる通称満州の平野で展開してた日本陸軍が、
09:45もう相当な力の、相当力のちょっと突きかけようとしているときに、
09:52ロシア軍がコサックの大騎士をかけたときに、
09:57彼は桂の一番上だと思うんですから、
10:02なんとか防ぎ止めたというのは秋山。
10:05あれはまあ、あれでやられますと、
10:08その日朝戦争の陸戦はどうなったかわかりませんが、
10:13それは四半学校、タダだから行ったわけですね。
10:27日本の騎兵隊の父と呼ばれる秋山よしふるは、
10:31四半学校を終えた後、フランス三州の陸軍四半学校に5年間留学。
10:37ヨーロッパの騎兵軍団の機能を徹底的に研究して、
10:41騎兵に何ができて、何ができないかを知り尽くした上で、
10:45独特の傭兵、秋山方式を編み出したのである。
10:49その秋山方式が、奉天回戦で威力を発揮した。
10:53その秋山方式が、奉天回戦で威力を発揮した。
11:05その秋山方式が、奉天回戦で威力を発揮した。
11:09秋山家に、赤ん坊がまたできたんですね。
11:25できたといって、廃藩地検のときじゃなくて、もうちょっと前に、明治元年ぐらいに赤ん坊ができたんですね。
11:35そしたら、もうこんなに赤ん坊ができて、ご一心で、藩もどうなるかわからない。
11:41まだちょっと藩が続いているものの、どうなるかわからないのに、もうこの子供はお寺にやろうと。
11:47当時よくね、子供が余ったらお寺にやったもんですが。
11:52そしたら、小さなエシュルがね、赤ん坊をお寺にやらないでほしいと。
12:01足が、ああ、もうあのとちは、足というのは大人か。
12:06ちっちゃい子はうちっていうのをね、男の子でも。
12:09宝塚の言葉でうちって言うと、女の子は言いますが、
12:13松山では男の子でもうちって言うんですね。
12:16うちが大人になったらね、一生懸命勉強してね、食べさせるけんとこう言ってですね。
12:23言ったという話があるんですが、そのぐらいまあ、急迫しておって。
12:28うーん、それが秋山三重駅になって、
12:32バルチク艦隊をだいたい、パーフェクトゲームにほとんど沈めてしまったという参謀になるわけですけども。
12:43少年時代から生涯を通じて、正岡式と信仰を結んだ秋山真之は、
12:55日本海軍きっての戦略家として、もはや伝説的存在となっている。
13:01日本海海戦では、連合艦隊作戦参謀として、統合減衰を補佐し、
13:08あの有名な鳥かじいっぱいの定時戦法を実現した。
13:14定時戦法は、秋山真之が古い兵書を読み漁った中にあった、瀬戸内水軍の秘伝、
13:26野島流海賊古宝からヒントを得たものだという。
13:30常に長蛇の陣を取り、我が全力を挙げて敵の分力を討つ。
13:36この作戦を統合が採用したのである。
13:40音楽
13:46餓師しなかった人で言いますとですね、
13:50文庫というと大分県でしょう。
13:58ヒジというところがありますね。日の出とかでヒジというところにね、
14:022万5千億くらいで木下という大名がありましてですね、
14:06ちっちゃい大名はですね、崖っぷちにね、崖を利用してお城があって、
14:10崖の下にカレーが集まるから、城下ガレーって言って、
14:15評判がいいですね、あのカレーは美味しいというので。
14:19そこに生まれた人で、そこの家の木下家の塩木ガロー、
14:25これは門抜、門抜によるカローじゃなくて、能力によるカローだったうちで、
14:33滝という家がですね、この人はお父さん、滝蓮太郎の父ですね、
14:38明治の音楽家の工場の月の滝蓮太郎のお父さんですが、
14:43この人はまあ能力があったのか、中央の中級の管理とか、
14:50それから各府県の中級の管理を歴任することができたんです。
14:58これはうまうまくいった方ですね。
15:01そしたらその後、まあ判罰出身じゃありませんから、
15:05そのお父さんも、今度は文庫の武田の軍長になれと。
15:11文庫の武田って、お城の武田とかありますよ、
15:16織田県の。あの、中川という大名の。
15:20七万石ほどだと思うんですけども。
15:23えー、そこはまあ、
15:26もう廃藩地権のうちですけどね。
15:29あの、お城はもう壊されて、
15:33明治政府っていうのはお城を怖がりましてね、
15:35そこに種族がこう、こぼってね、
15:38反乱を起こすのは怖がったんですけど、
15:39お城をこぼってたんですが、
15:41石垣だけになってました。
15:43ちょうど、こう、溶岩大地をグリッと、
15:46ドーナツ状にくり抜いたようなとこに、
15:48真ん中にお城があって、
15:50武田のお城っていうのは、あの、名城ですね。
15:54全く名城ですが、
15:56武田太郎はその高等小学校、
15:58当時の高等小学校を、
16:01武田省を高等小学校で送ったわけですね。
16:04お父さんはそこの軍長になってましたから。
16:07まあ、あの、そういう、
16:10恵まれた家の子ですから、
16:12バイオリンとかね、
16:13アコーディオンも持ってたそうですな、
16:15子供のくせに。
16:16それが、彼を育てる元になったわけですが、
16:19小学校にオルガンが一台ありましてですね、
16:23滝だけは弾いてもいいということになってたらしいんです。
16:38東京、横浜、富山、東京、大分、竹田と
16:44今日映した滝の一家は、
16:46典型的な天金族であった。
16:49蓮太郎も、天候に次ぐ天候の小学生生活を送り、
16:54最後に落ち着いたこの武田の自然が、
16:57黒の故郷の故郷となった。
17:00日本の文字がつ��してください。
17:12。
17:14滝連太郎が生まれた、明治12年、
17:17政府は、音楽取調べがかりを創設、
17:20本格的な音楽教育を開始していた
17:23音楽取調べ係の方針は
17:27日本の音律と西洋の音律の一致するところを探し
17:31日本人の心に合うメロディーから教えるというものであった
17:3516歳で東京音楽学校に進んだ滝連太郎は
17:41そういう曲を新たに作ろうと決意していたのである
17:50万世の工場の月に滝連太郎が曲をつけたのは
18:08音楽学校が中学小歌集のためこの歌詞の曲を募ったからであった
18:14連太郎は課題の中の鳥居誠作詞箱根八里の歌詞も選んで
18:21同時に作曲入選している
18:23土居万世は仙台の人です
18:38仙台には青葉城という伊達正宗以来の大きな城がありますが
18:42土居万世は第二季音楽学校の時に
18:48藍津若松の鶴ヶ城に旅行したことは鶴ヶ城を見たようですね
18:53藍津落城の秘話をそこで聞きですね
18:57藍津の藍津というのは東北水智のというよりも
19:01日本で一番教養の高かった藩じゃないでしょうか
19:06実によく勉強させた藩ですが
19:09一番教養が高かったのはあるいは佐賀の鍋島鎌倉の
19:14一両は争えないぐらいに藍津若松派というのは優れた藩でした
19:19それがもう落城してですね
19:22廃城になってて
19:24非常に万世の解雇団によると割合こうショックを受けたようですね
19:29だから工場の月っていうのは万世は藍津の鶴ヶ城を思い
19:36それから作曲家の滝連太郎は
19:39滝連太郎は天才ですね
19:41武田城を思ったんじゃないかと
19:44武田城にはね月見櫓という櫓があったんですよね
19:49それはやっぱり廃藩知見後に声優が怖いから壊しちゃったんですが
19:52みんな土地の人はあそこに月見櫓あって
19:55と言ったら少年ですから月見櫓だから
19:58そこ月見したんだろうと
20:00そしてお殿様を動けないも
20:02そこできっといっぱい飲んだに違いないと
20:05いろいろ思うでしょうね
20:06昔の光今伊豆子
20:10これは廃藩知見というもんですな
20:12つまり藩というのは城とともに去ったわけですから
20:17昔の光今伊豆子
20:47明治33年滝連太郎は文部省外国留学生として
21:01ピアノおよび作曲のため満3カ年ドイツ国へ留学することを命ぜられた
21:07しかし大喜びであったにもかかわらず
21:11彼はなぜか出発延期長いを出して
21:141年の間を置いてライプチヒに出発する
21:18その1年間に
21:24四季
21:24お正月
21:25工場の月
21:27メヌエットなど
21:28今知られている傑作のほとんどが作曲されたことを思うと
21:32これは実に神秘的で実りの多い出発延期であったと言えるだろう
21:39多岐の留学したライプチヒ王立音楽院は今メンデルスゾーン高等音楽院と名を変えた
21:50東ドイツ東欧ばかりでなく全世界から留学生が集まってくる
22:08100年前と変わらぬ名門校である
22:11ご視聴ありがとうございました
22:41この頃の多岐は
23:01有名なパデレフスキーのピアノ演奏を聴いたが
23:05ショパンはうまいがベートーベンはまずい
23:09大ピアニストではない
23:10良いピアニストという程度だ
23:13などと厳しい批評をいくつも書き残している
23:17音楽院の楽席簿に残る
23:37多岐連太郎の名
23:38多岐が下宿していた場所は
23:51多岐が下宿していた場所は第二次大戦中に爆弾が落ちて廃墟となった
24:07戦後通りの名が変わったので
24:10ベートーベン通りの裏そしてモーザルト通りの裏に滝はいたことになった
24:16キーシンに次ぐ天才少年の噂が高い
24:23ブルガリア出身のリミタール・アンドロノフ君
24:29キーシンに次ぐ天才少年の噂が高い
24:39ブルガリア出身のリミタール・アンドロノフ君
24:4313歳
24:44滝連太郎が指導教官タイヒミューラーから教えを受けた教室で
25:08アンドロノフ君は演奏している
25:10その名が今も教室の名となっている
25:14滝の恩師タイヒミューラー教授の教像
25:17アンドロノフ君の噂が痛みたちとなっている
25:35フルバーンed
25:39ボリア出身の闇
25:41しかし滝蓮太郎はこのライプチヒで肺を病んだ
25:55彼が入院したのは聖ヤコブ病院
25:59今のカールマルクス大学付属病院である
26:04学籍後の病のため中退の文字
26:07病から立ち直ることなく
26:10志半ばに滝は帰国することになる
26:14この滝蓮太郎は確かライプチヒの下宿でですね
26:28音楽学校の教員にしてられる婦人だったか
26:33下宿の主だったか
26:36滝を前の作曲した曲を弾いてくれ
26:42工場の月を弾いて非常に感銘を与えたと言われてますですけども
26:49この人は結核で23で惜しくも死んだわけですが
26:59春郷の工場の月をというのを
27:05私は聞くたびに廃藩知見を思うんですね
27:09だからこの話をしたわけですが
27:12さっきの話で小さな秋山義織が生まれたての秋山真行に
27:22これをお寺にやらないでくれと言って
27:24お父さんお母さんに頼んだ
27:26うちが勉強するからと
27:29その時のまざまに残っている話ではですね
27:34お豆腐ぐらいのお金を儲けるからと言うんですよ
27:39お豆腐その頃反札というのがありましてですね
27:41政府はまだ支援を出したからなかずかで
27:46反札というものがあって反札やっぱり支援でした
27:49それを積むとお豆腐ぐらいになりますな
27:52だからそんな小さな種族の坊やでもですね
27:59お金のことを思わざるを得なかったというのは
28:01もう画界というもののすごさですね
28:11これより前
28:20母親戦争が終わって幕府が倒れるとすぐ
28:24西郷隆盛は東京を後にさっさと鹿児島に引き上げてしまっていた
28:29理由がわからないから
28:31西郷は新政府の方針を無視して
28:34薩摩に封建体制を復活しようとしているという噂が広まった
28:39すべて革命勢力の主力である薩摩藩の中心にいる島津久光が
28:46病的な保守主義者だったことに原因があったのである
28:50新政府は廃藩知見を断行しようとしており
28:56西郷はまさに板挟みの状態であった
29:09西郷さんは何も聞いていないんですよ
29:14だけど暗黙に分かったんでしょうね
29:16薩摩軍の精鋭を率いて東京で来た
29:19自ら
29:20日本橋に掛殻町というのがあって
29:24そこに古屋敷があって
29:26西郷さんはそこにいました
29:27一人でボソッとおったんでしょうな
29:30ゲナンのような人あるいは書生のような人と一緒に
29:35男状態の好きな人ですからいて
29:37そこへね山形ありともがね
29:40腹切って死ぬつもりで
29:43というより差し違えるつもりで
29:45訪ねてきたらしいですね
29:48廃藩知見のことをよく思って
29:50そしたらちょうど予告してないもんですから
29:54先客があって西郷さん誰かと話してて
29:56またされてたらしい
29:57カルカンといって札幌のお菓子があるでしょ
30:00カルカンとお茶が出たそうですな
30:03だいぶ待ってると西郷さんが出てきて
30:06山形という人はね
30:10物言いというのは
30:11後になってね
30:13なんかもうね
30:14関会
30:14陸軍の方みたいに言われて
30:17憎まれていくんですけども
30:19若い頃の山形というのは
30:20実にこの堅牢な
30:23思考力と
30:25慎重な人間だったんですが
30:27どんな雄弁かであったかは知りませんけどね
30:31一応とにかくこれではどうにもなりませんと
30:34廃藩知見
30:35それは
30:38それについては
30:42つまり軍隊を東京に集めた
30:44この1万人の軍隊で
30:45もしつまり
30:47嫌だというところがあれば
30:49討伐しなきゃいけない
30:50そして自分の藩主が嫌だといえば
30:55藩主をも問わせなきゃいけない
30:57というような
30:58ことを言っても
31:00西郷さん聞いてるばっかりなんですね
31:01いかがですかと言ったら
31:03私の方がよろしい
31:05言うだけなんですよ
31:07これは何か
31:11勘違いしてるんじゃないかと思って
31:15もう一度言った
31:16いかがですかと言うと
31:18私の方がよろしいと
31:19最後の頭にはね
31:21もう死ぬ気があったんでしょうな
31:23藩主のひさみつのことも重いね
31:26大反対してるひさみつも重いね
31:28またおそらく自分が一番嫌な
31:31あいつは乱心だと
31:33いろいろ言われるだろうということも重い
31:36そして自分が死ぬだけでなしに
31:38やつざけんされて
31:39死ぬだろうと
31:40いう覚悟があったんじゃないかと思うんですよね
31:43私の方がよろしい
31:45ひさみつに何も承諾を言ってないんですよ
31:48自分のつまり影響力で
31:52全部やろうと思ったんでしょうな
31:54はい藩主権はその一発で成立したわけです
31:58相当だあっという感じですから
32:01世間もあっという感じでも進んだんですね
32:07なんか嫌い抜きのような感じですけども
32:11今日は廃藩地権に伴う政治的な話よりも
32:18その種族が行った明治維新で
32:23一番ひどい目にあったのは種族だったという話を
32:27したわけです
32:28もう一つマリア・ルス号事件というのがある
32:34マリア・ルスというのは地引き引くと灯火なんですね
32:38マリア様の灯火号
32:40ありがたい名前ついてるんですけど
32:42これは南米のペルー共和国の船で
32:46それが新国で奴隷を積みましてですね
32:55アモイで奴隷を積みまして
32:58おそらく関東省の奴隷でしょうね
33:01関東省っていうのも福建省と同じで大田舎でしてですね
33:04わけわからんとね
33:06奴隷になって飼われたのか騙されたのか
33:10ぎっしり船底に積んでですね
33:13ペルーに行こうとしたら暴風が起こったもんですが
33:19横浜に避難してたんですね
33:20その罪人の一人がですね
33:26名前は残ってるんですけど
33:28ボッケーという人が
33:30木の慶応の慶ですね
33:33ボッケーという人が飛び込んでですね
33:36イギリス船に泳ぎ着いて助けてくれと
33:39イギリス船は船長がびっくりして
33:42領事館に知らせる
33:45領事館は当時イギリス工種は有名なパークスでしたですけども
33:52それは国に帰って休暇中で
33:55ワッツソンという若々しい代理工種がおりまして
34:00それがすぐさま対応して
34:03これは奴隷戦じゃないかというので
34:06とにかくボッケーの
34:12新国人ボッケーさんの身柄は
34:15英国領事館から神奈川県庁
34:19神奈川県庁の御礼
34:20つまり知事に相当する人が
34:23土砂人の実に自由を憧れておった
34:27大江拓というのが御礼をしておりましてですね
34:32それに身柄を預けた
34:33マリアルス号の事件は
34:48アヘン戦争以来の新国の混乱に乗じて
34:51アジアで横暴に振る舞おうとするヨーロッパの列強と
34:54国際社会に乗り出したばかりの日本との対決でもあったのである
34:59ペルーの陰にはスペインが
35:03そしてポルトガルがいた
35:04しかしイギリスの代理講師
35:26ワトソンは正義感で熱血感だったから
35:30マリアルス号に戻された王墨家のその後を確かめに行った
35:34墨家は弁発も断ち切られ
35:38体に明らかに拷問の跡があった
35:41そして船内は凄惨な状況であり
35:45ワトソンはこれが移民船ではなく
35:48奴隷船であることを確信した
35:50新国人たちはただ仕事があるからと集められ
35:55行き先がペルーであることも知らなかったのである
35:59ここで問題が起こるのはですね
36:13奴隷船がそこにおる
36:15いくつかの法律問題が起こるんです
36:16まず一番問題はですね
36:19ご存知のようにこの港に入ると船はですね
36:26その国の主権下に置かれるわけで
36:27その国のつまり地方権が及ぶわけで
36:30船はその航行中は船がそのペルー国の領土なんですけども
36:37横浜港だと日本国の主権の中に置かれるわけで
36:41その日本国は処置しなきゃいけないわけですね
36:43ですけども日本国は奴隷はいけないから解放しろということは言える
36:48そういう法的な立場や資格があるのかと
36:54言うと非常に問題があってですね
36:57日本は安政
37:00アメリカと最初に結んで
37:02次々に結んでいった安政条約というものは
37:05幕府はどうもそのまずいことしたですね
37:09ほとんどね
37:11反植民地的な条約でした
37:15その
37:16外国人が横浜中小浜にいて悪いことします
37:23犯罪を起こす
37:23それは外国人の領事が裁判をするのであって
37:26日本の政府はその外国人を捕まえることも裁判することもできない
37:30要するに裁判権
37:31外国人に対する裁判権がない
37:34それは地外保険というのも認めさせられてましたから
37:39まあそんなんでね
37:41一体その外国人
37:43この現在の奴隷
37:45マリアルスゴンに対して
37:46手が差し伸べられるかどうか
37:48何かできるかどうか
37:49日本がアメリカと最初に結び
38:04次々に諸外国と結んだ不平等条約を改正するのには
38:08明治32年までかかったのである
38:11しかしアメリカ
38:19イギリス
38:19フランスなど
38:20諸外国の立場からすれば
38:22当時の日本の法体系は
38:25世界の法思想と無関係であり
38:27とても裁判など任せられないと
38:30映っていたのであった
38:31日本から地外保険を一掃し
38:39世界と一つになった法体系や
38:41習慣体系を持つための戦いは
38:43幕末からすでに始まっていた
38:46しかしそれはいつ終わるとも知れない
38:50果てしのない戦いだったのである
38:52ところがペルーと日本とは条約を結んでいないんです
39:05だから未条約国ですから
39:07日本政府は主権を行使することができるわけですね
39:11そういうことはできる
39:18ワッツソンは自ら探偵のごとく乗り込んで
39:22しかも日本の外務省に
39:25そう言ってやるべきじゃないかと
39:29これは外務大臣というのは当時外務協と言いました
39:34添島種読みという人で
39:36このワッツソンという若きイギリスの代理公使は
39:42添島という人を非常に尊敬していて
39:45そしてある事件があっていよいよ尊敬したけど
39:49ある事件は今長くなるから申し上げませんが
39:52非常に尊敬していて
39:53この人に手柄をさせてあげたいという気持ちがあったんでしょうね
39:57休暇中のパークスという英国講師
40:02これはワッツソンの上司ですけども
40:07これはもう日本人に対しても
40:10彼の前任中の中国人に対しても傲慢ぶれ
40:15絵に描いたような男でしたけども
40:19そのパークスの話ちょっと後で申し上げますが
40:22添島種読みに対してだけはですね
40:27そこは嫉妬な手だと恐れてたんですね
40:31添島という人は権力主義者ではありません
40:35考えられないほど立派な人物なんですな
40:38大変な学者で
40:40佐賀県
40:41いや佐賀藩の出身でですね
40:43佐賀藩切手の国学者の家で生まれて
40:47しかも漢学を
40:48国学もやりましたが
40:50漢学もやって
40:51漢学はやっとするとですね
40:53明治のジャーナリストで福本日南という人が
40:58菅原道真以来の大教養人じゃないかと
41:03添島種読みはそうじゃないかと
41:05私もそう思いますですね
41:08まあそういう人が外務協和になってて
41:11しかもいわゆる教養を引き出す人じゃなくて
41:15自分の教養が全部骨と肉と血を透明にするために
41:20魂を清らかにするために
41:24自分の教養を使うというような感じの人でした
41:28その
41:29まあそういうことで言うと
41:32武士らしい武士という人ですね
41:35その
41:36だからその
41:38民族は違っても
41:40パークスなんてものも
41:42添島という人には
41:43無礼を働けなかったようですね
41:47その
41:49ワッツソン代理講師は
41:52添島さんに手から出さなかったと
41:54添島さんの下にもこの
41:56なんて言いますか
41:57親と医学人
41:59法律関係の
42:00いますから
42:01どうかといったら
42:02やっぱりね
42:02いろいろ意見があって
42:03日本にはそんな
42:04つまり
42:05それを奴隷を
42:07例えば
42:07解放してしまえという
42:09そんな資格はないんじゃないかと
42:11いう説もあり
42:13そうでない説もあったんですが
42:15添島さんは踏み切りました
42:17そしてその
42:18裁判所をですね
42:21臨時法廷を
42:23今の横浜の
42:26神奈川県庁ですね
42:27あの場所に
42:29神奈川県庁の場所に
42:31置いて
42:32大江拓を主催者にして
42:35やれと
42:36大江拓がそれをやって
42:38その奴隷全員を解放せよと
42:41解放
42:42お船はどうぞ
42:44自由にペリー帰ってくれと
42:46いうことになって
42:47その
42:48落着するんですが
42:51ペリーの方がね
42:53それでね
42:54たまらないですからね
42:55せっかく
42:55高いからで
42:56勝ってきたんですから
42:57だから
42:57その
42:58弁護士を
42:59かな
43:01やっぱり横浜に
43:02英国系の人で
43:03弁護士がいまして
43:04雇って
43:05その弁護士が
43:06日本はそんな偉そうなこと
43:08言えるのかと
43:08その英志原の有閣を見ろと
43:10あれは
43:11その
43:12人身売買じゃないかと
43:14それが出たんで
43:16日本政府の
43:16ワークってですね
43:17まああの頃はね
43:19議会がありませんから
43:20即座にですね
43:21あの
43:22人身売買の禁止
43:23そしてその現在
43:25あれはあの
43:26前借りして
43:27お嬢野さんっていうのは
43:28売られてくるもんですから
43:29あの
43:30その前借りしたお金っていうのは
43:31全部帳消しだと
43:33なぜと言えば
43:34その牛馬の扱いを受けてるんだから
43:36そういうのも返す必要はないんだと
43:39人間は牛馬の扱いを受けるべきでないんだと
43:43もう実に明快な
43:45あの解釈は司法省から出て
43:47即刻と言っていいぐらいの
43:50短い期間で通達が出ててですね
43:52じゃあ日本には
43:53もう奴隷ってのがいないんだと
43:55いうことで
43:56また裁判が進むという具合でですね
43:59まあこの裁判はね
44:01日本政府にそんなに権限
44:03そんな権限があるのかどうかというより
44:05文明の名において
44:07やったんでしょうな
44:10もう強いて言えば
44:11というのはですね
44:12奴隷問題については
44:14アメリカがね
44:15ちょっとこの
44:16大戦争したばっかりですから
44:18南北戦争
44:18やっとだったんですよ
44:20イギリスのいいとかありますよね
44:22こういうあの
44:22非常に
44:24正義ということで
44:26非常に興奮するところは
44:27当時のイギリスにありました
44:28傍慢でもありましたけど
44:30何しろ
44:31大帝国の
44:33だいたい最後のピークの時代ですから
44:35もう
44:35イギリス人で
44:36むちゃくちゃのもいましたですね
44:38そういうの
44:39いましたけども
44:40そういう側面も持ってて
44:42それに
44:43確か奴隷解放
44:45奴隷問題では
44:45イギリスは
44:4680年ぐらい
44:49もう奴隷はいけない
44:51奴隷貿易はいけない
44:53法的に禁止するというのは
44:5480年ぐらいになっていると思うんですよ
44:56イギリスが一番最初に
44:58どれを扱って
45:00思う受けしたんでしょ
45:01ロンドンに次ぐ
45:18イギリス第二の貿易港
45:20リバプール
45:2118世紀には
45:23西アフリカ
45:24北アメリカを結ぶ
45:26三角貿易の核となり
45:28盛んに
45:29多彩な貿易が
45:30行われていた
45:31その後は
45:34遥かな現代になって
45:36ビートルズが出る町ですけども
45:38リバプールでは
45:39奴隷商人の町で
45:40アフリカから得た奴隷を
45:43売る
45:44大儲けして
45:45フランス人も
45:47奴隷を
45:48商売をしたと
45:50それがみんな新大陸
45:51つまりアメリカ大陸へ
45:53送るわけですけども
45:541500万人
45:56送られたとか
45:562000万人
45:57送られたとか
45:58言いますね
45:58ヨーロッパ経由で
45:59送られた
45:59もうそれが
46:01これらで
46:01人道的にいけない
46:03っていうね
46:04ことが
46:05もう80年前に
46:06イギリスでは出て
46:07そしてあれは
46:08ダメだと
46:08同時にね
46:09どうも商業的利益も
46:11少ないらしいですね
46:12状況が変わったこともあって
46:14奴隷は絶対に
46:16これを
46:16人身を
46:17理解してはいけない
46:19っていうのは
46:19イギリスにはっきり
46:20あったもんですから
46:21イギリスはそういう面での
46:23先輩国だったもんですから
46:24ワッツソンが興奮して
46:26大井に日本も
46:28一緒に
46:29興奮しましょうと
46:30で
46:31その後
46:32興奮したく
46:33思ってた時期ですから
46:34副島さんのような
46:36君子も興奮しね
46:38大江田区のような
46:39創始のような
46:41知事さんも
46:42御礼ですが
46:43興奮して
46:44そうになったと
46:46ちょうど明治2年から
46:474年にかけての
46:49気分というものが
46:50よくある
46:52気分の側面
46:53一側面を
46:54表すんじゃないかと
46:55思って
46:56礼に挙げたわけです
46:58どうも今回は
47:09ご視聴ありがとうございました
47:11ご視聴ありがとうございました
47:15ご視聴ありがとうございました
47:19ご視聴ありがとうございました
47:20ご視聴ありがとうございました
47:26ご視聴ありがとうございました
47:32ご視聴ありがとうございました
47:36ご視聴ありがとうございました
47:52ご視聴ありがとうございました