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  • 1 年前
日本の環境保護は公害対策から始まった。60年代後半、四日市ぜんそくなど4大公害訴訟が続く。この四日市を教訓として、住民達がコンビナート誘致を阻止したのが静岡県三島・沼津だった。その後、公害防止対策法が制定され、環境庁が発足。環境
権に基づいた住民の訴えが始まる。90年代に入ると日本は京都会議で地球温暖化対策で主導的役割を果たしていく。公害先進国から環境保護へ。戦後日本の軌跡を多角的な証言で描く。

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ニュース
トランスクリプション
00:00:00三重県四日市
00:00:16日本の高度経済成長を支えた工業地帯が広がっている
00:00:30左側を見てもらうと皆さんの住んでいる四日市の街とはだいぶ違いますよね
00:00:38煙突がいっぱいあったりタンクがいっぱいあったりしますが
00:00:42ここはコンビナートというところです
00:00:46コンビナート
00:00:48四日市では1959年に本格的な石油化学コンビナートが誕生
00:01:02しかし創業から間もなく工場から出たアリウ酸ガスによって
00:01:10全息が集団で発生した
00:01:12四日市全息
00:01:16発生から55年がたった今年3月
00:01:22四日市郊外と環境未来館が開館した
00:01:27地域の過酷な歴史を伝えるためだった
00:01:31開館記念のテープカットです
00:01:333、2、1、どうぞ
00:01:36四日市全息の認定患者野田幸和さんはその体験を半世紀にわたって語り続けている
00:01:54日本はお前一等国やから
00:02:00わずか10年か15年でお前
00:02:04最低の国がやね
00:02:08相当みんな努力したと思うわ
00:02:11だからその助けが公害って言って現れてるんだからね
00:02:17経済発展の陰で多くの人々が公害に苦しんだ
00:02:27戦後70年
00:02:29日本はどのように環境問題と向き合ってきたのか
00:02:35ご視聴ありがとうございました
00:03:05ご視聴ありがとうございました
00:03:35高度経済成長の中
00:03:431960年代
00:03:45日本各地で公害病が発生した
00:03:491964年
00:03:56公害を未然に防ごうとして立ち上がった人たちがいた
00:04:00富士山陸の町で市民たちが石油化学コンビナート進出計画を阻止した
00:04:08子どもたちをあんな喘息をさせたくないと長生きをさせたいという
00:04:16親の願いそれが一番多かったと思いますね
00:04:201970年
00:04:24国も対策に本腰を入れるようになる
00:04:27国会で14もの公害防止法を成立させた
00:04:32公害先進国から公害規制先進国に変わる天気だった
00:04:38翌年環境庁が誕生
00:04:42環境保護に乗り出す
00:04:44同じ頃
00:04:46環境権という新しい権利が提唱された
00:04:50良き環境を享受する権利というのは人類が持つべきであると
00:04:571990年代
00:05:00問題となったのが地球温暖化
00:05:03日本がホストを務めた京都会議
00:05:08先進国の温室効果ガス削減に合意した
00:05:12やっぱりこのまんまいったら地球はどうなるのっていう感じを
00:05:20皆さん持っていたと思いますね
00:05:22公害先進国から環境保護へと向かっていった日本
00:05:29その歩みを見つめる
00:05:42焼け跡から復興した日本
00:05:45敗戦から10年足らずで
00:05:48経済の飛躍的な成長が始まった
00:05:51人々の生活は豊かになり
00:05:55冷蔵庫
00:05:56洗濯機など
00:05:573種の人技が普及していく
00:06:00重化学工業への転換を図っていた政府が
00:06:06鉄鋼の次に力を入れたのが
00:06:08石油化学工業だった
00:06:12愛知貴一通産大臣は国会答弁でこう語っている
00:06:19合成化学製品が輸出による外貨獲得にも
00:06:25極めて有望であります
00:06:27石油化学工業等に対しましても
00:06:33格段の推進措置を講じ
00:06:35その急速な育成確立に努力いたしたい
00:06:391955年
00:06:43政府は石油化学工業の育成対策を決定
00:06:48石炭から石油に向かうエネルギー革命の中
00:06:52石油化学コンビナート建設を進めていく
00:06:55三重県四日市が
00:06:57第一期計画に選ばれた
00:06:59経済白書がもはや戦後ではないと記した
00:07:071956年
00:07:08旧海軍の土地を再開発して
00:07:11コンビナート建設が始まった
00:07:14四日市市役所に勤めていた
00:07:21玉置康夫さん
00:07:22四日市市はコンビナートに強い期待をかけていた
00:07:27その時はですね
00:07:33郊外というような意識がね
00:07:37四日市に限らず
00:07:40日本中どこにもなかったんですね
00:07:42ですからものすごく誘致合戦したわけです
00:07:47要するに大きな工場を持ってきたら
00:07:51雇用が増える
00:07:55そして従業員もたくさん来たら
00:08:00町も活性化する
00:08:02市なんかに
00:08:03市や県にとっては
00:08:06税金もたくさん入って
00:08:07いい町づくりができる
00:08:09いうようなことで
00:08:11いわゆる行政
00:08:13それから住民も含めてですね
00:08:15どこもここもものすごく誘致合戦したわけです
00:08:19当時の社会情勢からしても
00:08:21日本がこの貧乏なところから
00:08:23なんとか立ち直るには
00:08:25まず経済をと
00:08:27四日市で寮を続けてきた
00:08:32野田幸和さん
00:08:3383歳
00:08:34当時寮の傍ら
00:08:40コンビナートの建設に携わった
00:08:45今までは漁師だけだったけども
00:08:50コミヤードが来るっていうことを
00:08:52四日市市としては
00:08:55日本中から来るのやつで
00:08:57大きな日本で一位に争う
00:09:00三菱や
00:09:01昭和石油とかなんていうと
00:09:03大きなところが来るのだから
00:09:05とんでもない大きな町になると思う
00:09:08それが多分ね
00:09:09あの
00:09:09漁師なんて
00:09:11一週間行くと一日ぐらい休むわさ
00:09:14休むと建設に応援に行ったもん
00:09:21行ったよ
00:09:23ずいぶん行ったよ
00:09:24政府は高度経済成長を
00:09:29さらに促進する政策を打ち出す
00:09:311960年
00:09:33池田駿首相の
00:09:35国民所得倍増計画である
00:09:3710年で倍にするのには
00:09:43どうやったらいいか
00:09:441年に何歩伸ばしたらいいか
00:09:4510年で倍にするのには
00:09:477.2%
00:09:48この頃本格稼働を始めた
00:09:53四日市のコンビナート
00:09:54プラスチックや
00:09:57化学繊維の素材などを製造
00:09:59経済成長を支えていく
00:10:10コンビナートと川を挟んで隣接する
00:10:13磯津地区
00:10:14野田さんをはじめ
00:10:18代々漁業を生業とする人たちが
00:10:21暮らしている
00:10:221960年
00:10:26ここで獲れる魚が
00:10:28異臭がするとして
00:10:30返品されるようになった
00:10:32川へ入るとピリピリピリ
00:10:34飼いみたいだような感じでな
00:10:37変な
00:10:38脂臭いというか
00:10:40この
00:10:41なんていうか
00:10:43今のね
00:10:44豚油
00:10:44豚油と一緒に
00:10:46豚油の中にね
00:10:50刺身に出た魚を突っ込んでね
00:10:52そのまま食ったような感じ
00:10:53粉に入るようになったからね
00:10:56誰も食わんだ
00:10:57猫もよく食わんだ
00:10:59片手やめんだ
00:11:00魚の一周騒ぎの翌年
00:11:09四日市の市民の中に
00:11:11変な咳をする人たちが続出
00:11:14次々と病院に駆け込むようになった
00:11:18コンビナートの売園に含まれる
00:11:21アリウ酸ガスが原因だった
00:11:25四日市全息の始まりである
00:11:28健康には自信のあった野田さんも
00:11:33喘息を発症
00:11:34入院を余儀なくされた
00:11:36コンビナートの売園に駆け込むようになるのか
00:11:42苦しむつかしいわけや
00:11:43ほんで普通勝手で生きていけないから
00:11:46せんざん
00:11:47生きとる間俺は
00:11:49この呼吸せんざんなのかやなと思ったもん
00:11:53ひどい時は
00:11:53一人一人
00:11:55二人が犯人って言って
00:11:57だんだん病気になってきて
00:11:59これは考えないと言って
00:12:00まず市役所に許せた
00:12:03ほんた市役所は
00:12:05そんな俺は知らんと
00:12:07ほんた会社に行くやないかと言って
00:12:10病気になったもん同時に
00:12:11みんな会社に行ったわけや
00:12:14ほんたあっちお店行ったら
00:12:16よそじゃないかと
00:12:18昭和石に行ったら
00:12:19うちじゃないと
00:12:21三菱行ったら
00:12:22俺のことじゃない
00:12:25あの
00:12:26石原じゃないか
00:12:27昭和石じゃないかと
00:12:29勝樹がいてるのさ
00:12:30だから俺に怒ってん
00:12:33ところがそうやって
00:12:33ももとるうちに
00:12:35だんだんひどくなってきて
00:12:37病院に入った
00:12:39入ったきりだし
00:12:40そうするとも
00:12:41だんだん死んでいく人になってきてた
00:12:43俺はもう
00:12:44とうとうここで
00:12:46死んでいくのかって言うて
00:12:48まあ
00:12:49いかんひどったわけやわな
00:12:52四日市で
00:12:54体に異常を訴える人が
00:12:56相次いでいる
00:12:57科学者や社会学者の間で
00:13:01関心が広がっていた
00:13:02宮本圭一さんは
00:13:051962年
00:13:08四日市を訪れた
00:13:09海水浴場を埋め立てた
00:13:14第二コンビナートが
00:13:15完成したばかりだった
00:13:16宮本さんは
00:13:18患者の訴えに
00:13:20耳を傾けた
00:13:21その頃はね
00:13:25あの
00:13:26空気が青色してましたね
00:13:29それから
00:13:30まあ
00:13:31硫化水素も入ってたんでしょう
00:13:33他のいろんな汚染物質が入ってるから
00:13:35ものすごく臭くてですね
00:13:36ですから
00:13:38住民の訴えは
00:13:40悪臭と
00:13:41通過前足と両方ですよね
00:13:44悪臭がひどいっていうのは
00:13:46これが特徴で
00:13:48僕が初めて来た時にもう
00:13:50寝られなかったですね
00:13:52あまりにもひどくてですね
00:13:53悪臭が
00:13:54白砂聖書の美しい砂浜があったところを
00:13:58埋め立てて
00:13:59第二コンビナートできて
00:14:00そのすぐそばに
00:14:02こう
00:14:03市営住宅があるんですね
00:14:04びっくりしましたね
00:14:06そういう乱暴なことを
00:14:08その地域のね
00:14:09福祉を向上させるために
00:14:11地域開発するんだけれども
00:14:13そのことによって
00:14:15多くの被害者が出たりね
00:14:17公害を出すっていう
00:14:18これに衝撃を受けたんですね
00:14:21それが公害研究の始まりだったんですけどね
00:14:24公害の実態を広く伝えないといけない
00:14:31公衆衛生の研究者とともに書いたのが
00:14:35恐るべき公害
00:14:37四日市をはじめ
00:14:50全国各地の大気や水の汚染状況を
00:14:54細かく調べた宮本さん
00:14:55被害を公害という言葉でまとめ
00:14:59防止すべきだと訴えた
00:15:03この本をきっかけに
00:15:05公害が全国で認知されていく
00:15:08一般的に公害現象と
00:15:12つまり大気汚染や水汚染や
00:15:15地盤沈下やですね
00:15:16日常的に自分たちが
00:15:18健康に障害を受けていたり
00:15:20あるいはもう汚い環境になってですね
00:15:23これでいいのかと
00:15:24やっぱりその美しい
00:15:26綺麗な環境に住みたいと
00:15:28そう願う人たちの気持ちが
00:15:31この公害という言葉で
00:15:33一つにまとまってきたわけですね
00:15:36この公害は困ると
00:15:37やっぱり成長もいいが
00:15:40成長はやっぱり福祉のためにあるならね
00:15:43まず公害を防止できるような
00:15:45成長なきゃならないっていう風に
00:15:48公害という言葉が
00:15:49次第に普及していったんだと思うんですね
00:15:521960年代
00:15:56公害は全国に広がっていた
00:15:59熊本県の漁村では
00:16:02工場排水に含まれる有機水銀が原因で
00:16:07ミナマタ病が発生した
00:16:08富山県の農村部では
00:16:12鉱山の排水に含まれるカドミウムによる
00:16:16遺体遺体病が発生
00:16:18患者の骨は脆くなり
00:16:23激しい痛みに苦しみ
00:16:25進行すると死に至った
00:16:28多発する公害被害に
00:16:34政府は対応策を迫られていた
00:16:37この頃
00:16:44政府の公害対策は一元化されておらず
00:16:48厚生省など
00:16:5014の省庁にまたがっていた
00:16:52当時
00:16:56厚生省の公害化で対応に当たった
00:16:59古川定次郎さん
00:17:01後に8年間にわたって
00:17:04官房副長官を務めた
00:17:06古川さんによれば
00:17:101960年代
00:17:11公害対策と経済の
00:17:13どちらを優先するか
00:17:15省庁官で意見が分かれていたという
00:17:18まだ日本の国際競争力が非常に弱いので
00:17:25やはりですね
00:17:27公害の規制
00:17:28健康被害とかそういうことばっかり言ってたら
00:17:32蓄積した資本がね
00:17:34投資再投資できないと
00:17:37後ろ向きの大気汚染とか水素だとか
00:17:40そういったことに振り向ける
00:17:41これを外部不経済と言ってましたけど
00:17:43そういうことばっかり言ってたんじゃ
00:17:45日本が経済の破天に立ち遅れると
00:17:49どっちをより重視していくのかという
00:17:52立場立場ですからね
00:17:53そういうことでのガクガクの議論だったと思いますね
00:17:571966年に厚生省に入った加藤三郎さん
00:18:06遺体遺体病など
00:18:08公害病の健康被害の調査に取り組んだ
00:18:11本来ならば最も政治の最も高いレベルでですね
00:18:20きちっとその調整をすべきだったと思うんですが
00:18:24なかなか政治がそこまで
00:18:25常に出てくるわけにはいかないもんですから
00:18:30したがってそれを担当する役所同士が
00:18:33お互いにバトルをし合いながらですね
00:18:36その着地点を求めているということだと思うんですよね
00:18:40官庁全体政府全体としては一枚岩じゃない
00:18:43それはそれぞれの役所のミッションがありますんでね
00:18:49厚生省という役所は国民の健康とか人命
00:18:55そういったものを守るというのがミッションですよね
00:18:58通産省はやっぱり産業を促進すると
00:19:02経済を伸ばすというのがミッションですから
00:19:06本来ならあんまりやりたくないんだけども
00:19:09しょうがないからマスコミが騒ぐから
00:19:11新聞で叩かれるから
00:19:14あるいは国会でいじめられるから
00:19:17しょうがなくてやるんだ
00:19:18そういう感じでですね
00:19:20公害対策をやると
00:19:23当時の日本の非常に大きな
00:19:25モチベーションであった
00:19:27高度経済成長にさしさわりがあるという
00:19:30そういう意見が多かったわけですね
00:19:35多発する公害に追いつかない政府の対策
00:19:41一方でさらなる経済政策を進めていく
00:19:46新たに日本各地に産業都市を作ろうというものだった
00:19:521962年
00:19:57政府は新産業都市建設促進法を制定
00:20:01目指したのは国民経済の発達だった
00:20:08四日市のような大規模開発を全国に広げようと
00:20:16拠点となる15の新産業都市
00:20:20それに準ずる6つの工業整備特別地域を指定した
00:20:27その一つが富士山のふもと
00:20:30東駿河湾地区だった
00:20:381963年
00:20:40静岡県は三島市、清水町、沼津市にまたがる
00:20:45石油化学コンビナート計画を発表
00:20:49それは四日市を上回る規模だった
00:20:57お帰りくださいませ
00:20:59ありがとうございます
00:21:01コンビナート予定地に暮らしていた
00:21:03山本康子さんが計画図を見せてくれた
00:21:07これが一番分かりやすいんです
00:21:10こっちが、こっちがごめです
00:21:13総工費1300億円
00:21:16用地は300万平方キロに及ぶ
00:21:19石油生成工場と石油化学工場を
00:21:3710キロを超えるパイプラインで
00:21:39海沿いの火力発電所と結ぶ計画だった
00:21:425歳の娘の母だった山本さん
00:21:54地元に暮らす人たちの多くは
00:21:57コンビナート建設計画に
00:21:59あまり疑問を持たなかったという
00:22:02予定地はどこだったんですか?
00:22:05ここまで?
00:22:07ここ?
00:22:08コンビナート建設計画に
00:22:09ここまで?
00:22:10ここまで?
00:22:11ここまで?
00:22:12沼津からね
00:22:13駿河湾から
00:22:14ずーっと
00:22:15新水町と
00:22:16コンビナートって
00:22:18わりと分からなかったですからね
00:22:20どんな気持ちだったんですか?
00:22:22コンビナートが来るっていうのは?
00:22:24どんな気持ちにもこんな気持ちにも
00:22:26分からないから
00:22:27そうかね
00:22:28そういうものが来るのかね
00:22:30ただそれだけです
00:22:31大きな会社が来て
00:22:33人材雇用っていうか
00:22:35働くとこが増えるのかな
00:22:38ただそのぐらいです
00:22:40静岡県の広報 県民だより
00:22:46計画を推奨する言葉が並んだ
00:22:49中小企業も繁栄する
00:22:54人体、農作物に影響はない
00:22:59公害は全く考えられない
00:23:05当時三島市役所に勤めていた
00:23:11八木正和さん
00:23:13県から降りてきた計画に
00:23:15三島市も大きな魅力を感じていた
00:23:18県からもちろん
00:23:22いいことづくめの話があって
00:23:24県の話ですと
00:23:26コンビナートが進出してきてから
00:23:303年後にはですね
00:23:32三島、清水町、沼津で
00:23:34西一町でですね
00:23:3612億から20億ぐらいの税収が
00:23:38入ってくると
00:23:40西一町でね
00:23:42それは魅力ですよね
00:23:44しかし
00:23:48住民たちの中には
00:23:50不安を抱く人たちもいた
00:23:52当時、沼津の工業高校で
00:23:55物理を教えていた
00:23:56西岡明雄さん
00:23:58西岡さん
00:24:02西岡さんたちは
00:24:04郊外が深刻化していた
00:24:06四日市のコンビナートを
00:24:08視察することにした
00:24:10バスをチャーターし
00:24:16四日市行きは
00:24:18何度も繰り返された
00:24:20一晩中
00:24:22車に乗って温度を測ったり
00:24:24ガスの濃度を測ったり
00:24:26そういうことをやるということを
00:24:28いたしました
00:24:30そずって漁港がありますね
00:24:32そこへ行って
00:24:34いろいろ聞いたときに
00:24:36漁船のスクリューがみんな
00:24:38凝っちゃって
00:24:40錆びて
00:24:42それを知らずに
00:24:44漁船を出していって
00:24:46イスワンのどこかに行ったときに
00:24:48ポローンと
00:24:50あれが落ちちゃって
00:24:52船は動かなくなって
00:24:54それと
00:24:56私の思いをする
00:24:58そういう話をね
00:25:00お話を聞きました
00:25:02いかに凄まじいものか
00:25:04ということが
00:25:06分かりますね
00:25:08西岡さんは
00:25:12四日市で見聞きしたことを
00:25:14地域の人を集めて伝えた
00:25:16家持って帰って
00:25:18やってとってもよかったんです
00:25:20こうなってくるの
00:25:22あのガチャガチャって
00:25:24こうやった
00:25:28四日市で撮影した写真を
00:25:30スライド上映し
00:25:32石油化学コンビナートによる
00:25:34公害の実情を話した
00:25:361万枚、2万枚ぐらい撮ったかな
00:25:42そのくらい撮りました
00:25:44と
00:25:46結局目で皆さんに言ったよ
00:25:48と
00:25:50あの
00:25:52一番の
00:25:54お話してもね
00:25:56僕らですら
00:25:58見当がつかないですよ
00:26:00うーん
00:26:02130メートルの
00:26:04高さの
00:26:06煙突から煙が出ると
00:26:08こうなりますってことはもう
00:26:10その写真撮って見せるしかない
00:26:12そういうことをやって
00:26:14ざーっと
00:26:16あの
00:26:18学習会っていうものをやってきたわけですね
00:26:22学習会は
00:26:24三島市、沼津市、清水町の各地で
00:26:26数多く開かれた
00:26:28それが
00:26:30住民による
00:26:32反対運動へとつながっていく
00:26:34一晩に3回ぐらい
00:26:42学習会をやるというね
00:26:44みんなため息が聞こえるぐらいのね
00:26:48距離で勉強会っていうのをやったんですよ
00:26:52その時に皆さんは
00:26:54あの
00:26:55どんどんどんどん
00:26:57これやらなきゃいけないっていう雰囲気を
00:27:00皆さん自身が
00:27:02他の人からも受け取るし
00:27:05みんながもう
00:27:07手をつなぎ出したことは間違いないんですね
00:27:10こういう学習会をやってね
00:27:12それが僕にはね
00:27:14あーよかったなーっていう気持ちになったんです
00:27:18三島や沼津では
00:27:23農民、漁師、商店主、主婦らが立場を超えて集結
00:27:29コンビナート反対を訴えて市内を更新した
00:27:37時には国会やコンビナート進出企業へ
00:27:41陳情に出向いた
00:27:43お金がもちろんどっからも出ないもんですからね
00:27:51街頭へ立ってボケ運動
00:27:53助けがけで
00:27:55本当にお母さんたちの子どもを守ろうっていう
00:27:59熱い気持ちの住民運動だったんじゃないかと
00:28:02私は思います
00:28:04だから自然に湧き上がった
00:28:06そのお母さんたちの思いがね
00:28:09やっぱり大きな力だったじゃないですか
00:28:12うん、ねえ
00:28:14庁舎の2階の窓から見てました
00:28:17これはえらい勢いだなって
00:28:19市民のエネルギーっていうのはすごいと思いましたよ
00:28:21そのころ
00:28:22ごく静かな街でしょう
00:28:24我々の職員でね
00:28:25何にもとにかく
00:28:26市の言うことに反対をする市民なんかなかったし
00:28:30行政っていうのは大変やりよいし
00:28:33まあ住みいい街でしたね
00:28:35私もここで生まれて育ったもんですからね
00:28:39三島人の気風っていうのは分かりますけどね
00:28:42穏やかな土地柄だし
00:28:45人柄の住んでる街なんですよ
00:28:48だからこんな農民がですね
00:28:51むしろば倒ったって
00:28:53トラクターでもってお作業するなんてことは
00:28:56勝ってないことでしたからね
00:28:59驚きました
00:29:03危機感を抱いた政府は調査団を派遣
00:29:07ヘリコプターによる気流調査や
00:29:09模型を使った実験などを実施した
00:29:16工場のガスは風によって拡散し
00:29:19四日市のような被害が発生することはないと発表した
00:29:23本当に被害は出ないのか
00:29:29地元にも調査団が作られた
00:29:32西岡さんは地域の気流を自分たちの力で調べることにした
00:29:39ひらめいたのはこいのぼり調査
00:29:44ひらめいたのはこいのぼり調査
00:29:48西岡さんは教え子に呼びかけ
00:29:51各地のこいのぼりで風光と風量を記録してもらった
00:29:55生徒に渡した調査票
00:30:03懐かしいですよね
00:30:05何百万以下が集まってきて
00:30:08それを地図の上に落とすと
00:30:125月の5日の12時には
00:30:15こいのぼりがどっちの方向を向いていたかっていうのが
00:30:19きれいに出てくるんですよ
00:30:21ちゃんと観察してありましたね
00:30:26ここに数字がありますでしょ
00:30:28この数字はどっち向きに尻尾が向いているかっていう数字
00:30:35だから風光ですね
00:30:37で、事実にこんな広々した範囲を
00:30:41いっぺんにこういうことを測るのってのは
00:30:44とても気象庁なんかではできないし
00:30:47もうこれはお手のものですよね
00:30:49こういうことはね
00:30:52この人海戦術が沼津と三島特有の気流を捉えた
00:30:59朝夕で複雑に変わる風が工場のガスを住宅地にとどまらせ
00:31:05被害を与える可能性が高いと結論を出した
00:31:08政府と地元、二つの調査団は東京で直に向き合った
00:31:24この会見の酷明な記録が残されている
00:31:27模型による実験の信頼度について
00:31:32地元調査団が質問すると、政府調査団はこう答えた
00:31:36短い期間の調査でですね、信頼度をチェックという風な実験はできなかったわけでございます
00:31:48現地での実験とのですね、付き合わせが欲しいわけなんです
00:31:56それは実はないわけなんです
00:31:58政府調査団の弁明に地元調査団は不信を抱いていく
00:32:08あなた方はあそこの土地の風というものをだね
00:32:17どこからどう吹くということを知らない
00:32:21市民として普通の判断で勉強をした結果を
00:32:31どんどん向こうへ申し出れば絶対に勝てる
00:32:37そういう気持ちがだんだん僕にも起きてきた
00:32:43市民たちの強い声に三島市長は
00:32:461964年5月、コンビナート受入れ反対を表明した
00:32:564ヶ月後、沼津では市民大会に2万5千人が集まった
00:33:03反対の声が強まったことを理由に、沼津市長も受入れ拒否を表明
00:33:09コンビナート計画は断念された
00:33:16これは三島沼津、1960年9月13日
00:33:24すごいですよ、感動しましたね
00:33:29拒否をしたというのは、他の所に与えた影響は非常に大きいと思いますね
00:33:34三島沼津方とその後言われたんですけど
00:33:37ちゃんと調査をして、報告書を出して、学習会をして
00:33:43それで本当に自分のところの地域は、どういう発展すればいいかということを
00:33:48考えるということを、他の地域を学んだという意味では大変大きかったし
00:33:56政府にとってみれば、大変な事業を潰されたわけですから
00:34:01そういう意味では、やっぱり公害対策をしないとね
00:34:05もはや成長や開発はできないということが分かって
00:34:11政府に対する影響も大変大きかったし、企業に対する影響も大きかったと思いますね
00:34:16四日市の実例に学んで始まった三島沼津の反対運動
00:34:25その実践が、逆に四日市に影響を与えていく
00:34:30四日市で被害者の実情を伝える活動をしていた沢井芳郎さんは、沼津に西岡さんを訪問した
00:34:42三島沼津の先生たちに、逆に教えてもらいに行こうということで、一晩泊めてもらって、二日間びっしりいろいろ、当時の写真なんかを見せてもらいながら、運動の話をお聞きやしたという
00:34:57やっぱりね、あれだけ市民をね、動員して何千人っていうね、ああいう運動をどうやってできたのかなっていう、一番沼津へ行って大変感激しましたのでね、
00:35:13何が問題かっていうことをやっぱり、みんなで考えて、そういうのをなくそうという、それを考えようっていう。
00:35:35沢井さんたち市民が四日市郊外を記録した貴重なフィルムが残されていた。
00:35:42沼津工業高校の先生を招いて、第一回郊外問題学習会が開かれました。
00:35:53沢井さんは沼津に習い、地域で学習会を繰り返した。沼津から西岡さんたちを講師として招き、話を聞くこともあった。
00:36:08昭和42年6月13日、天納豆を作っている岡目堂の主人、大谷和彦さんが、
00:36:22ああ、今日も空気が悪い、の一言を残して、60年にわたる生涯を自らの手で断たれました。
00:36:334ヶ月後の10月、四日市の中学校に通う南紀美恵さんが、全息による呼吸困難で死亡した。
00:36:44自殺者に加え、若い命も奪っていく、口外病。
00:36:50この年、9人の全息患者が、コンビナードの中核企業6社を被告として提訴した。
00:37:03中心となったのは、漁師の野田幸和さんだった。
00:37:10せっかく俺は上の中に生まれてきたのに、こんな一方的な会社の悪業で苦しめられて、
00:37:21家の病院で死ぬの待っとるみたいなもんやんかっていうね。
00:37:26だから、こんな苦しい、いい文字思いとらんでも、一緒のこと裁判やろうと決着つけてもうてな。
00:37:35俺ら負けたからな。大霊いと思って、公害に乗り込むのもないかっていう、こんな気持ちでやってんもん。
00:37:42深刻な公害問題に対応を迫られた国は、1966年の末に、公害対策基本法に取り組むことになった。
00:37:57厚生省が作った試案。法案の目的を次のように記した。
00:38:06国民の健康、生活環境及び財産を公害から保護。
00:38:18しかし、この公正省案に反対意見が出されていく。
00:38:24経済企画庁、通産省、運輸省からの意見には、
00:38:29経済発展との調和の考え方を取り入れるべき、とあった。
00:38:38経済の発展を阻害しないことを重視していた。
00:38:43経団連も、通産省などと補聴を合わせた。
00:38:51要望書で、厚生省試案を、産業界として多大の不安を禁じ得ない、と批判。
00:39:00経済の発展との調和を強調した。
00:39:04私から言わせれば、良識があるような立場の人からは、
00:39:10そういった調和条項というのは、やはりおかしいのではないかと。
00:39:15やはりこの健康とか、そういったものは、やっぱり大事に考えるべきではないかと。
00:39:20こういう筋論みたいなものがあったと思いますね。
00:39:24ただ、それは、やはり日本がまだ本当に経済発展の中についたばかりですので、
00:39:31あまりにもその経済のことを、発展を無視してね、議論されるのは困ると。
00:39:361967年、公害対策基本法が成立した。
00:39:49第1条に、厚生省の試案にあった、国民の健康を保護することが歌われた。
00:40:02しかし、通産省経団連などが主張した、
00:40:07経済の健全な発展との調和が図られるようにする、という文言。
00:40:13いわゆる、経済調和条項が付け加えられた。
00:40:181970年は、大きな天下の年になった。
00:40:35人類の進歩と調和をテーマにした、日本万国博覧会は、世界中から6000万人以上集めた。
00:40:46しかし同時に、深刻な公害が連日、テレビや新聞で報じられていく。
00:40:54駿河湾のタゴの裏。万葉の歌にも読まれたこの海も、今はヘドロが浮かぶ汚れた海になっています。
00:41:02海の自然までも破壊してしまいました。
00:41:07漁民の引く網からは、背びれや尾びれの溶けた魚が獲れました。
00:41:22一方、都会では激増する交通事故とともに、自動車の排気ガスが恐ろしい郊外としてクローズアップされました。
00:41:31すり鉢の底のような東京・新宿の柳町交差点。
00:41:41車の排気ガスを吸い続けている地元の人たちの血液に、普通より鉛が多く含まれているという検診の結果が、
00:41:495月下旬、民間の医師団から発表され、都会に住む人に不安を与えました。
00:41:58東京・杉並区の高校で生徒40数人を倒した高科学スモグ。
00:42:05午前中クラブやってて、それで目がなんかチカチカして出してきたんですね。
00:42:10それでその時は別に気にも止めないで、午後の講師のプールに入ったんです。
00:42:16そしたら、なんか先生が出なさいなんつって。
00:42:19その時からちょっとなんかめまいがしたり、咳が出ちゃったりして。
00:42:24そして救急車で運ばれてきて。
00:42:27ただいま、高科学スモグが暗くなっておりますので、次のことにご注意ください。
00:42:35屋外にはなるべく出ないようにしてください。
00:42:40逃げ場なし、高科学スモグ。
00:42:45大気を返せ。
00:42:50この年、NHKが首都圏で行った調査によると、自身が何かの公害を受けているかという問いに、76%がイエスと答えた。
00:43:03公害問題が大きく報道される中、時の佐藤英作首相は、その対策に本腰を入れて取り組むことになる。
00:43:16この年の7月、佐藤は内閣に直属する公害対策本部を設置した。
00:43:26本部長は首相自身が務めた。
00:43:36公害対策本部に各省庁から24人のメンバーが集められた。
00:43:43厚生省の古川定次郎さんもその一人だった。
00:43:48政治的に砂糖たたきということで、公害が非常に激しくなってくる。
00:43:53それは無策じゃないかみたいなね。
00:43:55砂糖たたきにも使われてくる。
00:43:57そういう状況があるわけなんですよね。
00:44:00それに対する大きな危機感で、
00:44:02佐藤さんが急遽、そういう事件的な公害行政をやる中、
00:44:10いわば大胆なね、当時としては大胆な政策を打ち出すことになったのではないかと。
00:44:17そう思いますけどね。
00:44:211970年11月、臨時国会が招集された。
00:44:28後に、公害国会と呼ばれるようになる。
00:44:33私は、今後の政策の基調を、
00:44:40福祉なくして成長なし、
00:44:43福祉なくして成長なしという事件に求めたいと考えております。
00:44:49国民生活優先の見地から、
00:44:52公害対策基本法の改正を提案することといたしました。
00:44:57この時、佐藤は、公害対策基本法の中の経済調和条項を削除することを決断した。
00:45:10基本法の中に調和条項が入った時から、やっぱりその時から議論がされてて、
00:45:15その後もずっと蒸し替えされてきているわけなんで、
00:45:18やはり公害を世界に向かってても、
00:45:24きちっとした日本が公害対策をやるという以上は、
00:45:28そういう状況があったら、やっぱり支障になるという、
00:45:31やっぱり政治的な判断があったんじゃないでしょうか。
00:45:34世の中がもうそういう方向で来てましたから、
00:45:37経済環境といえども、やっぱり産業界といえどもね、
00:45:41もうそれはそれでということじゃなかったんだろうか。
00:45:48公害国家で成立した法律。
00:45:53騒音の規制、大気、水質、海洋、土壌の汚染の防止など、
00:46:0114もの公害対策法が制定された。
00:46:04人の健康を害する物質を排出した企業などを、
00:46:14公害犯罪として処罰する法律も作られた。
00:46:24佐藤は日記に、公害国家への興奮をつづっていた。
00:46:28公害関係法案、全部衆議院パス。
00:46:36大変な仕事だったと思う。
00:46:40私は、振り返ってみると、公害国会というのは、
00:46:49公害発生の先進国から公害規制の国にね、
00:46:56180を転換する最初の基盤じゃなかったかなと思います。
00:47:00ただし、まだ環境の議論というのは、まだあんまりなかったですよね。
00:47:06公害ということでの、公害先進国から公害規制先進国に変わる天気だったということは、
00:47:15言えるんじゃないかと思います。
00:47:16天気の年となった1970年。
00:47:23公害先進国日本に、強い関心を抱いた世界の研究者44人が集まった。
00:47:30東京シンポジウム。
00:47:32進む環境破壊をどうするか。
00:47:364日間、最新の研究成果を伝え合い、討議を続けた。
00:47:42最終日に提唱された、新たな権利、環境権に、
00:47:48社会科学者、宮本健一さんは注目した。
00:47:51エンバイラメントルライト、環境権というのを提唱しようと。
00:48:01つまり、これは基本的人権としての環境権というのはあるべきであると。
00:48:06従来、生活権とか健康権とかいろいろありますけれども、
00:48:13良き環境を享受する権利というのは、人類が持つべきであると。
00:48:19これは、やっぱり日本の深刻な環境破壊などを見れば、
00:48:26やっぱり健康障害ができてから対策を立てては遅いんだね。
00:48:33良き環境を保持する、維持するという、その権利が明示された方がいいというので、
00:48:43最後に環境権が提唱されたんですね。
00:48:46東京シンポジウムは、環境権を次のように決議した。
00:48:52人たる者誰もが、健康や福祉を犯す要因に災いされない環境を享受する権利を、
00:49:06基本的人権の一種として持つ。
00:49:17公害対策から環境保護へと、時代は大きく転換していく。
00:49:22環境保護を求める声に、行政も対応していく。
00:49:331971年、公害対策本部に代わって、新たな環境庁が誕生した。
00:49:41環境庁の基礎を作ったのは、2代目長官の大石武一だった。
00:49:52医師から政治家に転じた大石。
00:49:55早速取り組んだのが、福島、新潟、群馬にまたがる、小瀬の自然保護だった。
00:50:07当時、観光客が増加していた小瀬に、政府と地元3県は、新たな道路建設を進めようとしていた。
00:50:15貴重な出現を守ってほしい、という地元の要請を受けた大石。
00:50:26小瀬を3日間に渡って巡り、人々の話を聞いた。
00:50:35そして、既に始まっていた道路工事の中止を決めた。
00:50:3940年にわたり、小瀬の自然保護に関わってきた椎名裕子さん。
00:50:49大石の決断が、今の小瀬の自然につながっていると考えている。
00:50:55どこからどこを道路が走る予定?
00:50:57ここまで車で入ってきたら、すごい人間が入って、ここの出現はもう、大江出現はもうめちゃめちゃになってしまうんじゃないかなというふうに思いますけどね。
00:51:09でも、ここでストップされましたから、守られたということになりますよね。
00:51:15もともと植物、大好きな先生でしたから、もうほんと一度壊れてしまったら、もう二度と元には戻ることのないという、
00:51:26あの、脆弱な、ほんとに弱い植物が生えているようなところですから、保護しなきゃっていう思いが、ずっと終わりになったんだと思うんですね。
00:51:37まあ、行政がある程度はやらないと、物事は逆にいっちゃう可能性もあったわけですね。
00:51:44もう、大瀬っていうのがなくなってたかもしれないですね。もしかするとね。
00:51:53環境をめぐる議論は、世界でも広がっていた。
00:51:581972年に、スウェーデンのストックホルムで開かれた国連人間環境会議。
00:52:05環境問題についての、初めての本格的な国連会議に、113カ国が参加した。
00:52:14キャッチフレーズは、かけがえのない地球。
00:52:17公害の被害者も、ストックホルムを訪れた。
00:52:26大瀬性水俣病患者の坂本忍さんは、水俣と同じになってはだめ、と訴えた。
00:52:36会議で、環境庁長官の大石は、戦後日本の公害をめぐる歩みを語った。
00:52:46このような悲惨な経験を通して、
00:52:53日本国民の間に深刻な反省が生まれてまいりましたことは当然であります。
00:52:59誰のための、何のための経済成長か、という疑問が広く提起され、
00:53:06日本国民は、より多くの生産、より大きいGNPが、
00:53:12人間幸福への努力の主要であると考え、
00:53:15これに最大の情熱を傾けてまいったのでありますが、
00:53:19その考えが、誤りであることに気がつきました。
00:53:24決して、経済、エコノミック・アニマルが日本の本性ではないんだと。
00:53:31日本人の本性というのは、自然を愛好するためなんだ。
00:53:35ところが戦後ですね、戦後復興の中で、
00:53:38経済を何とかしなくちゃいけないという中で、
00:53:41猛烈な工業化を進めた結果、
00:53:44非常に意図しない公害が起こってきて、
00:53:48実際にひどい公害状態が発生したと。
00:53:52水又病とかイタイタ病も確か触れたと思います。
00:53:55そして、そういうものが発生して、死者まで出たんだと。
00:54:00だから、そういうやり方をですね、
00:54:03反省をして、日本国民は反省をして、
00:54:07新しい経済のやり方といいますか、そういうものを求めているんだと。
00:54:131972年7月。
00:54:18四日市公害裁判の判決が下された。
00:54:22都地方裁判所は、野田さんら9人の訴えを認め、
00:54:26原告焦燥を言い渡した。
00:54:33この度は、皆様のご支援をもちまして、
00:54:36全面勝負となりましたことは、非常に喜ばしいこととなります。
00:54:41ですけれども、この判決の戻りに、
00:54:45四日市に青空が戻るという問題ではありませんから、
00:54:49皆様、ご注意、ありがとうということは、少し差し控えさせてもらいます。
00:55:04四日市コンビナートの被告企業は控訴せず、患者への保障に応じた。
00:55:10さらに、公害対策も講じていく。
00:55:13昭和四日市石油は、
00:55:18亜粒酸ガスの削減につながる、新たな機械を導入した。
00:55:26使用している燃料の硫黄分というのは、
00:55:30当時から比べると約100分の1ぐらいになっています。
00:55:33それに伴って、
00:55:36SOXの
00:55:40量も排出量も、
00:55:42だいたい20分の1、30分の1に減ってきています。
00:55:491973年のオイルショックは、
00:55:52高度経済成長の時代の終わりを告げる。
00:55:55産業活動においては、
00:55:59小資源、小エネルギーの
00:56:02構造的対応を成し遂げ、
00:56:05節約は未属の価値観を定着させていかなければなりません。
00:56:10この年、本格的な自動車の排出ガス規制が始まった。
00:56:15これを契機に、大気汚染に考慮した車が開発されるようになる。
00:56:25企業は、環境に配慮した生産へと転換していく。
00:56:291970年に提唱された環境権。
00:56:49この権利に基づいて、全国各地で地域の環境保護が進められていった。
00:56:56北海道伊達市は、市民が参加して環境権を条例で定めた町である。
00:57:07地域の自然を再発見するエコツアー。
00:57:10こうした取り組みは、1972年に始まった環境権に基づく裁判がきっかけだった。
00:57:33北海道電力伊達火力発電所。
00:57:41建設計画が発表されると、多くの住民たちが自然環境の破壊につながると不安を抱いた。
00:57:47漁師、農家、教員、学生などが建設を差し止めようと裁判を起こした。
00:58:01当時、伊達で会社員をしていた木村増美さんも、この反対運動に加わった。
00:58:15公害ってすごい汚されてしまって、それでそれを回復しようという、そういう意味合いが強いと思うんだけれども、
00:58:24ここはまだ発電所が建つ前に、何らかの権利で止めなきゃいけないんですよね。
00:58:33じゃあそれが環境権かなって。
00:58:35僕たちが空気とか水とかね、このきれいなところを汚されないっていうのが環境権の一つかなって。
00:58:45民法環境法の専門家の淡路武久さん。
00:58:50伊達市民の環境権裁判を支援した。
00:58:55日本の憲法ではどうかというと、憲法13条には自由権的な幸福追求をするとか、個人の尊重とかという、そういう規定がありますし、
00:59:1125条には生存権の規定があります。
00:59:15この2つに根拠を付けられて、環境権は認められるのだと。
00:59:20環境権で大事なことは、要するに環境破壊が起こる前の段階で止めたい。
00:59:30情報提供されて、意見を言って、問題提供してっていう形で環境破壊を防ぐと。
00:59:40開発される前に環境を保護しようという運動。
00:59:44三島沼津のコンビナート進出反対運動も参考になったという。
00:59:54先例といいますか、経験というのはやはり三島沼津。
00:59:58この運動として三島沼津のケースというのは、大変大きな影響を各地の開発計画予定地に与えたんだと思うんです。
01:00:101980年、住民による火力発電所建設差し止めの請求は、理由なしとして棄却された。
01:00:19札幌地裁は環境権を訴えの根拠にすることを認めなかった。
01:00:26憲法13条、憲法25条は、個々の国民に対して、直接に具体的権利を付与したものではない。
01:00:39この頃、環境権を掲げ、公共事業の差し止めを求める裁判が相次いだ。
01:01:01大阪空港公害裁判では、住民が飛行機の深夜の発着の制限を求めたが、環境権は訴えの根拠としては認められなかった。
01:01:16しかし、環境権を掲げた訴訟によって、得られたものも大きかったと淡路さんは言う。
01:01:34環境権というのは、裁判所は認められていなくても、どんどんある意味で、必要性というのは、国民の間といいますか、市民の間といいますか、の間に広がっているんだというふうに思うんですね。
01:01:50伊達の裁判でも、環境権は認められませんでしたけれども、その過程では、どんどん公害対策が捉えていくわけですね。
01:02:01訴訟の中で、被告として訴えられた旧海道電力、これがどんどん公害対策を厳しく取っていくわけです。
01:02:141978年に創業を始めた伊達火力発電所。
01:02:21肺炎の硫黄酸化物を取り除く装置を設け、環境に配慮した。
01:02:31公害対策から環境保護へ、大きく転換していく時代の流れに政府も対応した。
01:02:411993年、公害対策基本法に変わって、新たに環境基本法を制定した。
01:02:49現在及び将来の世代の人間が、健全で恵み豊かな環境の傾断を享受する。
01:03:02また、環境への負荷の少ない健全な経済を発展させることも謳われた。
01:03:14環境基本法づくりに中心メンバーとして携わった人がいる。
01:03:29環境庁計画調査室長だった小林光さん。
01:03:33それまでは公害がなければいいという感じで、被害がなければいいということでしたけど、
01:03:42その後はむしろ環境の恵みを長く持ってよう。
01:03:46みんなでそれを享受しようと言葉が難しいですけど、そういうことに変わったんですね。
01:03:51ですから、落題しないようにやるんじゃなくて、いい成績を取るようにやろうということで、かなり考え方が変わったんですね。
01:04:00その経済も環境の負荷の少ない経済に変えるとか、そのために政策の手段もみんなが参加するようにだいぶ変わったんですね。
01:04:10そういう意味で大きな変化が環境基本法にあったと思います。
01:04:16伊達市では裁判の敗訴後も、市民が環境圏を地域の暮らしに生かすよう市に提言し続けた。
01:04:24その声に押され、伊達市では環境基本条例を作ることになった。
01:04:361997年、条例づくりのための市民会議が発足した。
01:04:4321人のメンバーが公募で集められることになった。
01:04:47公募はですね、将来市民に実践をしてもらうこと、環境問題だけにですね、実践してもらわなければなりませんし、
01:05:04条例の成果を当然行政としては期待するわけですよね。
01:05:08そのためにはやっぱり市民側に立って、公募で委員を選んだ方がいいだろうというのが判断でした。
01:05:21環境圏裁判に関わった木村さん。
01:05:27市民会議のメンバーになった。
01:05:29市民がですね、行政に向かって、もしくは町づくりに向かって口を出せる、そういう環境をやっぱり作る、それは共同っていう言い方だと思うんですけどね。
01:05:47そうでなければ、この環境っていうのは所詮守れないと。
01:05:55絵に描いた餅になっちゃうと。
01:05:562年に及ぶ話し合いの末、伊達市環境基本条例が誕生した。
01:06:08環境圏は次のように記された。
01:06:13市民は、環境に関する情報を知ること及び、施策の策定等に当たって参加することを通じ、
01:06:22良好で快適な環境の恵みを享受する権利を有する。
01:06:36条例によって、市民が環境保護に関わることが保障されるようになった。
01:06:43木村さんは、12年前から伊達の自然を再発見するエコツアーを始めた。
01:06:49今までは、行政と企業が勝手なことをやっちゃうわけですから、
01:06:57そうじゃないんだと。
01:06:59市民もちゃんとくちばしを入れて、その中で話し合いをしてね、
01:07:04じゃあ、妥当な着地点ってこれだよね、というようなところに行かなきゃいけないんじゃないかなと思うんですね。
01:07:11その一つが、この環境条例というものにつながっているのかなって、そういうふうに思ってますね。
01:07:19だから役に立ってますよ、この条例というのは。
01:07:22僕らのね、今やっている、本当に自然っていいよね、大切だよねって、
01:07:30この自然を生かした街になるともっといいよねって、
01:07:35そういう部分についてもね、条例の精神ってどこかで通じている、
01:07:41そういうものはあるかなと思いますね。
01:07:43地球温暖化
01:08:09地球温暖化
01:08:09産業活動で増えた温室効果ガス。
01:08:16平均気温は上がり、海水面が上昇。
01:08:20生態系の変化が生じようとしていた。
01:08:25その危機感は、世界に広がっていった。
01:08:33温室効果ガスを削減しなくてはならない。
01:08:351997年、京都に世界各国の代表が集まった。
01:08:43京都会議である。
01:08:49失礼します。
01:08:52なぜ、日本はこの会議を誘致したのか。
01:08:55当時、環境庁、地球環境部長の浜中博則さん。
01:09:02京都会議の担当責任者だった。
01:09:0490年頃に地球環境問題が世界的に大きな問題になったときに、
01:09:13日本は魚の取り過ぎとか、あるいは熱帯の破壊に手を貸しているんじゃないか。
01:09:21木材輸入ということを通じてですね。
01:09:23批判をされたものですから、
01:09:26ちょっとやはりそういう批判されてばかりでは良くない。
01:09:31日本はかつて郊外に苦しんだけども、
01:09:36それを克服した。
01:09:38経済成長にも悪影響がなくですね、克服した。
01:09:42そういう郊外対策先進国なんだと。
01:09:47それを、そこをベースにしてですね、
01:09:50これからむしろ日本は積極的な役割を果たしていくべきだと。
01:09:54コップ3、気候変動枠組み条約、第3回定約国会議。
01:10:03160を超える国からおよそ1万人が参加。
01:10:07温室効果ガスをどれだけ減らせるか、
01:10:10先進国の数値目標を打ち立てるのが目的だった。
01:10:14しかし、アメリカは大幅な削減はできないと主張、
01:10:22会議は難航した。
01:10:30会議終了3日前、
01:10:32アメリカのゴア副大統領が京都に到着してから、
01:10:36後着していた会議が動き出した。
01:10:38アメリカ交渉団は大きく方針を変えた。
01:10:59日本交渉団を指揮していた浜中さんも、
01:11:02アメリカの急変ぶりに驚かされていた。
01:11:08アメリカはマイナスでもいいよと。
01:11:12数値をいくらにするかはまだ最初は言いませんでしたけども、
01:11:17何パーセントかの先ができる。
01:11:19これは初めて日米EUの合意が成立する可能性が見えてきたということでしたね。
01:11:28それから3局の間で、
01:11:31徹夜、徹夜、徹夜の交渉をやりましたけど。
01:11:35予定を半日延長して、議定書は採択された。
01:11:51経済活動に枠をはめることにもつながる、
01:11:54前例のない取り決めとなった。
01:11:56温室効果ガスの削減目標は、
01:12:03EU8%、アメリカ7%、日本6%、
01:12:10省エネの達成度など、
01:12:11各国の事情を考慮した異なる目標設定となった。
01:12:15京都議定書採択から4年、
01:12:24合意に達した各国に激震が走った。
01:12:28アメリカが議定書の枠組みから離脱すると発表したのだ。
01:12:32そして、アメリカの伝統が突っ辱されたのだ。
01:13:02京都議定書では途上国が温室効果ガス削減の枠組みに参加していなかった
01:13:14さらにブッシュ政権を支えた石油産業界は一貫して反京都議定書キャンペーンを繰り広げていた
01:13:26経済の停滞は許されないという理由だった
01:13:32日本はアメリカを京都議定書に呼び戻そうと交渉を続けた
01:13:40同時にコップを舞台にEUなどと京都議定書を運用するためのルール作りに取り組んだ
01:13:51京都議定書をめぐる国際交渉の先頭に立ったのが初代環境大臣の川口より子さんだった
01:14:14自分の国の利益だけ考えていたらまとまらないところをどうやってまとめるか
01:14:23やっぱりこのままいったら地球はどうなるのっていう感じを皆さん持っていたと思いますね
01:14:32日本はやめますというわけにはいかない国であると私は思いましたし
01:14:38それから課題自体は地球的な非常に大きな課題ですから
01:14:44やっぱり大げさに言えば人間の歴史の中でこれをやめたっていうのは許されないだろうとも思っていたので
01:14:53アメリカが加わらないまま京都議定書の運用ルールは合意に達した
01:15:06これを受けて日本は京都議定書を批准
01:15:11温室効果ガスを6%削減する義務を正式に負った
01:15:16産業界全体に突きつけられた削減目標
01:15:24かつて戸外対策に取り組んできた四日市コンビナートの中核企業も例外ではなかった
01:15:33石油を生成する過程で多くの二酸化炭素を排出する昭和四日市石油
01:15:42公害対策に加えて温暖化対策に力を注いでいる
01:15:49燃料に換算しますとこの10年で約8万キロリットルの原油に相当するエネルギーを削減する計画でおりまして
01:16:03こちらに見えるタンクが1機4万キロですので
01:16:07これの日相当の燃料を10年間で積み上げていきたいと考えています
01:16:12世界全体の問題だと思いますので
01:16:16うちでの省エネというのは大変小さいと思いますけど
01:16:19その一つ一つの積み重ねのために頑張っていきたいと思っています
01:16:252011年3月東日本大震災
01:16:34全電源喪失による福島第一原子力発電所の事故
01:16:42発電量の3割を占めていた原子力発電の停止で
01:16:49火力発電の割合は6割から9割にまで増えた
01:16:54日本の温暖化対策は難しさを増している
01:17:02東日本大震災から半年余り
01:17:08南アフリカで京都議定書に変わる枠組みについて話し合われた
01:17:16新しい枠組みは2020年スタートを目指すことになった
01:17:20それまで京都議定書を延長することも決まった
01:17:25しかし日本は延長した京都議定書には参加しないことを表明した
01:17:36実はこの時すでに途上国も含めた削減の枠組みができており
01:17:45日本はこれに加わっていた
01:17:48経済産業省で京都議定書に携わった沢昭博さんは
01:17:56経済界の思惑を次のように語る
01:18:01その京都議定書というのは
01:18:03外交的な近似党であるように見えるんですけど
01:18:08一方でアメリカに抜けられ
01:18:10途上国には何の義務も課せられないという
01:18:13一種の欠陥条約であるにもかかわらず
01:18:16これにいつまでこだわるんだという気持ちが非常に強かったわけですね
01:18:21途上国が今や6割
01:18:25先進国が4割CO2を出している量でいえば
01:18:30それだけひっくりがっている
01:18:31京都議定書ができたときは逆に
01:18:34先進国が6割で途上国が4割だったんですね
01:18:37それが逆転して
01:18:39途上国が削減していってくれないと
01:18:42先進国が例えばゼロになったとしても
01:18:45その数値には達しない
01:18:48ですから途上国にどうやって削減に参画してもらうか
01:18:53協力してもらうかということが非常に大きなポイントになってくるので
01:18:57途上国も巻き込んだ形で入れる
01:19:01みんなが削減に協力し合えるような枠組み
01:19:07これを作らないといけないのではないかと
01:19:09日本は今
01:19:14途上国を含めた枠組みに基づき
01:19:17温室効果ガスの削減を続けている
01:19:192020年から始まる予定の新しい枠組みでは
01:19:26温室効果ガスを2013年に比べ
01:19:2926%削減するという目標を打ち出している
01:19:34地球温暖化を防ぐため
01:19:41世界中の科学者が参加する研究機構が作られた
01:19:45IPCC
01:19:47国連の気候変動に関する政府間パネル
01:19:51IPCCは二酸化炭素など温室効果ガスで
01:19:59今世紀末までに世界の平均気温がおよそ4度上がってしまうと予測
01:20:04温室効果ガス削減でこの気温上昇を2度程度に抑えないと
01:20:10地球全体に深刻な影響が出ると警告している
01:20:14IPCC報告書の執筆者の一人
01:20:25江森聖太さん
01:20:26江森さんは最新の報告書に基づき
01:20:33日本各地で講演を重ねている
01:20:36今年の12月にパリで
01:20:40COP21という会議がありまして
01:20:43我々の世代
01:20:47我々が生きているうちに引いてしまった引き金によって
01:20:51これから海面が1メーター2メーターと上がっていって
01:20:56この台孫の台もっと先の台の人類は
01:21:00非常に大規模に移住をしなくちゃいけなくなったり
01:21:04南太平洋の島が沈んでしまったりとか
01:21:09そういうことは起こるかもしれないということですよね
01:21:12これが恐ろしいのかどうなのかと
01:21:15これは認識の問題になっていくと思いますよね
01:21:19将来世代の人のことが本当に心配できるのか
01:21:23あるいは途上国の人のことを本当に心配できるのか
01:21:27それを責務であると
01:21:31倫理であると
01:21:32公平でなければならないと
01:21:34そういうタームで本当に我々は
01:21:37その腑に落ちてですね
01:21:39例えば我々の社会を大きく変えるようなことに
01:21:47踏み出せることができるのかということですよね
01:21:52それが本当にシビアに問われているんだろうと思います
01:21:57今中国のPM2.5など
01:22:04経済成長を続ける国々で
01:22:07公害が問題化している
01:22:09かつて公害先進国だった日本は
01:22:17今何を伝えていくべきなのだろう
01:22:20公害にしても
01:22:24その省エネルギーにしても
01:22:26日本がどうやってそれをやったか
01:22:28そういった日本の経験を
01:22:31今まさに高揚化をして
01:22:34伸びている国に対して
01:22:37それを伝えていくというのは
01:22:41私は日本の役目だと思うんですね
01:22:44日本も今まだまだ
01:22:48公害問題の悪影響で
01:22:51健康を害された方というのは
01:22:54現に大勢いらっしゃるわけですよね
01:22:56未だに被害に苦しんでいるという方々がいて
01:23:00発展途上国でそういう人がすでにいますし
01:23:05またこのままいったらもしかしたら
01:23:07もっともっと生まれるかもしれない
01:23:09という状況ですよね
01:23:11ですから日本がこうすればいいんだ
01:23:15ということを伝えていくというのは
01:23:18私は日本の責任だと思いますね
01:23:19公害対策を進めてきた日本
01:23:29しかし今も課題を抱えている
01:23:32今年5月
01:23:34新潟水俣病の慰霊祭が初めて開かれた
01:23:38公式確認から半世紀が経っていた
01:23:43この日被害者が環境大臣に訴えた
01:23:59自分自身の病気がなんだかわからないで
01:24:04昭和33年からずっと具合悪くって
01:24:07いろんな病院掛け持ちして入院して
01:24:11私自身が水俣病であるってことに気がついたのが
01:24:16本当に平成19年のマスコミ報道で
01:24:20新潟水俣病は患者に対する偏見が今も残り
01:24:27病気だと名乗り出られない人もいる
01:24:29社会科学者の宮本健一さんは
01:24:37今も公害の被害があった地域を歩き
01:24:41調査を続けている
01:24:42宮本さんは日本の高賀体験を各地で語り続けている
01:24:57やっぱり環境を優先するっていう思想は
01:25:13引き込めてもらったら困るし
01:25:15それからまた今原発の問題だとかね
01:25:20あるいはアスベストなんかみたいな
01:25:24化学物質がストックされているわけで
01:25:27そういうものの公害問題はまだまだ
01:25:29これから解決をしなければならない
01:25:32そういう意味ではやっぱり
01:25:35孤独成長時代の教訓っていうものを忘れないようにね
01:25:38それからやっぱりあの時の教訓っていうのは
01:25:41もうちょっと若い世代に伝えていかないと
01:25:44ならないと思っていますね
01:25:47四日市では今
01:25:52公害の記憶を後世に伝えようとしている
01:25:55四日市公害訴訟の先頭に立った
01:26:01漁師の野田幸一さん
01:26:04ものすごい悪かった
01:26:05それをね四日市の人が知らんっていうことはね
01:26:09これはとんでもないことです
01:26:11でもね実際に苦しい中に乗ってね
01:26:15苦しいの通り越すとね
01:26:17よしこんなもんに負けてしまうか
01:26:20たまるかっていう気持ちになってね
01:26:22かかり頑張ってます
01:26:24かつてアリウ酸ガスと悪臭に満ちていた磯津の浜
01:26:34海底の土壌を改良し汚染物質を抑える努力を重ねてきた
01:26:40戦後70年
01:26:47公害先進国から環境保護へと歩んできた日本
01:26:52次の世代へ
01:26:57どんな自然環境を残せるのだろうか
01:27:00あの草
01:27:05要するに草木だよな
01:27:08それから動物
01:27:11そして人間だと
01:27:13この3つの種類が地球を支配するのだから
01:27:18だからどの一つ借りてもいいか
01:27:20だからこの八日市の郊外でも
01:27:25一番初めやられたが
01:27:27草木ですよ植物ですよな
01:27:30あの我々がさ
01:27:33人間だけ勝って
01:27:35草木も作れる
01:27:38ね
01:27:38動物が亡くなったらね
01:27:41人間だって生きていくの
01:27:43はいけないもんやろ
01:27:45だから三者三様にさね
01:27:47仲良く生きていくのが私の願いやな
01:27:51俺らの願いはね
01:27:54人類がね
01:27:55この地球を見据えて
01:27:57逃げていかんように
01:28:00永代ね
01:28:03やっぱり人類は地球で生活してた
01:28:07そうやって
01:28:08あの競技漫画や何回出てくるよ
01:28:11豊かな世界になってほしいな
01:28:14ご視聴ありがとうございました
01:28:25ご視聴ありがとうございました

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