昭和53年7月、\r
京都のナイトクラブベラミで田岡組長が\r
命を狙われ、大阪戦争は激化し\r
泥沼の抗争へと突入した。\r
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本家の若頭、山本健一率いる山健組では\r
健竜会、盛力会、健心会がそれぞれ\r
松田組への襲撃を狙う。\r
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8月には松田組系村田組幹部の朝見義男が\r
大阪市住吉区の銭湯「大黒温泉」で\r
射殺されていたが、この時はまだ\r
盛力会の犯行だと公になっていない。\r
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そして9月2日、山健組の若頭、\r
渡辺芳則率いる健竜会が動く。\r
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健竜会で襲撃班が結成された。\r
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この首謀者が当時健竜会理事長補佐で\r
現在の神戸山口組々長・井上邦雄だ。\r
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健竜会の金山義弘は、白いセドリックを\r
用意し京都から和歌山に向かった。\r
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和歌山では同じく健竜会の\r
西住孔希と道躰方彦が\r
金山の到着を待っていた。\r
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西住と道躰は実行犯だ。\r
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金山は和歌山で二人に車を渡し、\r
その後再度落ち合う場所を確認し\r
別れた。\r
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西住と道躰は受け取った車で\r
和歌山市内の松田組系西口組々長・\r
西口善夫の自宅がある\r
築地地区に向かう。\r
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ベラミで田岡を狙撃した鳴海清は\r
西口組のバックアップを受けていると\r
噂されていた。\r
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西口組では山口組からの攻撃に備え\r
連日組員が交代で警備に当たっていた。\r
この日の警備は矢熊元彦と下村郁生の\r
二人が当番だった。\r
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西住と道躰は車を門前にピタリと止め\r
それぞれ銃で目の前にいる二人を狙った。\r
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警備の組員二人が驚いて立ち上がった\r
瞬間、西住と道躰は全弾を撃ちつくした。\r
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そして車でそのまま現場を去った。\r
一つ誤算だったのが、射撃により\r
車のフロントガラスが割れてしまった。\r
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走らす事は出来ても不審を呼ぶと考え\r
阪和自動車道の和歌山インター近くで\r
乗り捨てた。\r
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京都から車を運んだ金山とは\r
結局この日は合流できなかった。\r
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車は警察によって発見され遺留品から\r
金山義弘の名前が割れた。\r
数日後三人は落ち合い、福岡へ逃走。\r
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事件から10日後には西住孔希も\r
指名手配された。\r
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10月になって西住は神戸へ向かうため\r
博多駅に現れ、張込み中の警察により\r
新幹線の中で逮捕された。\r
金山はさらに逃げ、翌54年4月に\r
京都で逮捕された。\r
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この健竜会による西口組襲撃事件の後\r
西口組はほどなく解散した。\r
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この事件で健竜会は五人の逮捕者を\r
出したが、盛力会との違いは、会長の\r
渡辺芳則まで類が及ぶことがなかった。\r
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逮捕された五人の罪状は、\r
車を手配した金山義弘は\r
殺人幇助で5年。\r
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実行犯の西住孔希は15年、\r
もう一人の実行犯道躰方彦は16年。\r
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そして共謀共同正犯として\r
健竜会幹部まで事件は連座。\r
健竜会理事長の前木場信義は15年。\r
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同理事長補佐の井上邦雄はこの事件の\r
首謀者として17年の判決を受けた。\r
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山健三羽烏のうち盛力会と健心会は\r
それぞれ会長が最高責任者として長期の\r
服役を余儀なくされたが、健竜会では\r
井上邦雄が全責任を負うことで、\r
会長の渡辺芳則は服役を回避出来た。\r
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この井上邦雄で責任を止める事により、\r
渡辺芳則は二代目山健組を継ぎ、\r
その後、山口組の五代目組長へと\r
駆け上がった。\r
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三次団体組員として服役した井上邦雄は\r
2000年に出所したが、当時の親分である\r
渡辺芳則はその後の山一抗争を経て\r
山口組本家の組長にまで出世していた。\r
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井上邦雄は出所後健竜会の四代目を継ぎ\r
その後山健組の若頭に就任し\r
四代目山健組の組長に就いた。\r
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これには渡辺の意向が\r
強く働いたと言われている。\r
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渡辺芳則は自分の後継者として井上を\r
意識し、本家の跡目として六代目にと\r
考えたのではないかと言われている。\r
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この大阪戦争で井上と行動をともに\r
した前木場信義は四代目山健組に\r
名を連ねていたが、2016年5月に\r
除籍引退した。\r
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西住孔希も邦竜會会長として\r
四代目山健組にいたが、 new年に\r
奈良の不動産会社や産廃処理会社で\r
手榴弾を爆発させたとして奈良地裁で\r
懲役22年の判決を受け、new年引退。\r
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道躰方彦は健竜会を経て中野会へ入りし\r
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