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  • 10 年前
「この国のすべての死者のための、『海ゆかば」は、たった一つの美しい鎮魂歌である。この歌の中には、「古今」「新古今」も、「梁塵秘抄」も和讃も、下って「金槐集」も、更には近代以降の白秋も、三好達治も伊東静雄も、折口信夫も朔太郎も、中也も大木惇夫も───この国のあらゆる《詩歌の魂》が内包されている《大君》が気に触るなら、この国の森や湖だと思えばいい。どこまでも澄んだ青空や、花の匂いのする風に置き換えて考えてもいい」
 久世光彦さんはそのご生前に頻繁ではないがお会いした方のお一人でした。私は久世さんのおもい───そのおもいはどこまでも久世さんという個人の道筋。ご家族そしてご親友、そして吸った空気と歩いた土からのものであるとおもいました。またそれが何人も否定なぞできるわけがない道筋というものであります。
 そして私はこう今思います。美しさは死のないところで美しい。死臭漂う、腸が飛び出、脳みそに蛆がわくところに美しさはない。それをほんとうに知って美しさの深意が分かり、「美しくあらねばならない」と貴方のおもいもわかる。
 しかし久世さん。あまりに美しいと言われるものには、その分その向こう側に私たちが引き受けられない惨さが有る。久世さんがおっしゃった「美しくあらねばならない」の意味を貴方は体感で拒絶されていたのかも察れず、または薄々識っていらしたから「あらねば」であったかも察れません。
 だがいまの日本はあなた方の世代のように静謐ではないのです。美しさも惨さもわからない。そのなかでやはり「あらねばならない」が呪文のみのようになってしまっている。その内奥のおもいみたいなものまで消し去って大文字だけで語られている美なるものの如何わしさに、憂うものです。
 ただ是非ではなく、この歌があまりにも美しすぎた所以の惨さを私はこの日に改めて聴いております。
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