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  • 2 日前
完全版 沢村栄治投手の 映像発見・幻の“日本シリーズ”~フィルムからよみがえる選手たち~

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スポーツ
トランスクリプション
00:00伝説の投手が今、よにがえろうとしています。
00:05神奈川県内で発見された昭和11年のフィルム。
00:11わずか2分余りの野球の試合でした。
00:16資料と称号した結果、今の日本シリーズの原点、
00:20プロ野球最初の日本一決戦と確認されました。
00:24映し出されていたのは、背番号14、巨人沢村英二投手。
00:35プロ野球の基礎を築いた伝説のエースです。
00:43これまで試合中の映像が発見されたことはありませんでした。
00:49その日本でプロ野球、その当時は職業野球と呼ばれていましたが、
00:53旗揚げしたのが1936年、昭和11年のことでした。
01:00その年の12月、日本一を決める初めての優勝決定戦が、
01:05巨人と大阪タイガーズ、現在の阪神との間で行われました。
01:12出場したのは23人、大半が10代、
01:15そして20代前半の若い選手たちでした。
01:20野球を職業にすることがまだ珍しかった時代、
01:23野球で生きていきたいという夢を持って集まってきた選手たちです。
01:28そこには、伝説の名投手、沢村英二投手も含まれていました。
01:35沢村英二賞というのをご存知かと思いますけれども、
01:39球界で最も活躍した、
01:41先発、関東型の投手に与えられる最高の栄誉で、
01:45ご覧の選手たちも受賞しています。
01:47日本のプロ野球史上初のノーヒット、ノーランを達成するなど、
01:53語り継がれてきたエースは、優勝決定戦が行われた年19歳でした。
02:00昭和11年に起きた226事件、
02:03その翌年に勃発した日中戦争、
02:06日本のプロ野球は、戦争の足音が近づく中でスタートしたのです。
02:11そして、優勝決定戦に参加した23人の選手のうち、
02:16実に21人がその後、出世していきました。
02:21このほど見つかった、初めての日本一を決める決定戦を通したフィルムは、
02:27わずか2分の長さです。
02:30そこには、間近に迫った戦争の影はなく、
02:34映されていたのは、懸命にプレーする沢村投手をはじめとする選手たちの姿と、
02:40そして試合に興奮した観客の熱気でした。
02:47神奈川県内に住む茂岡春子さん、81歳です。
02:55父親の遺品を整理したとき、古い8ミリフィルムが出てきました。
03:02昭和11年12月と書かれた冠。
03:05映っていたのは、古い野球の試合。
03:11それ以上のことは誰も分かりません。
03:14珍しいものかもしれないと思った家族は、映像をインターネット上に公開しました。
03:32その映像を見て驚いた人がいます。
03:38ノンフィクション作家の森田壮さん。
03:41戦前のプロ野球について調べを続けていました。
03:47映像は、わずか2分。
03:50途切れ途切れの試合。
03:52試合後に喜ぶ選手。
03:54そして表彰式。
03:57見ているうち、興奮で仕事が手につかなくなったといいます。
04:01これって、昭和11年の巨人とタイガースの優勝決定戦なんじゃないかなって思い始めて、
04:14本当かな、そんなことがあるかなって。
04:17昭和11年12月に行われた、プロ野球史上初の日本一決定戦。
04:27巨人対大阪タイガース。
04:307球団で春と秋のリーグ戦を戦い、優勝チーム同士が激突しました。
04:37現在の日本シリーズの原点として語り継がれてきましたが、
04:42映像が確認されたことはこれまでありません。
04:47森田さんの情報提供をもとに、
04:52NHKではフィルムを鮮明にする作業に取り掛かりました。
04:56じゃあ、このところまで最初から行っちゃいましょうか。
04:59形が見えてきましたね。
05:042ヶ月の作業を終えると、背番号や腕や足の先など、
05:09選手たちの動きがよみがえってきました。
05:12映像は幻の一戦なのか。
05:19プロ野球の歴史に詳しい、野球伝道博物館の学芸員、
05:24関口孝博さんです。
05:25試合の公式スコアや、当時の写真などの資料と照らし合わせてもらいました。
05:38もう一度巻き戻していただいていいですか。
05:40例えば、このプレー。
05:44一塁ランナーが背番号18番。
05:49ピッチャーは三塁ランナーをホームでアウトにしています。
05:54ここですね。
05:55ピッチャーからキャッチャーに転送されて、
05:572アウト目になったという。
06:00映像に記録されていたプレーは、
06:03すべてスコアと重なりました。
06:05こちらは試合後に撮られた写真。
06:12巨人の藤本貞義監督は、
06:15この日風邪をひいていたため、
06:17首に白い布を巻いていました。
06:22首のところ、やっぱりちょっと一本白いのが入っているように見えますよね。
06:30さらに、当時の新聞。
06:32優勝決定後、球場に座布団が舞ったというイラストがありました。
06:40フィルムには、
06:43試合後、グラウンドに舞い上がる座布団が記録されていました。
06:49まず間違いないんじゃないかなというようなところだと思います。
06:53本当に、
06:55タイムマシンから蘇ったような話だと思いますので、
06:58すごいと思います。
07:03当時、まだ珍しかったプロスポーツに挑戦しようと、
07:07高校、大学、実業団から、
07:1010代から30代の若者たちが集まっていました。
07:18今回の映像で、
07:19最も注目を集めた当主がいます。
07:23背番号14。
07:24わずか1球分の投球が記録されていました。
07:31沢村英二。
07:33この年、
07:34史上初のノーヒットノーランを達成した巨人のエースです。
07:39当時19歳。
07:402年前の17歳の時には、
07:45日米野球に出場。
07:48来日したベイブルースなどを相手に、
07:51三振の山を築いた伝説の名投手です。
07:58広く知られてきたのは、
08:00左足を高く上げた写真。
08:02試合中の映像はなく、
08:05実際はどのような投球だったのか、
08:08分かっていませんでした。
08:13映像は沢村投手なのか。
08:16その投球を、
08:17観客として球場で見ていた人がいます。
08:20吉田幸男さん、
08:2287歳。
08:23今回の映像。
08:30語られてきたようには、
08:32左足を高く上げていません。
08:36しかし、
08:38吉田さんが見た沢村投手のフォームは、
08:40映像と同じだったといいます。
08:42腰がちゃんと入っていますね。
08:46僕が見ていても、
08:47こんな風に足を上げていることではなかった。
08:50こういうスムーズな投手ですね。
08:52まさに殺草とした、
08:55若武者の感じでしたね。
09:00昭和11年の試合を戦った若者たち。
09:05野球に賭けようとしたその夢は、
09:08次第に叶えられなくなっていきます。
09:12出場23人のうち21人が出生。
09:17沢村投手を含む5人が戦死。
09:19生還しても、
09:21多くが野球を続けられませんでした。
09:29沢村栄二投手と、
09:31息の合ったバッテリーと言われていた、
09:33中山武保守。
09:34試合のわずか1ヶ月後に徴兵され、
09:42日中戦争に従軍します。
09:44そこで右足かかとを打ち抜かれ、
09:52重傷を負いました。
09:59両用の後、
10:01中山選手は昭和14年、
10:03巨人に復帰。
10:04日本一の星が帰ってくると、
10:07期待が集まりました。
10:11復帰4戦目。
10:142アウト2塁のチャンスで登場。
10:17タイムリーヒットで、
10:18ランナーが生還。
10:22しかし、
10:23中山選手は、
10:251塁までたどり着けませんでした。
10:27足の怪我で走れなかったのです。
10:34バッターボックスから、
10:36一歩二歩歩き出したがかけられず、
10:39口惜しそうに立ちすくんだままである。
10:42この時の中山の表情を、
10:44私は40年経った今なお忘れられない。
10:5022歳だった中山選手は、
10:53この後引退。
10:54二度とグラウンドに立つことはありませんでした。
10:58戦死した沢村英二当初です。
11:01戦地から戻るたびに、
11:04野球を続けようとしていました。
11:07沢村投手の一人娘、
11:09坂井美代さん。
11:11沢村投手が、
11:13最後の戦地に向かったのは、
11:15生後3ヶ月の時、
11:17父の記憶はありません。
11:23せめて、
11:24父を身近に感じたいと、
11:27写真を大切に持ち続けてきました。
11:31フィルムで初めて、
11:36プレーする父の姿を目にします。
11:38全力投球。
11:53中で涙が出そうなっちゃう。
12:01はい、生きてる。
12:10日本一を決めた試合の後、
12:13沢村投手は、
12:142度戦地へ向かいました。
12:16当時の新聞記事です。
12:23投げ続けていたのは、
12:25ボールの3倍以上の重さのある、
12:27手榴弾。
12:31帰った時には、
12:32戦場での酷使がたたり、
12:35投げられない体になっていました。
12:37しかし、
12:40マウンドへの熱い思いは、
12:42変わりませんでした。
12:44当時、
12:44野球雑誌に寄せた、
12:46本人の手記です。
12:47ただ、
12:53ボールを握りたいの一心で、
12:57まだ僕は若いんですね。
13:02みんながグラウンドを走り回っているのを、
13:06ただ見ているのは、
13:08つらい。
13:08復帰した昭和18年の成績は、
13:15霊障3敗。
13:19その後、
13:20巨人から解雇されました。
13:25昭和19年、
13:27一人娘を残し、
13:283度目の戦地へ。
13:30台湾沖で、
13:32乗っていた輸送艦が、
13:33沈められ、
13:34亡くなりました。
13:3527歳でした。
13:38今度帰ってきたら、
13:42母とね、
13:43私との、
13:442人だけのために生きる、
13:47って言っていた、
13:49って言うのがね、
13:50かわいそうだったな、
13:51って言っていた。
13:54それから70年余り、
13:57初めて感じる、
13:58父の息遣いです。
14:03野球が好きだったんでしょうね。
14:08生きててほしかったですね。
14:12今夜のゲストは、
14:16スポーツ評論家の玉木正幸さんです。
14:20初めて、
14:20父親の動いている映像を見て、
14:22ご遺族の方が生きていると、
14:24つぶやいて、
14:25ちょっと涙を浮かべられて、
14:27いらっしゃいましたけれども、
14:28プロ野球のスポーツ歴史に、
14:30詳しいお立場から、
14:31今の映像、
14:32どうなりましたか。
14:32いや、もう興奮の連続ですね。
14:35昭和11年、
14:37一番最初の年ですね、
14:39プロ野球、
14:39職業役が生まれた、
14:40その年に、
14:41こういう形で、
14:42やっていたということを、
14:44動いている映像で、
14:46見ることができた、
14:47っていうのは、
14:48もう、
14:48本当に興奮以外の、
14:50何ものでもない。
14:51おまかに、
14:51あそこの、
14:52須崎球場という、
14:53あと球場がね、
14:54また、
14:55海にすごく近くって、
14:57その海が満潮の時には、
14:59外野にまで潮が来る、
15:00そういうことを、
15:01文章で読んでたんですよ。
15:03見ると、
15:03やっぱり外野の方が、
15:05海があって、
15:07どうもそういう感じなんですよね。
15:09あの試合にも、
15:10外野席には、
15:11観客を入れてないんですよ。
15:13やっぱり、
15:13やっぱり、
15:14海が押し寄せてきたのかなと。
15:17そんな恵まれないところで、
15:19やったのが、
15:19職業野球。
15:20恵まれない立場なんですか、
15:22位置づけとしては。
15:23そうですね。
15:23東京六大学野球を頂点に、
15:26やっぱり、
15:26アマチュア野球の方が、
15:27上だったんですよね。
15:28中等学校野球とか。
15:29それと、
15:31OB戦というような見方で、
15:33少し低く見られてたんですよ。
15:35かなり。
15:36大リーグを読んで、
15:38日本で、
15:40大日本野球、
15:41東京野球クラブができて、
15:43それが、
15:43読売ジャイアンツになるんですけれども、
15:46試合した時も、
15:47神宮球場を使って、
15:49その見せ物に、
15:50明治神宮球場を使ったっていうんで、
15:53それで、
15:53勝力松太郎というオーナーは、
15:56傍観に襲われたぐらいですから。
15:57ですから、
15:59職業野球が、
16:00かなり低く見られてたんですね。
16:03ところが、
16:03この映像を見ますとね、
16:04そのまま、
16:05日本で、
16:06初の日本シルーズと言ってもいい試合で、
16:08一勝一敗で、
16:09最終戦で、
16:11観客たくさん、
16:12押し寄せるってますね。
16:14詰めかけて、
16:16すごく興奮して、
16:16おまけに、
16:17選手が、
16:18一生懸命プレーしてるんですよ。
16:20だから、
16:21低く見られている自分たちが、
16:24こんなに、
16:25素晴らしいことをしてるんだぞ、
16:26という、
16:27プライドですね。
16:28それを感じることができて、
16:30ちょっと、
16:31感激しましたですね。
16:33今のリポートの中で、
16:35タイムマシーンに乗ったような、
16:36という発言もあったんですけど、
16:38やはり、
16:38今まで思っていた、
16:39沢村投手の投球フォームと、
16:44実際は全然違ったのではないか、
16:46ということなんて、
16:47どうフォームをご覧になりましたか。
16:48今まで見ていたというのが、
16:50止まって、
16:50左足を大きく上げている写真が多かったんですよね。
16:54それから、
16:54動いている写真を見た時に、
16:56初めはびっくりしたんですけど、
16:57よく見るとね、
16:58西鉄ライオンズのエースだった、
17:00稲尾さんに、
17:02すごくよく似てるんですよ。
17:04歩幅がすごく広くって、
17:06ものすごくスムーズな投げ方。
17:08だから、
17:10ものすごくいい投げ方をしていて、
17:11逆に、
17:12何か左足は高く上げていないけれども、
17:15感激しましたね。
17:17ベイブルースなどの大リーガーたちを、
17:20三振に17歳で打ち取って、
17:23そして、
17:243連投したわけですよね。
17:26この試合でね。
17:27優勝決闘戦でも。
17:28で、
17:28沢村賞という、
17:30この賞が、
17:31いまだにずっと続いているわけですよね。
17:34それだけの、
17:34やっぱり価値のあるピッチャーだということは、
17:36見て、
17:36本当によく分かりますよね。
17:40ノーヒットノーランも、
17:41日本で初めてやった投手ですから、
17:43ですから、
17:43伝説の投手と言われている投手が、
17:4614番の背番号をつけて、
17:48目の前に現れたのは、
17:50やっぱり、
17:51嬉しかったですね。
17:52動いている姿を見ることができるだけで。
17:56ただ、
17:56その時代を見ると、
17:58本当に、
17:59226事件が、
18:00その年に起き、
18:01そして、
18:02翌年に、
18:02中戦争を勃発して、
18:04そして、
18:04その優勝決定する後の、
18:055年後には、
18:06大変、
18:06戦争という意味では、
18:08本当に、
18:08戦時色が、
18:09どんどん強まっている中で、
18:11そういう中で、
18:12観客にとって、
18:13この野球というのは、
18:14どういう位置づけだったんですか?
18:17戦時色が強まる中で、
18:19例えば、
18:20映画とか、
18:22歌謡曲とか、
18:23あるいは、
18:23浪曲とか、
18:24当時流行っていたものに、
18:25全部、
18:26戦時色が押し寄せるんですね。
18:28ところが、
18:28野球は、
18:30押し寄せようがなかったんですよ、
18:31最初のうち。
18:32ですから、
18:33ある意味、
18:34野球場に行くと、
18:35戦争から離れることができる、
18:38唯一の場所だったという、
18:40そういう感じがしましたね。
18:41かなりずっと続いたんですか?
18:43そうですね。
18:43226、
18:44今の映像は、
18:45226事件のあった年ですよね。
18:47その年に、
18:47あの映像を見ていて、
18:48全く戦時色はないですよね。
18:51戦争の匂いが、
18:53野球に押し寄せるのは、
18:55昭和18年、
18:5619年の、
18:58太平洋戦争が始まって、
19:00だいぶ経ってからなんですね。
19:02適正用語である、
19:03英語は使わないようにするとか、
19:05帽子が戦闘棒に変わるとか、
19:07そういうことがあったんですけども、
19:09それまでは、
19:10ほとんど野球場は、
19:11野球をしていた。
19:12スポーツをしていた。
19:14スポーツというのは、
19:15やはり平和でないとできないもので、
19:18戦争の色が中に入る要素が、
19:22なかなかないわけですよ。
19:24それを守られていた、
19:25それが守られていたのが、
19:27職業野球だったな、
19:28という気がしますね。
19:29ルールがはっきりしてますしね。
19:30そうです。
19:31なかなか、
19:32違うルールで、
19:33ということにもならない。
19:34ならないですね。
19:35ただ、
19:36日本の選手で、
19:37負傷して帰ってきた、
19:39中山選手。
19:40選手とかいましたですね。
19:41痛い痛しいとは思うんですけれども、
19:43実は、
19:44それは、
19:45アメリカでも同じでしてね、
19:47メジャーリーグ、
19:48大リーグに、
19:49戦争で、
19:50片腕をなくした、
19:51選手が、
19:52戻ってきて、
19:53プレーしていたとか、
19:54そういったこともあったんですね。
19:55ですから、
19:57戦争というのは、
19:58別に、
19:58勝ったとか負けた、
19:59戦争に、
20:00戦勝国であるとか、
20:01敗戦国であるとか、
20:02そういうことと、
20:03全く関係なく、
20:05平和の象徴のようなものである、
20:08スポーツなんかには、
20:10完全にスポーツができなくなるような、
20:13上からの圧力といいますか、
20:15そういう、
20:16一番スポーツと反対にあるものが、
20:19戦争だという言い方ができると思いますね。
20:22でも、
20:22あれだけの技術、
20:23あれだけの身体能力を持った、
20:26党首が、
20:27戦争に3度行って、
20:29そして、
20:30手榴弾を投げすぎて、
20:32投げすぎて、
20:33肩を壊したってもったいないし、
20:35本当に無念だったでしょうね。
20:37そうですね。
20:37最後は、
20:38日本に帰ってきた時は、
20:39横からしか、
20:40投げられなかったという風に、
20:42言われていますけれどもね。
20:43そういう戦争の中でも、
20:47野球に邁進した人たちがいた、
20:49ということを、
20:50逆に考えるべきじゃないかと思うんですよね。
20:53今、
20:53今年は戦後70年ですけれども、
20:55戦争を通して、
20:57戦争を見るんじゃなくって、
20:58その当時のスポーツを通して、
21:00スポーツの人たちが、
21:02どんなにスポーツを、
21:03守ろうとしていたか、
21:05それを見ることによって、
21:06その戦争の悲惨さ、
21:08あるいはその哀れさ、
21:10その無意味さ、
21:11そういったものが、
21:12よくわかるんじゃないかな、
21:13と思うんですよ。
21:15ありがとうございました。
21:18スポーツ評論家の、
21:19玉木正幸さんと、
21:20共にお伝えしました。
21:21今週はこれで、
21:22失礼いたします。
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