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- 1 年前
シリア難民に世界が揺れる今、日本には約200万人の外国人が暮らしている。戦後、日本は難民や外国人労働者とどのように向き合ってきたのか。在日コリアンから始まった外国人政策。1970年代後半、“第二の黒船”と呼ばれたインドシナ難民を受け入れ、90年代には日系移民、さらには外国人技能実習生と時代の要請に応えてきた。外国人や法務省などの関係者の証言で戦後70年の歩みを見つめ、共生への道をさぐる。
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ニューストランスクリプション
00:00:00激しい内戦が続くシリアから日本へ逃れてきたジュディ・ユーセフさん
00:00:18去年日本政府に難民の認定を求める裁判を起こしました
00:00:23ジュディさんは反政府デモに参加して命の危険を感じ4年前に来日して難民申請を行いました
00:00:39しかし日本政府は難民と認定しませんでした
00:00:44迫害を受ける恐れがあるとは認められないというのです
00:00:51ジュディさんは決定を不服として裁判を起こします
00:00:57日本で難民申請をした60人以上のシリア人のうち認められたのは明らかになっているだけで3人です
00:01:15難民と認められなければ日本語教育や就労支援を受けられません
00:01:36家族は家に閉じこもり口数が減りました
00:01:40別の人を信じこしてください
00:01:42中国政府に向かいの情報は聞き離れているがとても気分かれました
00:01:46日本語教育や大人のように追いつかを見ることを見ることが Labanの要素であるのです
00:01:48日本語教育は本当に自分の情報が私たちにおいてです
00:01:50日本語教育を見ると言ってパフロールに自由に合うことを見ることを見ることを見ることは大切です
00:01:52人の指着を見ることが大切です
00:01:55日本語教育は賛成された大切だと言葉です
00:01:56日本語教育を見ることが大切です
00:01:57日本語教育は参加することが大切です
00:02:00難民の申請が急増している日本
00:02:23今難民に加えて労働者や留学生介護士など217万人の外国人が暮らしています
00:02:35これまで日本はどのような外国人政策を進めてきたのでしょうか
00:02:53ご視聴ありがとうございました
00:03:23ご視聴ありがとうございました
00:03:53日本の外国人政策は60万人の在日コリアンを対象に始まりました
00:04:00外国人登録法で義務付けられた諮問の大夏
00:04:05疑問を訴える声が起こります
00:04:081975年のインドシナ難民
00:04:24日本に受け入れを求める声が世界に高まります
00:04:29外国人政策を転換
00:04:39難民の定住を認め第二の開国とも呼ばれます
00:04:44新しい人生だからここの場でコロマのルールコロマの規則を従って生きること
00:04:541990年バブル景気の労働力不足で日系人を受け入れます
00:05:01その後生まれた子どもや孫たち
00:05:14言葉の問題をかかっています
00:05:16日本社会でどのように生きるのか
00:05:21住民として我々の隣で暮らすことになるわけですから
00:05:29どのような施策を行って
00:05:32共生につなげていくのか
00:05:36戦後日本の外国人政策を
00:05:41関わった人々の証言で見つめます
00:05:58戦後日本がまず向き合った外国人が在日コリアンでした
00:06:03戦争中朝鮮半島から多くの人々が動員され
00:06:12炭鉱などで働きました
00:06:14かつて炭鉱で栄えたオウムたちには
00:06:23過酷な労働で亡くなった朝鮮人の慰霊碑があります
00:06:2720年前動員に関わった地元の企業が出資して建てられました
00:06:35戦前日本の植民地下にあった朝鮮半島の人々は
00:06:45帝国新民とされました
00:06:47太平洋戦争中労働力不足に直面した日本は
00:06:55朝鮮人を働き手に求めます
00:06:59当時炭鉱でイーサンホさんの父親も働いていました
00:07:09オウムたそれから地方ですね
00:07:14福岡ねそういう中で
00:07:16在日いわゆる当時は朝鮮人ですね
00:07:19それとは動員されてですね
00:07:21私の父とかあるいはおじとかですね
00:07:23どんな思いで日本に来たのかとか
00:07:25どんな思いでやっぱりね
00:07:28この日本の社会を生きてきたのかとか
00:07:30それを思い出しますね
00:07:31父親のイーチュヌさんは
00:07:361940年出稼ぎのため日本にやってきました
00:07:40九州の炭鉱を転々とし
00:07:44朝鮮半島の家族に仕送りを続けます
00:07:47小学校も行けませんですからね
00:07:52だからもう要するに10代前半で
00:07:56日本に来ましたからね
00:08:02仕事を求めてですね
00:08:03来ましたから
00:08:04当然もう朝鮮では
00:08:07日本の植民地になってましたから
00:08:11もう土地も全部取られてですね
00:08:15そういう中で仕事もなかったんでしょう
00:08:17そういう中で仕事を求めてね
00:08:21いい炭鉱の仕事だそういうことで
00:08:23最初は長崎の方にある海底炭鉱みたいなね
00:08:29島の絵
00:08:30とにかくもうね
00:08:32食っていかないといけないから
00:08:34それはもう私には想像できないような
00:08:37生き方をしてますよね
00:08:381945年廃戦
00:08:47当時日本には200万人を超える
00:08:54朝鮮半島出身の人々がいました
00:08:56多くの人が解放後の祖国に帰ります
00:09:03しかし船の不足や財産の持ち出しが
00:09:09厳しく制限されたこともあり
00:09:11およそ60万人が残りました
00:09:18イ・サンホさんの父チュヌさんは
00:09:21朝鮮半島には仕事がなく
00:09:24日本に残り
00:09:25イ・ハクソンさんと結婚します
00:09:28チュヌさんは14年前に亡くなりました
00:09:34解放後間もなく廃品回収業を始めたチュヌさん
00:09:44ハクソンさんは夫を支えながら
00:09:56日本人とともに食料不足の時代を生き抜きます
00:10:00当時は日本人も廃棄廃棄でしたでしょう
00:10:09まだ戦争が終わっても続いていましたからね
00:10:15廃棄廃棄でね
00:10:17私らそれは本当に並びましたよ
00:10:19並んでからね
00:10:20はい
00:10:21母がこう何ですかの
00:10:24買い出しに出かけるのをね
00:10:27見ましたですよね
00:10:30見て
00:10:31買い出し
00:10:33出てて
00:10:35お米やら担いでね
00:10:38日本を占領統治したGHQ
00:10:43在日コリアンをどう処遇するのか
00:10:47アメリカ政府からマッカーサーへの指示です
00:10:51朝鮮人は解放人民として処遇するが
00:10:58軍事上の安全が許す場合に限る
00:11:01必要な場合には
00:11:10敵国民として扱ってよい
00:11:14戦後
00:11:18在日コリアンの人々は団体を組織し
00:11:22民族教育や労働問題について運動を始めます
00:11:26日本政府はかつての植民地支配に対する反発を恐れ
00:11:35警戒していました
00:11:36治安を担当した司法省刑事局の極秘報告です
00:11:45終戦を契機として戦勝意識
00:11:51違い封建的錯覚をもって
00:11:54各種の不法行為に入れたる
00:11:58占領下で首相を務めた吉田茂
00:12:04在日コリアンの処遇について
00:12:08マッカーサーに手紙を出しました
00:12:10吉田は日本の食糧事情が逼迫していることを強調した上で
00:12:19次のように訴えました
00:12:21朝鮮人の多くは
00:12:26共産主義者かその同調者で
00:12:29最も悪質な政治的犯罪を犯す傾向にあります
00:12:34全ての朝鮮人を本国に送り返すべきです
00:12:41手紙を受け取ったマッカーサー
00:12:48冷戦の緊張が高まる中
00:12:52在日コリアンの総監で
00:12:54共産勢力が韓国に拡大することを懸念していました
00:12:59当時GHQ外交局に所属していたリチャード・フィンです
00:13:07吉田は美光光に送りてきたり
00:13:13朝鮮人の朝鮮人の中心を押していたら
00:13:17いつもなりも長期間っているようです
00:13:22米国の置きについて
00:13:25答え out the answer
00:13:27ん時の朝鮮人の時代で
00:13:31充電がありません
00:13:341951年、日本はサンフランシスコ平和条約に調印し、独立を回復します。
00:13:52翌年、平和条約が発行する直前に、日本政府はある通達を出しました。
00:13:59朝鮮人及び台湾人は、日本の国籍を喪失する。
00:14:12戦前、帝国新民とされた朝鮮半島の人々、国籍選択の自由を与えられないまま、外国人となりました。
00:14:29また、L poetic徹内 の地域のカブティ修次の交換時、本教ファスコ平和条約main対をお願いします。
00:14:37隠営者、国籍選択のカブティアリンはとさけ、一番人に入るな、国籍選択は短い途中です。
00:14:47隠営者、浮営者、帝国 austral 拝国内の言葉です。
00:14:52もちろん行きましたよ行ってちゃんとね
00:14:57しましたけど
00:14:59もう韓国人はもうこんなんしてするもんだっていう風に思い
00:15:07そのくらいの考えですよね
00:15:09こんなことするんやなっていう
00:15:12やっぱまたかっていう気持ちもないことはないですよね
00:15:18ありましたけども
00:15:19私らが何か言ってこう済むことじゃないでしょ
00:15:23はい
00:15:24私なんかがこうね
00:15:27そういうとこでね
00:15:30言って済むことじゃないから
00:15:33私はもう素直に
00:15:37押しました
00:15:39外国人を管理する出入国管理体制も始まります
00:15:49当初の課題が
00:15:53朝鮮戦争から逃れ
00:15:55密入国する韓国人の取り締まりでした
00:15:59当時
00:16:02密入国者による外国人登録証明書の偽造や買取などが横行
00:16:081953年
00:16:11日本か朝鮮戦半島に送還された人は
00:16:152700人を超えました
00:16:21法務省の入国管理局一筋に勤めた黒木忠政さん
00:16:26外国人に課した指紋オーナツ制度は
00:16:30当時必要だったと考えています
00:16:33昭和27年平和条約発行の時に
00:16:38外国人登録法が交付施行された頃の登録というのは
00:16:43いろいろ不正登録が横行しておりまして
00:16:54そのために指紋制度というのが導入されたわけです
00:17:01人物の同一性を確認するというには
00:17:05この指紋が最も有効な手段であるということであるし
00:17:12また指紋制度を継続させることによって
00:17:17それが不正を働く人たちに対する
00:17:21抑止力になるという効果も大きいということで
00:17:251960年
00:17:29日本で生活する外国人の9割が在日コリアンでした
00:17:34日本の外国人政策は
00:17:37在日コリアンを主な対象として始まりました
00:17:411960年代
00:17:48日本は高度経済成長の時代に突入します
00:17:52製鉄業で栄えた小倉は
00:17:57在日コリアンが集中する地域の一つです
00:18:06駅前の繁華街は
00:18:08仕事を終えた人々が飲み明かす
00:18:10夜の街でした
00:18:12在日である私にとっては
00:18:18少々切ない街でもありましたけども
00:18:22この街でイーサンコさんは
00:18:26岩本光一という日本名を
00:18:29高校を卒業するまで名乗っていました
00:18:31こうですね
00:18:33在日一世の父が
00:18:3840年ほど前に創業したビジネスホテルです
00:18:42廃品回収から身を起こし
00:18:49事業を拡大しました
00:18:51兄弟で経営し守り継いできました
00:19:01このホテルを建設する前
00:19:10父親は同じ場所でキャバレーを経営していました
00:19:15結婚してちょっと経った後ぐらいでしょうね
00:19:18ここです
00:19:19父親です
00:19:21当時もう経営者でした
00:19:25経営者でしたね
00:19:26当時は大型のキャバレーが
00:19:30最盛期というか
00:19:32とにかくみんなが
00:19:33飲むことイコール
00:19:35レジャーみたいな
00:19:36そういう時代ですよね
00:19:38まだ60年代までは
00:19:39当時はここにはね
00:19:41バーブ佐竹とか小林明とか
00:19:44いろいろ来たんですよ
00:19:46身内はこの中には一人か
00:19:51父親は経営にあたり
00:19:54日本人を表に立てていました
00:19:57父親はね
00:19:59自分自身に信用がないというのは
00:20:03知ってますでしょ
00:20:04だから自分が直接的には
00:20:06社長にならなかったんです
00:20:08名義上だけはね
00:20:10地元で有名な方
00:20:12まず信用されない
00:20:14外国籍観光人籍だとか
00:20:17女性籍だとか
00:20:18信用されない
00:20:19そうなるとね
00:20:20やっぱり日本の人が出すと
00:20:22しかもある程度
00:20:23社会的な力を持っている人たち
00:20:26観光庁で
00:20:27それなりの役職を持っていた方とか
00:20:30ああいう人を社長にして
00:20:33やるというような商売をしてましたね
00:20:37だからそれは自分の力の限界がある意味で
00:20:40勝手にやってきたようですけど
00:20:41やっぱりよく分かっているのは分かっていた
00:20:43世の中の仕組みというか
00:20:45それはね
00:20:46在日コリアンは
00:20:49納税の義務を負う一方で
00:20:51社会保障から除外されるなど
00:20:54日本人とは異なる境遇を生きていました
00:20:57イサンの父は
00:21:03日本の社会に適応しながら
00:21:05韓国籍を取得しました
00:21:07ホテルの看板に
00:21:09自らの名字を示す
00:21:11ハングルを掲げていました
00:21:13あれは当初
00:21:15うちの父親はですね
00:21:16外に説明する時には
00:21:18ゼロからイチが生まれる
00:21:19という風に言ってたんです
00:21:21でも実際はやっぱり
00:21:23いいということをね
00:21:25自分の名前を
00:21:26なんとかホテルに残したいと
00:21:28さすがにそれは人には
00:21:30あまり言えないですね
00:21:31韓国人にはみんな言ってるんですよ
00:21:34今言ったようなことは
00:21:35就職先も限られ
00:21:39自ら道を切り開くしかなかった
00:21:42在日コリアン
00:21:44日本社会の中で
00:21:47外国人としてどう生きるのか
00:21:50いくつもの課題がありました
00:21:531975年
00:22:07南ベトナムのサイゴンが
00:22:09陥落します
00:22:10140万人を超える
00:22:14インドシナ難民
00:22:16日本の外国人政策を
00:22:19大きく揺るがします
00:22:21海に逃れた難民は
00:22:26漁船やボートに
00:22:27すし詰めとなりました
00:22:28強盗に襲われ
00:22:34嵐に沈む船も多く
00:22:35命がけで新天地を目指しました
00:22:39南ベトナムの軍人だった
00:22:45キリスト教徒の
00:22:46グエンバン・リーさんも
00:22:48海を渡った一人です
00:22:49リーさんが仲間と準備した船は
00:23:03洋上でエンジンが故障し
00:23:052週間漂流します
00:23:07船には妻と娘も乗っていました
00:23:11幼い娘と素通りするだけの船を
00:23:1738隻数えたといいます
00:23:19食料も尽きて
00:23:22雨水で飢えをしのぎました
00:23:24もし死んだ人があったら
00:23:28海に水槽をしないで
00:23:36何とかみんな助けるかな
00:23:38食べさせて
00:23:39意見は漏れたんです
00:23:42私それは絶対ダメ
00:23:46それは私
00:23:49現長に厳しく止めたんで
00:23:56その考えはしないで
00:24:00死んだらみんなで死ぬ
00:24:05仲間の肉を食べるなとか
00:24:08考えないでください
00:24:10それでやっと39名の単価から
00:24:17助けてくれたんで
00:24:21インドシナ難民が
00:24:25日本に初めて上陸したのは
00:24:271975年5月
00:24:30第二の開国と呼ばれる
00:24:34外国人政策の転換となります
00:24:37当初政府は難民の受け入れに
00:24:44消極的な姿勢を示しました
00:24:461975年6月
00:24:50北海で法務省が答弁します
00:24:53国土が狭いで
00:24:58人口が非常に多い
00:25:01我々日本国民は
00:25:05ずっと単一民族として
00:25:07今日まで来た民族でございます
00:25:10外国人を受け入れることに
00:25:14慣れているであろうか
00:25:16増え続ける難民に
00:25:21一時上陸を許可した日本
00:25:23この事態に対応するため
00:25:26内閣府に
00:25:27ベトナム難民対策室が設置され
00:25:30法務省の黒木忠政さんが
00:25:33責任者となりました
00:25:34難民が日本に到着して
00:25:39誰が世話するんだと
00:25:41何でしょうか何でしょうかと
00:25:43当たってみても
00:25:44我が省にはそういう難民を
00:25:48援護するような
00:25:50法律はないし
00:25:52設置法にもそういうこと書いてないから
00:25:54うちはできません
00:25:55全部が
00:25:57極端なことを言うと
00:25:59全部が断る
00:26:00政府は難民の一時上陸を許可しながらも
00:26:06定住は認めませんでした
00:26:08命がけの逃避行の末に
00:26:12日本にたどり着いた難民たち
00:26:15アメリカやオーストラリアなど
00:26:18第三国へ渡っていきました
00:26:21当時世界第2位の経済大国だった
00:26:29日本
00:26:30先進国としての役割を求める声が
00:26:37国際社会から上がります
00:26:391978年5月
00:26:46アメリカで福田武雄首相と
00:26:49カーター大統領の会談が行われます
00:26:52会談に先立ち
00:26:58アメリカで準備された
00:26:59カーター大統領の資料
00:27:01インドシナ難民が議題に上がっていました
00:27:07アメリカは難民の定住を進めるよう
00:27:15強く促します
00:27:16福田首相は難民の受け入れを迫る
00:27:24アメリカの圧力に直面しました
00:27:26福田首相はインドシナ難民が
00:27:33日本で定住することを認めます
00:27:36日本の外国人政策に風穴が開きました
00:27:42当時法務省に勤めていた
00:27:48水上陽一郎さん
00:27:50水上さんは政府が難民対策を
00:28:00どう進めたのか記録していました
00:28:02ベトナム難民対策は国内問題であるとともに
00:28:14優れて対外問題でもあったと
00:28:17言ってみれば外圧ですね
00:28:21先進国として大分の負担をね
00:28:26日本もしなきゃいけないと
00:28:28一種のトップダウンに近い形の政策決定
00:28:32それから日本の国際的な地位をね
00:28:40考えた外務省
00:28:42まあそういったような動きですね
00:28:45テレビや新聞で流浪する
00:28:52インドシナ難民の姿が日本に伝えられます
00:28:55このキャンプが開設されました当時は
00:29:001日平均30人前後の人たちが亡くなっていたのですけれども
00:29:04難民を支援しようとする機運が
00:29:08民間でも高まります
00:29:09当時設立された難民を助ける会
00:29:162か月で2万人から寄付金が届きました
00:29:20これが皆さんから現金書き留めが
00:29:26毎日段ボールに箱にいっぱいになってきたんですね
00:29:31届いたんですね
00:29:32あの波の方がお気の毒だということで
00:29:35で一つ一つにお手紙入ってた
00:29:38そのお手紙を取ってあった
00:29:40ほんの一部ですけれども取ってありまして
00:29:43お小さい方からのものもたくさんありましてね
00:29:47その学校の先生が指導して同じ文章出てるんじゃないですよ
00:29:51みんな違うし
00:29:52でちょうど11月に会ができて
00:29:56お年玉を次のお正月にもらって
00:29:59それを送るなってした方がいいんですよ
00:30:00少しですけどお小遣いを貯めました
00:30:06私たちは幸せだから
00:30:13インドシナの人たちも早く幸せになってもらいたいです
00:30:18満州事変から満鉄社員として命がけで働いて
00:30:29終戦と同時に難民として内地に引き上げてきたものです
00:30:35インドシナ難民も自分の家族のように思われて
00:30:42なんとか救助の手を差し伸べたいのです
00:30:48難民の受け入れを決めた政府
00:30:573ヶ月の日本語教育や就職の圧戦を行う
00:31:04定住促進センターを神奈川県と兵庫県に開設します
00:31:08難しいですか?
00:31:12はい難しいです
00:31:14日本人の友達いますか?
00:31:18はい友達います
00:31:20難民たちは日本語とともに
00:31:23日本の生活習慣や社会のルールを学びました
00:31:28妻と娘とともに来日したリーさん
00:31:36勉強工事
00:31:39勉強1年間勉強したんで
00:31:42今後勉強を重ねて
00:31:44あれもいじっと
00:31:46実際じゃあこれを資格を使って仕事もしてた
00:31:53そうですね
00:31:53それで日本の電気工事会社で勤めたんで
00:32:00リーさんは日本語と仕事の資格を
00:32:05何年もかけて身につけました
00:32:07日本での生活は30年を超え
00:32:134人の孫にも恵まれました
00:32:15ベトナムから自分の国から脱出して
00:32:22ここにいたんだから
00:32:23新しい人生始まるのを考えた方がいい
00:32:26だから新しい人生だから
00:32:28ここの場で
00:32:30この場のルール
00:32:31この場の規則を
00:32:33従って生きると
00:32:35だからベトナムにいるのの間に
00:32:42いろいろあるんで
00:32:43立派な時もある
00:32:45苦しい時もあるけれども
00:32:47こっちに入って
00:32:49こっちから新しいらしいで
00:32:51考えた方がいい
00:32:53だからまずは日本の政府から
00:32:55ちゃんと日本語を勉強させて
00:32:58その後は本人はちゃんと
00:33:01社会のルール
00:33:03社会の規則を守ると
00:33:05合わせてその2つの条件で
00:33:09日本の社会に入ると
00:33:11絶対成功します
00:33:13インドシナ難民の多くが
00:33:17定住促進センターがあった
00:33:19神奈川県と兵庫県で暮らしました
00:33:22金属工場や電気器具組み取り
00:33:28建て工場など
00:33:29中小企業の貴重な労働力となります
00:33:321978年に始まった
00:33:41インドシナ難民の定住
00:33:43翌年500人を目標にした受け入れは
00:33:48年々拡大し
00:33:49最終的に1万1000人を超えました
00:33:58定住が進むとともに明らかになったのが
00:34:02日本語教育の課題です
00:34:04難民の多くが
00:34:083ヶ月では十分に日本語を学べず
00:34:12職場や地域社会でのトラブルが報告されました
00:34:16しかし定住促進センターの日本語教育は
00:34:3810年近く3ヶ月のまま延長されませんでした
00:34:421人に1年かけて教育したら
00:34:48回転がうまくいかないというか
00:34:50数が限られちゃうわけですね
00:34:53ある程度数を増やすためにもですね
00:34:56私はですね
00:34:58実質は私が決めたんだから
00:35:02私の責任だろうと思うんですけども
00:35:063ヶ月でですね
00:35:07とにかく片言でもいいから
00:35:11日本語が分かって
00:35:12日本の社会生活になれるには
00:35:153ヶ月ぐらいでですね
00:35:17卒業させて
00:35:18社会に送り出すというシステムにしたんですよ
00:35:22国際社会の要請があって
00:35:24日本はやっぱり難民に冷たいという
00:35:29イメージを持ちたくないと
00:35:30持たれたくないということで
00:35:32外務省は特に積極的に
00:35:37もっと数を増やすべきだというようなことでしたんでね
00:35:41これは当然3000の目標を掲げれば
00:35:443000に持っていくような
00:35:45努力しなきゃいけないわけですね
00:35:46内閣官房が1997年に行った
00:35:53難民の調査報告
00:35:55言葉の問題は
00:35:58誤解や精神的ストレスを引き起こす
00:36:01重要な問題とされています
00:36:03調査で
00:36:08健康に不安があるとした難民
00:36:10112人のうち
00:36:1227.7%が
00:36:15精神的な健康に問題があると答えました
00:36:19群馬県に
00:36:26心を病んだベトナム人たちが
00:36:28暮らす施設があります
00:36:2937年前に創設された
00:36:34暁の村
00:36:35精神保険福祉士が管理する
00:36:43社会福祉法人のグループホームです
00:36:46ベトナム難民の精神障害者を受け入れてきました
00:36:53入居者たちは日本語を十分に話せず
00:36:59職場になじめずに施設にやってきました
00:37:02統合失調症や対人恐怖で
00:37:10社会復帰は難しいと診断されています
00:37:14佐藤亜希子さんは
00:37:1815年以上住み込みで
00:37:20入居者を世話してきました
00:37:22心を痛めた難民たちの中には
00:37:30施設で亡くなった人もいます
00:37:32ここで病者の方が亡くなったのが
00:37:37実施ですね
00:37:39病人いらっしゃるんですよ
00:37:41一人の方がね
00:37:42こちらの方に
00:37:43遺言だろう
00:37:45一緒なんだろうなという
00:37:46命を絶った男性は
00:37:50仕事を転々として
00:37:52生き場を失った末に
00:37:54施設にやってきたといいます
00:37:55こちらに壁一面に
00:37:59亡くなる前に書いてたんですよね
00:38:01名前と
00:38:02自分は日本の犬だというのを
00:38:05繰り返し書いてあるんですよね
00:38:07こちらのちょっと見えないところですけど
00:38:10お父さんお母さん
00:38:11私はどうしてこんなに苦しまなければいけないのか
00:38:14役に立たないものになってしまった
00:38:16ということとか
00:38:19いろんなことを書いてるんですよね
00:38:20日本の犬と書いた男性は
00:38:25焼身自殺でした
00:38:26来日してからおよそ10年
00:38:31知人や友人は
00:38:33ほとんどいなかったといいます
00:38:35施設では定期的に
00:38:45ベトナム料理を作ります
00:38:47この間15本食べたね
00:38:52故郷を思い出せるものを
00:38:56難民たちは楽しみにしています
00:38:58手に入れるのが難しい
00:39:07ベトナムの野菜は
00:39:08佐藤さんたちが栽培しました
00:39:10仕事になじめず
00:39:16社会で孤立していた
00:39:18インドシナ難民たち
00:39:20難民たちの
00:39:27対の住処になれるよう
00:39:29佐藤さんたちは取り組んでいます
00:39:31もう本当に今の目標は
00:39:38ただ寂しくないように
00:39:40生みを送るっていう
00:39:41そういう気配の中で
00:39:44ベトナム人のそういう文化も
00:39:46ちゃんとコミュニティとしての
00:39:48つながりを作りながら
00:39:50文化を守りながら
00:39:52その気配の中に置いてあげる
00:39:54っていう風にしていきたい
00:39:56と思うんですけどね
00:39:57インドシナ難民の受け入れを
00:40:05決断した日本
00:40:06すでに定住していた
00:40:11在日コリアンに対する政策も
00:40:14見直しを迫られます
00:40:18難民の地位に関する
00:40:20そのきっかけとなったのが
00:40:221981年
00:40:24難民条約への加入です
00:40:27承認するにご異議ありませんか
00:40:29難民条約には
00:40:34内外人平等の原則が
00:40:37定められています
00:40:38国内に滞在する難民に
00:40:42自国民と同一の待遇を
00:40:44与えるものです
00:40:45政府は日本に在留する
00:40:50すべての外国人に
00:40:51同一の待遇を与える
00:40:53必要に迫られました
00:40:55戦後の第二次韓国朝鮮人の
00:41:04処遇の問題がずっと
00:41:07引いてきておりまして
00:41:09まだこの時点では
00:41:11日本人との
00:41:13差といいますか
00:41:15行政の
00:41:17いろんな対象に
00:41:19日本人はなっていますけれども
00:41:21例えば年金の問題とか
00:41:23そういったような問題
00:41:25それから公営住宅に
00:41:26入れるかどうか
00:41:27まだ戦後の
00:41:29一時的な滞在者の形で
00:41:32もちろん永住は認めておりますけれども
00:41:34きちんとした対応は
00:41:36まだできていない
00:41:37在日コリアに対し
00:41:41日本政府は
00:41:42国民年金の加入や
00:41:45児童出当の支給を始めます
00:41:47小倉で
00:41:51岩本光一という
00:41:53日本名を名乗っていた
00:41:55イーサンホさんは
00:41:56この頃
00:41:57東京に進学し
00:41:59本名を名乗りました
00:42:00ビジネスホテルを
00:42:06経営していた
00:42:06在日一世の父親
00:42:09イーサンホさんは
00:42:13父と異なり
00:42:15日本で生まれ育った
00:42:17二世として
00:42:17どのように生きるか
00:42:19考えるようになりました
00:42:21一世はですね
00:42:25やっぱり
00:42:26祖国に対する思いは
00:42:27強かったですね
00:42:28それは当然だと思います
00:42:29そこで生まれて
00:42:30育ったわけですから
00:42:32でもやっぱり
00:42:33私の代になってきて
00:42:36もうね
00:42:37私も二世三世
00:42:38やっぱり日本に
00:42:40定住化していくというのは
00:42:44明らかですから
00:42:45それをやっぱり
00:42:46思い出したのは
00:42:47やっぱり
00:42:47ちょうどやっぱり
00:42:48大学のぐらいの
00:42:49物心ついてね
00:42:51いろいろ人生考えますよね
00:42:52そういう事業に
00:42:53考え始めますよね
00:42:55大学を出た
00:42:58イーサンホさんは
00:42:59神奈川県
00:43:00川崎市に移り住みます
00:43:02在日コリアンの子どもたちが
00:43:06通う幼稚園に
00:43:07勤めました
00:43:08社会保障など
00:43:15在日コリアンの処遇が
00:43:17改善されながらも
00:43:18イーサンホさんは
00:43:20日本の外国人登録に
00:43:22残された
00:43:23ある制度に
00:43:24疑問を感じていました
00:43:261952年に始まった
00:43:32指紋大夏制度です
00:43:3414歳以上の外国人は
00:43:39指紋の登録が
00:43:40義務付けられていました
00:43:411980年代
00:43:44外国人に対する
00:43:46差別の象徴として
00:43:47問題になります
00:43:49指紋の大夏拒否を
00:43:56イーサンホさんは決意します
00:43:58その原点は
00:44:0014歳の時にありました
00:44:02自分は14歳の時に
00:44:06やっぱり
00:44:06指紋を取られて
00:44:07最初に認識する
00:44:08自分が日本人ではないと
00:44:10いうことを認識する
00:44:12場面が
00:44:13新聞の夏の時ですね
00:44:14そういう意味では
00:44:16非常にマイナスですよね
00:44:17自分はこれ
00:44:19当時は外国人で
00:44:21意識ないですからね
00:44:22全然
00:44:22自分はこれ
00:44:23日本人じゃないから
00:44:25韓国人
00:44:26朝鮮人だから
00:44:27こういう目に
00:44:28合うのかと
00:44:29だって
00:44:30自分の周りの友達
00:44:31日本人ですけど
00:44:32誰もそんなこと
00:44:33しませんからね
00:44:34だからそういう意味では
00:44:35やっぱり
00:44:3614歳の時に
00:44:37指紋を取られると
00:44:38しかも役所に行って
00:44:40指を持たれてね
00:44:45要するに
00:44:46犯罪者が
00:44:47何かしたかねえ
00:44:48ね
00:44:48答えると
00:44:49在日一世の多くが
00:44:53仕方がないと
00:44:54受け入れてきた
00:44:55指紋の大夏
00:44:56二世たちは
00:45:00人差し指の自由を掲げ
00:45:02指紋大夏拒否の
00:45:04運動を広げていきました
00:45:06一方で
00:45:11イーサンホさんの元には
00:45:12抗議の手紙が
00:45:14次々と届きました
00:45:15もうめちゃくちゃ
00:45:17もう
00:45:17朝鮮買いでとかね
00:45:19だけど
00:45:19置きつけてきたりとか
00:45:21何十通か
00:45:23百通近く
00:45:24来ましたからね
00:45:25なぜ
00:45:28あなたたちは
00:45:29指紋大夏を拒否するのでしょう
00:45:32そんなに日本の法律に逆らうのでしたら
00:45:37さっさと日本から出て行ってください
00:45:40山梨在住のOL
00:45:46その中に
00:45:51やはり
00:45:51あの
00:45:53卓筆でね
00:45:55結構
00:45:55訪ねされている方だと思いますけどね
00:45:58丁寧な言葉でね
00:46:00だけども
00:46:01内容はね
00:46:02もう会ですよ
00:46:03朝鮮買いでですけど
00:46:05そういう方もいましたし
00:46:07だからその意味ではもう老若男女
00:46:12社会的地位がどうのこうの関係なくね
00:46:18各界各層でそういう気持ちを持った人がいるんだなというのは実感しましたね
00:46:24当時入国管理局に勤めていた水上さん
00:46:30指紋大夏拒否の急増を受けて対応策を協議しました
00:46:35これはですね私が法務省入国管理局にいるときですね
00:46:43仕事ノートですねこっちは
00:46:44ノートには当時行われた話し合いの内容が記録されていました
00:46:51法務省が取った方針は放置国家の維持
00:46:58指紋大夏を拒否する者には地方自治体が刑事告発するよう促しました
00:47:08告発させるのが基本ではないか
00:47:16下小夏拒否者というんですかね
00:47:21だんだんだん数が増えてきて
00:47:23これをですね放置するわけにはいかないと
00:47:26特にあの法律上を守っている法務省とか警察です
00:47:31非常に関心がございまして
00:47:34今ある法律はきちんと守ってもらわなきゃいけないと
00:47:37いうのはですね当時我々というか関係省庁の合意ではあったと思いますね
00:47:461985年5月8日
00:47:52イーサンゴさんは出勤の途中
00:47:57外国人登録法違反の容疑で逮捕されました
00:48:08警察署には在日コリアンの人々が駆けつけ
00:48:11抗議の声を上げました
00:48:13その中には日本人の姿もありました
00:48:19その一人山田孝雄さんです
00:48:38即時釈放しろということと
00:48:41それから指紋の大夏制度は不当な政策であるということで
00:48:48山田さんがデモに参加したのには理由がありました
00:48:54当時川崎市役所職員として
00:48:57指紋の大夏を担当していたのです
00:49:00外国人努力は約10年やりましたね
00:49:03本人確認って結局顔写真でやってるわけなんですよね
00:49:07それが日本人の間では常識なわけでしょ
00:49:11ところが外国人の方だけは写真だけでは済まさないわけですよね
00:49:15指紋まで撮るということだから
00:49:17でもとっても私は本人指紋で
00:49:21前回来た人と同じかどうかって確認なんかできっこないわけですし
00:49:25その指紋の見分け方の研修なんかも一度も受けたことないわけです
00:49:29結局やっぱり顔写真で自分も本人確認してるわけですよね
00:49:34そういうことだけやっぱり外国人に義務を貸すというのは
00:49:39やっぱりちょっと問題だというふうにはずっと思ってましたね
00:49:42その後イーサンコさんは国から起訴され裁判で争います
00:49:52指紋大夏の拒否に立ち上がった在日2世の姿を見て
00:50:01在日1世も拒否を始めます
00:50:04その動きは次第に広がり
00:50:10拒否の数は1万件を超えました
00:50:13指紋大夏制度の廃止を訴える声は
00:50:19日本人と外国人
00:50:21国籍の壁を越えて支持を集めます
00:50:24これから日本社会で定着していくんだと
00:50:30そのためには
00:50:31共に生きるためには
00:50:33やっぱりこういう法律があってはいかないんだと
00:50:35日本の人たちもいましたよね
00:50:37たくさん
00:50:38私自身はやっぱり
00:50:40共に日本社会の中で生きていく人たちが
00:50:47やっぱりこんなにいたんだなという意味では
00:50:49より異常に日本の社会の中で
00:50:54自分のことを認め合いながら
00:50:57共に生きていく社会
00:50:58それをやっぱりより強くしていきたいなという気持ちには
00:51:03拒否して対応されたと
00:51:05当時は思いましたね
00:51:06韓国政府も日本に指紋大夏の廃止を
00:51:14たびたび要請しました
00:51:16在日コリアンの指紋大夏は
00:51:221993年に廃止されます
00:51:262000年には外国人登録法による
00:51:33指紋大夏制度が全廃されました
00:51:36在日コリアンを主な対象に始まった
00:51:40日本の外国人政策
00:51:42その大きな転換点となりました
00:51:46バブルケーキが加熱した
00:51:551980年代後半
00:51:57日本の外国人労働者をめぐる議論が
00:52:07にわかに高まります
00:52:09製造業など若者が敬遠しがちな厳しい職場は
00:52:19深刻な人手不足に直面していました
00:52:22経済界からは外国人労働者の
00:52:28受け入れを求める声が上がります
00:52:30東京商工会議所はヨーロッパを調査するなど
00:52:40積極的に提言しました
00:52:42私はここにいます
00:52:48設備工事会社の役員だった
00:52:51カンナリタスクさんも
00:52:52西ドイツやフランス、スウェーデンを調査しました
00:52:56当時450万人の外国人が暮らしていた
00:53:05西ドイツ
00:53:06トルコやユーゴスラビアなどからの移民が
00:53:10労働力不足を補っていました
00:53:13カンナリさんは帰国した後
00:53:26東京商工会議所に報告します
00:53:29外国人労働者の受け入れについて
00:53:34外国人労働者の受け入れは不可避だと思う
00:53:38バブルがみんな儲かっている時代ですから
00:53:41人が欲しい
00:53:42どんどん人がいればそういう時に仕事が増えるよと
00:53:45そういう時代ですから
00:53:47社員の獲得なんていうとやっぱり
00:53:53なかなか大変で
00:53:54入ってこない時期ずっとあったりして
00:53:56いずれは外国人労働者を入れなければ
00:54:00このまま行くんだったら
00:54:03無理だろうなと思いましたね
00:54:041988年
00:54:10日本政府は外国人労働者の受け入れに関する
00:54:14方針を示します
00:54:21労働省が発表した雇用対策基本計画
00:54:25国内労働市場や社会生活に
00:54:32外国人が悪影響を及ぼす恐れを指摘しました
00:54:36専門・技術的な能力を持つ外国人は受け入れながらも
00:54:43それ以外の労働者には
00:54:45次のような方針を示していました
00:54:48いわゆる単純労働者の受け入れについては
00:54:57十分慎重に対応する
00:55:01単純労働者を受け入れない中で
00:55:08労働力不足の穴を埋めたのが
00:55:11観光ビザで入国した不法就労の外国人でした
00:55:15当時、法務省に勤めていた坂中秀則さん
00:55:28不法就労の急増と労働力不足の解消という難題に取り組みました
00:55:39坂中さんは出入国管理法の改正に知恵を絞ります
00:55:48目をつけたのは
00:55:52かつて日本からブラジルやペルーなど
00:55:55南米各地に移住した日系人たちでした
00:55:59たまたまですね、あの頃、1989年頃ですね
00:56:07ブラジルはね、超あるインフレートというか
00:56:111年間1000倍ぐらいの価格が上がるような
00:56:14そんなんだったと
00:56:14日系人もそれで苦しんでいると
00:56:17でね、私はすぐ直回してね
00:56:20当時経済界から入れろ入れろ言っていいから
00:56:23これだと
00:56:24ブラジルにいる日系人をね
00:56:29Uターンさせようと
00:56:31そういう、それですぐね
00:56:33私は上司に日系団板して
00:56:35これでやると
00:56:36坂中さんは日系人が日本で働く道を開くため
00:56:43出入国管理法が定める在留資格の見直しに取り組みます
00:56:48特別用紙というかな
00:56:50もともと日本国籍を所持していた移民一世は日本で働くことができました
00:57:00法改正では移民一世の配偶者や子供に日本人の配偶者等
00:57:08また移民二世の配偶者や子供に定住者という新たな在留資格を設けました
00:57:17これにより移民二世、三世まで日本で働けるようになったのです
00:57:31法改正によって多くの日系人が日本にやってきました
00:57:361990年に来日した日系三世の藤田パウロさんもその一人
00:57:47ブラジルでは宝石の職人でしたが
00:57:50店がたびたび強盗に遭い、移住を決意しました
00:57:54日系人に対し、政府による日本語教育などはなく
00:58:18パウロさんは来日してすぐ、トヨタの下請けだった自動車部品の工場で働き始めます
00:58:26日本へ来てからプレースの前に立たされたらびっくりしました
00:58:34すごく大きくてね
00:58:36でね、降りてくる時のあれね、うわーと消えてね
00:58:42本当にびっくりしました、本当
00:58:44だから、それ慣れるまでがね、なんか怖かったですよ、本当
00:58:51もう慣れるというか、もうしょうがなしで、やっていかんかったらもう
00:58:57あの、なんていうか、首が危なかった、ブラジルに帰らなあかんかなと思って
00:59:01働きぶりが認められ、正社員に登用されたパウロさんは
00:59:10技能検定試験にも合格
00:59:13定年まで15年勤めて感謝状をもらいました
00:59:251990年の法改正により、日本に在留するブラジル人は急激に増加します
00:59:31ピク時には32万人に達しました
00:59:36日系人たちは、自動車産業や精密機械産業が盛んな
00:59:47関東や東海地方などに集まりました
00:59:52愛知県豊田市のホミ団地もその一つです
00:59:57もともと日本人が暮らしていた団地に、日系人やその家族が移り住むようになりました
01:00:062001年のホミ団地です
01:00:13会社が両として借り上げたため、全世帯の3割以上が外国人となっていました
01:00:25残業を厭わずに働く日系人は、日本の産業を底辺で支えます
01:00:31当時、政府は日系人のためには、日本語教育などの制度を設けませんでした
01:00:40やがて、ホミ団地では、日本人との間に圧力も生まれます
01:00:51藤田パウロさんも暮らしていました
01:00:53ここに住んで、友達が遊びに来てから10時ごろ、車のところまで送って行ってから
01:01:02ちょっと大きな声を話したら、10分のうちに警察が来てから
01:01:08ちょっと苦情がありました
01:01:11時間が時間ですから、静かにしてくださいとか
01:01:15それはもうたびたびありましたよ
01:01:19不思議にね、ここは何かあったら、もう警察をね、パトッカーを呼んで
01:01:24ブラジルだったら、お互いさんね、そんなあれがあったら
01:01:28お互いさん行ってからね、話しつけるんだけども
01:01:31日本は全然そうじゃないもんね、北すぐですから
01:01:35ちょっとね、厳しく言われると、なんかね
01:01:39日本の文化、全然分かってないから、なんかね
01:01:44外国人だからこんなね、そんなように
01:01:50どうなったりなんかするんかなってね
01:01:52まあ、差別されるようなかなと思ってね
01:01:56日本人の住民も、外国人の増加に伴うトラブルに
01:02:03悩まされるようになります
01:02:05団地に住んで40年近くになる板谷新和さんです
01:02:14特に深刻なのが、団地にあふれるゴミの問題だといいます
01:02:22板谷さんは、一部の外国人がルールを守らないことが
01:02:44団地の安全を脅かしていると感じてきました
01:02:48外国人にルールを守るよう呼びかけても
01:03:17言葉の壁などから解決していません
01:03:20どうしても上の階の人は階段使って逃げるしかないんですから
01:03:24新たな労働力として日本が受け入れた日系人
01:03:32住民として地域社会にどう迎え入れるのか
01:03:37課題を残していました
01:03:41日系人が自動車などの機関産業で働く一方
01:03:54地方の中小零細企業では労働力不足が深刻になっていました
01:04:00こうした中、1993年
01:04:09日本は新たに外国人技能実習制度を始めます
01:04:14外国人技能実習制度とは
01:04:29開発途上国などの人材育成を通じて
01:04:33日本が国際貢献を果たすことを目的とする制度です
01:04:38農業や食品加工、繊維関係など
01:04:46定められた職種で外国人の実習生を受け入れます
01:04:50実習生は日本で働きながら
01:04:59技術や知識を身につけ
01:05:00収入を得ることができます
01:05:03労働省で技能実習制度の創設に関わった
01:05:12南本邸介さんです
01:05:14先進国、日本として
01:05:17それから技術、技能の先進国としてですね
01:05:22たくさんいらっしゃる外国の方に
01:05:28日本式の技能習得のような機会を与えると
01:05:37途上国から来るその方も
01:05:40お金儲けのために
01:05:42ご自制度を作ったわけではありませんよと
01:05:44だから皆さん方が将来
01:05:45ご国に変えられて
01:05:49就業される、あるいは起業されるとかという
01:05:52あるいはご国のためになられるという意味で
01:05:54お役に立つのではないでしょうか
01:05:56という提案をしているわけですから
01:05:58もうお金だけ稼げばいいんだというのでは困りますよ
01:06:01というこういう理解も得なきゃいけない
01:06:05中国、ベトナム、インドネシアなどからやってきた
01:06:12外国人技能実習生
01:06:141年間の研修後、技能検定に合格すれば
01:06:21さらに2年、合計で3年まで日本に滞在できます
01:06:26原則として職場を移動することはできません
01:06:30学んだ後、出身国に戻り
01:06:35経済発展を担うことが期待されています
01:06:39受入企業は、その3分の2が
01:06:48従業員19人以下の冷裁企業です
01:06:51実習生には労働基準法が適用され
01:07:00賃金や残業代が支払われます
01:07:03しかし、厚生労働省の調査によれば
01:07:19監督指導した期間の8割で
01:07:22賃金の不払いや長時間労働などの
01:07:25法律違反が認められています
01:07:29さらに、実習生に対する人権侵害の事例も報告されています
01:07:44実習生から相談を受け
01:07:49支援を行うボランティア団体です
01:07:512009年には、1人の中国人実習生を保護しました
01:08:02これは富山であった暴行事件ですよね
01:08:06その会社で、携帯が禁止されていた
01:08:09法制工場の実習生だった、シー・シュンコウさん
01:08:15携帯電話を取り上げようとした経営者に
01:08:19抵抗し、殴られました
01:08:21その直後の様子を、実習生仲間が撮影していました
01:08:31この映像は裁判所に提出され
01:08:56工場側は180万円の損害賠償を支払いました
01:09:01この工場では、実習生が携帯電話を持つことを
01:09:10禁止していたといいます
01:09:12結局お互いに連絡を取らせない
01:09:16いくつもの会社に分かれるじゃないですか
01:09:18そうすると、会社の賃金も違うし
01:09:21仕事も違うし、待遇も違う
01:09:23情報が漏れるのがまずいから
01:09:27漏れるのもまずいし、知られるのもいいのを知ったりすると
01:09:32自分のところが不利になるし困るから
01:09:34いろんなことを知られると
01:09:35資産はその後、中国に帰国しました
01:09:40今、紳士服の販売員として働いています
01:09:44年収はおよそ55万円
01:09:50年収はおよそ55万円
01:09:53技能実習制度で得た収入の方が大きかったといいます
01:09:59夫と息子と共に暮らす資産は
01:10:05帰国後、念願のマイホームを手に入れました
01:10:09技能実習生として働いた資産の3年間は
01:10:183LDKのマンションに変わりました
01:10:21doit人として働いていました
01:10:46のは知らなかったか
01:10:48その下 delle学校も結論ですね
01:10:50ボランティア団体の代表 長谷川清さん
01:11:05これまで400人に上る実習生の相談を受けてきました
01:11:13何のために来るのかといえば家庭のため 家庭の家族を支えるため
01:11:18そのために日本に出稼ぎに来ていると
01:11:21技能実習制度というのは日本で技術を学んで
01:11:26それを発展地方国へ持って帰って 移転して貢献すると
01:11:31そういうのがお題目のみたいにして 言われているんですけども
01:11:35実態はそんなことじゃないと お金を稼ぎに行きたいと
01:11:38それがもう第一
01:11:39現在 外国人技能実習生は18万人
01:11:46その出入国を管理する法務省は
01:11:50監査体制を強化し 実習生の連絡窓口を整備するなど
01:11:55対応策を進めています
01:11:57技能実習制度を活用して
01:12:03付随的に労働力不足を埋めている面がある
01:12:08そういう側面があるということは否定しません
01:12:10しかしながら あくまでも技能実習制度というのは
01:12:13日本で技能を身につけてもらい それを本国に帰って生かしていただく
01:12:18そういう国際貢献のために 作られている制度でありますので
01:12:23抜本的な見直しを行って 制度の趣旨に則った受入れが確実に行われるように
01:12:28そのような形で見直しを行っていければ そういうふうに考えております
01:12:324年前に来日したジュディ・ユーセフさん
01:12:50反政府デモに参加して命の危険を感じ
01:12:56シリアを離れて日本で難民申請を行いました
01:13:01政府はジュディさんに人道上の配慮から 在留許可を与えましたが
01:13:10難民の認定をしませんでした
01:13:12反政府デモへの参加は 一般的に危険であっても
01:13:21ジュディさん固有の危険性ではなく
01:13:23迫害を受ける恐れがあるとは 認められないという理由でした
01:13:35法務省は日本が加入した難民条約に則って
01:13:39難民の認定を行っているとしています
01:13:42難民条約で難民については 定義されているわけですが
01:13:52人種とか国籍とか宗教 さらには特定の社会集団
01:13:57あるいは政治的意見で 本国政府から迫害を受ける恐れがあるもの
01:14:03そのような人が難民と定義されております
01:14:07紛争から逃れてきた そのことだけでは
01:14:13条約上の難民には当てはまらないわけです
01:14:17これまで難民申請を行った 60人以上のシリア人のうち
01:14:24認められたのは 明らかになっているだけで3人です
01:14:29去年 ジュディさんは日本政府に難民認定を求める裁判を起こしました
01:14:37ジュディさんはNPO団体のサポートを受けながら 埼玉で生活しています
01:14:51難民認定を希望するのは家族のためです
01:14:58難民と認められれば 就労支援や日本語教育を受けることができます
01:15:05ジュディさんは 妻と6歳の娘 4歳の息子と暮らしています
01:15:14ジュディさんは 子どもに荒れた祖国ではなく
01:15:27日本で教育を受けてほしいと願っています
01:15:31しかし現在は 子どもを幼稚園に入れることも難しく
01:15:42日本語に接する機会も限られています
01:15:45日本語教育を受けることはある
01:15:51私は学校の方に教えたら 私が学んだの
01:15:54私は若い子と学んだのを学んだの
01:15:57私は若い子を教えていたり 私の語りが学んだの
01:16:01日本語を学んだの
01:16:02今は 私は学んだの
01:16:03私は学んだの
01:16:04今は 私は 生まれ 生まれ
01:16:06心の中で 生まれ
01:16:07私は 生まれ 生まれ
01:16:09私は 生まれ 生まれ
01:16:11去年9月、安倍総理はシリア・イラク難民について
01:16:26972億円の支援を表明しました
01:16:30難民に対する対応の問題であります
01:16:37これはまさに国際社会で連携して取り組まなければ
01:16:41いけない課題であろうと思います
01:16:43人口問題として申し上げれば
01:16:47我々はいわば移民を受け入れるよりも前にやるべきことがあって
01:16:52それは女性の活躍でありあるいは高齢者の活躍であり
01:16:58そして出生率を上げていくにはまだまだ
01:17:02うすべき手があるということでもあります
01:17:05同時にこの難民の問題については
01:17:08日本は日本としての責任を果たしていきたいと考えておりまして
01:17:12それはまさに難民を生み出す土壌そのものを変えていくために
01:17:18日本としては貢献をしていきたいと考えております
01:17:232020年の東京オリンピックを開催することになった日本
01:17:33政府は建設需要に対応し
01:17:41外国人を緊急的・次元的措置として受け入れることを決めました
01:17:46今、人手不足が深刻な介護の現場では
01:17:54インドネシアやフィリピンの研修生が働いています
01:17:58どうぞ
01:17:59どうですか?
01:18:02はい、よかったね
01:18:04敗戦直後、日本で暮らす外国人の9割が在日コリアンでした
01:18:12インドシナ難民、日系人の受け入れを経て
01:18:18現在217万人の外国人が暮らしています
01:18:23日本人と外国人が葛藤を抱えながらも
01:18:31共に暮らしてきたホミダンジです
01:18:33今では全世代の63%が日系人などの外国人になりました
01:18:44法改正で日系人が来日するきっかけを作った
01:18:52坂中秀典さん
01:18:54法務省を退職後は移民の受け入れを提言し
01:19:01全国各地で公園や視察を行っています
01:19:08日系ブラジル人をどういう暮らしているか
01:19:11今、やっぱり関心ありましたですよ
01:19:13日本が日系人を受け入れてから25年が過ぎました
01:19:22今、大きな問題として浮上しているのが子どもの教育です
01:19:31子どもたちは日本語の習得が十分でなく
01:19:43母国語を話す機会も減っています
01:19:46ホミダンジではNPO団体が学習支援を行っています
01:19:53日本語も不十分でポルトガル語ももちろんわからないで
01:20:00やっぱりそれは大変なことなんですよね
01:20:02国は2009年に日系人の子どもに向けた就学支援事業を始め
01:20:22学校やNPOに補助金を支給しました
01:20:26日系人を受け入れる道を開いた坂中さん
01:20:48外国人の子どもが日本で生きていくために
01:20:52何が必要だったのか問い直しています
01:20:55僕はもう残念ながらね
01:20:59本当は僕の責任が多いんですけどね
01:21:01僕は扉を開いただけだったんですよ
01:21:02法改正して
01:21:03バブルの頃だったしね
01:21:06労働力不足、人材不足なんかで
01:21:11日系ブラジルの人に帰ってきてもらおうと
01:21:14本国で超インフレで大変だから
01:21:17ということで民間法改正して
01:21:202つの法律、ある資格を作り入れたんですけどね
01:21:25ですから子どもの教育のこととか
01:21:28社会統合のこと
01:21:30一切僕の頭になかったわけです
01:21:33もちろん僕の頭になかったということは
01:21:35政府関係者にも誰もなかったわけですよ
01:21:37突然ぼーたってきたと
01:21:38ああいう受け入れ方はダメですよ
01:21:42僕自身反省してますけどね
01:21:44戦後、70年にわたって
01:21:49日本で生きてきた在日コリアンの人々
01:21:52イーサンホさんは指紋の大夏を拒否して以降
01:21:59日本社会の中でどう生きるか考え続けてきました
01:22:04去年10月、心を痛める出来事がありました
01:22:12戦争中に動員され亡くなった朝鮮人の慰霊碑
01:22:25碑にはシールを貼られ
01:22:32スプレーで落書きがされていました
01:22:34いやもう本当はあの
01:22:42言葉が出らずにですね
01:22:46もう呆然とこう立っておりました
01:22:48はい
01:22:49こんなことがあるのかなと思ってですね
01:22:52本当に残念でしたね
01:22:55慰霊碑が怪我されたことは
01:22:58在日コリアンだけでなく
01:22:59地元の日本人にとっても衝撃でした
01:23:03毎年春
01:23:08日の前では在日コリアンと日本人が出席して
01:23:12慰霊祭が行われてきました
01:23:14日に備える100本余りの白い菊は
01:23:23日本人が育て
01:23:25毎年欠かさず手向けています
01:23:27日本人と在日コリアンをつないできた慰霊碑
01:23:39碑を元通りにし
01:23:42イーサンホさんたちは春に再び慰霊祭を開きます
01:23:46私はもうどういう人たちと共に生きるかということなんですね
01:23:54決してだから僕は日本がダメな国だとか全く思いません
01:24:02日本人がダメな民族で全く思いません
01:24:05私たちも同じ脅威して逮捕された時も
01:24:08それを支援してくれた日本人いっぱいいたんですから
01:24:11そこの少年外の人たちとか地域の人たちとか
01:24:15日本の人たちがみんな応援してくれたんですから
01:24:17本当に感謝ですよありがたいですよ
01:24:21だからそういうのがあった上でね
01:24:23共にどう生きていくかということをね
01:24:25僕ら自身も考えたんですね
01:24:27僕自身も
01:24:29だからそのためにやっぱりね
01:24:31自分が在日だということをね
01:24:34きちんと思ってないとダメだと思うんです
01:24:37だから日本人も自分が日本人だと
01:24:39いう認識を基地とした上でね
01:24:41お互いを認め合って生きていきたいと
01:24:46いうふうに思いますね
01:24:51外国人と日本人が
01:24:54共にどう生きていくのか
01:24:56ホミダンチでは長年模索を続けてきました
01:25:01言葉や文化の壁を乗り越えるため
01:25:11交流の場を作っています
01:25:1315回目を迎えた秋祭りもその一つです
01:25:20祭りの目玉は餅つき
01:25:26日本人と外国人が変わる変わるつきます
01:25:31かつて日本人との関係に悩んだ
01:25:37日系人の藤田パウロさん
01:25:40団地のゴミ問題に取り組む
01:25:44板谷新和さん
01:25:45共に祭りを楽しみます
01:25:49一生懸命作ったから
01:25:51真心がこもってますから
01:25:53そうですよね
01:25:54そう感じました
01:25:55それなりに頑張るしかないから
01:26:01住んでる以上は
01:26:03ゆくゆくは子どもたちのため
01:26:06子どもたちにしたら
01:26:08自分のふるさとはここなんだから
01:26:10なるだけうまいことを強制して
01:26:14一緒に生活していきましょうということで
01:26:17少しでもよくして
01:26:19子どもたちのために
01:26:21残していかなきゃいけないもんね
01:26:23やっぱり来てよかったんだよな
01:26:28確かね
01:26:29いろいろなことがあったけど
01:26:38それを通り抜けていって
01:26:41今日があると思ったら
01:26:43今までずっとね
01:26:47日本の生活でしてきて
01:26:51また日本の人にいろいろな
01:26:53またね
01:26:54自分がわからんことを
01:26:57たくさん教えてもらって
01:26:59日本人になれるまではいかないけども
01:27:04まあまあもうちょいかな
01:27:06異国の人々と
01:27:15共に生きる社会を
01:27:17どう築くのか
01:27:19今
01:27:24私たちが問われています
01:27:36ご視聴ありがとうございました