【経緯】 太平洋戦争末期の1945年5月、福岡市を始めとする九州方面を爆撃[1]するために飛来したアメリカ陸軍航空軍のB-29が、熊本県・大分県境で第三四三海軍航空隊所属の19歳の学徒兵、粕谷欣三一等飛行兵曹が操縦する戦闘機紫電改の体当たりによって撃墜された。機長のマーヴィン・S・ワトキンス(Marvin S. Watkins)中尉以下、搭乗員12名が阿蘇山中に落下傘降下した。3名は現地で死亡[2]。生き残ったのは9名であったが、東京からの暗号命令で「東京の捕虜収容所は満員で、情報価値のある機長だけ東京に送れ。後は各軍司令部で処理しろ」とする命令により、機長のみが東京へ移送された。残り8名の捕虜の処遇に困った西部軍司令部は裁判をせずに8名を死刑とすることにした。このことを知った九州帝国大学卒で病院詰見習士官の小森卓軍医は、石山福二郎主任外科部長(教授)と共に、8名を生体解剖に供することを軍に提案した。これを軍が認めたため、8名は九州帝国大学へ引き渡された。8名の捕虜は収容先が病院であったため健康診断を受けられると思い、「サンキュー」と言って医師に感謝したという。 生体解剖は1945年5月17日から6月2日にかけて行われた。指揮および執刀は石山教授が行ったが、軍から監視要員が派遣されており、医学生として解剖の補助を行った東野利夫は実験対象者について「名古屋で無差別爆撃を繰り返し銃殺刑になる」との説明を受け、手術室の入り口には2名の歩哨が立っていたという。(以下略)