戦後70年#元特攻隊員と若者の対話
  • 9 年前
2015.6.5 NHK かんさい熱視線 シリーズ 戦後70年

92歳の元特攻隊員の岩井さんが若者達に戦争の事について語る理由を尋ねた。岩井さんが徴兵されたのは大学生の時。昭和18年頃に戦局が大きく変化し、兵力が激減し、文系大学からも徴兵された。当時について岩井さんは『教官達からは「貴様たちは生きて帰れない」っていうふうに言われました』と語った。そして、現在岩井さんは若者に同じ体験をしてほしくないという気持ちを直接若者に語りたいと考えるようになったなど話した。
岩井さんは立命館大学へとやってきた。岩井さんは戦争の体験について話すことにためらいがあるが、大学の授業で平和授業を進めていることを知り、話すことができないか相談した。そして、岩井さんが徴兵された大学1年生に語る事になった。
今から70年前余、岩井さんらは航海士になる訓練を受けていた。そこで、特殊兵器の搭乗員への志願が突然、求められた。兵器の詳細を知らされないまま志願した岩井さんは長崎・川棚町にある訓練所へと向かった。特殊兵器「震洋」はベニヤ板のボートで船首に爆薬を取り付けた特攻兵器だった。
昭和20年3月、岩井さんらは石垣島に出撃するも、。アメリカ軍の攻撃により船が沈没し岩井さんは救出され、そのまま終戦を迎えたという。「震洋」の乗組員の多くは若者で基地要員も含め2500人が戦死した。隊員らの考えとして「命を捧げることが起死回生の一手に」なるのではと考えていた。
特攻を志願した岩井さん実は岩井さんの兄も特攻に参加していたという。この日95歳の誕生日を迎える忠正さんの誕生会に参加していた。特攻の志願はそれぞれ話し合うことも無く志願したという。
特攻へと志願した理由について忠正さんに尋ねた。忠正さんが特攻へと志願した時期、日本は負け続けていた。そんな中「一発必中の」特殊兵器が開発された。死にたくないと思っていたがそれは避けられない運命を受け入れていたなど話した。忠正さんの部隊は人間魚雷の「回天」を使用する部隊だったが、使用する事もなく終戦を迎えた。
岩井忠熊さんは若者へどうしたら気持ちが伝わるか何度も原稿を書きなおして考えていた。そして、授業当日40人の大学生が集まった。授業では教官達が学生たちを修正という鉄拳でぶん殴るという行為があったなど話した。そして、特攻へ志願した理由について 「予備学生でも面目を見せてやりたいという気持ちが強かった」など様々な考えが張り巡ったと話した。そして、岩井さんは「あふれる情報に押し流されていけば、私の犯したような愚行を犯すことになりかねません」など伝えた。
岩井さんの話を聞いた学生から「戦争に対して思うこと」について聞かれると岩井さんは「我々の運命に関わることが全く正しい情報として伝わらないで、戦争というものが始められるということは二度と繰り返してはいけない」など話した。
授業を終えた岩井さんは「真剣に聞いてくれたと思う。分かろうという気持ちはみなさん持っていたのです」など話した。
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