20131104 炭じん爆発から50年 妻たちの闘い
- 10 年前
炭じん爆発から50年 妻たちの闘い
戦後最大の産業事故と言われる三井三池炭鉱の三川鉱で起きた炭じん爆発事故から、今月9日で50年となります。
あの大事故と今も向き合う人たちを、シリーズでお伝えします。
1回目のきょうは、一酸化炭素中毒の後遺症に苦しむ元炭鉱マンと、炭鉱マンの夫を支えてきた妻たちを描きます。
●車内で話す首藤心子さん
Q50年間、疲れたな、もう投げ出そうかなとか思ったことは一度もないですか?
「それは、大事な主人を抱えてますから、投げ出せませんからね」
Q「こんちくしょうっていう言葉が私を支えてる」ってことをおっしゃいましたけど、何に向かって「こんちくしょう」なんですか?
「やっぱり自分に負けないためにも、根性はいりますよ」
熊本県荒尾市に住む首藤心子さん、75歳。
50年間、夫のいる福岡市へ通い続けています。
三川鉱炭じん爆発事故で重度の一酸化炭素、CO中毒患者になった夫・宏也さんは、事故以来、九大病院に入院したままです。
●車内で話す首藤心子さん
「(炭じんの)清掃さえきちんとしておけば、そういう大災害は起こらなかったはずなんですよ」
50年前の昭和38年11月9日午後3時すぎ、大牟田市の三川鉱で、大規模な炭じん爆発発生。
死者458人、CO中毒患者839人を出す戦後最悪の産業事故となりました。
事故は、運搬車両の連結部が壊れ、外れたことがきっかけとされます。
運搬車両は暴走、堆積していた炭じん、つまり石炭の細かい粉に火花が引火し、大爆発が起きました。
火災によって発生した一酸化炭素が坑内に充満し、死者のほとんどが一酸化炭素中毒死でした。
宏也さんはあの日、勤務を終えて地上に上がろうとしていた矢先、大爆発が起き、大量のCOを吸ったのです。
妻・心子さんのおなかには、2人の第一子・長女が宿っていました。
●話す宏也さんと心子さん心子さん
「痩せてしまって」
宏也さん
「骨が縮む…」
心子さん
「体重が半分になっとるもんね」
Q今、何キロぐらいですか?
心子さん
「40何キロ…、47.25になっとる」
宏也さん
「79.5キロ、最高は」
Q身長は何センチですか?
心子さん
「1メートル78あったもんね」
宏也さん
「もう縮んどうけん」
心子さん
「体のゆがんどるもんやけん」
事故にあう前、頑強な体とともに、几帳面な字も、宏也さんの自慢でした。
●話す宏也さんと心子さん
Q日記はもう何年ぐらいつけてらっしゃるんですか?
宏也さん
「私は50年ずっと…」
心子さん
「ゆっくり、はっきり言った方がいいよ。わからんようになりよるよ、言葉がね。自分でも読めません。ばってん、一生懸命、書いたもんね」
宏也さん
「自分で…」
●事故から1週間後の資料映像記者
「一酸化炭素中毒というのは一時的なものだということを聞いていますけど、それにしてもご心配ですね」
妻
「(夫の)記憶が返りますならですね」
記者
「お子さんがいらっしゃいますね。あわかりですか?」
夫
「はい」
記者
「何人いらっしゃいますか?」
夫
「何人かいね…」
記者
「(子供が)いらっしゃったら、あわかりになりますか?」
妻
「はい。顔見た瞬間はわかりますけど、ちょっと向こうに行きますと、全然、記憶が…ですね」
笑顔を見せるものの、募る不安が、妻の表情から読み取れます。
これは、RKBが所蔵する事故直後の貴重な映像です。
COを吸っても、ほどなく健康な状態に戻る。
それが当時の医療認識でした。
この誤った認識が、初期治療の遅れの要因になったのです。
●話す松尾蕙虹さん
「私の弟が、まだ中学生だったからですね、もう、学校から走って帰ってきて、『大牟田に原子爆弾が落ちた』って。『いや、キノコ雲が上がった』って」
松尾蕙虹さん、82歳。
大牟田市内で1人暮らしをしています。
松尾さんの夫、修さんも、三川鉱で炭じん爆発事故にあいました。
CO中毒患者となった修さんは、19年前、亡くなりましたが、蕙虹さんの左腕のしびれは今も消えません。
長く夫の添い寝をしていたからです。
●松尾蕙虹さん
「もう『えすかばい、えすかばい(恐ろしい、恐ろしい)』と言うから、頭を私の腕の上に載せて、寝ないとダメなんです。右腕は利き腕だから、右腕を添い寝に使ってたら、私は右腕はダメになるなと思ったから、左手ばっかりでですね」
子煩悩だった修さんは、事故の後遺症で一変。
2人の娘に手を上げることも。
娘たちは、父におびえました。
●松尾蕙虹さん
Q事故前のお父さんと事故後のお父さんが違うから。
「もう、ガス吸ってからは、荒れる父親ばっかり見てるからですね。今でも体が疲れたと思うと、左の肩からここが抜け落ちていくような感じ」
Qこの50年間ってどういうふうに振り返りますか?
「やっぱり地獄でしたよ。遺族も、患者家族も、患者もですね、本当にあの事故のおかげで、せんでいい無駄な苦労を背負いこんで、もう本当、この場所から逃 げ出せたら、さぞ楽だろうなと思うこともやっぱりありました。金はないし、主人は暴れるし、本当、縁側からはだしで飛び出したいと思ったこともあったです よ」
CO中毒の後遺症は、妻たちを苦しめてきました。
「いっそ事故で死んだ方が幸せだった」。
大牟田や荒尾の町で取材中、そう語る人もいました。
ただ、事故から半世紀、三池の闘いは、「妻たちの闘い」とも言われてきました。
●首藤心子さん
「みんな、そんな強くないですよ本当に。強くない者同士がやっぱり支え合ったことで、頑張れたと思いますね」
Q50年は区切りだっていう方もいますけど、じゃあ、違いますね?
「どういう意味で区切りですかね。区切りになりませんけど。私たちみたいな悔しい、本当に悲惨なことが起こさないためには、ここで、みんなで頑張る以外にないと思っています」
50年目の11月9日が近づきます。
でも、それは、特別な1日ではなく、苦しみと闘いが続く1日。
妻たちの共通した思いです。
戦後最大の産業事故と言われる三井三池炭鉱の三川鉱で起きた炭じん爆発事故から、今月9日で50年となります。
あの大事故と今も向き合う人たちを、シリーズでお伝えします。
1回目のきょうは、一酸化炭素中毒の後遺症に苦しむ元炭鉱マンと、炭鉱マンの夫を支えてきた妻たちを描きます。
●車内で話す首藤心子さん
Q50年間、疲れたな、もう投げ出そうかなとか思ったことは一度もないですか?
「それは、大事な主人を抱えてますから、投げ出せませんからね」
Q「こんちくしょうっていう言葉が私を支えてる」ってことをおっしゃいましたけど、何に向かって「こんちくしょう」なんですか?
「やっぱり自分に負けないためにも、根性はいりますよ」
熊本県荒尾市に住む首藤心子さん、75歳。
50年間、夫のいる福岡市へ通い続けています。
三川鉱炭じん爆発事故で重度の一酸化炭素、CO中毒患者になった夫・宏也さんは、事故以来、九大病院に入院したままです。
●車内で話す首藤心子さん
「(炭じんの)清掃さえきちんとしておけば、そういう大災害は起こらなかったはずなんですよ」
50年前の昭和38年11月9日午後3時すぎ、大牟田市の三川鉱で、大規模な炭じん爆発発生。
死者458人、CO中毒患者839人を出す戦後最悪の産業事故となりました。
事故は、運搬車両の連結部が壊れ、外れたことがきっかけとされます。
運搬車両は暴走、堆積していた炭じん、つまり石炭の細かい粉に火花が引火し、大爆発が起きました。
火災によって発生した一酸化炭素が坑内に充満し、死者のほとんどが一酸化炭素中毒死でした。
宏也さんはあの日、勤務を終えて地上に上がろうとしていた矢先、大爆発が起き、大量のCOを吸ったのです。
妻・心子さんのおなかには、2人の第一子・長女が宿っていました。
●話す宏也さんと心子さん心子さん
「痩せてしまって」
宏也さん
「骨が縮む…」
心子さん
「体重が半分になっとるもんね」
Q今、何キロぐらいですか?
心子さん
「40何キロ…、47.25になっとる」
宏也さん
「79.5キロ、最高は」
Q身長は何センチですか?
心子さん
「1メートル78あったもんね」
宏也さん
「もう縮んどうけん」
心子さん
「体のゆがんどるもんやけん」
事故にあう前、頑強な体とともに、几帳面な字も、宏也さんの自慢でした。
●話す宏也さんと心子さん
Q日記はもう何年ぐらいつけてらっしゃるんですか?
宏也さん
「私は50年ずっと…」
心子さん
「ゆっくり、はっきり言った方がいいよ。わからんようになりよるよ、言葉がね。自分でも読めません。ばってん、一生懸命、書いたもんね」
宏也さん
「自分で…」
●事故から1週間後の資料映像記者
「一酸化炭素中毒というのは一時的なものだということを聞いていますけど、それにしてもご心配ですね」
妻
「(夫の)記憶が返りますならですね」
記者
「お子さんがいらっしゃいますね。あわかりですか?」
夫
「はい」
記者
「何人いらっしゃいますか?」
夫
「何人かいね…」
記者
「(子供が)いらっしゃったら、あわかりになりますか?」
妻
「はい。顔見た瞬間はわかりますけど、ちょっと向こうに行きますと、全然、記憶が…ですね」
笑顔を見せるものの、募る不安が、妻の表情から読み取れます。
これは、RKBが所蔵する事故直後の貴重な映像です。
COを吸っても、ほどなく健康な状態に戻る。
それが当時の医療認識でした。
この誤った認識が、初期治療の遅れの要因になったのです。
●話す松尾蕙虹さん
「私の弟が、まだ中学生だったからですね、もう、学校から走って帰ってきて、『大牟田に原子爆弾が落ちた』って。『いや、キノコ雲が上がった』って」
松尾蕙虹さん、82歳。
大牟田市内で1人暮らしをしています。
松尾さんの夫、修さんも、三川鉱で炭じん爆発事故にあいました。
CO中毒患者となった修さんは、19年前、亡くなりましたが、蕙虹さんの左腕のしびれは今も消えません。
長く夫の添い寝をしていたからです。
●松尾蕙虹さん
「もう『えすかばい、えすかばい(恐ろしい、恐ろしい)』と言うから、頭を私の腕の上に載せて、寝ないとダメなんです。右腕は利き腕だから、右腕を添い寝に使ってたら、私は右腕はダメになるなと思ったから、左手ばっかりでですね」
子煩悩だった修さんは、事故の後遺症で一変。
2人の娘に手を上げることも。
娘たちは、父におびえました。
●松尾蕙虹さん
Q事故前のお父さんと事故後のお父さんが違うから。
「もう、ガス吸ってからは、荒れる父親ばっかり見てるからですね。今でも体が疲れたと思うと、左の肩からここが抜け落ちていくような感じ」
Qこの50年間ってどういうふうに振り返りますか?
「やっぱり地獄でしたよ。遺族も、患者家族も、患者もですね、本当にあの事故のおかげで、せんでいい無駄な苦労を背負いこんで、もう本当、この場所から逃 げ出せたら、さぞ楽だろうなと思うこともやっぱりありました。金はないし、主人は暴れるし、本当、縁側からはだしで飛び出したいと思ったこともあったです よ」
CO中毒の後遺症は、妻たちを苦しめてきました。
「いっそ事故で死んだ方が幸せだった」。
大牟田や荒尾の町で取材中、そう語る人もいました。
ただ、事故から半世紀、三池の闘いは、「妻たちの闘い」とも言われてきました。
●首藤心子さん
「みんな、そんな強くないですよ本当に。強くない者同士がやっぱり支え合ったことで、頑張れたと思いますね」
Q50年は区切りだっていう方もいますけど、じゃあ、違いますね?
「どういう意味で区切りですかね。区切りになりませんけど。私たちみたいな悔しい、本当に悲惨なことが起こさないためには、ここで、みんなで頑張る以外にないと思っています」
50年目の11月9日が近づきます。
でも、それは、特別な1日ではなく、苦しみと闘いが続く1日。
妻たちの共通した思いです。