エリン·サックス 統合失調症の体験を語る

  • 11 年前
 30年前、私は統合失調症と診断された。見通しは「重症」だった。決して自立できないだろうし、職を得ることも、愛するパートナーを見つけることも、結婚もできないだろう。介護施設が君の家になるだろう。精神疾患で衰弱した人々と娯楽室でテレビを見ながら一日を過ごすことになるだろう。症状が治まれば、こづかい稼ぎのような仕事ならできるだろう。精神科に入院したのは28歳の時が最後だったが、その時の医師は私に両替屋のレジで働きなさいと励ましてくれた。うまくできれば、君の能力を見直して、もっと難しい仕事につけるし、フルタイムの仕事だって可能かもしれない、と私は言われた。
 その時私は自分の人生の物語りを書こうと決心した。今私は南カリフォルニア大学グールド・ロースクールの主任教授である。私はカリフォルニア大学サンディエゴ校の医学部精神科で非常勤の講師で、新精神分析センターにも籍を置いている。
 私は長年、統合失調症という診断と戦ったが、統合失調症の患者であり生涯にわたり治療を受け入れるようになった。優秀な精神分析療法や投薬治療は私の成功になくてはならいからだ。私が受け入れることを拒んだのは私の診断後の見通しだった。
 従来の精神科の思考法と診断のカテゴリでは、私は存在しない。だから、私は統合失調症ではないか、自分の業績を成し遂げるはずはない。しかし、私は統合失調症の患者で、私は業績を成し遂げた。そして、私は南カリフォルニア大学とカリフォルニア大学ロサンゼルス校の研究者と共同研究を行い、私が例外でないことを示すことができた。私以外にも、統合失調症で妄想や幻覚症状に苦しみながら、顕著な学問的業績をあげ専門職で偉業を達成した人がいる。
 過去数年間、共同研究者と私は、ロサンゼルス在住の20人の高機能統合失調症の患者と会合をもってきた。彼らは軽度の妄想や幻覚的行動の症状に苦しんでいた。彼らの平均年齢は40であった。男女半々で、半分以上はマイノリティだった。全員が高校を卒業しており、大多数が大卒あるいは大学院卒の学歴をもっているか、それを目指して勉強中だった。彼らは大学院生、経営者、技術者だったり専門職に就いていた。その専門職には医師、弁護士、心理学者、非営利団体の最高経営責任者が含まれていた。
 同時に、ほとんどが未婚で子供はいなかったが、それは彼らが統合失調症と診断されたことからすれば当然であった。(私の共同研究者と私は、高機能統合失調症の人々を人間関係という観点から見る別の研究を行なうつもりでいる。私は40代半ばで結婚した―それは、今まで私に起こった最良のことだ―が、それ以前に18年間デートもしたことがない私には考えられない事だった)。4分の3以上は病気のために2回から5回の入院歴があったが、一度も入院したことのない人が三人いた。
 この統合失調症の人々は学業や高レベルの仕事でどうして成功しのか? この研究に参加した人々は皆、投薬や治療に加え、統合失調症を活発化させないテクニックを開発していたことを知った。ある人にとって、このテクニックは認識的なものだった。修士号を持つある教師は、自分の幻覚と向き合って、「それが現実だという証拠は何だ? それとも、単に知覚の問題にすぎないのか?」と問いかけと語ってくれた。別の参加者は「私を軽蔑するような声はたえず聞こえてきます…聞き流せばいいんです」と語った。
 症状に対する警戒策の一つは「本格的な症状を防ぐために」「トリガーを見きわめること」だと、非営利団体のコーディネーターを務める参加者は言った。たとえば、混雑した街中であまりに長い間人と一緒にいると症状が出るなら、友人と旅行する時は独りになる時間を組み込むとよいのだそうだ。 
 参加者の別のテクニックには、感覚から入ってくるものをコントロールすることも含まれる。ある人には、自分の生活空間をシンプルに保つこと(壁には何も飾らず、テレビもなく、ただ静かな音楽をながすだけ)、他の人には気晴らしの音楽を意味する。「何も耳に入らないようにしたい時は、うるさい音楽を聞くことにしているわ」と認定看護師助手の参加者は言った。さらに、運動、健康的な食生活、アルコールを避ける、十分な睡眠をとることを挙げる人もいた。神への信仰や祈りが重要な役割をはたしている人もいた。
 研究の参加者が症状を管理するテクニックのうち最も頻繁に言及する一つは仕事だった。「仕事は私という人間の重要な一部でした」とグループの教師は言った。「組織にとって有用な人間になり、尊敬されていると感じる時、所属することにはある種の価値が生まれるものです」。そう述べる人は週末にも働いているのだが、それは「気晴らし」のためだという。言い換えれば、仕事に没頭することで、あの狂おしい部分が脇に追いやられることもあるのだ。
 私自身は、おかしくなり始める度、医師や友人や家族に救いの手を求めて、多大な支援を得てきた。おいしいものを食べ、静かな音楽を聴く。刺激はすべて最小限に抑える。普通は、こうしたテクニックと、薬を増やしたりセラピーの時間を長くすると、症状はなくなっていく。しかし、仕事―頭を働かせること―が私の最良の防御策だ。仕事をしていれば精神が集中するし、悪魔どももおとなしくしてくれる。私の精神は最悪の敵であると同時に最良の友でもある、と私は言えるようになった。
 だからこそ、医師が患者に充実したキャリアを期待したり追求するなと言うのはとてもやりきれない。精神疾患に対する従来の精神科医のアプローチが、特徴的な一群の症状を見ることで終わっている―人間を見ない―ことが、残念ながらあまりに多すぎる。従って、多くの精神科医は、薬で症状を治療することが精神疾患を治療することだと思っている。しかし、これでは、個人の力や能力は考慮に入らないし、患者が世界で何を達成したいと望んでいるかをメンタル・ヘルスの専門家が過小評価することになる。
 私は統合失調症についてポリアンナのような楽天主義者のように思われたくはない。精神の病は本当に窮屈な思いをさせし、美化しないことは大事なことだ。誰もが映画『ビューティフル・マインド』のジョン・ナッシュのようにノーベル賞を受賞できるわけではない。しかし、創造的思考の種子が精神疾患に見出されることもあるだろうし、人間の脳が適応したり創造する力を人々は過小評価している。
 症状を考慮するだけでなく、個々人の長所を探そうとするアプローチがあれば、精神疾患を取り巻く悲観論はある程度払拭されるかもしれない。統合失調症の一人の患者が言ったように、「病気の中にある健全さ」を見つけることが治療のゴールとなるべきだ。医師たちは患者に、もっと人間関係を発展させたり、意味のある仕事につくように励ますべきだ。医師たちは患者を勇気づけて、症状を管理するテクニックの自分なりのレパートリーを見つけて、自分で定めた生活の質を目指すようにさせるべきだ。そして、医師たちは患者に、それを実現させる資源―セラピー、薬、支援―を提供すべきだ。
 「すべての人間は、世界にもたらすユニークな才能やユニークな自己をもっている」。誰もが望むこととは、ジクムント・フロイトの言う「仕事をすることと愛すること」なのである。

お勧め