井野碩哉のアルバム
  • 12 年前
11.1.21

井野碩哉と私

1960年(私が生まれた年)、アメリカとの軍事同盟=安保に反対する33万人の市民が国会を取り巻いた映像などを見るたび、心情的には私も取り巻く側にいるのだが、取り巻かれた国会の中にうちのじいさんと岸信介とガードマンしかいなかったという話は知らなかった。爺さんの自伝によれば、226事件を想起し、死を覚悟したそうだ。

じいさんと岸さんが無二の親友同士というのはよく聞かされていた。死に際、じいさんは岸さんの手を握りしめたという。私もじいさんの誕生日の席で、このA級戦犯(と、つい左翼的に?お呼びしてしまうが)と握手したことがある。今や歴史上の人物だ。

じいさんも東條英機内閣の閣僚だったため、戦争責任を問われ、処刑されることを覚悟していた。自伝には、米軍に拉致された日に家族と「最後の別れ」をしたことが淡々と語られている。胸に迫るものがあるが、ウィキペディアには、賀屋興宣とうちのじいさんが拘置所で囲碁を楽しんでいたエピソードも紹介されており、大物だったんだなーと思う。農林大臣というポストが幸いしたのか(農林大臣の立場から、「米がもたない‥」と戦争に消極的発言をしたというあくまでも身内の証言もある)、じいさんは戦犯にならなかった。監禁生活は一年に及んだが(横浜刑務所→大森の俘虜収容所→巣鴨拘置所)、釈放された。

自分のじいさんとは言え、知らないことばかりだ。自伝を残してくれたことに感謝している。日本橋の兜町で産声を上げたとか、へぇと思う。金融市場のど真ん中じゃん!当時(明治24年)は下町情緒も残っていたらしいが。井野家は元々三重の酒蔵だったというのも目を引く。今でも残っているのだろうか?じいさんの両親がそこを飛び出したあたりから、自伝は始まっている。

私にとってはただのじいさんと言いたいところだが、幼い頃から雲の上の存在だった。国会の質疑で女性問題を追及され毅然とした態度で答えたとか、新宿紀伊國屋書店の創業者田辺茂一と女をとりあったとか、長男(井野隆一)が共産党に入党し、やめてくれと土下座したとか、酒好きで甘いものにも目がなかったとか(父はそれを味音痴とバカにした)、子供心にもそれらのエピソードを微笑ましく頼もしく聞いたが。三重の亀山にお国入りした際には、幼い私も同行し、地元の新聞の一面に一緒に載ったらしいがよく覚えていない。また私が小学校の頃運動会をボイコットし、じいさんがただオロオロして、あんなじいさんを初めて見たと母は言っているが、幽かにしか覚えていない。

私自身の思い出らしい思い出と言えば、大学浪人時代にじいさんの家の離れに一年間居候させてもらい、最晩年のじいさんと毎日夕食をともにしたことくらいだ。当時じいさんは86、7だったとは言え、十代の私にはまだまだ威厳がありすぎで、面と向かうと汗がやたら吹き出た。「暑いのか?」と聞かれたこともある。まあでもほとんど無言の食事だった。「天皇陛下の夢を見た」と言ってご機嫌な日もあったが。今だったら色々なことが聞けるのに!ただテレビが常に爆音状態で(耳が遠かったから)、会話どころではなかった。横には、世間的には「お妾さん」の実質的奥様Jさんがいらした。

うちのばあさんはどこだったかと言うと、精神病棟でベッドに縛られていた。むしろ私はばあさんとの思い出のほうが豊富だ。幼い頃、とても可愛がられたので。人と会うたび、私の肌のきめ細やかさを自慢した。男の子としては複雑だった。母には、よくばあさんの操縦法を聞かれた。勿論、ばあさんが私の言うことを聞くのは私が孫だからだ。既にボケが少し進行していたばあさんを小学生の私はよくからかった。それがばあさんのツボにはまったようだ。ばあさんの葬式の日、喪主の挨拶で私は母と私たち兄弟以外誰もばあさんを見舞わなかったと親戚をなじった覚えがある。

じいさんは死後の配慮もした人だから、Jさんはきっとどこかで不自由なく暮らしたのだろう。ただ、じいさんの葬式でお焼香の長い列の最後にJさんがいるのを見つけ、今し方まで身近で献身的にふるまう姿が目に焼き付いている私としては、何とも言えない気分になった。後に戸籍制度に疑問を持つ最初のきっかけだったかも知れない。10年近く前、迫川と地下鉄に乗っていたら、Jさんをお見かけし、声をかけると涙を流して喜んで下さった。Jさんは昨年、百いくつかでお亡くなりになったと風の便りで聞いた。

じいさんの家の階段を上ると(このお屋敷は今はもうない。ただ夢には細部まではっきり出てくる)、正面に中村彝の描いたヒーじいさんの肖像画とヒーばあさんの肖像画が並んで掛かっていた。頼まれて描いたものだろうし、当時は誰の作品とも思わなかった。「エロシェンコ像」で衝撃を受けるまでは。ムービーでは、その肖像画もご覧いただける。新宿中村屋の裏の2階にまだ「一介の貧乏画家」として暮らしていた彝は(中村屋のご主人夫妻は多くの芸術家を支援した)、じいさんのお兄さんと仲がよく、その関係で絵を描いてもらったらしい。じいさんは一週間自分の父親の写真を持参し、彝はじいさんの顔と写真を見比べながらヒーじいさんの肖像画を描いた。またヒーばあさんの肖像画は、モデル自ら2週間通って完成した。

新宿ステーションビル(現ルミネエスト)は、うちのじいさんと幼なじみの浜野一郎(茂)が2人でつくった日本最初のショッピングモール駅ビルだ。じいさんは初代社長になった。自伝に、駅ビルの3原則があげられている。

一、地元の中小企業を圧迫しない。
二、駅ビルを利権の対象としない。
三、公共性を尊重する。

今でも守られてほしい理念である。

(井野朋也)
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