“戦争の狂気”九大生体解剖事件 2014/8/15
- 10 年前
“戦争の狂気”九大生体解剖事件
2014年8月15日(金) 21時32分
終戦から、きょうで69年となりました。
反戦への思いを伝えるシリーズ、きょうは九州大学での「生体解剖事件」です。
捕虜となったアメリカ兵に対して実験的な手術を行い、死亡させたこの事件、当時、医学生として手術の様子を目にした男性は「戦争の狂気が引き起こした」と話しています。
●九州大学医学部で案内する東野利夫さん
「あそこまでちょっと行ってみよう。おおよそこの辺です、おおよそ。向こうの表玄関の方が解剖の本当の出入り口、こっちは裏口」
福岡市中央区で長年、開業医を務めた東野利夫さん。
現在88歳で、すでに医療の第一線からは退いています。
東野さんが当時の九州帝国大学医学部に入学したのは、終戦の4か月前の1945年4月。
解剖学の教授について、医学の基礎を学び始めました。
そのおよそ1か月後の5月17日に、2人のアメリカ兵が医学部の解剖実習室に連れてこられました。
●東野利夫さん
「(アメリカ兵は)目隠しして、そして、手は手錠がかけられていた。『B‐29の搭乗員である』ということを、手術中に(日本軍の)参謀がちょっと説明したんです。解剖実習室の台を手術台にして、(アメリカ兵は)そこに寝かされて上がる時は、やっぱり震えていましたね」
この日、アメリカ兵捕虜に対して行われたのは、治療などではなく、「実験手術」と称した「人体実験」でした。
九大医学部に連れてこられたアメリカ兵は、日本軍の戦闘機の体当たり攻撃を受け、大分県内の山中に墜落したB‐29の搭乗員。
墜落直前に緊急脱出したものの、日本軍に捕らえられました。
1945年3月以降、アメリカ軍は日本の都市への無差別爆撃を繰り返し、多くの市民が犠牲となりました。
国際法では「捕虜」を人道的に扱うことが定められていますが、日本軍は、都市爆撃を行った米軍機の搭乗員について、国際法に違反した「重犯罪人」とみなしました。
日本軍が捕虜をどのように扱ったか研究を続けている市民団体は、当時の軍の方針について、次のように話します。
●POW研究会・福林徹氏
「それぞれの軍管区で、『厳重に処置せよ』という秘密の命令が来るんですね。それが大きな転機になっています。『殺せ』とは命令は出してないということになるんですね。だけど、本音は『殺せ』ということなんです。いらないから、『殺せ』と。で、処置という言葉を使っているんですけどね」
「厳重に処置せよ」。
アメリカ兵が九大医学部に運ばれてきたのは、いわば「処刑」が目的で、死亡することを前提に、さまざまな人体実験を実施したのです。
●東野利夫さん
「なぜ、あれ(実験手術)をしたかというと、本土決戦になったらですね、日本人約1000万人ぐらいは血を流すであろうと。血液がどうしてもないようになるから、『代用血液』を一刻も早く作れという。血液を抜いて、海水、今でいう博多湾から取ってきた海水を薄めて、生理的食塩水みたいにして(体内に)入れて、これが『代用血液』になるかならないか、これが基本的な一番大事なテーマだったんですね」
実験の大きな目的の1つが「代用血液の開発」。
沖縄戦に続いて本土決戦が想定される中、海水を「血液」の代わりに使おうという例をみない実験が、アメリカ兵に対して実施されました。
実験は、それだけではありませんでした。
●東野利夫さん
「それから心臓まで傷が入った時に、心臓の手術ができるかどうか。心臓を一時、止めて、そして、マッサージをして、また、心臓を動かす。肺の手術。片肺をとって人間が生きられるか」
実験後、捕虜たちは血液が抜かれ、息絶えたといいます。
●東野利夫さん
「B‐29っていうのは、本当に何というか、敵がい心をものすごく、みんな、持っとったからね、それは外科の医者でもね。だから、敵がい心が強いから、しかも、軍に『協力する』じゃなし、軍がすることは間違いないと思って、協力したんだろうと思うしね」
実験手術はあわせて4回、8人の捕虜に対して行われ、全員が死亡。
東野さんは、このうち2回、手術が行われている様子を目にしました。
犠牲となった8人は、いずれも同じB‐29の搭乗員でした。
この事件では、戦後、関係者5人に死刑判決が言い渡されましたが、その後の恩赦によって死刑は執行されませんでした。
犠牲となった8人が乗っていたB‐29の搭乗員のうち、機長だけは、東京に送られたことで生き残り、戦後、アメリカに戻りました。
終戦から37年経って、東野さんと面会した際の元機長の言葉は、思いもよらぬものだったといいます。
●東野利夫さん
「日本の爆撃のことは、一生涯の苦しい体験以外なんでもない。自分の心臓は、そのために絶えず苦しいと。みんなが戦争の被害者ですよ。勝った側も、やっぱり精神的な被害者ですよね」
無抵抗な人に対する実験手術も、一度に多くの命を奪う無差別爆撃も、「『戦争の狂気』が生み出したものだ」と東野さんは話します。
●東野利夫さん
「何と言うか、『狂気』ですね。気が狂うほど平気で無差別爆撃をしたり、捕虜を実験して死亡させたりね。そういうことに対して、あんまり神経がうずかなかったんですね。戦争の恐ろしいのは、やっぱりそういう人間の良心というか、『心が狂う』。あれが、敵も味方もなしに、やっぱり『戦争っていうものが、こんなに人間を惑わすものか』、それは本当に思いましたね」
※スタジオ※
●川上キャスター
生きている人間を解剖するという恐ろしい事件が、戦時中に起きました。
戦争末期の空気や混乱は、人々の心理状態を、平和な時代には考えられないほど、おかしなものにしてしまいます。
本来、人の命を救うことが仕事の医者をも、狂わせてしまいました。
東野さんは、「狂気」を生み出す戦争の現実を後世に訴えていくことが重要だと話しています。
2014年8月15日(金) 21時32分
終戦から、きょうで69年となりました。
反戦への思いを伝えるシリーズ、きょうは九州大学での「生体解剖事件」です。
捕虜となったアメリカ兵に対して実験的な手術を行い、死亡させたこの事件、当時、医学生として手術の様子を目にした男性は「戦争の狂気が引き起こした」と話しています。
●九州大学医学部で案内する東野利夫さん
「あそこまでちょっと行ってみよう。おおよそこの辺です、おおよそ。向こうの表玄関の方が解剖の本当の出入り口、こっちは裏口」
福岡市中央区で長年、開業医を務めた東野利夫さん。
現在88歳で、すでに医療の第一線からは退いています。
東野さんが当時の九州帝国大学医学部に入学したのは、終戦の4か月前の1945年4月。
解剖学の教授について、医学の基礎を学び始めました。
そのおよそ1か月後の5月17日に、2人のアメリカ兵が医学部の解剖実習室に連れてこられました。
●東野利夫さん
「(アメリカ兵は)目隠しして、そして、手は手錠がかけられていた。『B‐29の搭乗員である』ということを、手術中に(日本軍の)参謀がちょっと説明したんです。解剖実習室の台を手術台にして、(アメリカ兵は)そこに寝かされて上がる時は、やっぱり震えていましたね」
この日、アメリカ兵捕虜に対して行われたのは、治療などではなく、「実験手術」と称した「人体実験」でした。
九大医学部に連れてこられたアメリカ兵は、日本軍の戦闘機の体当たり攻撃を受け、大分県内の山中に墜落したB‐29の搭乗員。
墜落直前に緊急脱出したものの、日本軍に捕らえられました。
1945年3月以降、アメリカ軍は日本の都市への無差別爆撃を繰り返し、多くの市民が犠牲となりました。
国際法では「捕虜」を人道的に扱うことが定められていますが、日本軍は、都市爆撃を行った米軍機の搭乗員について、国際法に違反した「重犯罪人」とみなしました。
日本軍が捕虜をどのように扱ったか研究を続けている市民団体は、当時の軍の方針について、次のように話します。
●POW研究会・福林徹氏
「それぞれの軍管区で、『厳重に処置せよ』という秘密の命令が来るんですね。それが大きな転機になっています。『殺せ』とは命令は出してないということになるんですね。だけど、本音は『殺せ』ということなんです。いらないから、『殺せ』と。で、処置という言葉を使っているんですけどね」
「厳重に処置せよ」。
アメリカ兵が九大医学部に運ばれてきたのは、いわば「処刑」が目的で、死亡することを前提に、さまざまな人体実験を実施したのです。
●東野利夫さん
「なぜ、あれ(実験手術)をしたかというと、本土決戦になったらですね、日本人約1000万人ぐらいは血を流すであろうと。血液がどうしてもないようになるから、『代用血液』を一刻も早く作れという。血液を抜いて、海水、今でいう博多湾から取ってきた海水を薄めて、生理的食塩水みたいにして(体内に)入れて、これが『代用血液』になるかならないか、これが基本的な一番大事なテーマだったんですね」
実験の大きな目的の1つが「代用血液の開発」。
沖縄戦に続いて本土決戦が想定される中、海水を「血液」の代わりに使おうという例をみない実験が、アメリカ兵に対して実施されました。
実験は、それだけではありませんでした。
●東野利夫さん
「それから心臓まで傷が入った時に、心臓の手術ができるかどうか。心臓を一時、止めて、そして、マッサージをして、また、心臓を動かす。肺の手術。片肺をとって人間が生きられるか」
実験後、捕虜たちは血液が抜かれ、息絶えたといいます。
●東野利夫さん
「B‐29っていうのは、本当に何というか、敵がい心をものすごく、みんな、持っとったからね、それは外科の医者でもね。だから、敵がい心が強いから、しかも、軍に『協力する』じゃなし、軍がすることは間違いないと思って、協力したんだろうと思うしね」
実験手術はあわせて4回、8人の捕虜に対して行われ、全員が死亡。
東野さんは、このうち2回、手術が行われている様子を目にしました。
犠牲となった8人は、いずれも同じB‐29の搭乗員でした。
この事件では、戦後、関係者5人に死刑判決が言い渡されましたが、その後の恩赦によって死刑は執行されませんでした。
犠牲となった8人が乗っていたB‐29の搭乗員のうち、機長だけは、東京に送られたことで生き残り、戦後、アメリカに戻りました。
終戦から37年経って、東野さんと面会した際の元機長の言葉は、思いもよらぬものだったといいます。
●東野利夫さん
「日本の爆撃のことは、一生涯の苦しい体験以外なんでもない。自分の心臓は、そのために絶えず苦しいと。みんなが戦争の被害者ですよ。勝った側も、やっぱり精神的な被害者ですよね」
無抵抗な人に対する実験手術も、一度に多くの命を奪う無差別爆撃も、「『戦争の狂気』が生み出したものだ」と東野さんは話します。
●東野利夫さん
「何と言うか、『狂気』ですね。気が狂うほど平気で無差別爆撃をしたり、捕虜を実験して死亡させたりね。そういうことに対して、あんまり神経がうずかなかったんですね。戦争の恐ろしいのは、やっぱりそういう人間の良心というか、『心が狂う』。あれが、敵も味方もなしに、やっぱり『戦争っていうものが、こんなに人間を惑わすものか』、それは本当に思いましたね」
※スタジオ※
●川上キャスター
生きている人間を解剖するという恐ろしい事件が、戦時中に起きました。
戦争末期の空気や混乱は、人々の心理状態を、平和な時代には考えられないほど、おかしなものにしてしまいます。
本来、人の命を救うことが仕事の医者をも、狂わせてしまいました。
東野さんは、「狂気」を生み出す戦争の現実を後世に訴えていくことが重要だと話しています。