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    原子力発祥の地・東海村、村上村長はなぜ脱原発に?

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    samthavasa

    samthavasa より

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     1999年、核燃料の加工会社JCOで起きた臨界事故。放出された強い放射線で、作業員2人が死亡し、650人以上が被ばくしました。当時、国内最大の原子力事故でした。
     「東海村の評価・名前が地に落ちた」(村上達也村長)

     そして、「原子力事故は起きない」という安全神話の中で、住民を避難させる十分な防災計画がなかったことが村長を追い詰めたのです。国に対応を求めても連絡すら取れず、十分な情報もない中、自分の判断で原子力災害としては、日本で初めて住民に避難指示を出しました。
     「ここで人生をおしまいにしてもいい覚悟は決めました。住民を避難させる、守る」(村上達也村長)

     JCOの事故は、原子力事故の恐ろしさと防災体制の不備をあらわにしました。
     「社会的な体制は 組むことができない国だとJCOのときに思った。安全神話という非科学的なもので科学技術をコントロールするなんて非科学的な精神ですよ。こんな国は原発を持つ力はない」(村上達也村長)

     そして、その12年後・・・。村長が見せてくれたのは、2011年3月、あの震災発生直後の日記です。
     「3月15日はね、北からの強い風。東海村の放射線量が通常の100倍以上の5マイクロシーベルトに上昇」(村上達也村長)

     福島第一原発の事故でも、国の対応は後手に回り、住民避難は混乱を極めました。
     「福島原発事故を見たときに、きちんとした対応ができていないと。JCO臨界事故から福島原発事故までは一直線である」(村上達也村長)

     そして、東海村も「フクシマ」寸前の危機だったのです。津波は、あとわずか70センチ高ければ東海第二原発の防潮堤を乗り越えていました。この防潮堤は、半年前にかさ上げしたばかりだったといいます。地震が防潮堤をかさ上げする前に起きていたら、どうなっていたのでしょうか?

     「福島と同じことになりかねなかったと感じ、そのときにぞっとした」(村上達也村長)

     そして、原発事故からわずか2か月後・・・
     「原子力の安全性については 国が責任を持って、そして丁寧に地元の皆さんに説明していきたい」(海江田万里経産相〔2011年6月当時〕)

     当時の海江田経産大臣は、定期検査が済んだ原発は再稼働を要請するという「安全宣言」を行ったのです。村上村長は、この時、「脱原発」に舵を切る決意を固めました。